ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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3 心術の1「主体性」
我々の人生が不幸であるのは、その人生が不如意であるからである。つまり、意志や意欲が存在しながら、その意志や意欲が満たされない場合に、我々は自分を不幸に感じるわけだ。つまり、不幸とは不満足な状態のことであり、幸福とは、欲求や意志が満たされた状態のことである。したがって、幸福を得る手段は二つ。一つは意志や欲求の求めるものを得ることである。もう一つは、欲求や意志そのものを捨てることである。後者が仏教的な行き方だ。いつでもどこでも欲求の対象を獲得するということは不可能だから、後者の生き方が確実な幸福への道に見えるが、欲求が無く、何も得ないならば、それは幸福とも言えない。もちろん、金銭や地位や女色などを捨てて、知識欲だけを残すという生き方もある。これがエピクロス一派の「快楽主義」だ。エピキュリアンの快楽主義は、世間で誤解されているような世俗的欲望の肯定ではない。
仏教でも禅宗などは、特に欲望を否定する思想ではない。禅宗においては、要するに、自分を迷わすものを捨てて、心が自由であればいいのである。そして、心が自由だという実感、心が解放されているという実感は生の喜びの土台である。
「随所に主となる」
これが、心術の目標である。つまり、どこにいても周囲に惑わされず、心が自由で何の恐怖も不安も無い状態、日常を平安な落ち着いた心で生きていくことが最高の心境だ。
我々は自分の仕事、家族、友人関係、将来の不安など、様々な問題を抱えて生きている。だが、それらはすべて「外物」である。つまり、外物によって心が囚われた状態が悩みの状態だ。悩んでいるとき、我々は自分の人生の主ではない。外物に支配された奴隷だ。
屁理屈を好む文化人なら、喜びの状態でも、外物に支配されているではないか、と言うだろう。むしろ逆である。奴隷であっても、現在の状態から喜びを得ているならば、彼はその場の主なのである。この説明は難しいが、喜びとは最善の幸福の状態であると仮定するなら、喜びの状態においては、主も客も無意味になるとでも言っておこう。
では、いかにして外物の支配から心を解放するか。それは
「汝の手に堪ゆることは力を尽くして是を為せ」
という聖書の中の言葉が教えてくれる。
つまり、我々が不幸、不自由であるのは、だいたいの場合、自分の手に及ばないことを制御しようとしているからである。たとえば、愛する人に愛されないという悩みなどがその代表だ。他人に愛されることは、自分の力でどうにかなることではない。相手に好かれるために、一般的には大抵の人に愛されるキャラクターを作ったところで、相手がそのキャラクターを愛するかどうかは分からない。
昔、コン・タロウという人の漫画で読んだ、私の好きなジョークがある。高嶺の花にあこがれて悩んでいる男に向かって、その友人が慰めて、「君はあきらめる必要はないよ。だって、その人は趣味が悪いかもしれないじゃないか!」と言うのだが、実際、世の中には、何でこんな素晴らしい女性(男性)が、こんな最低の男(女)とくっつくんだ、という例は多いのである。
だが、そもそも、人を愛することはこちら側の問題だが、相手が自分を愛するかどうかは、相手任せにしかならない。こちらの努力ではどうにもならないものがある。
ならば、できる努力はするが、努力してもどうにもならないことはあきらめる、というのが賢い生き方なのである。そして、実は人生の悩みの多くは、自分の努力ではどうにもならないことを悩んでいるのである。たとえば、仕事でベストを尽くすことは努力の範囲だ。だが、その仕事がどう評価されるかは、自分の努力でどうなるものでもない。
勝海舟がうまいことを言っている。江戸幕府と明治政府の二君に仕える生き方を福沢諭吉に批判され、彼からその批判の文章を世間に公表していいかと言われた時に、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと。」と言って、どうぞ勝手に批判しなさい、と答えたのである。つまり、ある行為を「やるかやらないか」は私のすることであり、それについて他人がほめようがけなそうが、俺には関係ないよ、ということだ。彼のこの言葉こそ、人生の達人の言葉だろう。
基本的に、不自由とは、自分の手ではどうにもならないことを言うのだから、それはあきらめるしかない。実に当然の話なのだが、これが分からない(分かっていても納得できない)から、たいていの人は不自由がそのまま不幸につながるのである。つまり、不自由とは運命的に我々の生の半分であり、完全な自由などどこにも存在はしないのだが、その事実が受け入れきれずに自分で自分を苦しめているのが世の大半の人間なのである。
我々が問題とするべきことは、その自由と不自由の範囲が納得できる範囲かどうかだけである。
そもそも、我々が求める自由とは、まるで夢想的なもので、子供などは物理法則に反する自由をすら欲しがるものだ。漫画やアニメの超人は、我々が持ちたいという自由の実現者であり、我々の代わりにその自由を行使してくれる存在なのである。
それほど、我々は自分を取り巻く不自由に、息がつまるような束縛感を感じているということである。
そのような自由へのあこがれが、芸術創作の原動力でもあるが、しかし、我々の日常生活は、この不自由とのつきあいでもある。
我々はまず物理法則に縛られ、社会の倫理道徳に縛られ、法律で行動を制限され、仕事で求められる規範に縛られる。家庭においては、家庭秩序を維持するための決まり事に縛られ、友人との交際では、「真の自分」を知られずに、そう思われたい自分として見てもらうための努力に苦労する。他人と交わす言葉の一言一言に、自分がこういう発言をしたらどう思われるか、と悩み、そう悩む自分に苛立つ。
つまり、我々の生活とは、雁字搦めの不自由なのである。普段はそれを意識しないから、平気でいられるが、それが気になりだすと、精神がおかしくなりかねない。
つまりこれが「随所に主となる」の正反対の状態なのである。ここまで言えば、なぜ「随所に主となる」ことが心術の目的地であるかも理解されるだろう。
では、いかにすれば「随所に主となる」ことができるか。修行によって、である。私はもちろん、そうなれてなどいない。しかし、その目標を持つことで、自分を苦しめる物事はすべて自分にとっては本質的ではないという「見切り」をつけることが早くなった。そして、悩むことも少なくなった。
ここで、最初のあたりで述べたことに戻る。
すべては意識することから始まるのである。問題を見つけだせば、その問題は半分解決したも同然なのだ。一番の問題は、問題の所在に気が付かないことなのである。精神医療でも、患者自身が問題の所在に気が付けば、その病気はほとんど解決するのである。
4 心術の2「ユーモア」
ユーモアには、①「自分自身がユーモアをもって外部世界を眺めること」と、②「他人を笑わせる能力」の二つの面がある。
前者はある意味では後者より大事だが、社会生活で重視されるのは後者である。前者は内面的ユーモア、後者は外部化されたユーモアである。前者は精神的な生きる支えだし、後者は社会生活を容易にする。
まず、ユーモアとは何かというと、物事の不調和を機嫌よく、好意的に眺め、それを楽しむ姿勢だと言っていいだろう。これが厳しい批判の目で眺めた笑いだと、サタイアなどの冷笑となる。
いずれにせよ、物事の不調和が、ユーモアの対象、つまり「笑われる存在」である。失敗、失策、破綻、異常などがそれだが、簡単な例を挙げると、我々は人が転ぶのを見ると、思わず笑う。それはなぜか。それは、転ぶことによって人間が社会生活で維持している威厳を喪失するからである。こうした何らかの「地位低下」が笑いの対象となる。もちろん、何の地位低下とも無関係に、赤ちゃんが笑うのを見ると、我々も嬉しくなって微笑むが、その笑いはユーモアとは別である。これはただの笑いの伝染だ。だが、「笑いの伝染」は、後の「他人を笑わせる技術」と大きく関係するので、覚えておこう。
相手の地位が低下したのを見て我々は自分が心理的に上位に立ったことを知り、機嫌が良くなる。それが笑いである。つまり、笑いとは、優越感と劣等感の力関係から生じてくる。自分が相手に優越していることを確認して気分がよくなるのだから、笑いとはもともとはあまり上等な心理ではないのである。たとえば、知恵遅れや精神病者を笑い物にするのは、昔は当たり前のことであったようだ。また、ピエロや宮廷道化師の奇妙な化粧や扮装は、周囲の人間より自分が下であることを示すためのものだったはずだ。
ただ、笑いの対象が、社会的な上位者である場合もある。つまり、金力や権力では上位だが、人間としては劣った存在であるなら、それは笑いの対象になるのである。この種の笑いは社会的な武器にもなる。いわゆる風刺文学などがそれだ。
さて、論文的な記述が続いたが、こうした笑いの本質の考察から何が生まれてくるか。それは、まず、笑いは相手の弱点や欠点の観察から生まれるということである。だから、すべてを好意的に見る、善良な性格の人間は笑いのための発見はできない。むしろ性格の悪い人間のほうが笑いの造り手には向いているのだ。ただし、また、笑いの作り手は、自分自身を笑いの対象にするということもある。むしろ、職業的なコメディアンは、そのほうが普通だ。ただし、この場合でも、やはり自分を笑うべき存在とするためには鋭利な考察が不可欠だろう。それもなく、ただ奇妙な扮装や顔面の変形、意味不明の奇声で笑いを取ろうとする低レベルの芸人もいるが、そうした幼児レベルの笑いも確かに一定の需要はあるので、無価値だとは言えない。昔のジェリー・ルイスや一時期の桂枝雀などの笑いにもそういうところがあった。それらは幼児的な笑いではあるが、しかし、「笑いの本質は不調和にある」という本質から外れてはいないのである。チャップリンだって、あのルンペン紳士の服装やペンギン歩きという分かりやすい笑いから出発したのだ。
では、笑いの対象としたい相手に欠点や不調和が見つからない場合、どうするか。ここで登場するのが「誇張」である。相手の些細な特徴を大袈裟に表現して笑い物にするのである。子供の世界でも、相手の言葉や仕草や表情をわざと歪めた形で真似して笑い物にするということがよく行われる。
そういうふうに笑い物にされるということは、自分の価値を下げられたことだから、笑い物にされた人間は屈辱と不快感を覚えるわけで、それがもちろん相手の狙いである。柳田国男が「笑いはもともと武器であった」というのは、こうした心理攻撃のことを言っているのである。
さて、社会に出て人と交わる際に必要な能力が、他人を笑わせる能力である。特に、人前で話す商売の人間にはジョークを言う能力は大事だ。しかし、笑いを生む能力は、必ずしも優れたジョークを案出したり、話したりする能力だけから生まれるものではない。
ここで、ずっと前に書いた「笑いの伝染」について書こう。これはNHKのある番組で放送されていたことだが、人間は無意識に自分が対面している相手の表情を真似ているという。真似ているというよりは、自然と同じ表情になる性質があるらしい。これは、長い間夫婦をやっていると表情が似ることや、親子や兄弟同士は表情も仕草も似てくることなどからも事実であることが分かる。私も、自分が何かの仕草や表情をした時に、相手が少し後で同じ表情や仕草をするのを目撃した体験が何度かある。
ということは、相手を笑わせたい場合は、まず自分が笑顔になればいいということである。あまりにも単純な話であるが、実はこれが人間関係の一番の知恵なのである。
加えて言うなら、我々は笑顔であると愉快な気分になり、苦虫を潰した顔をしていると不愉快な気分になってくる。笑顔を作りながら怒るという器用なふるまいはできないのである。人間とはそのように単純な機械的存在なのである。誰かと一緒にいるときに気分が良ければ、我々はその相手に好意をもつものである。だから、笑いのある人間関係は、当然ながら円満な人間関係である。そしてそういう関係を作る大前提は、「こちらから笑顔を作る」ことなのである。いや、何も面白いことを言わなくても、常に笑顔であるというだけでも、良好な人間関係は作れると極論してもいい。あまりにも単純な理論なので、信じて貰えないかもしれないが。
確かに、一流の芸人の中には、バスター・キートンのように、悲しげな顔で他人を笑わせるという人間もいるし、一流の落語家は、自分から笑うということはしない。とぼけた顔で面白いことを言うものである。しかし、それは、我々がそれを「あらかじめ承知している」から笑えるのである。
初対面の、あるいはお互いに深く知らない間柄の人間同士の対面で、相手がむっつりと不愉快そうな顔をしていれば「こいつは俺に(私に)敵意を持っている」という判断をするのが当然なのである。だから、アメリカ人は、初対面の相手にはまずジョークを言うという。借り物のユーモアだろうが何だろうが、笑いは大事だと彼らは思っているということだ。だが、笑顔にまさる武器は無い。私は、普段の顔そのものが笑顔である人間を数名知っているが、彼らを嫌う人間はほとんどいなかった。その反対に、笑顔の少ない人間(私もその一人であるのだが)は、たいていが嫌われていたものである。
笑顔だけで十分だ、ということが信じられないなら、ジョーク集でも暗記して「面白い奴」になるのを目指せばいい。しかし、そういう作り物の笑いというのは、案外と長持ちしないものである。
もしも、ジョークの使い手を目指すなら、笑いの基本は「誇張」「ナンセンス」「卑小化」にあると覚えておけばいい。
「卑小化」とは、要するに、自分より下の存在を見ることで、人間は安心して笑うということだ。我々が自分の飼っている犬や猫を可愛く思うのも、結局は彼らの幼児並みの知能を愛するからではないか。相手への畏敬の念からは、けっして笑いは生じない。我々が傲慢な人間を嫌い、謙遜な人間を愛するのも、自分との相対的な位置関係の上下によるものである。つまり、わざと自分を低く見せることで、自分を笑いの対象とすることができるのだ。自分を格好よく見せたい気持ちが捨てられなければ、笑いは作れない。「誇張」にしても、何を誇張するのかと言えば、対象の欠点の誇張なのである。つまり、対象を強引に「低める」のである。どんな美男美女でもオナラもすれば排便もする。価値低下が不可能な存在など無いのである。フランス革命の際には、マリー・アントワネットの情事を題材とした猥褻図画が出回り、王家の威信低下の材料となったのだが、これも「卑小化」による心理的攻撃なのである。
笑いの対極にあるのが、儀式や贅沢品による「荘厳化」である。王家や貴族の威厳のためには、庶民には絶対に不可能な豪華な服装が必要だったのである。そうした飾りを取り除けば、社会の上層部にいるのは、庶民と同じ人間たちにすぎない。(こうした「普通の人間である王族」を見事に描いたのがスタンダールの『パルムの僧院』である。)
笑いの中で「ナンセンス」とは、「意味」への攻撃である。ここでは笑いの対象となるのは、個人ではなく、人間世界の意味の体系なのだ。我々は理性的に生きる限り、常に意味の体系に支配されている。そして、そのことに無意識の圧迫を感じているのだが、ナンセンスはそうした意味の体系を破壊することで、我々に精神の自由の快感を与えてくれるのである。したがって、ナンセンスの笑いは、笑いの中でも高級なものであると同時に、世の中にはナンセンスの面白さが理解できない人間も多数存在しているのである。
「誇張」は、いわば「火の無いところに煙を立てる」類の笑いである。勘の鈍い人間でも理解できるように大袈裟に表現するのが誇張なのだから、笑いの手法としては低レベルではあるが、また、小児でも分かる、つまり伝達対象範囲が広いという利点もある。
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