ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
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いや、そこは「冤罪」というものの存在を教えろよ。それが大人の義務だろう。
(以下引用)
人生何ターン目ですか?と聞きたくなるほど聡明な男児に
「◯くんは大きくなったら弁護士になって、わたしが逮捕された時に助けてください」
と頼んだら
「悪いことをするつもりなの?悪いことをしない努力をしたらどう?」
と言われ、おっしゃる通りですだった
(以下引用)
人生何ターン目ですか?と聞きたくなるほど聡明な男児に
「◯くんは大きくなったら弁護士になって、わたしが逮捕された時に助けてください」
と頼んだら
「悪いことをするつもりなの?悪いことをしない努力をしたらどう?」
と言われ、おっしゃる通りですだった
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何年前のものか知らない(たぶん、7年くらい前か)が、メモ書きしたものの中に、当時の大リーガー数人の打撃の長所短所を書いたものがあって、それが的を射ていたようなので、転記する。
(昨年のMVP)ゴールドシュミット× 構えが遅い。振り遅れる。
大谷 〇 立ち姿が自然。無駄な動きがない。バットの弧が物凄く大きい。
吉田 × 始動時に足を上げるのでタイミングに問題あり。打撃フォームに一貫性がない。
トレー・ターナー 〇 自然体。ダウンスイング。弧が大きい。(注:ダウンスイングで弧が大きいことは、必ずしも良いことではない。)
リアルミュート × 動きにムダがある。オープンからクローズになる。だから長打にならない。
その後の成績を見ると、ゴールドシュミット、リアルミュートは成績が劣化したようだ。ターナーは不明。吉田もメジャーでは通用しなかったと言える。
(昨年のMVP)ゴールドシュミット× 構えが遅い。振り遅れる。
大谷 〇 立ち姿が自然。無駄な動きがない。バットの弧が物凄く大きい。
吉田 × 始動時に足を上げるのでタイミングに問題あり。打撃フォームに一貫性がない。
トレー・ターナー 〇 自然体。ダウンスイング。弧が大きい。(注:ダウンスイングで弧が大きいことは、必ずしも良いことではない。)
リアルミュート × 動きにムダがある。オープンからクローズになる。だから長打にならない。
その後の成績を見ると、ゴールドシュミット、リアルミュートは成績が劣化したようだ。ターナーは不明。吉田もメジャーでは通用しなかったと言える。
清沢冽(正しくはサンズイ)の「暗黒日記」の中の次の一節が、論法として面白い。
(東京市の町会での慰労宴の)その席上で、文部省の役人の話。
「ガダルカナルで転進したことにつき、あまりに軍の弁解がすぎると田舎の人々が言っている由。日本人をどうして信頼できぬか」と。
凄い論法である。「同じ日本人だから、『日本人』の言うことはすべて信じろ」という論理である。
「対象極大化論法」とでも名付けようか。問題の対象が一個人や一組織でも、それを日本人全体の問題(責任問題)とするわけだ。
ちなみに、常識だが「転進」とは自軍の退却や逃走を言う。
(東京市の町会での慰労宴の)その席上で、文部省の役人の話。
「ガダルカナルで転進したことにつき、あまりに軍の弁解がすぎると田舎の人々が言っている由。日本人をどうして信頼できぬか」と。
凄い論法である。「同じ日本人だから、『日本人』の言うことはすべて信じろ」という論理である。
「対象極大化論法」とでも名付けようか。問題の対象が一個人や一組織でも、それを日本人全体の問題(責任問題)とするわけだ。
ちなみに、常識だが「転進」とは自軍の退却や逃走を言う。
1:カネは力である。
2:力は正義である。
3:ゆえにカネは正義である。
この3つのどれかを状況に応じて使えばいい。
なお、力は「暴力」と言ってもいい。
その「暴力装置」には
警察
軍隊
暴力団
などが露骨なものであり、またしばしば法律も暴力装置となる。
たとえば、「治安維持法」は「ほとんど根拠なしで」どのような人間でも拘束し、拷問し、殺害できた。
マスクが「DOGE」の肩書で官庁を襲撃した際には、そのDOGEの権限範囲が不明だったにも関わらず、政府省庁の書類(電子記録)を強引に押収した。その中にはどのような「犯罪の証拠」が入っていたか、今では不明である。つまり、「力は正義である」の実例である。
2:力は正義である。
3:ゆえにカネは正義である。
この3つのどれかを状況に応じて使えばいい。
なお、力は「暴力」と言ってもいい。
その「暴力装置」には
警察
軍隊
暴力団
などが露骨なものであり、またしばしば法律も暴力装置となる。
たとえば、「治安維持法」は「ほとんど根拠なしで」どのような人間でも拘束し、拷問し、殺害できた。
マスクが「DOGE」の肩書で官庁を襲撃した際には、そのDOGEの権限範囲が不明だったにも関わらず、政府省庁の書類(電子記録)を強引に押収した。その中にはどのような「犯罪の証拠」が入っていたか、今では不明である。つまり、「力は正義である」の実例である。
加害者少年を罪に問うことも難しいだろうし、損害賠償を請求するのも難しいだろう。問題は、高い建物の屋上(か?)から固い物体を投げた場合の事故の危険性をこの「犯人」が本当に認識していなかったかどうかだ。これは証明のしようがない。だが、小学校中学年以上なら認識していないはずはない、と私には思える。そして「自分が人を殺す可能性」をさほど大きなことと思っていなかった可能性が高いと思う。漫画やアニメでは人がどんどん殺され、手足が千切れ飛んでいるではないか。つまり、こうしたフィクションは「15歳未満禁止」にするのが妥当だろう。そして、15歳からは、殺人や傷害ははっきりと犯罪として加害少年を扱うことだ。15歳未満の子どもについては「親の教育責任放棄」ということで親に賠償責任を持たせることでいいのではないか。
(以下引用)
時間が経つと泥団子から水分が抜けて固くなる(ピアノ / PIXTA)※写真はイメージ
時間が経つと泥団子から水分が抜けて固くなる(ピアノ / PIXTA)※写真はイメージ
© 弁護士JPニュース
4月中旬、熊本県熊本市内のマンション駐車場で、男性が落下物の直撃を受け重傷を負った。警察は事件の可能性も視野に捜査を進めていたが、今月16日、落下物は同マンションの高層階に住む小学生が投げた泥団子と判明したことが報道された。
当初、児童は泥団子を投げたことを否認していたものの、後に母親に対し自分の行為であることを認め、母親が警察に通報。児童は「駐車場の先にある川に向かって投げたが届かなかった。下に人がいると分かっていた」と供述し、現場検証をしていた警察官や被害男性に水をかけた疑いも持たれている。
被害者の男性は、児童の母親から謝罪したいとの連絡を受けたが、後遺症に苦しんでおり、罪に問えない年齢の子どもの加害行為に対する複雑な心境を語っている。
警察は「殺人未遂」疑いでも捜査
報道によれば、警察は本件について殺人未遂の疑いもあるとして捜査していた。仮に加害者が小学生ではなく成人の場合はどうなっていたのか、刑事事件および少年事件に詳しい杉山大介弁護士は次のように説明する。
「前提として、事件発覚後の手続きは異なるものの、成人であっても少年であっても、適用される刑法の内容自体が変わるわけではありません。
今回のように、頭という体の重要な部分に物をぶつける行為は、人を死に至らしめる危険性があるという考え方もできます。そのため、殺人未遂罪の検討がまったく的外れというわけではありません。
ただし本件では、当初何がぶつけられたか不明で、さらに報道によれば、落下物が『破裂した』という被害男性の話もあったため、警察が殺人未遂の可能性も視野に入れて捜査を始めたのだと考えられます」
泥団子は作ってから時間が経ったもので、陶器ほどの固さだったとも言われているが、「もし最初から『泥団子だった』と分かっていれば、殺人未遂の疑いは持たれなかった可能性が高い」(杉山弁護士)という。
加害児童は今後どうなる?
20歳未満の者が事件を起こした場合、刑罰を受けるのではなく、家庭裁判所で更生を目的とした手続きがまず検討される。
とりわけ14歳未満の子どもは刑事責任能力がないと判断されるため、刑罰を科されることはなく、また当然に家庭裁判所に行くわけでもない。このような子どもは「触法少年」と呼ばれ、警察から児童相談所へと通告される。
児童相談所は、その子の保護や健全な育成のために何が必要かを調査し、指導や一時保護、あるいは児童福祉施設への入所といった措置を検討することになる。事件が重大な場合や、より専門的な判断が必要と判断された場合は、児童相談所から家庭裁判所へ送致されることもある。
家庭裁判所では、審判を経て保護観察や少年院送致などの保護処分が決定される可能性があるが、いずれにしても刑罰が科されることはない。これは、子どもが未熟であるという考えに基づき、刑罰よりも支援と育成を重視する考え方によるものだ。
少年事件の一般的な流れ(法務省サイトより)
少年事件の一般的な流れ(法務省サイトより)
© 弁護士JPニュース
今回の加害児童についても、「触法少年」として児童相談所に通告されたと報道されている。報道されている事情から、今後の展望について質問すると、杉山弁護士は次のように回答した。
「そもそも、当該児童がどのような目的で、どのような方法で泥団子を投げたかといった『行為の悪質性』については、今後の事実認定によって変わる可能性があります。結果として被害が重かったものの、児童自身が自らの行動の危険性を十分に理解していなかった、という背景も考えられます。
また、今回は児童本人が保護者に告白し、保護者がその告白を受けて警察に届け出ている様子が見られることから、児童本人や保護者の性質について、その可塑性を否定するような大きな問題があるとは言いがたい、と判断される可能性が高いでしょう。
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このような状況から、家庭裁判所に送致され、さらに重い処分が下されるといった展開は、あまり想定されません」
少年事件のもっとも大切な部分は、処分を下すまでの過程でさまざまな情報を引き出し、将来同じような問題が起きないよう、子どもをケアすることにある。
「そのため、『最終的な処分が重いか軽いか』という点について論じること自体、少年事件の本来の目的とは少し異なります。十分な問題への対処がとれたから、処分が軽かったり不要になっていたりする場合もあるわけです」(同前)
被害者は誰に損害賠償請求するか
加害児童に刑事責任は問えないものの、冒頭で触れたとおり、被害者は重傷を負い、後遺症にも悩まされているという。もし被害者が損害賠償を求める場合、誰に請求することになるのか。
杉山弁護士は「今回のケースでは、加害児童が小学生であるため、民事上も責任無能力者と判断される可能性が高い」として、以下のように続ける。
「刑事と異なり、民事では年齢で責任能力を区切っているわけではありませんが、小学生であれば通常、自分の行為がどのような結果を招くかを十分に理解する能力がないとみなされることが多いです。
そのため、民法714条に基づき、監督義務者である保護者に対して損害賠償を請求するのが一般的です。この民法の条文には、監督義務を怠らなかった場合には責任を免れるという但書がありますが、実際にこの主張が認められるのは非常に難しいのが実情です」
保護者が監督義務を怠らなかったと証明するハードルは高く、多くの場合、その責任が認められやすい傾向にあるという。
「法律は、実際に損害が発生しているのに誰も責任を負わないという状況をあまり望ましいとは考えていません。そのため、子どもが起こしたことによって生じた被害に対して、もっとも賠償能力があり、かつ監督する立場にある保護者が責任を負うべきだと判断されることが多いのです。
したがって、今回のケースで被害者の方が損害賠償を求める場合、加害児童本人ではなく、その保護者に対して請求するのがもっとも現実的な選択肢となります」(同前)
繰り返しになるが、児童の投げた泥団子によって被害者は後遺症をともなう重傷を負っており、その苦痛は計り知れない。
法的な側面から見ると、責任能力のない子どもの行為に対し、現行の法制度がどのように対応し、そして被害者の救済をどう図っていくのかという、複雑で繊細な問題が浮き彫りになったと言えるだろう。
(以下引用)
時間が経つと泥団子から水分が抜けて固くなる(ピアノ / PIXTA)※写真はイメージ
時間が経つと泥団子から水分が抜けて固くなる(ピアノ / PIXTA)※写真はイメージ
© 弁護士JPニュース
4月中旬、熊本県熊本市内のマンション駐車場で、男性が落下物の直撃を受け重傷を負った。警察は事件の可能性も視野に捜査を進めていたが、今月16日、落下物は同マンションの高層階に住む小学生が投げた泥団子と判明したことが報道された。
当初、児童は泥団子を投げたことを否認していたものの、後に母親に対し自分の行為であることを認め、母親が警察に通報。児童は「駐車場の先にある川に向かって投げたが届かなかった。下に人がいると分かっていた」と供述し、現場検証をしていた警察官や被害男性に水をかけた疑いも持たれている。
被害者の男性は、児童の母親から謝罪したいとの連絡を受けたが、後遺症に苦しんでおり、罪に問えない年齢の子どもの加害行為に対する複雑な心境を語っている。
警察は「殺人未遂」疑いでも捜査
報道によれば、警察は本件について殺人未遂の疑いもあるとして捜査していた。仮に加害者が小学生ではなく成人の場合はどうなっていたのか、刑事事件および少年事件に詳しい杉山大介弁護士は次のように説明する。
「前提として、事件発覚後の手続きは異なるものの、成人であっても少年であっても、適用される刑法の内容自体が変わるわけではありません。
今回のように、頭という体の重要な部分に物をぶつける行為は、人を死に至らしめる危険性があるという考え方もできます。そのため、殺人未遂罪の検討がまったく的外れというわけではありません。
ただし本件では、当初何がぶつけられたか不明で、さらに報道によれば、落下物が『破裂した』という被害男性の話もあったため、警察が殺人未遂の可能性も視野に入れて捜査を始めたのだと考えられます」
泥団子は作ってから時間が経ったもので、陶器ほどの固さだったとも言われているが、「もし最初から『泥団子だった』と分かっていれば、殺人未遂の疑いは持たれなかった可能性が高い」(杉山弁護士)という。
加害児童は今後どうなる?
20歳未満の者が事件を起こした場合、刑罰を受けるのではなく、家庭裁判所で更生を目的とした手続きがまず検討される。
とりわけ14歳未満の子どもは刑事責任能力がないと判断されるため、刑罰を科されることはなく、また当然に家庭裁判所に行くわけでもない。このような子どもは「触法少年」と呼ばれ、警察から児童相談所へと通告される。
児童相談所は、その子の保護や健全な育成のために何が必要かを調査し、指導や一時保護、あるいは児童福祉施設への入所といった措置を検討することになる。事件が重大な場合や、より専門的な判断が必要と判断された場合は、児童相談所から家庭裁判所へ送致されることもある。
家庭裁判所では、審判を経て保護観察や少年院送致などの保護処分が決定される可能性があるが、いずれにしても刑罰が科されることはない。これは、子どもが未熟であるという考えに基づき、刑罰よりも支援と育成を重視する考え方によるものだ。
少年事件の一般的な流れ(法務省サイトより)
少年事件の一般的な流れ(法務省サイトより)
© 弁護士JPニュース
今回の加害児童についても、「触法少年」として児童相談所に通告されたと報道されている。報道されている事情から、今後の展望について質問すると、杉山弁護士は次のように回答した。
「そもそも、当該児童がどのような目的で、どのような方法で泥団子を投げたかといった『行為の悪質性』については、今後の事実認定によって変わる可能性があります。結果として被害が重かったものの、児童自身が自らの行動の危険性を十分に理解していなかった、という背景も考えられます。
また、今回は児童本人が保護者に告白し、保護者がその告白を受けて警察に届け出ている様子が見られることから、児童本人や保護者の性質について、その可塑性を否定するような大きな問題があるとは言いがたい、と判断される可能性が高いでしょう。
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このような状況から、家庭裁判所に送致され、さらに重い処分が下されるといった展開は、あまり想定されません」
少年事件のもっとも大切な部分は、処分を下すまでの過程でさまざまな情報を引き出し、将来同じような問題が起きないよう、子どもをケアすることにある。
「そのため、『最終的な処分が重いか軽いか』という点について論じること自体、少年事件の本来の目的とは少し異なります。十分な問題への対処がとれたから、処分が軽かったり不要になっていたりする場合もあるわけです」(同前)
被害者は誰に損害賠償請求するか
加害児童に刑事責任は問えないものの、冒頭で触れたとおり、被害者は重傷を負い、後遺症にも悩まされているという。もし被害者が損害賠償を求める場合、誰に請求することになるのか。
杉山弁護士は「今回のケースでは、加害児童が小学生であるため、民事上も責任無能力者と判断される可能性が高い」として、以下のように続ける。
「刑事と異なり、民事では年齢で責任能力を区切っているわけではありませんが、小学生であれば通常、自分の行為がどのような結果を招くかを十分に理解する能力がないとみなされることが多いです。
そのため、民法714条に基づき、監督義務者である保護者に対して損害賠償を請求するのが一般的です。この民法の条文には、監督義務を怠らなかった場合には責任を免れるという但書がありますが、実際にこの主張が認められるのは非常に難しいのが実情です」
保護者が監督義務を怠らなかったと証明するハードルは高く、多くの場合、その責任が認められやすい傾向にあるという。
「法律は、実際に損害が発生しているのに誰も責任を負わないという状況をあまり望ましいとは考えていません。そのため、子どもが起こしたことによって生じた被害に対して、もっとも賠償能力があり、かつ監督する立場にある保護者が責任を負うべきだと判断されることが多いのです。
したがって、今回のケースで被害者の方が損害賠償を求める場合、加害児童本人ではなく、その保護者に対して請求するのがもっとも現実的な選択肢となります」(同前)
繰り返しになるが、児童の投げた泥団子によって被害者は後遺症をともなう重傷を負っており、その苦痛は計り知れない。
法的な側面から見ると、責任能力のない子どもの行為に対し、現行の法制度がどのように対応し、そして被害者の救済をどう図っていくのかという、複雑で繊細な問題が浮き彫りになったと言えるだろう。
これ(引用文)は「蚊居肢」というブログに引用されていた言葉だが、「疎外」ということについての一種の定義だろう。いや、「一種の」ではなく、もしもその言葉の大本がフロイトなら、正式な定義になる。
動詞「entfremden」は「或る人の気持ちを或る事(人)から遠ざける」が主な意味である。つまり、これまで親しく見知っていた存在が遠い存在のように感じられることだろう。これはまさしく「疎外」が意味する精神現象で、「異化」も同じだろう。ある意味「おなじみの」現象で、単に「疎外」という固い言葉が我々にはそれこそ「疎外感」を感じさせるだけだ。
これは、「夢の中の現実」の持つ、「非現実感」であり、その非現実感を見事に描写したのが「超現実主義」の芸術であり、漫画の「ねじ式」など、つげ義春の幾つかの作品にも見られる特徴だ。そもそも「ねじ式」とは何か、そこで既に我々は超現実感覚を与えられるのである。そして、優れた超現実主義作品では、その「非現実感」が、「実在感」を持って我々の前に立ち現れるのである。ごく当たり前の日常が非現実感をもって現れる、と言ってもいい。
要するに、精神において我々の現実は非現実と隣り合わせである、ということであり、その感覚は、「存在しなかった想い出の持つ郷愁」の感覚とも言える。たとえば、キリコの「憂愁と神秘の通り」の絵などの与える印象である。あの、輪回しをする少女のシルエット、通りの端から見える「誰か」の巨大な影、そして遠近法の消失点や光源がはっきりしない建物と道路の構図や明暗、全体の色調。謎と不安。
(以下引用)
疎外(異者分離[Entfremdungen])は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, … Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.
(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)
動詞「entfremden」は「或る人の気持ちを或る事(人)から遠ざける」が主な意味である。つまり、これまで親しく見知っていた存在が遠い存在のように感じられることだろう。これはまさしく「疎外」が意味する精神現象で、「異化」も同じだろう。ある意味「おなじみの」現象で、単に「疎外」という固い言葉が我々にはそれこそ「疎外感」を感じさせるだけだ。
これは、「夢の中の現実」の持つ、「非現実感」であり、その非現実感を見事に描写したのが「超現実主義」の芸術であり、漫画の「ねじ式」など、つげ義春の幾つかの作品にも見られる特徴だ。そもそも「ねじ式」とは何か、そこで既に我々は超現実感覚を与えられるのである。そして、優れた超現実主義作品では、その「非現実感」が、「実在感」を持って我々の前に立ち現れるのである。ごく当たり前の日常が非現実感をもって現れる、と言ってもいい。
要するに、精神において我々の現実は非現実と隣り合わせである、ということであり、その感覚は、「存在しなかった想い出の持つ郷愁」の感覚とも言える。たとえば、キリコの「憂愁と神秘の通り」の絵などの与える印象である。あの、輪回しをする少女のシルエット、通りの端から見える「誰か」の巨大な影、そして遠近法の消失点や光源がはっきりしない建物と道路の構図や明暗、全体の色調。謎と不安。
(以下引用)
疎外(異者分離[Entfremdungen])は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, … Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.
(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)
私は藤田和弘(下の名の漢字は知らない)の漫画は、「絵が苦手(描線が大量で画面そのものが暗くて見る気になれない。ホラー漫画系統に多いタイプ。いしいひさいちの爪の垢を煎じて飲むべし。)」で、一度も読んだことはないが、世評は高いようだ。その創作メソッドの話である。
(以下引用)
本日の読書「読者ハ読ムナ(笑)」
凄く熱く圧い本!
藤田先生のところに漫画家志望の新人がアシスタントに入りプロとして連載を取るまでを疑似的なドキュメンタリーとして書いている
1番タメになるのは映画を論じ合う事で
自作に張り付いた自分自身の感情を剥がす方法論、自分の作品をダメ出しされると
誰しも自分自身が否定されたかのような気になる
それを映画に5段階評価つけて何故その評価にしたのか、何が好きで何が気に入らなかったか仕事場の仲間と話し合い
人の意見や視点を知ることができるし新しい発見もある
そして何より自分自身が否定されてるわけではないと理解もできるし
相手と向き合うことでコミュニケーション能力も上がる
あとはもう奇を衒うような事はせず
とにかく土台をしっかりと作る基礎力づくりがメインだが侮るなかれ滅茶苦茶濃い内容
これ読んで実践したら、間違いなくワンランク上がると思う
志望者のみならず現役の作家も力がつくだろうなあと
私個人は思いましたよw
オススメです!
(以下引用)
本日の読書「読者ハ読ムナ(笑)」
凄く熱く圧い本!
藤田先生のところに漫画家志望の新人がアシスタントに入りプロとして連載を取るまでを疑似的なドキュメンタリーとして書いている
1番タメになるのは映画を論じ合う事で
自作に張り付いた自分自身の感情を剥がす方法論、自分の作品をダメ出しされると
誰しも自分自身が否定されたかのような気になる
それを映画に5段階評価つけて何故その評価にしたのか、何が好きで何が気に入らなかったか仕事場の仲間と話し合い
人の意見や視点を知ることができるし新しい発見もある
そして何より自分自身が否定されてるわけではないと理解もできるし
相手と向き合うことでコミュニケーション能力も上がる
あとはもう奇を衒うような事はせず
とにかく土台をしっかりと作る基礎力づくりがメインだが侮るなかれ滅茶苦茶濃い内容
これ読んで実践したら、間違いなくワンランク上がると思う
志望者のみならず現役の作家も力がつくだろうなあと
私個人は思いましたよw
オススメです!
高畑勲の「赤毛のアン」を再視聴していて、アンとダイアナの最初の出会いの回で、アンとダイアナが手をつないで岡の斜面を走り昇る構図が、「未来少年コナン」のオープニングそのままであり、また、その直後の二人がブランコを漕ぐ構図が、「アルプスの少女ハイジ」のオープニングそのままであることに気づいて、「画面構成」担当の宮崎駿の好みがモロに出ているのが面白かった。これが、アニメを長年見ることのメリットである。なお、アンのスタッフの中には「富野よしゆき」の名前もある。
また、細部を見る面白さとして、ダイアナの愛読書のひとつが「不思議の国のアリス」であることが、テニエルの絵によって分かる。つまり、高畑勲の趣味が分かる。これは私と同じなので、嬉しい。
また、細部を見る面白さとして、ダイアナの愛読書のひとつが「不思議の国のアリス」であることが、テニエルの絵によって分かる。つまり、高畑勲の趣味が分かる。これは私と同じなので、嬉しい。
大友克洋の「AKIRA」を、さほど面白くないという評価をしたコメントを前に見たことがあって、印象に残っているのだが、実は私も「AKIRA」はさほど面白くは思えないので、その世界的評価の高さが不思議なのである。その一方で、同じ大友の「メトロポリス」のほうは傑作だと思っている。
その違い、あるいは世間的評価の違いの本質は何かと考えてみると、「破壊」と「滅亡」の違いなのではないか、という気がする。
世間には、自分を不自由だと感じ、社会や世界への不満を抱えた青年層がある。
そうした人間は、フィクションで「この世界」を破壊する行為に「自分が破壊している」行為と一体感を持つのではないか。それが「破壊の喜び」だ。やくざ映画や戦争映画に固定的ファン層があるのも同じである。「AKIRA」にはその快感が溢れている。
ところが「滅亡」は「破壊」とは異なり、「自分自身も含めた世界の滅亡」なのであり、無責任に世界の崩壊を喜び、快感を得るわけにはいかない。
それが「メトロポリス」が大衆に評価されない理由だろう。
あまり人気にならなかった「全修」も、「滅亡」の話であり、その「全面修正」に失敗する話だから快感がないわけである。シナリオの方向性の時点で、それを見抜けなかった制作チームの失敗だろう。
言うまでもないが、名作アニメ「火垂るの墓」も「この世界の片隅に」も滅亡の話である。
だから、「見るのがつらい」傑作なのである。
その違い、あるいは世間的評価の違いの本質は何かと考えてみると、「破壊」と「滅亡」の違いなのではないか、という気がする。
世間には、自分を不自由だと感じ、社会や世界への不満を抱えた青年層がある。
そうした人間は、フィクションで「この世界」を破壊する行為に「自分が破壊している」行為と一体感を持つのではないか。それが「破壊の喜び」だ。やくざ映画や戦争映画に固定的ファン層があるのも同じである。「AKIRA」にはその快感が溢れている。
ところが「滅亡」は「破壊」とは異なり、「自分自身も含めた世界の滅亡」なのであり、無責任に世界の崩壊を喜び、快感を得るわけにはいかない。
それが「メトロポリス」が大衆に評価されない理由だろう。
あまり人気にならなかった「全修」も、「滅亡」の話であり、その「全面修正」に失敗する話だから快感がないわけである。シナリオの方向性の時点で、それを見抜けなかった制作チームの失敗だろう。
言うまでもないが、名作アニメ「火垂るの墓」も「この世界の片隅に」も滅亡の話である。
だから、「見るのがつらい」傑作なのである。
ペペ・エスコバールの記事の一節だが、これだけで西洋の偽善と傲慢は明白だろう。
つまり、彼らは「人類の敵」である。残念ながら日本はその悪魔集団の家来だ。
(以下引用)
今や粉々に砕け散った西側集団には全体にわたって2つのタブーがある:
1:ウクライナ政権をナチスと定義できない。
2:ガザにおけるイスラエルの精神病理学的な大量虐殺を非難できない。
このタブーは、米国とシオニストの枢軸がノンストップで展開する永遠の戦争と表裏一体の関係にある。
つまり、彼らは「人類の敵」である。残念ながら日本はその悪魔集団の家来だ。
(以下引用)
今や粉々に砕け散った西側集団には全体にわたって2つのタブーがある:
1:ウクライナ政権をナチスと定義できない。
2:ガザにおけるイスラエルの精神病理学的な大量虐殺を非難できない。
このタブーは、米国とシオニストの枢軸がノンストップで展開する永遠の戦争と表裏一体の関係にある。