たとえば、「ガールズアンドパンツァー」は傑作だが、あれは「人間を描いた作品」なのか。明らかに、無数の「面白いキャラ」を動かして、面白い話にした、という作品であり、あれを「人間を描いた」作品だと言われたら、水島努(「つとむ」の漢字はこれだったか)は驚くだろう。その、無数のキャラひとりひとりに個性を与え、そのキャラはこういう場面ではこう反応する、ということを的確にとらえ、ユーモアたっぷりに描いたところが吉田玲子の才能なのである。まあ、たぶん、監督とのコンビネーションで出来上がったのだろう。確か、その次の女性戦闘機乗り集団のアニメも同じコンビだったと思うが、失敗していたのは、何かの裏事情があったのだと思う。たとえば、3D動画部分などもひどくちゃちなものだった記憶がある。
まあ、アニメ脚本家としては、現在、吉田玲子と横手美智子が双璧だと思う。ただ、ギャグの才能では物凄い女性がいるが、名前は憶えていない。魔女っ子学園ものアニメで、複数脚本家のうち、彼女の回だけがあまりにレベル違いで凄かったのである。もちろん、監督の腕もあるが、他の回の凡庸さを見ると、アニメはやはり脚本家の腕の違いが決定的な要素だと思う。
(以下引用)
小野寺系氏について検索してみたらこういう記事がヒットした
見ていない人にはもっともらしく響くが、見た人からすると首をかしげるような評論をしているらしい
確かに、今回も彼のツイートを支持している人は実際にSHIROBAKOを見ていない人がほとんどだったね……。
このように、一見もっともらしいが、有名な固有名詞をいくつか配置しただけで、さしたる分析もおこなわず、情報の参照元も示さずに、そもそも情報にきちんと当たらないまま、ボンヤリと全体を俯瞰したようなふりをするというのが、小野寺系の典型的な手口なのである。言葉を変えれば、これは「博識な俺」を演出する以上の意味を読み取る必要のない文章である。
記事中でさらに批判は続き、「知識をアップデートしていない疑惑」「中国系への差別意識を隠しきれていない」という指摘までされている
『バットマン』のときもそうだったが、ひょっとすると、小野寺系の知識は1990年代以降ろくに更新されておらず、ここ10年くらいのジャッキー・チェンの国際的な活動について、何も把握していないのかもしれない。まあ、知識がないだけなら、恥ではあっても罪ではない。問題は以下のような、差別意識丸出しの文章をあっけらかんと書いてしまうことだ。
要するに、小野寺系という人は――彼個人には何ら興味も関心もないので、あくまで文章上からうかがえる姿であるが――「知ったかぶり」の典型であり、聞きかじっただけの知識を適当により合わせて、そこに凡庸な感想を付け足すだけの、適当極まりない文章を、ひたすら量産しているだけの存在だといえる。
(中略)
彼の頭の中では、アニメ史も、現代アート史も、アジア映画史も、アメコミ史も、全ては、ほんの一部の著名な固有名詞が、ポツポツと置かれているのに過ぎない。そういう空虚な人間が、何か気の利いたことをひねり出そうと悪戦苦闘した挙げ句に、東洋は古くて西洋は新しいといった名誉白人的な差別的言辞が飛び出したりする
小野寺系という人は、映画から意味を読み取るということが不得手な人なのだろう。結果として、他人の作った映画をダシに自分の言いたいことをただ叫んでいるだけというオチで締める雑文が珍しくない。
上の記事への評価
小野寺系はなぜ映画評論家と呼ぶに値しないのか――アメコミ、アート、アニメ、そして映画 - skyfall 映画の記録 cinemania.hatenadiary.jp/entry/2020/02/… 日本の映画評論家はウィキペディアが読めれば務まる仕事だったの?