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 当日の朝日新聞が興味深い記事を掲載している。


 記者は、まず
《賛否はあるだろうが、選手を守るための判断なら、第三者が口を挟むべきではないと思う。》


 と、シンプルに断言している。


 おっしゃる通りだと思う。私自身、この点に異論はない。


 ただ、注意せねばならないのは、記者氏が、最初に掲げたこの結論を補強するために、以下のような論陣を張っている点だ。


《投球数制限を議論する中で、「毎日一緒にいる指導者に任せて欲しい」という現場の声をよく聞く。「だから投げさせて」と主張するなら、「だから投げさせない」という考え方もあって当然だ。指導者と選手がどう話し合い、どんな準備をしてきたか。それは当人たちにしか分からない。
 投げさせた監督も、投げさせなかった監督も非難されるなら、厳格な投球数制限をするしかない。
 甲子園という夢は破れたが、注目を浴びながら決勝まで勝ち上がった経験は、チームメートにとってもプラスになるだろう。この夏を総括し、次の目標へと切り替える作業も、現場に任せればいい。》


 要約すれば、「どんな判断であれ、現場の決断を最大限に尊重すべきだ」というお話だ。


 明快な主張だとは思うものの、一方において、この記事が、いかにも朝日新聞らしい論理展開に終始している点も指摘しておかなければならない。


 なんとなれば、「部外者は当事者の判断に口をはさむべきではない」というこの理屈は、大会の主催者である朝日新聞社ならびに高野連の開催責任をテンから投げ出した物言いでもあるからだ。


 実際、「現場で選手を見ている監督の判断(←投げさせるのであれ投げさせないのであれ)がすべてに優先されるべきだ」


 と断言してしまったが最後、球数制限の導入や、大会日程の見直しをはじめとする春夏の甲子園大会の改革に関して進行しつつある議論は、すべて吹っ飛んでしまう。


 私自身は、目先の勝利と選手の将来を天秤にかける過酷な判断を「現場」(具体的には「監督」)に丸投げしている主催者の無責任こそが、この問題の元凶であると考えている。


 別の言い方をすれば、公式のルールなりレギュレーションを通じて連投規制なり球数制限なりを導入しない限り、この種の問題は毎年のように繰り返され、必ずや監督なり選手なりを重圧の中で苦しめるはずだということでもある。


 甲子園の日程が狂気の沙汰であることははっきりしている。


 というよりも、狂気は、甲子園以前の少年野球の段階で、すでに始まっているものなのかもしれない。