自分が落ち着いたのか。それともエモーションが禿げてしまったのか。
そうした、ゲームとゲームプレイヤーに対する社会からの要請をおぼえておいたうえで、これから私とスプラトゥーン3の場合について書きたい。
スプラトゥーン3は、案の定、めちゃくちゃ楽しい。
負けるとひたすら悔しいが、勝っても負けても炎のような時間を過ごさせてくれるゲームだ。私はこのゲームジャンルが主戦場ではないから、スプラトゥーン3にそこまでアイデンティティを賭けて挑んでいるわけではないけれど、それでも、勝利とファインプレーにこだわる瞬間にはエモーションの賭け金が上がっていく。
ところが前作『スプラトゥーン2』の時に比べると、負けても感情が落ち込まない。9月12日には信じられないほど大敗を喫したのだけど、私の言動はそこまで大揺れしなかった。それはなぜなんだろうか。
前作は販売500万本超え、『スプラトゥーン3』は敗者のメンタルケアまでを徹底した対戦ゲーム | DIAMOND SIGNAL
上掲リンク先記事によれば、スプラトゥーン3は、敗者のメンタルケアがよく考えられたゲームなのだという。そうかもしれない。実際、前作のガチバトルの、ぼっきり折れたような負け演出はとても似合っていた半面、グサリと刺さるものがあった。そういう、似合っているけれどもグサリと刺さる演出を、より無害に漂白した演出に置き換えていく改変は、いかにもゲームアーキテクチャによるプレイヤー管理、それも、とにかく安全・安心な方向への管理という、優良企業コンテンツじみた雰囲気がぷんぷんして嬉しいような憎らしいような気持ちになるが、ともかく私自身もそうした管理下に置かれ、前作より憤慨しにくくなっているとは思う。
でも、本当にそれだけだろうか?
私の子どもを見てみると、案外、ちゃんと憤慨していたりする。
負けがこめばイライラが出てくるし、勝てば調子に乗る。ゲーム体験とエモーションや言動がバッチリリンクしている。当然、ときには荒っぽい言葉が出ることもある。子どもを礼儀作法の無菌室で育てるのが最適解だと思っている人々の目線で想像すれば、スプラトゥーン3を巡る我が家の状況は好ましいものではないと思う。
しかし、そうやってスプラトゥーンの勝ち負けにむきになっている子どもの姿を見ていると、なんというか、これはこれで貴重な瞬間に見えるし、ひょっとしたら、ゲーム愛好家としての私が失いかけているものではないか、と思えたりもする。
何かを経験し、エモーションが揺れ動くことは、そんなにいけないことだろうか。
感情生活の起伏は、悪いものでしかないのだろうか。
こちらの記事の中盤に書いたけれども、中世においては、感情の起伏の大きさが人間に求められ、感情の起伏が少ない者が修道院に入らなければならなかった=社会からの逸脱とみなされていた。それから何世紀も経つなかで、社会から期待される感情の起伏の大きさは、小さいほうへ・なだらかなほうへと変化し続けてきた。今日では、感情の起伏が大きいことのほうが社会からの逸脱とみなされやすい。くだんの、ゲームで感情的になりすぎる夫もそうした逸脱者のひとりと(これからの社会では)みなされる一人だろう。
しかしゲームは遊戯だ。
単なる暇つぶしではなく、真剣に取り組んでいる人の多い、そういう遊戯のはずである。
ゲームの勝敗はしばしば冷静さによって決まる。しかし必ず冷静さによって決まるわけでなく、瞬間瞬間においてはエモーションによっても導かれ、ことの進行に沿ってエモーションも動いていく。言動だって動くだろう。
そうしたことも含めてのゲーム体験、ゲームとのお付き合いではなかったかと私は自分の子どもを見ていて思う。これから大人になっていくにつれて、たとえばゲームで感情的になりすぎる夫のような存在にならないよう、私は注意をうながさなければならない。と思うと同時に、ゲームで悔し涙を流すこと、ゲームで負けて転げまわること、イカを立て続けに4キルして勝ち誇ること、その折々の瞬間をかけがえのないもののように感じる。
もちろん節制は必要で、私たちは社会的存在だから、社会の求めにあわせてエモーションと言動をフィルタリングしなければならない。その方法を子どもと一緒に学んでいくのも親のつとめではあるし、ゲームもまた、そうした技法を学んでいく題材のひとつではある。
しかし、ゲームをとおして、いやゲームに限らず遊戯やカルチャーと呼ばるものをとおして強いエモーションや言動が現れ出ること自体、貴重な体験であるはずだし、少なからぬゲーム愛好家はしばしばその貴重な体験を期待してゲームを購入する。あるいは、ゲームこそ、自分にとってそうしたエモーションや言動が現れる場所、自分がそれらをあらわにできる場所だと感じている*2。
子どもがスプラトゥーン3のプレイに一喜一憂しているしているさまを見ていると、「大人になってもこれじゃ大変だな、正さないと」という思いと「今、本当にゲームの渦中にいて、本当にゲームを体験しているな、守らないと」という思いが相半ばする。
と同時に、スプラトゥーン3に大揺れしなくなった自分自身を省みて、「落ち着いて遊べている。いまどきのゲームプレイヤーのあるべき姿だ」という思いと「ゲームの渦中にとどまる力が弱くなって、エモーションが禿げてしまっている」という思いが相半ばする。大人になったといえば聞こえはいい。が、これは思秋期の兆候ではないか? そして現代社会にどれほどアジャストしているようにみえても、私は自分のエモーションを小さく折り畳んでしまっているのではないだろうか。
2018年から2019年にかけて、私はのめり込むようにソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』のガチャを回していた。あれも、いまどきの社会では褒められない、大変にエモーショナルな体験だった。だけど、今にして思えばあれは記念碑的な経験で、当時の私のゲーム体験に、ひいては2018~19年の人生にかけがえないアンダーラインをひいてくれた。スプラトゥーン2もそうだったし、90年代にゲーセンで遊んだゲームたちもそうだった。ゲーム愛好家なら、そういう人生にかけがえのないアンダーラインをひいてくれたゲームを複数挙げられるに違いない。社会がしのごの言おうとも、そのエモーショナルな体験それ自体は、やっぱり貴重な財産であるはずだ。
どこまで現代社会で許容されるのか/されないのかの線引きはいつも難しい。そしてゲーム症(ゲーム障害)に該当するような、尋常ならざる状態に陥る人がいるのもまた事実。それでも私は、ゲーム体験をとおしてエモーションや言動が揺れること、それそのものは貴重に思う。そして大人になったのか老いたのかわからない理由で揺れの振幅が小さくなってしまっている自分自身を、寂しく思う。