ディレク・ジーターとは
1995年のデビューから2014年の引退までヤンキース一筋でプレーしたプレイヤー。現役生活20年間で5回のワールドシリーズ優勝、14回のオールスター選出があるほか、通算で3000本安打以上を記録、MLBを代表するスーパースターとして長年活躍した。ヤンキース・ファンからは敬意を持って「キャプテン(The Captain)」と呼ばれ、素晴らしい人格者としても有名な選手。そして、ヤンキーズ時代に共にプレイし、イチローがリスペクトしており、事ある毎に名前を出す選手です。そんなジーターがイチローが3000本安打を更新する前にイチローについて自身のブログで綴ったイチローへの想いにイチローという選手を感じることができるのです。すこし、長い文章ですがご覧ください。
「3000本」を超えて
ネクストバッターズ・サークルに立つイチローを見ればわかる。いつも動いている。
動画がいろんなサイトにあるので、ぜひご覧いただきたい。
数回ウォームアップのスイングをしたかと思うと膝を曲げて体を低く折り曲げ、
左右に揺れ動いている。また立ち上がって2,3度スイングした後、足を大きく広げ、 再び低く構える。そして両肩を大きく回転させる奇妙な動きをする。 この運動ルーティンすべてが一つのダンス動作であるかのように。
私は、実際に会う前からイチローのことを覚えている。2001年シーズン、まだ彼がルーキーだった年、 ニューヨークにマリナーズがやって来た。どのくらいメディアが騒いでいたかはよく覚えていないが、 ポジション選手が日本からやって来たと聞いていた。それ自体、当時はかなり珍しいことであった。
私の現役中にも日本から何人か偉大なるプレーヤーが来ていたが、ほとんどみんなピッチャーで、 ポジション・プレーヤーはいなかった。ましてや27歳のルーキーなんてまずいなかった。
イチローは平凡なショートゴロを打ってきた。右に一歩動くだけで楽に捕れるボールだった。
ところが目を上げると、イチローはすでにファースト近くまで走っていて、 もう少しでセーフになるところだった。
「Wow! Who is this guy? He can fly.うわっ、何じゃこいつ。飛べるのか。」と感じたのを覚えている。 本当に驚いた。
初めてイチロー(「Ichi」と呼んでいる)と個人的に会ったのは、セカンドベース上だった。
(今から考えると、イチローは頻繁にセカンドにいたのだが。)最初のうちは丁寧な感じで あまり話もしなかったが、英語にそれほど堪能でなかったのだろう。しかし1年ほど経った頃、 イチローがツーベースを打ってセカンドにスライディングしてきた。 私が頷くて挨拶すると、ユニフォームの土を払いながら彼が話しかけて来たのだが、その言葉に意表を突かれた。
「What’s going on, my main man?」(和訳するのが難しい英語だが、親しい友人同士の挨拶で、 ニュアンスからすると、「おーっす、どうだ、調子は。」という感じ。) 「Main man?」驚いた私はただ笑顔で返した。こいつ、どこでこんな言い回しを習ったんだ?
その後、何年もの間、私がイチローとセカンドで会う機会が増えた。
イチローはいつもフレンドリーだったが、彼の英語が上達するにつれ我々の交わす会話も長くなっていった。 しばらくすると、投球の間など、カタコトでなく、完全な文で話すようになった。 チームメートたちから教わったいろんな英語の言い回しを披露して、イチローはいつも私を笑わせてくれた。 イチローの話だと、マイク・キャメロン選手にかなり多くのことを教えてもらったらしい。
例えば「What’s up, my brother from another mother?(どうしてる、母親違いの我が兄弟よ。)」とかいうフレーズも マイクが教えてくれたと言っていた。イチローが新しい国に、そして新しいチームに、 上手に慣れていくのが私にはよくわかった。シアトルというのは本当にイチローを優しく受け入れた街であり、 マリナーズの選手たちの間にもいい雰囲気があったからこそ、いいチームでいれたのだろう。
イチローの英語力が猛烈な速さで上達したことには驚かなかった。 言語に対するイチローの姿勢は野球に対する彼の姿勢と同じで、「努力、そしてさらに努力」というものだったからだ。 今、イチローが3000本ヒットを打つのを多くの人々が期待して見ている。 達成すればイチローは、野球史において極めて限られたクラブの一員になる。 非常に驚くべき偉業である。26歳までプレーした日本でも1278本のヒットを打っているので、 併せてイチローのキャリアを顧みると、現在・過去の時代を通じて最も優秀な選手のひとりになる。
しかし今、3000本安打というマイルストーンを超えて少し考えてみたい。 イチローが(ヒットだけでなく)すべての面においてどれだけ偉大なるプレーヤーであるか、 多くの人は注目していない。ツールをすべて揃えているのである。 まず走塁。あの速度。野球で類を見ない速さである。 プロとして25年間、スピードを第一の武器として使ってきた選手である。 そして肩。信じられないアームを持っている。打撃が明らかに偉大で、守備はあまり評価されないことがあるが、 ライトからランナーを刺すイチローを見たことがある人なら誰でもわかるはずである。 やはりあのストレッチが効いているのだろうか。
打席に立つイチローの目と手の整合作用(運動神経)、そしてバットのスイングは、最も純粋である。
イチローのことをよく「コンタクト打者(ボールにうまくバットを当てる打者)」と言う人がいて、 ある意味これも間違ってはいない。打者としての使命は出塁すること、 そしてイチローは他のほぼ誰よりも多く出塁した。しかしイチローをただコンタクト打者と呼ぶだけでは、 その真の偉大さ・特別さを捉えていないと私は思う。 我々の多くは、イチローが単打、二塁打を打つのだけを見てきたが、 イチローが実はかなりのパワーの持ち主であることはあまり知られていない。
2001年、シアトルでオールスター戦が行われた際、私はマリナーズの選手たちと立ち話をしていた。
すると、「イチローがホームラン・ダービーに出るべきだ。」と彼らが言い出した。 冗談だと私は思っていた。すると誰かが言った。「いや、出ればイチローは勝つ。」
その後少しして、私にもその意味がわかった。 イチローが自分だけのホームラン練習を始め、それをみんなで眺めていたのだ。
そしてイチローを尊敬する最大の要因は、何と言ってもその模範的な一貫性であろう。 周りが最も見落としやすい人格は一貫性である、と私は考えている。
失った後初めてよくわかってくる特質である。 イチローにとって野球というものはただのスポーツではない、と私には思える。
This was what he was born to do. いや、イチローという人間はそのために生まれて来たのである。 さらに驚くべきことは、もう42歳になるというのに、イチローが故障者リストに入ったことを 私は思い出せない。常に自己を丁寧に管理している。野球というものが 「いつまでも完璧に至ることのない技巧」であるかのように見ているのであろう。
野球からの「オフ・タイム」という言葉の意味をイチローは知らないのだと思う。 彼にとっては人生そのものなのだ。 そしてそれは、たとえ誰も見ていない時であっても努力することから始まるのである。
2013年のオールスター休みの際、イチローがヤンキースタジアムに練習に行ったという話がある。
しかしその日はコンサートが予定されていて準備のため球場が使えなかった。 それを聞いたイチローはセントラルパークにキャッチボールをしに行った、というのである。
そして2014年の10月、とうとう私は現役を引退した。その数日後、ロッカーを整頓するために ヤンキースタジアムに戻った。スタッフはまだ数人残っていたがスタジアムは静かだった。 チームはプレーオフに進めなかった。選手の多くはシーズンが終わるや否や休暇をとり、 そして12月か1月までリラックスする。
私がロッカーを整理していると、イチローの姿が見えた。バッティングケージに向かっているところだった。 「あいつ、少なくとも2,3日は休んだんだろうなあ。」と思ったことを今でも覚えている。 もうイチローは流暢な英語が話せた。一応まだ通訳は付いていたが、ほとんど必要なかった。 だから二人で話す機会もかなり多くなっていた。
その中でも忘れられないのが、2012年のアリーグ決勝シリーズ第1戦である。 そう、私が足首を骨折したあの試合である。12回、ゴロを捕りに行った時、足首にボキッという音がした。 試合は降板し、レントゲンとアイスのあるクラブハウスに退いた。 タイガースが12回に2点を入れ、ヤンキースは6-4で敗北。試合後少し経ってから、 私は着替えをして自分の考えを整理するため、クラブハウスの隣にある小さな部屋に入った。 するとイチローが通訳を連れて入って来て、横に座った。イチローは私の足首の様子を聞いてきた。
「骨折してる。もう終わりだ。」
イチローは頷いたが、無言だった。足首をアイスで冷やし終えた私は、ゆっくりしていた。 どうせ急ぐ必要もないのだから。試合には負け、そして次のシーズンまでプレーすることもできない。 しばらくするとクラブハウスもほぼ空っぽになった。 イチロー、通訳、そして私だけがその小さな着替え部屋で座っていた。 イチローはまだユニフォームのままだった。 私は持ち物をまとめ、帰るために松葉杖をついて立ち上がった。 その時私はやっと気づいたのだった。イチローは私を待ってくれていたのだと。 私が立ち上がるとイチローも立ち上がって、私が帰るのを見守ってくれた。
あれが私に対する敬意の表現なのかどうか、私にはわからない。 あの夜、イチローもただゆっくりしていたのかも知れない。それはイチローに聞かないとわからない。
しかしイチローがあの日、私に言わんとしていたことを私はちゃんと知っている、と信じたい。 長い間、何度も交わしたセカンドベースでの軽い会話、その後チームメートして過ごした年月、 そのようなことを考えると、あの夜の、ふたりの間の沈黙のあの時間こそ、私にとって何よりも心に残っている。
アスリートとして、また人間としてのイチローを私が思い返すとき、 何よりもあの夜のことを私は思い浮かべるのである。
マイ・ハッツ・オフ。私はイチローに敬意を表する。人生で一度会えるかどうかという人間である。 イチローのような人間は見たことがない。もっと正直に言うと、イチローのような人間に再び会うことはないだろう。
近々、オフ・タイムを存分に楽しんでくれ。」とイチローに言いたい自分がいることは確かだが、
彼はそんな言葉を聞きたがらないだろう。「オフ・タイム」がどのようなものであるか、 イチローには想像できないのかも知れない。
動画がいろんなサイトにあるので、ぜひご覧いただきたい。
数回ウォームアップのスイングをしたかと思うと膝を曲げて体を低く折り曲げ、
左右に揺れ動いている。また立ち上がって2,3度スイングした後、足を大きく広げ、 再び低く構える。そして両肩を大きく回転させる奇妙な動きをする。 この運動ルーティンすべてが一つのダンス動作であるかのように。
私は、実際に会う前からイチローのことを覚えている。2001年シーズン、まだ彼がルーキーだった年、 ニューヨークにマリナーズがやって来た。どのくらいメディアが騒いでいたかはよく覚えていないが、 ポジション選手が日本からやって来たと聞いていた。それ自体、当時はかなり珍しいことであった。
私の現役中にも日本から何人か偉大なるプレーヤーが来ていたが、ほとんどみんなピッチャーで、 ポジション・プレーヤーはいなかった。ましてや27歳のルーキーなんてまずいなかった。
イチローは平凡なショートゴロを打ってきた。右に一歩動くだけで楽に捕れるボールだった。
ところが目を上げると、イチローはすでにファースト近くまで走っていて、 もう少しでセーフになるところだった。
「Wow! Who is this guy? He can fly.うわっ、何じゃこいつ。飛べるのか。」と感じたのを覚えている。 本当に驚いた。
初めてイチロー(「Ichi」と呼んでいる)と個人的に会ったのは、セカンドベース上だった。
(今から考えると、イチローは頻繁にセカンドにいたのだが。)最初のうちは丁寧な感じで あまり話もしなかったが、英語にそれほど堪能でなかったのだろう。しかし1年ほど経った頃、 イチローがツーベースを打ってセカンドにスライディングしてきた。 私が頷くて挨拶すると、ユニフォームの土を払いながら彼が話しかけて来たのだが、その言葉に意表を突かれた。
「What’s going on, my main man?」(和訳するのが難しい英語だが、親しい友人同士の挨拶で、 ニュアンスからすると、「おーっす、どうだ、調子は。」という感じ。) 「Main man?」驚いた私はただ笑顔で返した。こいつ、どこでこんな言い回しを習ったんだ?
その後、何年もの間、私がイチローとセカンドで会う機会が増えた。
イチローはいつもフレンドリーだったが、彼の英語が上達するにつれ我々の交わす会話も長くなっていった。 しばらくすると、投球の間など、カタコトでなく、完全な文で話すようになった。 チームメートたちから教わったいろんな英語の言い回しを披露して、イチローはいつも私を笑わせてくれた。 イチローの話だと、マイク・キャメロン選手にかなり多くのことを教えてもらったらしい。
例えば「What’s up, my brother from another mother?(どうしてる、母親違いの我が兄弟よ。)」とかいうフレーズも マイクが教えてくれたと言っていた。イチローが新しい国に、そして新しいチームに、 上手に慣れていくのが私にはよくわかった。シアトルというのは本当にイチローを優しく受け入れた街であり、 マリナーズの選手たちの間にもいい雰囲気があったからこそ、いいチームでいれたのだろう。
イチローの英語力が猛烈な速さで上達したことには驚かなかった。 言語に対するイチローの姿勢は野球に対する彼の姿勢と同じで、「努力、そしてさらに努力」というものだったからだ。 今、イチローが3000本ヒットを打つのを多くの人々が期待して見ている。 達成すればイチローは、野球史において極めて限られたクラブの一員になる。 非常に驚くべき偉業である。26歳までプレーした日本でも1278本のヒットを打っているので、 併せてイチローのキャリアを顧みると、現在・過去の時代を通じて最も優秀な選手のひとりになる。
しかし今、3000本安打というマイルストーンを超えて少し考えてみたい。 イチローが(ヒットだけでなく)すべての面においてどれだけ偉大なるプレーヤーであるか、 多くの人は注目していない。ツールをすべて揃えているのである。 まず走塁。あの速度。野球で類を見ない速さである。 プロとして25年間、スピードを第一の武器として使ってきた選手である。 そして肩。信じられないアームを持っている。打撃が明らかに偉大で、守備はあまり評価されないことがあるが、 ライトからランナーを刺すイチローを見たことがある人なら誰でもわかるはずである。 やはりあのストレッチが効いているのだろうか。
打席に立つイチローの目と手の整合作用(運動神経)、そしてバットのスイングは、最も純粋である。
イチローのことをよく「コンタクト打者(ボールにうまくバットを当てる打者)」と言う人がいて、 ある意味これも間違ってはいない。打者としての使命は出塁すること、 そしてイチローは他のほぼ誰よりも多く出塁した。しかしイチローをただコンタクト打者と呼ぶだけでは、 その真の偉大さ・特別さを捉えていないと私は思う。 我々の多くは、イチローが単打、二塁打を打つのだけを見てきたが、 イチローが実はかなりのパワーの持ち主であることはあまり知られていない。
2001年、シアトルでオールスター戦が行われた際、私はマリナーズの選手たちと立ち話をしていた。
すると、「イチローがホームラン・ダービーに出るべきだ。」と彼らが言い出した。 冗談だと私は思っていた。すると誰かが言った。「いや、出ればイチローは勝つ。」
その後少しして、私にもその意味がわかった。 イチローが自分だけのホームラン練習を始め、それをみんなで眺めていたのだ。
そしてイチローを尊敬する最大の要因は、何と言ってもその模範的な一貫性であろう。 周りが最も見落としやすい人格は一貫性である、と私は考えている。
失った後初めてよくわかってくる特質である。 イチローにとって野球というものはただのスポーツではない、と私には思える。
This was what he was born to do. いや、イチローという人間はそのために生まれて来たのである。 さらに驚くべきことは、もう42歳になるというのに、イチローが故障者リストに入ったことを 私は思い出せない。常に自己を丁寧に管理している。野球というものが 「いつまでも完璧に至ることのない技巧」であるかのように見ているのであろう。
野球からの「オフ・タイム」という言葉の意味をイチローは知らないのだと思う。 彼にとっては人生そのものなのだ。 そしてそれは、たとえ誰も見ていない時であっても努力することから始まるのである。
2013年のオールスター休みの際、イチローがヤンキースタジアムに練習に行ったという話がある。
しかしその日はコンサートが予定されていて準備のため球場が使えなかった。 それを聞いたイチローはセントラルパークにキャッチボールをしに行った、というのである。
そして2014年の10月、とうとう私は現役を引退した。その数日後、ロッカーを整頓するために ヤンキースタジアムに戻った。スタッフはまだ数人残っていたがスタジアムは静かだった。 チームはプレーオフに進めなかった。選手の多くはシーズンが終わるや否や休暇をとり、 そして12月か1月までリラックスする。
私がロッカーを整理していると、イチローの姿が見えた。バッティングケージに向かっているところだった。 「あいつ、少なくとも2,3日は休んだんだろうなあ。」と思ったことを今でも覚えている。 もうイチローは流暢な英語が話せた。一応まだ通訳は付いていたが、ほとんど必要なかった。 だから二人で話す機会もかなり多くなっていた。
その中でも忘れられないのが、2012年のアリーグ決勝シリーズ第1戦である。 そう、私が足首を骨折したあの試合である。12回、ゴロを捕りに行った時、足首にボキッという音がした。 試合は降板し、レントゲンとアイスのあるクラブハウスに退いた。 タイガースが12回に2点を入れ、ヤンキースは6-4で敗北。試合後少し経ってから、 私は着替えをして自分の考えを整理するため、クラブハウスの隣にある小さな部屋に入った。 するとイチローが通訳を連れて入って来て、横に座った。イチローは私の足首の様子を聞いてきた。
「骨折してる。もう終わりだ。」
イチローは頷いたが、無言だった。足首をアイスで冷やし終えた私は、ゆっくりしていた。 どうせ急ぐ必要もないのだから。試合には負け、そして次のシーズンまでプレーすることもできない。 しばらくするとクラブハウスもほぼ空っぽになった。 イチロー、通訳、そして私だけがその小さな着替え部屋で座っていた。 イチローはまだユニフォームのままだった。 私は持ち物をまとめ、帰るために松葉杖をついて立ち上がった。 その時私はやっと気づいたのだった。イチローは私を待ってくれていたのだと。 私が立ち上がるとイチローも立ち上がって、私が帰るのを見守ってくれた。
あれが私に対する敬意の表現なのかどうか、私にはわからない。 あの夜、イチローもただゆっくりしていたのかも知れない。それはイチローに聞かないとわからない。
しかしイチローがあの日、私に言わんとしていたことを私はちゃんと知っている、と信じたい。 長い間、何度も交わしたセカンドベースでの軽い会話、その後チームメートして過ごした年月、 そのようなことを考えると、あの夜の、ふたりの間の沈黙のあの時間こそ、私にとって何よりも心に残っている。
アスリートとして、また人間としてのイチローを私が思い返すとき、 何よりもあの夜のことを私は思い浮かべるのである。
マイ・ハッツ・オフ。私はイチローに敬意を表する。人生で一度会えるかどうかという人間である。 イチローのような人間は見たことがない。もっと正直に言うと、イチローのような人間に再び会うことはないだろう。
近々、オフ・タイムを存分に楽しんでくれ。」とイチローに言いたい自分がいることは確かだが、
彼はそんな言葉を聞きたがらないだろう。「オフ・タイム」がどのようなものであるか、 イチローには想像できないのかも知れない。
デレク・ジーター(署名入り)
出典:MLB NEWS