ロシアと中国はともに、社会主義的計画経済から市場経済への移行を図ってきたが、その結果は極めて対照的なものになった。一言で言えば、中国の成功とロシアの失敗のコントラストである。ロシアが資本主義的経済への体制移行に努めた1990年代に限ってみても、中国は年平均10パーセントを上回る率で成長を続けたのに対し、ロシアは年平均5.6パーセントも成長率を低下させ、その結果2000年におけるロシアのGDPは1990年のそれの3分の2以下になってしまった。ロシアにはかつての経済大国のイメージはなくなり、それに代わって中国が経済大国への道を歩み始めたのである。
こうなったことの原因は、多くの経済学者がさまざまな角度から分析している。最も大きな要因としてしばしばあげられるのは、ロシアの指導者たちの能力が低かったこと、また計画経済から市場経済へのかじ取りが、ショック療法と言われるように性急で、しかもでたらめだったこと、それに対して中国の方は、1980年代初頭から、時間をかけて漸進的に、しかも着実に実施してきたことなどだ。
スティグリッツ博士は、これらに加えて、IMFが果したマイナスの役割に注目している。ロシアが失敗した責任の大半はIMFが負うべきだというのである。(「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」鈴木主税訳)
IMFがロシアに要求したことは、一気に、つまり一晩で、社会主義的計画経済のシステムから、資本主義的市場経済へと移行することだった。資本主義的自由市場がまともに機能するためには、相応の制度的な基盤が必要なことは誰にもわかっていたことなのに、IMFはあえてそのことを棚上げにして、一気呵成に資本主義のシステムを取り入れるように迫ったのである。その結果、どうなったか、ロシア経済は一晩で崩壊し、既存の経済資源を巡って醜悪な腐敗が横行し、ロシアは深刻な危機に陥ってしまったというのである。
IMFがロシアに提示した政策は三点セットからなっていた。自由化、民営化、安定化である。自由化とは政府による計画や統制を排除して市場のメカニズムを尊重すること、民営化とは公営企業を民間人に売却すること、安定化とはルーブルの価値を守ってインフレを防ぎ、外国資本の流入を容易にすることを目的としていた。しかし、資本主義的なシステムがある程度確立されているところなら一定の効果を持つはずのこれらの政策も、ロシアのようなところに、いきなり適用されると破壊的な効果を及ぼす、そうスティグリッツ博士はいう。
まず、自由化。その第一弾は、物資の価格の自由化だ。ソ連体制下のロシアでは、物資の価格の決定には政治的な配慮が働いていた。食料品や住宅など生活に直結する物価は低く抑えられていたわけである。それがあっという間に自由化されると、すさまじいインフレがやってきた。ひと月に二ケタの物価上昇を伴うハーパーインフレが吹き荒れ、庶民の貯金はあっというまに無価値になった。
自由化のもう一つの柱は資本市場の開放だった。資本市場を開放することで外国資本の流入に道が開かれるという理屈だったが、実際には、ロシアから資金の流出をうながす一方通行の門戸となった。抜け目のない連中は、これを利用して、自分の金を安全な海外の口座に先を争って移したのである。その結果外国資本の流入どころか、自国固有の資本までが枯渇してしまった。
次に、民営化。社会主義国家ソ連から受け継いだ遺産として、新生ロシアは膨大な数の公営企業を所有していた。IMFはこれらを直ちに民間に売却せよと迫った。買ったのはオリガルヒと呼ばれる成り金たちだった。成金たちは自分たちの行動を規制する独占禁止法のような法律がないことをいいことにして、独占やカルテルを通じて膨大な利益をむさぼった。オリガルヒたちは、利益の確保のためには、マフィアのような手口に訴えたり、談合を繰り返したりして、反社会的な行動にうつつを抜かしたのである。
民営化によって、大部分の企業は窮地に追い込まれた。新しく所有者になった大部分の連中は、買収した企業を健全に経営することよりも、その資源を略奪することに関心を示したからだ。
「ロシアで強要された民営化は、経済成長をうながさなかったばかりでなく、政府、民主主義、そして改革への信頼を踏みにじった。天然資源への徴税が施行される前に豊富な天然資源を安売りした結果、エリツィンの少数の友人や同僚は億万長者になったが、国は年金受給者に月15ドルの年金を支払うこともできなかったのである」
安定化に関しては、ルーブリの価値の安定のために、膨大な援助資金が投入された。そのためルーブリは実力以上に切り上がり、経済に破滅的な影響を及ぼした。輸出産業をはじめ、多くの企業が倒産したのだ。
1997年の東アジアの金融危機の余波が、ロシアへの新たな打撃のタネとして襲い掛かってきた。このあおりをうけて、1997年になってやっと回復の兆しを見せ始めたロシア経済は、再びどん底に落ち込んでしまった。
1998年の一年間ロシア経済はどん底にあえいでいたが、それにともなってルーブリが暴落し、1991年年初の時点で、1998年7月の水準に比較して、実効レートで45パーセント以上も下落した。IMFはルーブリの下落を食い止めようと膨大な援助資金を注ぎ続けたが、それらの金は、オリガルヒによって国外の銀口座に移された。そのことが知れ渡ると、IMFはロシアではなく、直接スイスの銀行口座に送金してやった方が効率的だと皮肉をいうものもいた。
しかし長い目で見ると、ルーブリの下落はロシア経済にとって恵みの雨になった。通貨切り下げによって、ロシア国内で生産された商品が、国際競争力を回復したと同時に、国内市場でも健全なシェアを確保できるようになったのである。IMFの当面の意図に反した事態が、ロシアにとってはプラスに働いた、なんとも皮肉な事態である。
エリツィンが退場してプーチンが登場すると、ロシア経済はやっと地に足のついた動きを見せるようになる。その最大の要因は、2000年代に入って原油はじめ資源価格が高騰したことだ。以前から原油などの資源に恵まれていたロシアは、為替の切り下げと資源価格の高騰によって、安定した収益をあげられるようになった。プーチンはそこから得られる金をもとにして、ロシア人の支持を獲得していくわけである。
しかし、ロシア経済は、計画経済から市場経済への移行をスムーズに実施できなかったことで、国内の産業基盤が崩壊し、石油などの資源の輸出に頼るという脆弱な基盤の上に立つようになった。それは今でも変わっていない。かつては世界で初めて人工衛星を飛ばした国も、今では技術力の低下に悩んでいるのである。
何故こんなことになってしまったのか。それは西側がIMFをお先棒にしてロシアに不合理なことをやらせ、ロシアが自滅するように仕組んだ結果だ、そういうまことしやかな話がロシア人の間ではいまだにささやかれている。西側の狡猾な連中が、エリツィンのお人よしぶりにつけこんで、エリツィン本人を儲けさせる代わりにロシアを破滅の縁に追い込んだのだ、という捉え方である。これは決して荒唐無稽な考え方ではない。というのも、エリツィンを継いでロシアのかじ取り役になったプーチンにも、そう思い込んでいるフシがあるからだ。
もっともそれはロシア人一流の被害妄想であって、ロシアが破滅的な事態に陥ったのは、ほかならぬロシア人自身に原因がある、と言う見方も勿論ある。(これは筆者独自の見方でもある)