第五章 日常の習慣
1)はじめに
日常の習慣は大事である。人間は習慣の動物と言っていいくらいで、身についた生活習慣を変えるのは容易なことではない。そして、我々の生活の大半は習慣的行動によっているのだから、生活習慣はその人の人生そのものなのだ。我々が自分の個性だと考えている物の考え方の傾向や物事への好悪も、習慣が固定化したものにほかならない。
たとえば、物事から逃げる傾向の人間、物事をいい加減にやる傾向の人間も、最初からそうだったわけではなく、そのような行動を何回かやるうちに、それを「個性」にしてしまったのである。(実は、これは私自身のことだ。私は女性が苦手で、女性の前から逃げてばかりいたのだが、幸か不幸か、今では女性が私から逃げるような加齢臭の漂う年齢になったわけである。)
習慣の持つ力をよく表すのが、字の上手下手である。あれは才能ではなく、字を書く際の習慣づけの結果である。つまり、少しでもきれいな字を書こうと意識して字を書いている人間は、字がだんだん上手になり、下手でかまわないと思って乱暴粗雑な字を書いてばかりいると、見るに耐えない悪筆が固定化されてしまうのである。
そこで、ここからは、日常の習慣として知っていると役に立つ知識を幾つか書いていこうと思う。第二章の「能力開発」の部分は概論だったが、ここでは各論になるわけだ。
2)字をきれいに書くには。
字はきれいな方がいい。私も悪筆のために、何度も恥ずかしい思いをしてきた。ある時期から意識して注意するようにしたので、少しは改善されたが、まだまだ不細工な字を書いていることがある。全体に漢字は改善されたが、ひらがなはまだ不細工なようだ。というのも、私には、「こういうひらがなが美しいのだ」というイメージが無いので、ほとんど練習もしていないからだ。もちろん、明朝体活字のひらがなを真似ればいいだけだが、どうも、こういう曲線の字は、書いていて楽しくないので、あまり練習する気にもなれないのである。漢字なら、すっきりとした1本の直線が引けたというだけでも楽しいのだが、ひらがなは曲線で書かないといけないので面白くない。まあ、これは私の単なるわがままで、「習慣化されてないから、いやがっている」だけのことだが。
ここでは、漢字をきれいに書くコツを説明する。そのコツとは、「まっすぐ、等間隔に」というだけのことだ。つまり、「三」という字を書くなら、その三本の線がゆがまないように、等間隔になるようにするのである。できれば、その三を囲む四角をイメージして、その枠線との間も等間隔になるといい。つまり、三である。このイメージ上の升目を連続していき、その中心線(字の真ん中を縦につないでいった架空の直線)がゆがまないようにする。そう心がけるだけでも、かなり見た目がきれいになるだろう。もちろん、上下の平行線が等間隔になるだけでなく、左右も等間隔にする。要するに、最初は金釘流に近い字でいい。線を均等配分し、線と線の間の空間も均等配分するわけだ。横の線を水平よりやや右上がりに傾けて書く方が自分としては美的に感じるというなら、そうしてもいい。
大体において我々は明朝体活字に慣れていて、その字体に近いものを美しいと思う心理が形成されているので、練習の際には明朝体活字をイメージすればいい。良く見れば、明朝体活字は線と空間の均等配分を追求した結果として出来ていることがわかるだろう。その中の斜めの部分や曲線部分は、活字に従えばいいだけだ。
次に、「字を書く」ことを運動的にとらえよう。毛筆での書道など私はほとんど知らないが、ペン字でも毛筆でも運動の基本はそう変わらないだろう。しかし、毛筆の場合は毛筆という道具の特異性が様々な困難を招く(たとえば、毛先に含ませた墨汁が無くなるまでにどの程度の線が書けるかという計算などが必要になる。)ので、ここでは毛筆の扱いは除外しておく。
まず、大事なことは「ゆっくりと書く」ことである。急いで書いても、ゆっくり書いても、書く時間はそれほど変わらないものだ。だから、テストの時でも、あわてて書く必要はない。まして、それ以外の場合なら、字はできるだけゆっくり丁寧に書くべきである。
次に、姿勢は正しくし、ペンや鉛筆は立てて書こう。ペンや鉛筆を操作する際は、「手首は動かさず、指先を大きく動かして書く」と良いそうだが、これは私は試したことがない。
ペンを持った指先の動きとして、上から下の動きや、右から左の動きはスムーズに行くが、逆の動きはぎこちなくなりがちである。言い換えれば、自分の体の中心に向かう動きはスムーズで、外に向かう動きはぎこちないということだ。それが分かれば、逆に、外への動きの際に注意すればいい、ということになる。つまり、外への動きはややおおげさにやるということだ。
本気できれいな字を書きたければ、机の上にノートや紙を斜めに置く習性は直した方がいいだろう。書道をやるように背筋を伸ばし、体を机に正対させ、紙やノートもきちんと机のラインと並行(垂直)に置くべきだと思われる。
自分が得意でもないことを長々と書いてもしょうがないので、字を書くことについてはこのくらいにしておこう。というのは、実は、考えながら書くという作業をする場合には、私の場合は字のきれいさなどに構ってはいられないので、私のメモやノートは今だに(この「今だに」は誤字ではない。否定を伴う場合は確かに「未だ・に~ない」のように「まだ」の意味で「未」の字を使うが、肯定文ならば「今・だに」、つまり「今でさえも」の意味だから「今」の字を使うべきなのである。)ひどい悪筆なのである。それで「上手な字の書き方」を論じているのだから、図々しいにもほどがある。
3)集中力を高めるには
集中力を高める確実な手段は、集中を妨げるものを排除することである。つまり、自分の内面のコントロールによって集中するよりも、そのほうが簡単確実なのだ。こういうのはコロンブスの卵の一種であって、聞けば当たり前としか思わないが、それを自分で気づいて実行している人間は少ない。
次に挙げる項目のうち、特に③は盲点になるところだ。人間の根本的エモーション(情動)は「自己愛」なのであり、我々はいつも自分が気になって気になって仕方がない存在なのである。自分が受け取る情報が「他人事」なら、その情報を我々は少しも気にすることはない。だが、ひとたびそれが自分のこととなると、我々の耳は地獄耳になり、またそれを聞いたことで死ぬほど心をかき乱すのである。
集中力を高めるには
① 雑音をシャットアウトする。~自然の音はあまり我々の集中をかき乱すことは無い。人工的な音は、(音楽も含めて)我々の集中を乱すものである。
② 気になる視覚的情報をシャットアウトする。~たとえば、部屋の壁にアイドルのポスターを貼ると、そこに目が行くたびに、必ず雑念に誘われるだろう。その数秒・数分の積み重ねが、膨大な時間の無駄になるのである。
③ 作業中は自分に関係する情報が届かないようにする。~電話でも伝言でも、作業(勉強・仕事)中はすべてシャットアウトするという決まりを家族と取り決めておくと良い。
④ 定期的に休憩する。~人間の集中できる時間は15分が限度だという説がある。これは個人差があるだろうから、自分が集中できる時間を適当に決めて、定期的に休憩を入れるべきである。ただし、その休憩の時に、他のことへの集中が起こらないようにすること。たとえば、面白い本などを読み始めてはいけない。せいぜい、お菓子を食うか、軽い運動をするくらいが「中休み」としては適当である。
⑤ 定期的に集中ワード(「東大合格」などの目標・標語など)を見て、集中力を取り戻すように習慣づける。
【補足】上に書いたことと関連するが、物事を自分と関連づけることで関心が能動的になるということは重要だ。関心が能動的になると、知識の吸収や定着の度合いが高まるので、学習や自己教育に利用することもできるだろう。
たとえば、美術が理解できない、絵の良さが分からない、という人間は多いが、そういう人間が美術館に行った場合、「その中の作品の一つだけただで貰えるなら、どれを貰うか」という思考実験をするのである。「どれか一つを買うなら」でも「家に飾るなら」でもいい。そうすれば、そこにある無数の絵は、心理的にすべて自分とつながる可能性がでてくるわけで、それだけでも絵に対するアンテナの感度が上がることは請け合いである。(これは赤瀬川原平が言っていた。)
4)会話能力を高めるには
会話を面白く見せるには
① 表情を豊かにする。~表情は感情を導き出すものである。むっつりした表情をしていると陰鬱な気持ちになり、笑顔でいると明るい気持ちになる。そして、表情は伝染するものなのである。だから、最初は「作り笑顔」でもいいから、笑顔で人と接することである。笑顔で話せば、つまらない内容でも面白く聞こえるし、下手な冗談でも笑顔で言えば、相手は笑いやすい。ぶすっとした顔で冗談を言われても、相手は笑っていいのかどうか判断に困るだろう。つまり「笑顔は人間関係のスタートライン」なのである。
② 話し手自身が自分の話す内容を信じること。~これはセールスマンの極意でもある。自分の売っている商品が本当に素晴らしいと信じて話しているセールスマンと、自分は価値の無い商品を騙して売ろうとしていると考えるセールスマンと、どちらに説得力があるかは自明だろう。冗談を言うにしても、「自分の冗談は面白い」と心から思っていれば、そう聞こえるものだ。では、どうすれば自分自身を信じられるか。『GS美神』の横島に「自分ほど信じられないものがあるか!」という名言があるが、この言葉に激しく同感する青少年も多いだろう。だが、それには自己暗示という有効な手段がある。要するに、人間の思考は一時に一事しか考えられないシステムだから、自分自身に常に心の中で言い聞かせるのである。たとえば、不安な気持ちになったら「Yes I can.」と心の中で叫ぶのである。オバマは「Yes we can.」で全米を催眠術にかけて大統領になったくらいだから、自分で自分に暗示をかけるくらいは難しいことではないだろう。
③ 自分を否定的にとらえないこと。~たとえば、「自分の態度は馴れ馴れしいと思われるのではないか」というのは否定的なとらえかたであり、「自分の態度は相手に親しみやすく思われるだろう」というのが肯定的なとらえかたである。どちらの場合も態度としては同じなのだが、その態度を取る際の心の持ち方で、相手の受ける印象は違ってくる。自分が自分を否定的にとらえれば、相手もあなたを否定的に見ることになるのである。これを「自己開示の返報性」と言う。つまり、こちらの話すレベルに応じて、相手も同じレベルで返すということだ。こちらがよそよそしい態度をとれば、相手もよそよそしい態度で返すのである。ではなぜ、自分を否定的にとらえるのか。それは、良いことを期待して、それが裏切られた場合を恐れるからである。つまり、前もって自分を否定しておけば、相手に否定されても傷つかないという計算をしているのである。要するに人間関係に対する臆病さの表れだ。逆に、人間関係を重大視しすぎているとも言える。我々はすべての人間に愛されるというわけにはいかないのである。ならば、いちいちびくびくして一生を送るのは馬鹿げた態度というべきだろう。
5)怒りを抑えるには
これは「心術」の心のコントロールにもつながる話だが、感情コントロールの中で、特に怒りについて書こう。
前段に「表情が感情を惹起する」ということを書いたが、怒りはその最たるものである。怒りの表情ほどすさまじい表情は無い。その表情をしながら、心を冷静にするというのは、相当に困難だとわかるだろう。表情とは体の情報であり、そして、表情(体の情報)が感情を惹起すると同時に、感情もまた表情(体の情報)を惹起するのである。
生理学的に言えば、
「怒るべき事柄の情報」→脳の「怒り」の感情→ノルアドレナリンの分泌→心拍数増加・血圧上昇→脳へ怒りの情報を送る→さらにノルアドレナリンを分泌→……
のように、怒りが拡大されていくのである。
では、この悪循環を解消するにはどうするか。それは「認知的再評価」による。言い方は難しいが、簡単に言えば、「自分の怒りは適正なのか?」と考え直してみるということだ。あるいは「怒って何かいいことがあるか?」と考えてもいい。実際のところ、怒りは不愉快な感情だし、怒りを他人にぶつけて、いっそう険悪な状況を作っても、何かのメリットがあるわけでもない。ただ、「怒りを発散させないと気がすまない」から怒るだけのことである。子供が癇癪をおこして物を壊すのを見れば、大人はそれを馬鹿げていると思うのだが、自分が同じような行為をしても、気づかないのである。子供も大人も怒りのために破壊的行動をしているという点では同じなのだが。
人間はそれほど悟れるものではないさ、と言うならば、怒りたい時に怒るのもいいだろうが、怒りを爆発させて状況がましになることはほとんど無い、と言える。(これは、理不尽な扱いを受けても黙っていろということではない。正当な抗議をするのと怒るのはまったく違う行動である。)
とりあえず、怒りの感情が起こったら、大きく深呼吸して、心臓の動悸を鎮め、血圧を下げることだ。体の怒りの情報を抑えることで、脳から怒りのアドレナリンが生じるのを抑えるのである。
6)創造のコツ(「能力開発」補遺)
ここで言う創造は、芸術的創造のことであるが、美術や音楽についてはうといので、文芸の創造について、そのコツのようなものを書く。もちろん、プロの創作家にはそれぞれの創造の秘訣があり、それは秘密のコツだろうが、小説家の軽いエッセイの中にそういう事が書かれていることもあるので、その中から私の記憶に残っているものや、また私自身の体験などから芸術的(文芸的)創造のコツのようなものを書いてみる。
① 創造物のオリジナリティを生むのは、その作者の強迫観念である。つまり、「これはどうしても書きたい」というモチーフ、あるいは気にかかってたまらないことなどがあれば、それを書いた場合、オリジナリティのある作品になるだろう。ほとんどのドラマで男女の性的関係が水面上のあるいは水面下の主題になっているのは、それがほとんどの人間の強迫観念、つまり気になってたまらないことだからである。同様に、自分が死ぬことへの恐怖が、逆に、殺人をモチーフとした作品の力となる。世の中でミステリーの需要の高い所以だ。
② ある程度の長さの作品を書くなら、毎日の継続性が大事である。つまり、その作品世界に精神を没入させるには、時間と、精神の集中が必要なのであり、まとまった時間をそれに使わないと、作品の水準は維持できないということだ。ジェイン・オースティンは、自分が小説を書いていることを家族に隠していて、家事の合間のコマ切れな時間で長編小説を何本も書いたそうだが、これは特例と言うべきだろう。
③ これは私の考えだが、「まず問題を設定する」というのが案外といい創作のコツではないかと思う。昔、堀江卓という漫画家がいて、その人の創作法は、主人公を毎回、絶体絶命のピンチに陥れて、そこで「次回に続く」とし、ペンを放り出して酒を飲みに行ってしまうというやりかただったらしい。もちろん、その先など、まったく考えていないのである。そして、次回は、前回のピンチからいかに脱出するかに頭を絞るわけである。これは、賢い方法だと思う。というのは、創作とはある意味では問題を解くことであり、その問題がいかにして解かれるかに読者の興味はあるからだ。作者自身も答えを知らない問題なら、これほどスリリングな問題も無いだろう。人間の頭は、問題を解くという方面では案外と良く働くものである。むしろ、問題を発見したり、問題を設定したりするほうが苦手ではないだろうか。そして、無の状態から作品を作るのが難しいのは実は問題が設定されていないからなのである。その点、①に書いた強迫観念には、すでに問題が設定されているのである。
プロの作家でもない人間が、偉そうに創作講義をするのも何なので、これくらいにしておくが、実は世の中というものは常に「間に合わせの答え」で動いているのである。だから、ミステリーなどの解決を不合理だとか、非現実的だとか言って文句を言う人間は間違っている。現実はフィクション以上に不合理なものである。だから、作品を書こうという人間は「ある程度の合理性」さえあれば、それで十分だと、気軽に考えるのがいいだろう。なにしろ、世の中には不可能犯罪の解決を「実は犯人が宇宙人だったから」ということで片付けた作品もあるくらいだから、ノックスの「犯人が中国人であってはいけない」というハードルも、楽にクリアできるというものだ。
7)女にもてるには
これは簡単である。常に女の側にいて、何やかやと話しかけていればいい。ただし、「百人にアプローチして、数人をモノにする」というつもりでやることだ。蓼食う虫も好き好きだから、あなたがどんなに下劣で厭な人間でも、どんなに不細工な顔でも、それでもいいという女は必ずいるはずだ。もちろん、「そんなのはモテる範囲に入らない」という人もいるだろう。では、そういうあなたは、何を望んでいるのか、世界中のすべての女から好かれ、愛されることか。そういう人間は、そういう状態が地獄であることを知らないのである。吾妻ひでおのある作品の主人公はすべての女にモテるフェロモンのために悲惨な目にあった後、「もてないってのは、なんて心が休まるんだろう」とつくづく思うのである。
ついでに言うと、顔の良さなどというものは、女にもてる条件としてはたいした問題ではない。これは、かつての美少年である私が断言する。私をひそかに慕う女性は絶対に、無数にいたはずなのだが、実際にもてたことはほとんどなかったのである。
8)金を得るには
これも簡単だ。金に縁の深い仕事につくことである。つまり、銀行業や証券会社。あなたに才能があればその世界で出世するし、才能がなくても、そこにある金を盗む機会はある。普通のサラリーマンなどやっていては一生金に縁が無いことは、「金持ち父さん貧乏父さん」の著者が力説しているところだ。ただし、そういう職場が非人間的職場であっても、当方は関知しない。より安全なコースとしては、公務員になるという道がある。これは国民の払った税金を優先的に使える職場であり、公務員組織全体に守られて一生を過ごすことができる。ただし、ここでも、その仕事が楽しいかどうかは別問題だ。要するに、人生の優先順位が何かということである。「あれもこれも欲しい」と思って、そのすべてが手に入るほど、この世は甘くない。芸能界で成功した美男美女たちも、枕商売無しで成功した例はほとんど無いだろう。人間としての誇りを優先して清貧に甘んじるか、金と名声と地位を得るために他の何かを犠牲にするかである。もちろん、まともな努力で地位や栄誉を得るという場合もあるだろうが、それには運命にも恵まれる必要があるだろう。
阿部監督批判も的確だと思う。「猫の目打線」では、打者が「自分の役割」を果たすことが難しい。そもそも、その日その日の打順で何を求められているのか、理解もできないだろう。打順にはその打順にふさわしい役割があるのである。それが毎日変動するのでは、その役割に習熟できるはずがない。(この考えから言えば「二番最強打者説」が愚論であることも明白だ。今のソフトバンクが、山川を4番に固定することで異常な得点能力を持ったことを見るがいい。ついでに言えば、これは4番最強打者説でもない。むしろ、昔のON砲のように最強打者は3番に置くべきである。なぜなら、最強打者は敬遠されることが多いからである。だからその後ろに勝負強い打者を置くわけだ。走者を返すのが4番の一番大事な役割である。今の山川はその役割を見事にこなしている。)
(以下引用)
開幕から1カ月が過ぎ、巨人はルーキーを含めた新戦力の活躍もあり、粘り強くAクラスを死守している。そんな巨人だが、いまだ解決していないのが正捕手問題である。昨年までレギュラーだった大城卓三が、極度の打撃不振もありスタメンを外れる機会が増え、その代わりに小林誠司、岸田行倫がマスクを被っている。今季から、かつて「打てる捕手」の代表として名を馳せた阿部慎之助監督が指揮を執ることになり、より巨人の捕手に注目が集まっている。巨人の大物OBである広岡達朗は、現状についてこう見解を述べる。
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正捕手争いを繰り広げている小林誠司(写真左)と大城卓三 photo by Sankei Visual
正捕手争いを繰り広げている小林誠司(写真左)と大城卓三 photo by Sankei Visual
© Sportiva 提供
【捕手としての大城の能力に疑問】
「そもそも大城が正捕手だって、誰が決めたんだ? 昨年の試合を見ていても、遊び球が多すぎるし、疲れてくると集中力を欠き、リードにも打撃にも影響が出る。困ったらアウトコースを要求する。そんなリードでプロの打者を抑えられるわけがない。そもそも原(辰徳/前監督)は、大城の4打席と、相手から27個のアウトを取ることを考えた際、大城の4打席を重視しただけのこと。周りは、大城はバッティングがいいと評価しているようだが、正捕手として突き抜けるほどの成績を残したわけではない」
昨シーズン、大城は134試合に出場して、打率.281、16本塁打、55打点と、プロ6年目にしてキャリアハイの成績を残した。キャッチャーとしては及第点の成績に思えるが、一方でディフェンスはどうだったのか。チーム防御率3.39(リーグ5位)の数字は、決して投手だけの責任ではないだろう。
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事実、フォスター・グリフィンは大城のリードに何度も首を振っていた。配球もそうだが、投手とのコミュニケーション不足を露呈していた。
「打てる捕手」として一時代を築いた阿部監督だって、最初からインサイドワークに長けていたわけではなかった。入団当初は、ベテラン投手からバッテリーを組むことを拒まれたことがあったという。しかし阿部監督は、バッティングを極めることで巨人の4番に君臨し、そこからインサイドワークを勉強し、研鑽を積んだ。広岡が言う。
「野村(克也)や古田(敦也)のように攻守に秀でたキャッチャーがいたら別だが、これといって差がないのであれば、ピッチャーの相性によって起用するのは当然だ。大城はキャッチャーとしてキャリアを重ねているにもかかわらず、成長が見えないどころか、年々悪くなっている印象がある。普段から打者の動向や息づかいを注意深く観察し、前の打席でそのバッターがどんなカウントで、どんなボールを打ってきたのか、そこに至るまでのプロセスを覚えていないんじゃないか。大城は自分のことで精一杯で、周りを見る余裕がない。それでは正捕手とは呼べない」
もともとキャッチャーとしての評価は、ドラフト同期の岸田のほうが高かった。そんな大城が正捕手になった背景には、小林の打力が乏しいため、バッティングのいい大城が抜擢されたわけだ。
ただ、阿部監督は大城に対して「小林や岸田の捕手としての振る舞いをしっかり勉強してほしい」とメディアを通して伝えたように、捕手としての能力に疑問を抱いているのは間違いない。
【試合に出ていないときに何を学ぶか】
31歳とベテランの域に近づいている大城にとって、時間的猶予はあまりない。昨年までは、守備面で多少は目を瞑ってでも打撃優先で使ってもらっていたが、阿部監督が「守りの野球」を標榜する以上、ディフェンス面での成長が見られない限り、小林や岸田が起用されるのは当然だろう。ただ広岡は、今こそ大城が成長するチャンスだとも言う。
「ルーキーの佐々木(俊輔)など若手たちを起用しながら育てていくパターンもあれば、選手を外すことで奮起を促す采配もある。これは原のときにはなかったことだ。すぐに成果は出なくても、チームにとって"変革"という意味ではいいかもしれない。阿部は、巨人のキャッチャーは勝つことでしか評価されないと言ったが、それが巨人だ。
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だから大城は、ベンチ要員になったからといって腐ってはいけない。肝心なのは、試合に出ていないときに何を学ぶかだ。とくに大城は、インサイドワークも大事だが、投手との連携をもっと勉強しなければならん。間(ま)の取り方や、制球が定まらない投手に対してどんな言葉をかけるのか、などだ。首脳陣はベンチでの態度や姿勢を必ず見ている。ベンチから、自分に足りないものは何なのかしっかり勉強して、次に生かせばいいのだ」
その一方で広岡は、現時点で捕手の併用は致し方ないと考えているが、それよりも毎日のように変わる猫の目打線を問題視している。
「3番を打っていたヤツが次の試合で6番を打ったり、6番を打っていたと思ったら1番を打ったりと、コロコロ打線を変えすぎだ。最初はうまくいったとしても、そのやり方では最後まで絶対にもたない。阿部は監督1年目だから試行錯誤でやっているのだろうが、昨年ヘッド(コーチ)として何を見ていたのかと言いたい。目先の勝利にとらわれて、周りが見えていない。もっと長い目でチームを見るべきだ。これじゃ、覇権を獲ることは難しいよ」
選手も、打線がコロコロ変わるようでは落ち着いてプレーすることは難しいだろう。捕手併用が打線にバラツキを生んでいる要因になっているとは言わないが、今の巨人に軸となる選手はいても核となる選手がいないのは事実である。
「チームは生き物だから、要となるキャッチャーがどっしりしていたら、打線だって頻繁に変える必要はない。安定して成績を残すチームには、必ずといっていいほど優秀なキャッチャーがいる。それを育てるのが監督の仕事である」
捕手併用は、その場しのぎの策なのか、それとも先を見据えた起用なのか。巨人のこれからの戦いから目が離せない。
人物が想像内で自分自身のイメージを美化するというギャグはよくあるが、パーティ仲間が他メンバーに抱いているイメージを全員登場させるというのは初めて見た。
(以下引用)
- 2024年05月03日 08:41
- ID:95AYnEcj0 >>返信コメ
- ダンジョン飯ミステリーと言える魔物との知的バトルが目新しいシェイプシフター回、一番好きな話だったのでアニメ化が本当に待ち遠しかった
声優の演技も完璧で期待以上の完成度で大満足だった
しかしこの話の構成。普段から髪型をころころ変える&冒頭でフードを被せる事によってマルシルの髪型を読者(視聴者)にも分らなくさせるというのが本当にうまく出来てると感心した
偽物当ても、ここまでの話で結構ヒントが出てきてるので読者も当てる事は可能なのも秀逸
既に挙げてるコメもあるけど、ライオスのメンバー評、装備品や髪型といった細かい所はうろ覚えなのだけど本体の造形は外れてない所が、他人に興味無い割に見ているところは見ているという意外さが明らかになるのが面白いですね
対人的な性格に問題はあるけれども、決して馬鹿で無能ではないというライオスはやっぱりリーダー向きなのですな
5 心術の3「嘘と演技」
「心術」の一つとするべきかどうか迷うところだが、私が人生を生きていく上でもっとも大事なことの一つと考えているのが「嘘」と「演技」である。この両者は本質は同じだ。どちらも、事実ではないことを事実として見せることだから。そして、嘘と演技の能力こそは、社会人として上に登るためには必須の能力にほかならない。
わざわざこうして論じることからもお分かりの通り、私は嘘と演技が大の苦手である。無精な人間にとっては、嘘も演技も面倒臭いことこの上ない。嘘にも演技にも、それを厭わない「献身性」が必要であるのは、あらゆる技術と異ならない。自分のついた嘘を覚えておくだけの記憶力もない人間が嘘つきになれるわけがない。かくして、世間には怠け者で記憶力が悪いために、やむなく正直である人間が無数に存在する。嘘と演技の能力は、一部のエリートだけに許されているのである。
その「エリート」たちが嘘や演技の技術をどのように身につけるのかは不明だが、おそらくはほとんど無意識に身につけていくのだろう。私やカントのように、「自分の行動が、人生を一貫する格率に適合するように行動しなければならない」などと考える愚かな人間に嘘がつけるはずはない。少なくとも、私がつく嘘は拙劣そのものであり、私の演技は無惨そのものである。そういう人間が、結婚などができたというのも嘘みたいな話だが。
我々の日常の会話のほとんどは、嘘に満ちたものである。社会人でありながら本音の発言をするという馬鹿者は、一日だってこの世で生きていくことはできないだろう。まあ、学生の頃くらいは、多少は本音の会話もするかもしれないが、それでも仲間の気を悪くさせないために、意識的無意識的に発言をオブラートにくるんでいるのは言うまでもない。それをわざわざ嘘というのも馬鹿馬鹿しいとも言えるが、やはり嘘には違いない。
「人と向かい合っていると、言葉は、相手がそれをどう聞くかということに縛られて、本心そのままの言葉ではなくなる」というのは、兼好法師の『徒然草』の一節だが、我々の日常の他人に向けて発する言葉とは、要するに、その九割までは嘘である。嘘というのがどぎつければ、他人がどう聞くかを考慮してアレンジされた言葉である。相手が家族だろうが、これは変わらない。そして、これはけっして悪いことではないのである。思ったことを、何の気兼ねもなしに口に出していいのは絶対権力者だけであるが、現実には絶対権力者も、不用意な一言で災いを背負い込むことを避けるため、言葉に手心を加えているものである。要するに、これは「自由」の問題なのだ。我々には完全な「行動の自由」というものがありえないのと同様に、完全な「発言の自由」など無いのである。
では、なぜあらゆる社会で「嘘」は禁じられているのか。実は、これは典型的な二重基準(ダブルスタンダード)なのである。形の上では禁止されているが、現実には嘘は許容されているのであり、その形式的な禁止によって社会秩序は維持されているのである。頭の悪い人間や幼稚な子供は、「嘘の禁止」を心から信じてしまい、現実との衝突で混乱する。頭のいい人間や精神年齢の高い子供は、現実とモラルの違いを見抜いて、「嘘をついてはいけない」という言葉自体の嘘を見抜く。
嘘抜きでは社会活動は成立しない。たとえば、お腹の大きい妊婦の姿を美しいと思う子供などいない。妊婦が美しいなら、デブも美しいはずだ。だが、社会では、妊婦が醜いなどと発言することはできない。そんなことをしたら、袋叩きに遭うだろう。もちろん美醜自体が主観なのだから、女が妊娠した自分の姿を美しいと思うのは大いに結構であるが、それを本気で信じているとすれば、ちょっと怖いものがある。
だが、こうした「正直な」発言は暗黙の社会的儀礼に反する発言となるのである。私も、こういう文章を書いたために、世の女性の敵とされるかもしれない。こういうところが私の子供っぽいところだ。ただの馬鹿か?
また、たとえば官僚の仕事の大半は、自分たちの権益を拡大し、守ることだということを、ほとんどの大人は知っている。だが、公務員の前でそういうことを言う人間はいない。
一般に、専門家の仕事の半分は「専門家としてのポーズを取る」ことなのである。社会に出て必要な本当の能力は、仕事の能力ではない。「仕事をしたことをアピールする能力」つまり、嘘と演技の能力なのだ。いや、これはもちろん、話を面白くするために言っているのであり、仕事の実力で出世する人間も数パーセントはいる。とは言っても、実力による出世にしても、何が実力なのか、誰がどう判断するのかという問題もある。要するに、実力と地位とは必ずしも一致はしないし、偉そうな顔をしている人間の中のかなりな割合が、親の七光りやコネでその地位についただけの、仕事の能力などない人間だということを若い人間は覚えておけばいい。つまり、そういう連中に形式的には頭は下げても、心の中では馬鹿にしていればいいのである。素朴な(「ナイーブ」とは、英語では悪口なのだそうだ。)人間は、他人を見かけや地位だけで判断するから、世の中では詐欺師たちがあれほど活躍できるのである。
ここまで書けば、次には「嘘と演技の能力を身につける方法」を書く義理があるが、自分に無いものを他人に教えるほどの無責任、あるいは嘘つきでは私はない。であるから、この項目は、「出世したければ、嘘と演技の力を磨きなさい」とアドバイスするだけにとどめよう。もっとも、「正直は最善の政策」というのも、真理である。つまり、嘘や演技の能力が無いくせに、嘘をつくのはおやめなさいということだ。下手な嘘を他人はだいたい見抜いているものだが、相手に恥をかかせたくないという優しい気持ちから、それをすっぱ抜かないだけなのである。それをいいことに、嘘に嘘を重ねて出世する見苦しい「エリート」もよくいるのだから、他人にどう思われようと、実質的利益を得さえすればよいというなら、それでも良い。どう生きようが個人個人の勝手である。
6 心術の4「意志力」
この「心術」は、コリン・ウィルソンの言う「健常人のための心理学」であり、普通人がよりよい人生を送るために、自分の精神をコントロールする技術を考えてみようという意図で書いている。
さて、精神の能力という点で、あって欲しい能力は何か。それは、若い人なら誰でも、意志力と記憶力だと言うだろう。意志力は、あらゆる目的を達成するのに不可欠の能力(ただの幸運による、偶然の成功という、私好みの『三年寝太郎』『物臭太郎』的な成功は、ここでは度外視する。)であり、成功の大きな要素である資格試験などを突破するには記憶力が必要だ。
意志の弱さと記憶力の弱さでは自信のある私が、こういうテーマで何かを言うこと自体、ちゃんちゃらおかしいと思われそうだが、とにかく、必要なテーマについては考えてみるというのが、この文章の基本方針なので、それを考えてみよう。
私自身は意志力も記憶力も弱いのだから、ここで書くことは、あるいは、人によっては有効かもしれない方法という程度の話である。というのは、私自身は、これから成功しようという気もないし、自らを鍛えようという気もないので、これは、若い頃の自分にアドバイスするなら、こんなところかなあ、という程度のものなのである。
グルジェフという神秘思想家がいる。詳しくは、コリン・ウィルソンの著作などを読んでもらえばいいが、彼の思想の一つに「オクターブの理論」というのがある。理論などと言うと大袈裟だが、要するに「人間とは三日坊主な存在だ」というだけの話である。つまり、我々の意志には、必ず弱まる時期がある、ということである。それを音階のミとファ、シとドの間の欠如した半音部分にたとえたのである。これはなかなか上手い比喩だが、問題は、現実には我々の意志は、断絶した部分でそのまま途絶えてしまうことだ。もう一度意志するときには、前に実行した部分はほとんど使用不可能な無価値なものになっていて、新たな事業をするのと変わらない。つまり、「オクターブ」よりは、「三日坊主」のほうが、はるかに現実に合っている。とりあえず、その意志の弱まる時期の存在を最初から計画に組み込むというのが、「意志薄弱な自分」への対処法だ。
具体的には、「監視装置」を作るのが一番だ。たとえば、個室で勉強するよりは、居間で家族のいるところで勉強するほうが、勉強できるものである。それは、監視する目があるかないかの違いである。
もう一つは、意志を当てにせず、意志力などどうせ15分くらいしか続かないという前提で学習計画を立てることである。つまり、連続する長時間の勉強ではなく、5分から15分程度の短い学習を組み合わせて計画を作るのである。これは「細切れ学習法」というタイトルで別の文章に書いてあるので、別記する。
後一つの方法は、「苦しい仕事(勉強)」を、楽しいゲームに変えることである。計画を達成するごとに、自分に褒美を与えるといったようなこともその一つだ。計画の達成の度合いをグラフにして壁に貼っておくのも、一種のゲーム化である。ゲームとは「成功と失敗」を意識することなのである。
意志力については、とりあえず、このくらいにしておこう。
7 心術の5「記憶力」
記憶力の強い弱いは、学生などにとっては大きな問題である。我々の思考は自分の記憶に基づいて行われるのだから、記憶力の弱い人間は思考の内容も貧弱にならざるをえない。ところが、記憶には幾つかの傾向があって、覚えようとしなくても覚えることもあれば、覚えようとしても覚えきれないこともある。
まず、自分が深い興味を持っている事柄は、強いて覚えようとしなくても覚えるものである。よく子供で、駅名やら自動車の種類やら怪獣の名前やらを無数に覚えている子供がいるが、これは子供というものが記憶能力がすぐれているからだけではなく、自分が興味があるから覚えているのである。
また、具体的イメージのあるものは覚えやすく、抽象的なものは覚えにくい。鎌倉幕府成立を「いい国作ろう鎌倉幕府」とか、ルート2を「一夜一夜に人見頃」とか覚える類だ。
短い言葉は覚えやすく、長い言葉は覚えにくい。元素記号の「水素・ヘリウム・リチウム・ベリリウム」などをを「水兵リーベ」と覚える類だ。あるいは古文助動詞「べし」の文法的意味「推量・意志・可能・当然・命令・適当」を、その頭文字をつなげて「スイカトメテ」とする類だ。これらは短くすると同時に、「イメージ化」も含まれている。
人の名前と顔を一致させて覚える能力は、教育者や政治家には必須の能力だが、これが苦手な人間もいて、私はその一人である。そもそも、人の名前と顔は恣意的な結びつきでしかないのだから、その相手が絶世の美男美女でもない限り、覚えきれるはずがない、と私などは思うのだが、これを楽々とやっている人もいるようだ。楽々とではなく、努力してやっているのかもしれないが、努力してもそれができない私のような人間は、脳の欠陥があるのかもしれない。しかし、若い頃から本ばかり読んできて、現実よりも虚構世界の住人の方が好きな人間が、現実の人間の名前が覚えきれないのは当然だろう。要するに記憶力のいい人間というのは、これまでに頭をあまり使わなかったために脳の皺が少なく、新しい事を刻みやすいのではないだろうか。年を取ると物覚えが悪くなるというのは、これまでの記憶のために新しい記憶がインプットできなくなることだろう。といって、これまで覚えたことを消すのも不可能なのだから、物覚えが悪い人間は、繰り返し口に出したり、紙に書いたりして覚えるという作業をするしかないだろう。
学習に際して、前に書いたような工夫がなされてきたのは、逆に言えば、大多数の人間にとってそれらがいかに覚えにくいかを表している。にもかかわらず、学校の先生などは、こともなげにそれらを暗記しろ、などと生徒に命令したりする。私など、大学の生物の授業の最初に「クレブス回路」を覚えろ、と言われて、それをどう覚えればいいのか見当もつかず、絶望した記憶がある。まあ、今にして思えば、そこで工夫をして、何としてでも覚えるのが大学生としての義務だったのだろう。ある程度の暗記は専門家になるための関門であることは、「外部記憶装置」であるコンピューターが普及した現在でも変わらない。むしろ、パソコンに記憶させる習慣によって、本来の記憶力が低下して、専門家としては重大な欠陥が出てくる可能性もある。いくらコンピューターが有能でも、データ入力が適切かどうかの判断は人間がするしかないのだから、覚える事柄の内容が変わるだけで、覚えることがなくなったわけではない。あまり機械に頼りすぎて人間自体の能力が低下しないようにする必要があるだろう。
まあ、教育勅語の暗唱や、歴代天皇の名前を全部暗唱できることなどが、何のメリットがあるかなどはわからないが、歴史学者などにでもなれば、それも無意味ではないだろう。世の中には、円周率を何百桁も覚えるという「記憶のための記憶」でさえも趣味にする人間もいるくらいだから、一番大事なのは、「覚えることを過度に苦痛に思わない」ことかと思われる。
ステージで披露する「記憶術」というのがあるが、これは短時間に大量に覚えるだけで、長く続く記憶ではないから、一般人には無益である。そのコツだけ言えば、「イメージ化」である。たとえば、「帽子、ロケット、トランプ、試験、兎」と出てきたら、「帽子をかぶったロケットがトランプを使って兎に試験をしている」イメージを描くわけだ。ここで大事なのは、「帽子をかぶったロケット」のような意味不明のシュールなイメージこそが、むしろ強い印象になるということである。また、自分の体に記憶の順序を割り振って、頭から足先まで、記憶するものをイメージでくっつけていくという方法もあるようだ。
見て覚える、書いて覚える、口で言って覚える、歌にして覚える。さまざまな覚え方があるが、一番効果的なのは、「理解して覚える」ことだろう。特に、理系科目では、理解できていないことは覚えにくいものだし、仮に覚えていても使えないものだ。
歌にして覚えるのと似ているが、「語調」は記憶にとっては大事な要素だ。有名な俳句や和歌などは自然に覚えていることが多いのは、五七調や七五調は、日本人の魂にしみこんだリズムだからだろう。だから、「この土手に登るべからず 警視庁」のような標語でさえも、実に覚えやすいのである。
意志力も記憶力も、私の苦手な分野だから、この話題はこれくらいにしておこう。
8 心術の6「感情のコントロール」あるいは自己の他者化
感情は理性ではコントロールできないのが普通である。自分で自分の心が意のままにならないのだ。では、なぜそうなのだろうか。
ここで言うコントロールできない感情とは、怒りや悲しみといったマイナスの感情である。喜びや楽しさなどの感情なら、コントロールする必要は無い。なぜなら、それらは「幸福」の実体なのだから。つまり、幸福とは我々が喜びや楽しさの感情で充たされていることなのである。逆に、我々が怒りや悲しみの感情で充たされているときは、我々は不幸なのである。したがって、幸福とか不幸とかは結局は感情の問題に帰着する、と言える。つまり、外部的な条件は幸福や不幸の条件にはなりうるが、幸福や不幸そのものではないのである、世の中の人間の多くはここを錯覚しているのだが。
何億円もの年収があり、映画女優かモデルのような美女を恋人にし、名声にも恵まれている人間を見たら、多くの人は彼を羨望するだろう。私も多分そう思う。だが、一瞬の後には、「だが、本当に彼は羨むべき存在かどうかわかったもんじゃないぞ」と私は考える。というのは、人間の本当の生活は、彼の心の内部で起こる生活、つまり彼の感情生活だと考えるからである。たとえて言うならば、味覚障害の人間にこの世でもっとも贅沢な美食を与えたとして、その彼を羨むかどうかということである。もちろん、羨ましくもなんともない。だが、世の多くの人間は、彼がその美食を口に運んでいるという事実だけを見て、彼を羨むのである。
要するに、大事なのは我々自身に適切な感受能力があるかどうかということなのである。
とりあえず、それはあるものとしよう。そうすると、問題は次のようになる。
「我々がどうあろうが、我々の毎日の生活は外部の条件に左右され、我々の感情もそれによって幸福になったり不幸になったりする。それにどう対処すればいいのか」ということだ。
言葉を変えれば、外的な条件によって心が動揺せず、穏やかな幸福感を保ち続けるにはどうすればいいのか、ということだ。これが冒頭に書いた、「感情のコントロール」の問題である。果たして感情はコントロールできるのかどうか。冒頭に私は「感情は理性ではコントロールできない」と書いた。それで話が終わりでは「心術」の意味がない。
感情は理性でコントロールできるという想定で考えてみよう。それには何が有効か。
ここで、妙なテクニックを提出しよう。それは「自分を他者化する」という方法である。
ある出来事によって生じる負の感情が制御できないのは、その出来事が自分自身の存在を傷つけるからである。それが他人事なら、我々は平気なものだ。「我々は他人の不幸に平然と耐えきれるほどに勇敢だ」と皮肉ったのはラ・ロシュフーコーだったと思うが、まさしくその通りであって、マイナス感情はすべて、それが自分に関わる何かを傷つけるところから生じるのである。自分の恋人や友人の不幸が我々を傷つけるのも、我々がその恋人や友人と一体化した感情を持っているからなのである。だから、たとえば自分のひいき俳優や歌手の悪口を言われると我々が不愉快になるのは、その悪口が、「その俳優や歌手が好きな自分」とか、「自分の趣味」への批判になるからなのである。つまりは自分自身が攻撃されたように感じるから我々は不愉快になるのである。
言い換えれば、我々が負の感情を感じるのは、その出来事が我々への攻撃だと無意識に判断しているからであり、その土台には我々のナルシシズムがある、と言える。
そこで、「自己の他者化」という「心術」が対策として考えられる。
「自己の他者化」とは、自分という存在と我々の精神の中の自我(自我とは思考の主体だとしておこう)とを切り離すことである。そして、自我のみが真の自分であり、他の部分は自分のロボットだと考えるのである。つまり、私という自我が私というロボットを操って行動させているのだと考えるのである。そして、その操られている自分は真の自分ではないから、それに対する如何なる攻撃も批判も気にしないようにするのである。
言い換えれば、これは「日常を演技する」ということだ。
ビートたけしが、「俺は笑わすのは好きだが、笑われるのは嫌いだ」と言ったことがあるが、「笑われる」とは、彼自身が笑われることであり、「笑わす」とは、彼の演技によって彼の虚像が笑われることだ。見かけの上ではどちらも同じに見えるが、内実は違うのである。彼が「笑わす」場合でも、見かけの上では笑われているのは彼だ。しかし、その時、彼は「自分自身が笑われている」とは思わず、「演技している自分を笑わせてやっているのだ」と考えるのである。本質的にシャイな人間である彼がなぜ、舞台に立って、笑われることに耐えきれるのかと言えば、それは「笑われているのは自分ではない」からである。
これで、「自己の他者化」ということがわかるかと思う。
我々は実は、日常的に演技をしている。ただ、それに対して無意識なだけである。前にも書いたが、『徒然草』の中に、「人と交わると、言葉は、他人がそれをどう聞くかを顧慮しての発言となり、自然のままの言葉ではない」という一節があるが、発言に限らず、他者と交わる時の我々の言動のすべては他者を顧慮した「演技」なのである。あるいは、他者を顧慮した「政治的行動」なのである。
そして、そうした演技から解放された時に我々の願う「随所に主となる」ことが達成されるのだが、それは、あるいは演技を演技と意識しなくなった状態なのかもしれない。自分の演技の無様さに不愉快さを感じている人間が、他者との交流を不快に思うようになり、引きこもりなどになるのだろう。自由自在に演技のできる人間こそが「この世界のチャンピオン」なのである。
演技の話は前にもやったので、ここでは「心術」としての「自己の他者化」という方法だけを心に止めておけば良い。要するに、誰にも「真の私」を理解できるはずは無いのだから、他者の批判や攻撃はすべて的外れであり、それを私が一々気にするには及ばないということである。この世のすべては自分をも登場人物の一人とする人形芝居にすぎない、というような考え方をすればいいのである。言い換えれば、「自分という存在や自分の感情をあまり過大視するな」ということだ。
もちろん、この考え方は「だから何をしてもよい」とか「だから責任を取る必要はない」とかいう短絡的な思想に至ってはならない。あくまでこれは精神的な姿勢の話であり、演技だろうが何だろうが、人の社会的言動のすべては(本当は、内面的生活もそうだが)その人に返ってくるのである。禅問答で、「お前は、そのうち閻魔大王に飯代を請求されることになるぞ」と言う面白い言い方があるが、要するに、一生を終える時に、お前は自分の生き方を後悔しないか、ということだろう。これを現代風に言えば、「お前の人生の責任はお前自身にある」という「自己責任」になるが、
3 心術の1「主体性」
我々の人生が不幸であるのは、その人生が不如意であるからである。つまり、意志や意欲が存在しながら、その意志や意欲が満たされない場合に、我々は自分を不幸に感じるわけだ。つまり、不幸とは不満足な状態のことであり、幸福とは、欲求や意志が満たされた状態のことである。したがって、幸福を得る手段は二つ。一つは意志や欲求の求めるものを得ることである。もう一つは、欲求や意志そのものを捨てることである。後者が仏教的な行き方だ。いつでもどこでも欲求の対象を獲得するということは不可能だから、後者の生き方が確実な幸福への道に見えるが、欲求が無く、何も得ないならば、それは幸福とも言えない。もちろん、金銭や地位や女色などを捨てて、知識欲だけを残すという生き方もある。これがエピクロス一派の「快楽主義」だ。エピキュリアンの快楽主義は、世間で誤解されているような世俗的欲望の肯定ではない。
仏教でも禅宗などは、特に欲望を否定する思想ではない。禅宗においては、要するに、自分を迷わすものを捨てて、心が自由であればいいのである。そして、心が自由だという実感、心が解放されているという実感は生の喜びの土台である。
「随所に主となる」
これが、心術の目標である。つまり、どこにいても周囲に惑わされず、心が自由で何の恐怖も不安も無い状態、日常を平安な落ち着いた心で生きていくことが最高の心境だ。
我々は自分の仕事、家族、友人関係、将来の不安など、様々な問題を抱えて生きている。だが、それらはすべて「外物」である。つまり、外物によって心が囚われた状態が悩みの状態だ。悩んでいるとき、我々は自分の人生の主ではない。外物に支配された奴隷だ。
屁理屈を好む文化人なら、喜びの状態でも、外物に支配されているではないか、と言うだろう。むしろ逆である。奴隷であっても、現在の状態から喜びを得ているならば、彼はその場の主なのである。この説明は難しいが、喜びとは最善の幸福の状態であると仮定するなら、喜びの状態においては、主も客も無意味になるとでも言っておこう。
では、いかにして外物の支配から心を解放するか。それは
「汝の手に堪ゆることは力を尽くして是を為せ」
という聖書の中の言葉が教えてくれる。
つまり、我々が不幸、不自由であるのは、だいたいの場合、自分の手に及ばないことを制御しようとしているからである。たとえば、愛する人に愛されないという悩みなどがその代表だ。他人に愛されることは、自分の力でどうにかなることではない。相手に好かれるために、一般的には大抵の人に愛されるキャラクターを作ったところで、相手がそのキャラクターを愛するかどうかは分からない。
昔、コン・タロウという人の漫画で読んだ、私の好きなジョークがある。高嶺の花にあこがれて悩んでいる男に向かって、その友人が慰めて、「君はあきらめる必要はないよ。だって、その人は趣味が悪いかもしれないじゃないか!」と言うのだが、実際、世の中には、何でこんな素晴らしい女性(男性)が、こんな最低の男(女)とくっつくんだ、という例は多いのである。
だが、そもそも、人を愛することはこちら側の問題だが、相手が自分を愛するかどうかは、相手任せにしかならない。こちらの努力ではどうにもならないものがある。
ならば、できる努力はするが、努力してもどうにもならないことはあきらめる、というのが賢い生き方なのである。そして、実は人生の悩みの多くは、自分の努力ではどうにもならないことを悩んでいるのである。たとえば、仕事でベストを尽くすことは努力の範囲だ。だが、その仕事がどう評価されるかは、自分の努力でどうなるものでもない。
勝海舟がうまいことを言っている。江戸幕府と明治政府の二君に仕える生き方を福沢諭吉に批判され、彼からその批判の文章を世間に公表していいかと言われた時に、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと。」と言って、どうぞ勝手に批判しなさい、と答えたのである。つまり、ある行為を「やるかやらないか」は私のすることであり、それについて他人がほめようがけなそうが、俺には関係ないよ、ということだ。彼のこの言葉こそ、人生の達人の言葉だろう。
基本的に、不自由とは、自分の手ではどうにもならないことを言うのだから、それはあきらめるしかない。実に当然の話なのだが、これが分からない(分かっていても納得できない)から、たいていの人は不自由がそのまま不幸につながるのである。つまり、不自由とは運命的に我々の生の半分であり、完全な自由などどこにも存在はしないのだが、その事実が受け入れきれずに自分で自分を苦しめているのが世の大半の人間なのである。
我々が問題とするべきことは、その自由と不自由の範囲が納得できる範囲かどうかだけである。
そもそも、我々が求める自由とは、まるで夢想的なもので、子供などは物理法則に反する自由をすら欲しがるものだ。漫画やアニメの超人は、我々が持ちたいという自由の実現者であり、我々の代わりにその自由を行使してくれる存在なのである。
それほど、我々は自分を取り巻く不自由に、息がつまるような束縛感を感じているということである。
そのような自由へのあこがれが、芸術創作の原動力でもあるが、しかし、我々の日常生活は、この不自由とのつきあいでもある。
我々はまず物理法則に縛られ、社会の倫理道徳に縛られ、法律で行動を制限され、仕事で求められる規範に縛られる。家庭においては、家庭秩序を維持するための決まり事に縛られ、友人との交際では、「真の自分」を知られずに、そう思われたい自分として見てもらうための努力に苦労する。他人と交わす言葉の一言一言に、自分がこういう発言をしたらどう思われるか、と悩み、そう悩む自分に苛立つ。
つまり、我々の生活とは、雁字搦めの不自由なのである。普段はそれを意識しないから、平気でいられるが、それが気になりだすと、精神がおかしくなりかねない。
つまりこれが「随所に主となる」の正反対の状態なのである。ここまで言えば、なぜ「随所に主となる」ことが心術の目的地であるかも理解されるだろう。
では、いかにすれば「随所に主となる」ことができるか。修行によって、である。私はもちろん、そうなれてなどいない。しかし、その目標を持つことで、自分を苦しめる物事はすべて自分にとっては本質的ではないという「見切り」をつけることが早くなった。そして、悩むことも少なくなった。
ここで、最初のあたりで述べたことに戻る。
すべては意識することから始まるのである。問題を見つけだせば、その問題は半分解決したも同然なのだ。一番の問題は、問題の所在に気が付かないことなのである。精神医療でも、患者自身が問題の所在に気が付けば、その病気はほとんど解決するのである。
4 心術の2「ユーモア」
ユーモアには、①「自分自身がユーモアをもって外部世界を眺めること」と、②「他人を笑わせる能力」の二つの面がある。
前者はある意味では後者より大事だが、社会生活で重視されるのは後者である。前者は内面的ユーモア、後者は外部化されたユーモアである。前者は精神的な生きる支えだし、後者は社会生活を容易にする。
まず、ユーモアとは何かというと、物事の不調和を機嫌よく、好意的に眺め、それを楽しむ姿勢だと言っていいだろう。これが厳しい批判の目で眺めた笑いだと、サタイアなどの冷笑となる。
いずれにせよ、物事の不調和が、ユーモアの対象、つまり「笑われる存在」である。失敗、失策、破綻、異常などがそれだが、簡単な例を挙げると、我々は人が転ぶのを見ると、思わず笑う。それはなぜか。それは、転ぶことによって人間が社会生活で維持している威厳を喪失するからである。こうした何らかの「地位低下」が笑いの対象となる。もちろん、何の地位低下とも無関係に、赤ちゃんが笑うのを見ると、我々も嬉しくなって微笑むが、その笑いはユーモアとは別である。これはただの笑いの伝染だ。だが、「笑いの伝染」は、後の「他人を笑わせる技術」と大きく関係するので、覚えておこう。
相手の地位が低下したのを見て我々は自分が心理的に上位に立ったことを知り、機嫌が良くなる。それが笑いである。つまり、笑いとは、優越感と劣等感の力関係から生じてくる。自分が相手に優越していることを確認して気分がよくなるのだから、笑いとはもともとはあまり上等な心理ではないのである。たとえば、知恵遅れや精神病者を笑い物にするのは、昔は当たり前のことであったようだ。また、ピエロや宮廷道化師の奇妙な化粧や扮装は、周囲の人間より自分が下であることを示すためのものだったはずだ。
ただ、笑いの対象が、社会的な上位者である場合もある。つまり、金力や権力では上位だが、人間としては劣った存在であるなら、それは笑いの対象になるのである。この種の笑いは社会的な武器にもなる。いわゆる風刺文学などがそれだ。
さて、論文的な記述が続いたが、こうした笑いの本質の考察から何が生まれてくるか。それは、まず、笑いは相手の弱点や欠点の観察から生まれるということである。だから、すべてを好意的に見る、善良な性格の人間は笑いのための発見はできない。むしろ性格の悪い人間のほうが笑いの造り手には向いているのだ。ただし、また、笑いの作り手は、自分自身を笑いの対象にするということもある。むしろ、職業的なコメディアンは、そのほうが普通だ。ただし、この場合でも、やはり自分を笑うべき存在とするためには鋭利な考察が不可欠だろう。それもなく、ただ奇妙な扮装や顔面の変形、意味不明の奇声で笑いを取ろうとする低レベルの芸人もいるが、そうした幼児レベルの笑いも確かに一定の需要はあるので、無価値だとは言えない。昔のジェリー・ルイスや一時期の桂枝雀などの笑いにもそういうところがあった。それらは幼児的な笑いではあるが、しかし、「笑いの本質は不調和にある」という本質から外れてはいないのである。チャップリンだって、あのルンペン紳士の服装やペンギン歩きという分かりやすい笑いから出発したのだ。
では、笑いの対象としたい相手に欠点や不調和が見つからない場合、どうするか。ここで登場するのが「誇張」である。相手の些細な特徴を大袈裟に表現して笑い物にするのである。子供の世界でも、相手の言葉や仕草や表情をわざと歪めた形で真似して笑い物にするということがよく行われる。
そういうふうに笑い物にされるということは、自分の価値を下げられたことだから、笑い物にされた人間は屈辱と不快感を覚えるわけで、それがもちろん相手の狙いである。柳田国男が「笑いはもともと武器であった」というのは、こうした心理攻撃のことを言っているのである。
さて、社会に出て人と交わる際に必要な能力が、他人を笑わせる能力である。特に、人前で話す商売の人間にはジョークを言う能力は大事だ。しかし、笑いを生む能力は、必ずしも優れたジョークを案出したり、話したりする能力だけから生まれるものではない。
ここで、ずっと前に書いた「笑いの伝染」について書こう。これはNHKのある番組で放送されていたことだが、人間は無意識に自分が対面している相手の表情を真似ているという。真似ているというよりは、自然と同じ表情になる性質があるらしい。これは、長い間夫婦をやっていると表情が似ることや、親子や兄弟同士は表情も仕草も似てくることなどからも事実であることが分かる。私も、自分が何かの仕草や表情をした時に、相手が少し後で同じ表情や仕草をするのを目撃した体験が何度かある。
ということは、相手を笑わせたい場合は、まず自分が笑顔になればいいということである。あまりにも単純な話であるが、実はこれが人間関係の一番の知恵なのである。
加えて言うなら、我々は笑顔であると愉快な気分になり、苦虫を潰した顔をしていると不愉快な気分になってくる。笑顔を作りながら怒るという器用なふるまいはできないのである。人間とはそのように単純な機械的存在なのである。誰かと一緒にいるときに気分が良ければ、我々はその相手に好意をもつものである。だから、笑いのある人間関係は、当然ながら円満な人間関係である。そしてそういう関係を作る大前提は、「こちらから笑顔を作る」ことなのである。いや、何も面白いことを言わなくても、常に笑顔であるというだけでも、良好な人間関係は作れると極論してもいい。あまりにも単純な理論なので、信じて貰えないかもしれないが。
確かに、一流の芸人の中には、バスター・キートンのように、悲しげな顔で他人を笑わせるという人間もいるし、一流の落語家は、自分から笑うということはしない。とぼけた顔で面白いことを言うものである。しかし、それは、我々がそれを「あらかじめ承知している」から笑えるのである。
初対面の、あるいはお互いに深く知らない間柄の人間同士の対面で、相手がむっつりと不愉快そうな顔をしていれば「こいつは俺に(私に)敵意を持っている」という判断をするのが当然なのである。だから、アメリカ人は、初対面の相手にはまずジョークを言うという。借り物のユーモアだろうが何だろうが、笑いは大事だと彼らは思っているということだ。だが、笑顔にまさる武器は無い。私は、普段の顔そのものが笑顔である人間を数名知っているが、彼らを嫌う人間はほとんどいなかった。その反対に、笑顔の少ない人間(私もその一人であるのだが)は、たいていが嫌われていたものである。
笑顔だけで十分だ、ということが信じられないなら、ジョーク集でも暗記して「面白い奴」になるのを目指せばいい。しかし、そういう作り物の笑いというのは、案外と長持ちしないものである。
もしも、ジョークの使い手を目指すなら、笑いの基本は「誇張」「ナンセンス」「卑小化」にあると覚えておけばいい。
「卑小化」とは、要するに、自分より下の存在を見ることで、人間は安心して笑うということだ。我々が自分の飼っている犬や猫を可愛く思うのも、結局は彼らの幼児並みの知能を愛するからではないか。相手への畏敬の念からは、けっして笑いは生じない。我々が傲慢な人間を嫌い、謙遜な人間を愛するのも、自分との相対的な位置関係の上下によるものである。つまり、わざと自分を低く見せることで、自分を笑いの対象とすることができるのだ。自分を格好よく見せたい気持ちが捨てられなければ、笑いは作れない。「誇張」にしても、何を誇張するのかと言えば、対象の欠点の誇張なのである。つまり、対象を強引に「低める」のである。どんな美男美女でもオナラもすれば排便もする。価値低下が不可能な存在など無いのである。フランス革命の際には、マリー・アントワネットの情事を題材とした猥褻図画が出回り、王家の威信低下の材料となったのだが、これも「卑小化」による心理的攻撃なのである。
笑いの対極にあるのが、儀式や贅沢品による「荘厳化」である。王家や貴族の威厳のためには、庶民には絶対に不可能な豪華な服装が必要だったのである。そうした飾りを取り除けば、社会の上層部にいるのは、庶民と同じ人間たちにすぎない。(こうした「普通の人間である王族」を見事に描いたのがスタンダールの『パルムの僧院』である。)
笑いの中で「ナンセンス」とは、「意味」への攻撃である。ここでは笑いの対象となるのは、個人ではなく、人間世界の意味の体系なのだ。我々は理性的に生きる限り、常に意味の体系に支配されている。そして、そのことに無意識の圧迫を感じているのだが、ナンセンスはそうした意味の体系を破壊することで、我々に精神の自由の快感を与えてくれるのである。したがって、ナンセンスの笑いは、笑いの中でも高級なものであると同時に、世の中にはナンセンスの面白さが理解できない人間も多数存在しているのである。
「誇張」は、いわば「火の無いところに煙を立てる」類の笑いである。勘の鈍い人間でも理解できるように大袈裟に表現するのが誇張なのだから、笑いの手法としては低レベルではあるが、また、小児でも分かる、つまり伝達対象範囲が広いという利点もある。
で、「TPぼん」を見てみたが、藤子不二雄の漫画の中でもあまり評価が高くない作品と思われ、かなりつまらない内容である。そもそも、話の設定がおかしい。「歴史的有名人以外で、不幸な死を迎えた人を救う」などと言ったら、「人権思想」が有力になった近代以前だと地球の人間の9割くらいがそうだろう。そういう人間を全部救えるはずがないではないか。あるいは、特に救う理由でもあるのか、と思っていると、さほど理由があるわけでもない。つまり、話の根底が破綻しているのである。そして、話のほとんどがシリアスであり、なぜ柿原優子を起用したのか、意味不明であり、当の柿原自身、脚本ではなく「構成」担当で、おそらくこれは彼女のネームバリューを利用しただけだろう。
藤子不二雄にとっても、このアニメは恥の記念にしかならないと思う。
第四章 メンタル・ヘルスまたは「心術」
「メンタル・ヘルス」というと、精神科医の分野になりそうだが、ここで私が述べるのは、より良い人生を生きるための「心の自己コントロール」の話である。そして、それには前の章で書いた人格形成なども含まれる。
1 生き方の基本
メンタル・ヘルスは、その人の生き方と大きく関わってくる。昔なら人生論として扱ったことを、ここではメンタル・ヘルスとして扱おうと言うのである。
まず、生き方の基本は、「問題解決の技術」と同じである。つまり、「現実認識―問題分析―計画―実行―反省―計画変更―実行」のサイクルである。(これはビジネスの世界ではP―D―C―Aサイクルと言うようだ。「プラン・ドゥ・チェック・アクション」である。なぜドゥとアクションの区別があるのかは知らないが。)そして、何よりも大事なのは、「継続」である。コリン・ウィルソンも言うように、我々が、決心したことを継続できれば、精神的な超人にもなれるのである。
2 精神の素材と精神コントロール
良い人生を送るためには、精神の自己コントロールが必要だ。それができるかどうかで人生の質が変わってくる。
まず、人間の精神は大きく分けて、「理性」と「感情」に分かれる。ここに、「意志」という柱を立てて三つに分けてもいいが、人間に自由意志があるかどうかは判断不可能な問題だから、意志については保留にしておこう。
問題は、理性と感情はまったく別であり、感情を理性でコントロールすることは非常に難しいことである。感情に限らず、自己コントロールを最大限に高められるかどうかが、幸福な人生の鍵だとも言える。たとえば、あなたが何かの義務的な仕事をやらねばならない場合、それを苦痛に思うあなたがいる。そして、その仕事をやらねばならないと思うあなたがいる。はたして、あなたはそのどちらのあなたの言うことを聞くべきなのか。怠け者のほうのあなたか。意志的で努力家のあなたか。当然、後者だと言う人が多いだろう。だが、そこで怠けて過ごした甘美な時間と、苦痛に耐えて努力した時間と、どちらが人生にとって有意義な時間だっただろうか。これは、明らかに前者なのである。ただし、これは短い時間のスパンで考えた場合のことで、長期的にはもちろん、前者のような生き方はその人の人生レベルを低下させ、後者のような生き方は人生レベルを向上させる。
これはつまり、美味い物を先に食うか、後で食うかという選択と同じことであり、もしも怠け放しでもそのダメージを受けることが無いのなら、一生怠け続けてもいいのである。つまり、大金持ちの家に生まれた人間なら、そういう生き方もできるわけだ。
だが、ほとんどの人間は「生きるための労働」と不可分の生涯を送るはずだ。したがって、ここではそういう前提で論じる。
さて、人間の精神は理性と感情に分かれる。感情は、目の前の義務的労働を苦痛に思い、理性は、長期的判断に基づいて、あなたに労働を強制する。
もちろん、誰でも考えるように、感情が、労働を苦痛ではなく快楽だと考えればすべての問題は解決である。だが、果たしてそううまくいくかどうか。我々は労働を本心から快楽だと考えることができるだろうか。ここで、価値観というものが問題になる。つまり、快楽は価値があり、苦痛はマイナスの価値だという判断がここにはある。逆に、我々にとってのマイナス価値の強制が我々に苦痛を与えているとも言える。
価値観の問題も、古くて新しい問題だ。納豆やオカラで満足できる人間なら、トゥール・ダルジャンの鴨料理などこの世に存在しなくても何も問題は無い。酒の飲めない人間にはロマネ・コンティも無価値である。草の葉の上の水玉の美しさに感動できる人間には、100カラットのダイヤも不要だろう。自分のブスな女房を愛している人間には世界一の美女が言い寄っても迷惑なだけだ。(最後は、私のことではない。私の女房は私の主観では美人である。あくまで、主観だが)
人生の最大の秘密をここで書こう。
それは、この世で生きる最大の鍵は、「価値観」にあるということだ。しかも、価値観とは、実はその人の主観なのである。このことを意識していないことに、人生の大半の苦しみの原因があるのだ。
たとえば、あるタレントや俳優を好きか嫌いか、ということは、若い人にとっては「絶対的なもの」である。いや、年を取った人間でも、好悪については絶対に譲らないものだ。だが、その好悪にどんな根拠があるかというと、それはほとんど無いのである。Aという歌手とBという歌手の間に、それほどの違いがあるとは思えないのだが、AやBのファンにとっては、天地の開きがあるのである。それは、つまり《主観の絶対視》なのである。
さて、我々は、実は自分の主観に過ぎないものを絶対視しているということを知れば、人生を生きることが非常に容易になる。
我々が自分の感情をコントロールできないのも、「主観の絶対視」のためであり、本当は簡単に譲れるものを譲れないと「思い込んでいる」だけなのだ。
これは、しかし、感情を軽視しろということではない。藤原正彦が面白いことを言っている。「論理」というものは、実は出発点の妥当性は証明できない。つまり、すべての論理の出発点そのものは仮定にしか過ぎないということだ。これは私もかつて考えたことで、論理とは、「説明手段」でしかない、と私は思っている。他人を説得する手段ではあっても、必ずしも真理に至る道だとは限らない。一方、感情の方は、少なくとも、その感情がその人の心を支配していることは明らかであり、それだけでも感情の偉大さは分かる。つまり、我々の生涯の大半は感情とともにあるのだ。だが、感情が自己破壊的に働く場合がある。ここで私がコントロールを考えているのは、そういう類の感情なのである。
ここでまた誤解する人がいるかもしれない。私は、一般的にマイナスとされている感情を自分の中から消し去れと言っているのではない。怒るべきときには怒り、悲しむべきときには悲しむことこそが、真に人間らしい生である。だが、問題は、我々はそうしたマイナスの感情に心を支配されるあまりに、自分の人生までも悪い方向に引きずっていく場合が多いということだ。そこで精神の制御が求められる。
精神の制御において必要なのは、意識化である。自分がどのような状態か意識できれば、制御まではもう一歩だ。自分の状態が意識されていないから、制御できないのである。
そこで、まず感情を分類する。これは昔から「喜怒哀楽愛悪懼」という七情として分類されている。つまり、「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しさ」「愛」「憎しみ」「恐怖」である。
この中で、無条件でプラスと言える感情は「喜び」と「楽しさ」だ。(この二つの違いは微妙だが、たとえば、遊びをしている状態などは「楽しさ」であり、思わぬ利益を得た感情などは「喜び」だろう。)
ところが、「愛」は、無条件にプラスとは言えないのである。というのは、愛とは一種の欠乏状態における感情なので、愛が喜びになることもあれば、悲しみになることもあるからだ。もちろん、単純に、好きなものの傍にいて、それを眺めている時の感情も愛だし、好きな人のために奉仕する気持ちも愛だ。そして、何かが「好き」という感情は、それだけでも一種の満足感を与えることもある。とりあえず、「愛」はある対象に対して抱く肯定的感情ではあるから、プラスとしておこう。
さて、その他の「怒り」「哀しみ」「憎しみ」「恐怖」などの感情がマイナス感情であり、我々の心を苦しめるものであることは言うまでもない。(この「苦しみ」も七情に追加してもいいが、苦しみはむしろ総合的なマイナス感情だろう。)こうしたマイナス感情を心から完全追放してもいい、と思う人もいるだろう。実際、それができている人間もいる。それは「多幸症」という精神病患者である。また、麻薬などを用いることで、多幸症に近い状態を作ることもできるようだ。
だが、精神病患者になるのも、麻薬を使うのもいやだというのなら、我々は「哲学的」に精神の自己制御を試みる必要がある。それが、これから本格的に論じる「心術」である。
昔の用語では、心術とは、「心の状態」のような意味で使っていたようだが、私はそれをまさしく、「術」として論じるつもりである。
第二章 財産形成について
「人生問題のほとんどは経済問題である」、というのは清水幾太郎の名言だが、金持ちの親を持って生まれなかった貧しい若者にとって、いかに財産を形成するかは、人生の最大問題の一つである。これに比べれば、恋愛など、幻想的な問題にすぎない。つまり、人生の基本問題は二つ。一つは、いかにして健康な状態を維持するか。もう一つが、いかにして財産を形成するかである。その後者について述べよう。
まず、犯罪的手段で財産を形成することは、避けたほうがいい。犯罪を行うには犯罪者としての性格と才能(平気で嘘をつく能力など)が必要なのであり、犯罪者的素質の無い人間は犯罪者としての成功はまず不可能なのである。これを良く示しているのが、ドストエフスキーの『罪と罰』である。あれは、犯罪者の資質の無い善人が、自らの超人思想に取り憑かれ、柄にも無い犯罪を実行してしまった一部始終の記録である。ただし、犯罪者的資質は養成することも可能であり、少年院や刑務所が、その種の「教育機関」であることは一部では良く知られている。大企業にも似た面はあり、企業の利益になることなら何でもやる人間こそが出世するのが資本主義のシステムであるため、大企業の上層部は、たいていは非人間的な怪物になる。これはマイケル・ムーアの「シッコ(シック・コーポレーションの意味か?)」などに如実に顕れている。軍隊が殺人者の訓練所であることなども言うまでもない。
そうした華やかな修羅の道を選ぶのも一つの生き方ではあるが、あまり冴えなくても「人間らしく」生きたいなら、堅実な人生設計をする必要があるだろう。
まず、人生の生き方には大別して二つある。一つは個人事業主として生きることであり、もう一つは組織の中で生きることである。芸術家やスポーツマンは前者である。個人商店の店主なども前者だろう。後者の中には、親しい仲間だけでチームを作って小さな組織の中で生きる方法もあり、これは両者の中間的形態である。大組織に比べて自由度は高く、個人事業主の孤独からは免れているのだから、理想的形態かもしれない。だが、交友関係に恵まれていないとできないことだから、ここでは考察しない。個人事業主の中でも、才能が前提となる芸術家やスポーツマンの人生も無視することにする。
たいていの人間は、学校を出ると会社に入り、社会人生活を始める。最初の頃は給料も安く、仕事はきついが、会社の仕事に慣れてくると、仕事は楽になり、給料も少しずつ上がってくる。
さて、ここで問題は、多くの若者は、貰った給料のほとんどを使い切ってしまうことである。もともと給料が低いのは分かるが、しかし、その金の使い方は、はたして意味のある使い方だろうか。若い男性なら、酒や女に使うだろうし、若い女性でも化粧品や洋服、音楽や娯楽に過度の浪費をしていることが多いのではないだろうか。その中でも書籍の購入に使うのは、ましな使い方だが、実は、私から見れば、これも無駄遣いである。なぜなら、文明国には、公立図書館というものがあるからだ。自宅に数千冊の書籍を保存していることを誇るのもいいが、図書館の数万冊の書籍をすべて読破した人間のほうが、はるかに高レベルな知識人だろう。もちろん、読んだ本が身についているかどうかはまた別の問題だ。要するに、教養を身につけるにも、知的娯楽を得るのにも、実は金などいらないということである。現在はインターネットもあるから、中古品のパソコンを安く手に入れれば、意欲さえあれば、インターネットを通じて何の勉強でもできる。まあ、これは無料とはいかないから、やはり公立図書館ほどの貧乏人の友はいないが。
酒や女も含めた、遊興娯楽に使う金については、幾分かは若い頃の思い出にはなるだろうが、やはりほとんどは無駄金と言うべきだろう。まったく使わないのも無理だろうから、できるなら、使う金を自分でセーブするのがいいだろう。
さて、ここで本題に入ろう。いかにして財産形成をするかである。ギャンブルや犯罪以外の方法で、ある程度の資産を作るには、時間がかかるのは当然だ。しかし、真面目な人間なら、何の才能が無くても、ある程度の資産形成はできるのである。
あなたが、ある程度しっかりした会社に入社したなら、まず、そこで10年は勤めることである。そうすれば、銀行はあなたが住宅取得をするための貸付に応じてくれる。現在の世の中は、大不況の時代であるから、かつて作られた豪華な住宅が、格安の値段で売りに出されていることがある。そうした物件を根気よく探すのである。新築をしてはいけない。現在のような不況の時代の建築は、建築費を安く上げるための安普請で作るに決まっているからである。中古住宅ならば、かつては3000万円くらいしていたものが、1000万円程度で手に入る例もある。築20年だろうが、しっかりした物件なら、新築当時とほとんど変わらない状態であることもあるのだ。ところが、中古住宅販売は、築年数で値段が大きく下落していくから、物件の内容に比べて、格安の値段で売られる住宅が多いのである。つまり、あなたは、本来なら3000万円の住宅を、1000万円そこそこで手に入れることになる。
もちろん、銀行の融資を受ければ、それからはローンの返済が始まる。だが、1000万円程度のローンなら、利息も含めて、10年もあれば返済できるはずである。20歳で入社して、10年後に住宅を取得したなら、あなたはわずか30歳で一国一城の主である。そして、この家は、あなたに金が必要になった時には担保にもなってくれるのである。
借金が気になる? 借金も財産のうちである。あなたが借金をしているということは、あなたにそれだけの社会的信用があることの証明なのである。信頼性の無い人間に金を貸す人はいない。
そして、さらに十年後には、ローンも完済して、あなたは借金も無くなる。だが、ここで、もうワンランクアップをしてみよう。今度は、自分が住むための住宅ではなく、投資のための住宅を取得するのである。40歳なら、定年もまだまだ先だ。前と同様に、中古物件の掘り出し物を探し、それを見つけたら、思い切って勝負に出よう。前のローンを完済したことで、あなたの信用度は上がっているから、今回も銀行は快く融資してくれるはずである。もし、融資を渋るなら、他の金融機関を試してみよう。銀行よりも審査がゆるやかで、条件も有利な金融機関もあるはずだ。
だが、現在の不況の中では、今勤めている会社がいつ倒産するかもわからない。ローンを抱えたまま職を失ったら大変ではないか、と考える人もいるだろう。確かにそうだが、借金は、払える限度以上に払うということはない。払えなくなれば残りはチャラである。それが資本主義のシステムなのである。ローンの途中で失職したなら、今住んでいる家を売って、借金の返済に当て、また一からスタートするだけである。もともと裸で生まれた人間ではないか。裸でやり直すのに、何の文句があろうか。
こうして二つ目の不動産を手に入れれば、その新しく取得した住宅は他人に貸して家賃が稼げる。場合によっては、その家賃がローンの支払いを上回ることもあるだろう。ローン以下であっても、いずれにしてもあなたはそれほどの負担無しにローンの返済を続けていけるのである。そして、ローン期間が終われば、あなたはまったく借金は無く、二軒の家の所有者になっているわけである。
人間の苦労は、毎日の生活費をどうして手に入れるかということである。そのために、いやな宮仕えもしなければならない。だが、家賃不要の住宅があり、毎月の食費程度を稼ぎ出すもう一軒の家があれば、人生の主要問題は、もう解決したのである。
これは地味な生き方であり、才能のある人間にとってはお笑いぐさかもしれない。だが、世間の大半の人間は平凡人である。平凡な人間でも真面目に生きていけば、人生の末期には経済問題から解放された晩年が期待できるというのは、大きな希望ではないだろうか。
たとえば、太宰治という人は、頭の良さや文学的才能は抜群の人間である。だが、彼の人生と私の人生を取り替えたいとは、私はまったく思わない。いや、現在自分を恵まれていない運命だと思っている人間でも、主観的生活としては、太宰治よりもはるかに幸福だろう。それは、太宰治が自分で自分の不幸を選び取るような生き方をしてきたからである。平凡人の人生は、けっして不幸な人生ではないのである。案外と華やかな生活を送る有名人のほうが、精神的には不幸な生き方をしているかもしれない。
財産形成は、何千万人もの人間が毎日頭を悩ませている問題であり、確実な方法など無いが、その要点を言えば、「資本蓄積」「投資」を適切に行うことだろう。貯蓄だけでは、大きな財産の形成はできない。資本主義の社会においては、「投資」は財産形成の必要条件だと言えるだろう。それはもちろん、ギャンブルではある。馬券を買おうが証券を買おうが、宝くじを買おうが、すべてギャンブルなのである。しかし、そうした勝負を避けてばかりいては、満足な老後資金程度も残らないだろう。というのは、この社会は貧乏人のわずかな金を搾り取ろうとする金持ちでいっぱいだからである。つまり、広く薄く、カオス階級全体から金を取り上げて、上の人間に配分するようにこの社会の仕組みは作られているのである。聖書ではないが、「持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているわずかな物も奪われる」というのが、この社会なのだ。
第三章 ライフ・ステージ
ライフ・ステージとは、「人生の各段階」ということである。その目安は「卒業・就職・結婚・出産・退職」である。つまり、下記のように分けることができる。
① 誕生から学校卒業まで。~親に依存して生きており、また、様々な成長の段階である。この段階において大事なのは、「自分の可能性と適性を発見すること」と、「望ましい人生のために、自らを作り上げること」である。
② 就職から結婚まで。~親から自立し、社会人としてデビュー、そして、新しい家庭を築く段階である。この期間が短い人間、つまり早婚の人間と、長い人間、つまり晩婚の人間がいる。
③ 結婚から子供の誕生まで。~この段階は短いのが普通であるが、男にとっては、結婚以上に重大な意味を持っている。というのは、子供に対する責任を考えれば、子供が生まれた夫婦は、よほどのことが無いかぎりは、別れてはいけないと私は思うからだ。もしも別れるなら、子供が生まれる前か、子供がまだ両親の離婚の意味を知らない幼い間にするべきだろう。物心ついた後の、両親の離婚は子供の心に深い傷を残すはずである。アメリカが離婚大国であることは、彼らが子供に対していかに無責任であるかを示すものである。
④ 退職まで。~この期間を一つの会社で過ごす人間は現代では稀だろう。だが、なるべくなら、同じ会社で長く勤めるほうがいい。というのは、仕事というのは、長く勤めることで技術が向上していくものであり、それに伴って給与も向上するからである。もちろん、現代のような不確実性の時代には、新たな発明によって、これまでの技能が不要になる危険性は常にある。だが、次から次へと転職していては、変化に満ちた体験はできても、安定した財産形成はできないだろう。
⑤ 退職後。~この段階である程度の財産形成ができていれば、退職後は人生の最高の段階となる。仕事の義務や責任、束縛は無く、好きなことが何でもやれるからである。この段階で「ある程度の資産、健康、良好な家族関係」の三つに恵まれていれば、後は「生活を楽しむ能力」の有無が幸福な老後を約束するだろう。ただし、この時期になると、たいていの人間は長い間の苦労で健康が損なわれていることが多いので、若い時期から健康に留意して、良き老年を過ごせるように準備しておくのが良い。
以上のどの段階でも常に大事なのは、何よりも精神の健康である。特に若い頃は精神が敏感だから、年齢のいった人間なら耐えきれることにも耐えきれず、自殺などすることが多い。後でも述べるつもりだが、人間が考えることの大半は妄想であり、自殺という解決手段は、確かにすべての問題に一気にけりをつける爽快感はあるが、自殺した後でもう一度人生をやり直すというわけにはいかないのだから、この解決策は最後の最後まで取っておくのが良い。
第一章 能力開発
1 学習
より良い人生を送るためには、自らを優れた武器または道具として作り上げる必要がある。後の章の「心術」や「生活習慣」の部分でも述べるつもりだが、自己コントロールの能力は、人生を生きる上で、もっとも大事な能力だと私は思う。それは、この章の続く部分の「遊び」「身体能力」「対人関係能力」のすべてに必要な能力である。(ただし、ここで挙げる項目の中には、無理に向上させる必要性などない、と私が思うものもある。)
まず、ライフステージの中の、「被扶養者段階」にある青少年の場合は、学校での勉強をどうするかが大きな問題である。世の中には、勉強に関しては天才的な人間たちもたくさんいるし、その中には、授業で一度聞けば、数学でも物理でも容易に理解し、一度読んだ本は忘れないという強靱な記憶力を持った人間もいる。だが、そういう連中はほんのわずかであり、世の青少年の大半は私同様の凡人だろう。その凡人が、凡人なりに、どう勉強をすれば効果的かという話である。
まず、すべての基本から始めよう。
人間は、言葉に支配される存在である。誰でも、その人なりの生活信条や人生観があり、毎日の生活はその発現なのである。つまり、「言葉」が「生活」に変化するのである。
「どうせ何をやったってうまくいくはずがない」という考え方を「敗北主義」と言う。アメリカなどでは、男への悪口として「負け犬(ルーズ・ドッグ、またはルーザー)」という言葉をよく使うが、失敗した人間だから負け犬なのではない。敗北主義になった人間が負け犬なのである。(もっとも、アメリカでの「負け犬」は、単なる失敗者への悪口であることも多いが。)一度や二度の失敗・敗北では負け犬にならない。「負け犬根性」が染みついた人間を負け犬と言うのである。そして、それは、意識的・無意識的に「自分はどうせ負けるんだ」と常に自分に言っている人間のことなのである。それは、言葉が人間を作っているということだ。
ナポレオン・ヒルとかデール・カーネギーなどの「成功哲学」の基本は、「まず、自分の夢を具体的に言語化せよ」である。つまり、「人生で成功したい」ではなく、「いついつまでに何万ドル欲しい」というように具体的な言葉にするのだ。そして、それを自分自身に何度も言い聞かす。そのうちに、自分のその夢(または計画)に関係した情報がアンテナに引っかかるようになり、そして、毎日の生活も、その夢の実現に向けて少しずつ蓄積が始まる。たとえば、月給が20万円のサラリーマンが、1億円の金が欲しいと思うのは、かなり非現実的な夢だろう。だが、1000万円なら、実現可能な夢である。毎月の給料のうち10万円を貯金していくだけでも、10年後には1200万の貯蓄になる。そして、1000万円の元手があれば、それを投資して1億円にするのも不可能ではない。しかし、大半の人間は、貰った給料のほとんどを無駄遣いして、何一つ蓄積しないままで時間を過ごしていく。そして、10年後にも、同じく貯蓄ゼロの生活になるのである。
これは金の話だが、勉強も同じである。
「具体的な計画を立てよ」というのが、生活のコントロール、そして自己コントロールの出発点だ。その計画は、「東大に入りたい」というような漠然とした言葉ではなく、「東大に入るために、これこれの知識と能力を身につけよう」という具体的なものでなければならない。センター試験なら何点、二次試験なら何点という計画を科目ごとに立てる。それが成功するとはもちろん限らない。だが、何も計画しないままで漫然と勉強することに比べたら、はるかに成功可能性は高いはずである。模擬試験ごとに、計画の進捗状況は分かるから、軌道修正などは当然あってもいいのだ。
具体的な計画とは、単なる夢想や願望を明確な言葉にするということである。
より良い人生を送るための基本的な考え方として、「時間の貯蓄」という発想を説明しよう。時間はもちろん貯蓄できない。だが、別の形で貯蓄することはできるのである。たとえば、あなたが1日のアルバイトをして5000円の給与を得たとしよう。それは、あなたの1日という時間が、5000円という具体物に変化して貯蓄されたということだ。では、その1日という時間は無駄に消えたのか? もしもそのアルバイトが苦痛なだけの仕事ならば、そう言えるかもしれない。だが、そのアルバイトの職場に、可愛い女の子でもいて、その時間が楽しかったなら? あなたは、1日を楽しく過ごした上に、5000円という金まで手に入れたのである。いや、苦痛なだけの労働でも、若い頃の時間を(金に限らず)別の形で貯蓄することが、将来の人生において、大きな意味を持つのである。
あなたが学生ならば、学校での勉強が終わって自宅に帰り、そこでも家庭学習をするのは辛いと思うだろう。だが、その家庭学習の3時間、4時間が、私の言う「時間の貯蓄」なのである。一日のうち1時間でもいい、将来の自分のために、意義あることに使いなさい、ということである。
もちろん、広い意味では、小説を読むのも漫画を読むのも、テレビを見るのも、意義が無いことはない。だが、そういう安逸の時間は、やはり時間の貯蓄としては薄すぎるのである。あなたがいくら小説を読んでも、将来文芸評論家や作家になれるわけではない。そうした仕事に就く人たちは、また、彼らなりの修行をしているのだ。それも彼らの「時間の貯蓄」だったのである。
一日に、英単語一つでもいい。毎日覚えていけば、10年後には3650単語を覚えることになる。それを17歳くらいから始めたら、27歳の頃には、海外で生活するのに十分な語彙力を身につけるわけだ。もちろん、「たかが3000語程度で!」と馬鹿にする人もいるだろう。だが、中学程度の英文法力と、3000語程度の語彙力があれば、英語圏での日常生活は可能なはずだ。大学になど行かなくても、必要十分な英語力を身につけることは難しいことではない。のんべんだらりと大学に行った人間と、「時間の貯蓄」をしてきた人間と、どちらがより良い人生を送れるだろうか。
2 遊び
遊びにおける能力開発という点では、私には本当は発言資格は無い。何しろ、生まれつきの運動音痴で、運動会の徒競走ではいつもビリだった人間である。なまじ顔が良かったものだから(これは私の主観ではなく、たいていの人はそう言ったのだが)、そのみっともなさは私の主観では言語に絶していた。学生時代の遊び事は、たいていはスポーツだから、私が遊び下手なのは言うまでもない。トランプや麻雀などの頭脳ゲームも、あまり強くはなかったから、頭もたいしたことは無かったのだろう。
私が言えることは、遊びが上手になる必要は無いが、どんな遊びでも参加できる程度には知っていたほうがいいということである。碁も将棋も麻雀も知っていたほうがいいし、スキーもスケートもゴルフも野球もできたほうがいいということである。そうすれば、メンバーが足りない時に、参加できる。もちろん、こちらは下手クソなのだから、その遊びで活躍することは無いが、その代わりに、他の人間に活躍の機会を与えて、彼もしくは彼女に幸せな時間を贈ることができる。これも陰徳というものである。
下手だろうが何だろうが、機嫌良く、楽しく遊び、他人を良い気持ちにさせることができるなら、たかが遊びでまで勝利至上主義を振り回して他人を不愉快にする「遊び上手連中」よりも、はるかに価値ある存在だろう。
音楽という遊びもあるが、これも私は音痴に近いので、発言できない。音痴でも聞いて楽しむことはできるから、そうした遊びは鑑賞する立場にとどまっているだけでいいだろう。ついでながら、苦手なスポーツでも、私は見るのは好きである。「スポーツは見るものじゃなく、するものだ」という傲慢な発言をするスポーツ強者もいるが、見るだけでも十分に楽しいのだから、わざわざ自分でするまでもないのである。
絵を描くのも遊びの一つになることがある。これも私には才能が無いから、発言資格は無いが、才能があろうがなかろうが、絵を見たり描いたりすることが楽しければ、それはそれで結構である。俳句や短歌などを趣味とするのもいいし、書道などもいい。
だが、遊びが肯定されるのは、「本業」がきちんとうまくいっている場合である。遊びに淫して、本業が疎かになっている素人画伯の類は多い。多少上手な絵が描けようが、個性的な絵が描けようが、本業が半端な人間は偉くもなんともない、というのが私の考えだ。相撲取りが絵が上手だろうが歌が上手だろうが、相撲が弱ければ、価値は無い。芸人が多少上手に日本画を描けるというので、タレント業をやめて「画伯」ぶっているのなども嫌みなものである。
もちろん、遊びが遊びの範疇にとどまっていれば、結構な話である。
「独楽」という漢字は「こま」のことだが、独楽の回転が落ち着いて「澄んだ」状態になっているのは、まさしく「独りを楽しむ」という状態に見える。このように、他者の目とは無関係に、物事に夢中になっている状態は、まさしく「遊び」の状態である。この境地になれば、それが仕事でも、それは遊びと同じなのである。
3 身体能力
前の「遊び」の項目から分かるように、私は、身体能力は著しく劣っている。要するに、運動神経がゼロに近い。ボーリングなどでは、100点も出せないし、2回に1回は溝にボールを落っことす人間である。
これは、小さい頃に運動をしなかった結果ではないかと思っているのだが、ただの遺伝かもしれない。しかし、後で「健康」の項目を長々と書くつもりだが、現代人にとって(あるいはいつの時代の人間にとっても)、大事なのは運動能力ではなく、健康だというのが私の信念なのである。人より少し速く走れようが、少し高く跳べようが、どれほどの意味があるのか。走り高跳びで1メートルしか跳べない人間と、1メートル50センチ跳べる人間とで、生きていく上で何の違いがあるのか。それらは、すべて「スポーツ」という土俵においての意味しか無いのである。確かにスポーツが学校生活の中で持つ意味は大きい。スポーツマンは学校の王侯貴族なのである。だが、社会に出たら、スポーツマンの存在価値など、アフターファイブの遊び事の場にしかない。仕事でも家庭でも、運動能力など不要なのである。
まあ、しかし、人生の一時期だけでも輝く時期があった連中は幸せかもしれない。
とりあえず、ここで私が言いたいのは、人間、健康でありさえすればそれ以上言うことは無いのであり、身体能力も運動能力も、実社会ではほとんど無用の能力だということである。したがって、それを向上させる必要などないし、そのノウハウが知りたければ、図書館で運動関係の本を探せばよいということだ。
4 対人関係能力
対人関係能力を大別すればA 無意識的部分と、B意識的部分に分かれる。Bの意識的部分とは、「計算と演技力(弁舌能力を含む)」である。Aの無意識的部分とは、「自然な人間的魅力」である。Aに恵まれている人間なら生きていくのに苦労は無い。だが、通常はBの修練を通して、それがAに移行していく例が多いかと思われる。ここでは、Bを中心に述べるが、その前に、一般的に人間的魅力とは何か、あるいはどういう人間が魅力的な人間かを見ておこう。
まず、外貌は大事ではあるが、それはここでは論じない。私が考える魅力的な人間の条件・資質は次のようなものだ。
① 善良さ
② 他者への愛情(優しさ・思いやり)
③ 正義感
④ 勇気
⑤ ユーモア感覚
⑥ 謙虚さ
⑦ 本質的な賢さ
実は、これは私がフィクションの主人公で一番好きな、「未来少年コナン」の性格・資質と思われるものを列挙したものである。フィクションの主人公なら誰でも魅力があるわけではない。特に、最近のフィクションの主人公は「面白いけど厭な奴」が主流だから、ここで挙げた資質は、昔風のヒーローの特徴と言えるかもしれない。
フィクションの主人公なら、上に挙げた以外に、何かの特殊能力が必要だろうが、現実人生の人間は上に挙げただけで十分以上である。問題は、①、③あたりと⑦が一致しづらいところである。つまり、賢い人間なら、この世が善良では生きていけないことにすぐに気づいて、自分の善良さを棄てて、社会に対応していくはずだからである。しかし、これらの資質が現実でも共存できると仮定して話を進めよう。
「善良さ」がなぜ魅力的か。これは言葉の定義次第だ。「善良」とは「良い」ことなのだから、悪いはずがない。周囲の人間がその人に接して「良さ」の影響を蒙るなら、その人を悪く思うはずはないのである。ただし、「退屈な人間」と思うことはありうる。刺激的かどうかならば、悪人のほうが刺激的には決まっているのだから。
「他者への愛情・優しさ・思いやり」が魅力的なのは論証不要だろう。我々は自分に愛情を向ける存在を愛するものである。愛されない人間は、たいていはその本人が自分しか愛していない人間であることが多い。
「正義感」があることも、魅力の条件である。我々の生きるこの世界は、様々な不正に満ちている。弱者を虐げる人間への怒り、すなわち正義感は人間として当然の資質だ。
「勇気」は、悪と戦うための条件である。
「ユーモア感覚」とは何か。それは高揚しすぎて足が地上から離れそうになった心を地上に引き戻すことである。自分の人間的な弱さを自覚し、笑うことだ。そうしたバランス感覚の無い「シリアス型・緊張型」の人間は魅力が無いものだ。
「謙虚さ」は「ユーモア感覚」と同様に、バランス感覚である。傲慢さとは自己の過大評価であり、その本人の本質的な頭の悪さを示してもいるが、それはまた、他人への思いやりの無さの現れでもある。
「本質的な賢さ」とは、学校の成績などとは無関係な賢さであり、現実人生の様々な問題に正解を与える能力を持っていることである。東大出の官僚のほとんどは、そういう意味では賢くないようだ。
善良で、謙虚で、ユーモア感覚があるだけでも、この世界では十分に魅力的な人間だろう。その上に、正義感と勇気があれば、ヒーローにもなれる素材である。ただし、「ユーモア感覚」には微妙な部分があり、「意識的に自ら笑いを作る」人間と、「見ていて何となく楽しい人間」のうち、魅力的なのは、実は後者である。前者はただのお笑いタレントであり、彼の作る笑い自体は魅力があっても、その当人が魅力的なわけではない。
では、以上に述べた性質や能力は、意識的な努力で身に付くものだろうか。半分はそうだろうし、半分は、意識的な努力とは無関係に身に付くものだろう。しかし、たとえば、善良さなどというものは、無意識に身に付くものではあるだろうが、幼い頃の読書の影響や、身近な人間の影響が大きいのではないだろうか。つまり、無意識的ではあっても、そうなるだけの原因はあったと思われる。だが、人間は、家族を選んで生まれるわけにはいかないから、幼児期の周囲の人間の影響をここで論じても仕方がない。
ここでは、前にも書いたように、人間の性格や行動は、その人間の生活信条の現れであるという観点から、対人的能力をいかにして養成するかを論じてみる。
前にあげた「人間の魅力」を大きくまとめると、
1 善良さ
2 賢さ
3 ユーモア
の三点に絞れそうである。
このうち、個人的な努力が効果があるのは2と3だろう。特に、ユーモアは修練による習得が可能な能力だと思われる。
しかし、賢さの養成とか、ユーモア能力の養成については、ここではなく、「心術」の項目で扱うことにする。
(仮題)「生活の技術」
初めに
第一章 能力開発
第二章 財産形成
第三章 ライフ・ステージ
第四章 メンタル・ヘルス(心術)
第五章 日常の習慣
第六章 健康法
第七章 事故への対処
第八章 社会生活の必要知識
初めに
「生活の技術」について書いてみたいと思ったのは、まだ私が二十代の頃だった。その頃の私は、毎日の生活をどう生きればいいのかに悩んでいたのだ。それも、ごく些細な問題が私を悩ませた。たとえば、私は、世間話が苦手で、他人との会話の輪の中に入ることがなかなかできなかった。それというのも、その会話のほとんどの内容が私にとってはまったく興味の持てないもので、他人の冗談は、私にはまったく笑えないものだったからである。面白くもない冗談を、いかにも面白そうに笑うというのは、人づきあいの基本である。だが、もちろん、悪いのは私の方であり、もしも努力すれば自分を鍛えることもできたのだから、結局私は、「お高くとまっていた」にすぎない。しかし、世の若者の中で一定割合の人間は、こうした対人関係の悩みを持っていると思う。それも、本を読むのが好きで、人間とのつきあいより本とのつきあいが長い「ブッキッシュ」な若者がそうなりがちだと思われる。
その頃、森鴎外の「智慧嚢」という本を興味深く読んだことがある。これは、人間関係についてのドイツの通俗ハウツー書を鴎外がアレンジして訳した本だが、その内容にはなかなかうなずけるところがあった。しかし、それ以上に、鴎外がこの本を訳したのは、鴎外にも人間関係での悩みが深かったのだな、と思われて興味深かった。だが、人間関係は、生活の一部分であり、生活にはそれ以外の部分もある。たとえば読書や趣味の時間などだ。それに、運動能力や体力、健康の向上の秘訣、精神能力の向上の秘訣など、人間関係だけではなく、「生活全般の技術」について書いた本があったら、世慣れない若者にとって、大きな救いになるのではないか、というのがその頃私が考えていたことである。
現在の私は50代後半にさしかかっている。特に珍しい人生経験も無い平凡な人間だが、たいていの人間は私と同じように平凡な人生を送るはずである。ならば、そのような人生を幸福に送る「生活の技術」を、まだ人生をあまり知らない若者に贈るのは、無意味なことではないだろう。実際、私は持って生まれた性格や能力の割にはかなり幸福な人間だと思う。もちろん、若い頃は、自分の人生の未来について様々な夢想をしていたが、それらのほとんどは、生来の怠け癖と対人関係の欠陥のために実現しなかった。しかし、もともとそれらの夢想は夢想でしかなく、そうした夢想を現実的可能性に置き換えていくか、あるいはあきらめるのが「良い人生」の大事な要素なのである。つまり、若者には自分や周囲や社会全体についての正しい遠近感が無く、それを身につけるのが成熟なのだが、それは一面では自分の野心や可能性を捨てることにもなる、ということである。野心に賭ければ、あるいは思いがけない大成功を収めることもあるだろうが、また大失敗の可能性もそれ以上にある、ということである。あなたが勇敢な(それとも無謀な)人間なら、前者の英雄的人生を目指すのもいいだろう。そのあたりは、本人の意志次第だ。いずれにせよこの一文が、人生に不慣れな青年の助けになれば幸いである。
これまでも多視点で人物評価を相対化することが多いストーリーだったけど、見た目まで相対化して、しかもそれぞの頭にあるイメージの具体化とは、実現できる描写力に恐れいった。冒険者ガイドブックやデイドリームを読むと 普段からこういうこと構想されてるんだなーとまた感心しますが。
他の作品ではまず見られないエピソード、映像化を楽しみにしておりました