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サチェル・ペイジ
サチェル・ペイジ(1949年) | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | アラバマ州モービル |
生年月日 | 1906年7月7日 |
没年月日 | 1982年6月8日(75歳没) |
身長 体重 | 6' 3" =約190.5 cm 180 lb =約81.6 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
初出場 | MLB / 1948年7月9日 |
最終出場 | MLB / 1965年9月25日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選出年 | 1971年 |
選出方法 | ニグロリーグ特別委員会選出 |
リロイ・ロバート・ペイジ(Leroy Robert "Satchel" Paige , 1906年7月7日 - 1982年6月8日)は、アメリカ合衆国アラバマ州モービル出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。
野球の歴史上最高の投手のひとりとされる。ニグロリーグにおけるカリスマ性は、メジャーリーグのベーブ・ルースと並び称される[1]。
来歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
ペイジは1906年、アラバマ州モービルのスラム・サウスベイで庭師の父と内職を営む母との間に、12人兄弟の7番目として生まれた。貧しい家庭に育った。
本名はリロイ・ロバート・ペイジ(Leroy Robert Paige)。「サチェル」というのはニックネームでその由来は諸説あるが、少年時代に荷物運びで長い棒に複数の荷物をかけて持ち運ぶという仕事をしていたため、友人から「歩くサッチェル・ツリー(ショルダーバッグをぶら下げておくハンガーのこと)」と言われていたからという説が最も有力であり、それ以来この名前で通したという。
1918年、12歳のときに万引き癖のため実業学校に入らされたペイジは、そこでエドワード・バードの指導のもとピッチングスキルを身につけた。1923年、兄・ウィルソンが所属していたセミプロチーム、モービル・タイガースに入団する。チームには後にニグロリーグのスタープレーヤーとなったテッド・ラドクリフ、ボビー・ロビンソンもいた。
ニグロリーグ時代[編集]
ニグロリーグ時代には約2500試合に登板、2000勝以上をあげ、うち完封勝利は350以上、ノーヒットノーラン55試合など、にわかには信じがたい成績が伝えられている。一説にはこれは中南米の野球チームとの交流戦などをすべて含めた数字ではないかとも言われているが、それを差し引いても傑出した名投手だったのは確かであろう。上手、横手、下手どこからでも投げ分けることが出来、投球練習の際、ホームベース上に置いた煙草の箱の上をボールが通過するほどコントロールに優れていたという。
球速の計測記録は残っていないが、160km/hを投げていた速球王ボブ・フェラーが「サチェルの投げるボールがファストボールなら、俺の投げるボールはチェンジ・アップだよ」と発言している。フェラーの速球を見た全ての関係者が170km/hを超えていたと証言している事から、極めて速い球を投げていたと推測される。ペイジとノーラン・ライアン両者の球を受けた捕手は179km/h位ではないかとコメントしている。
記録が不確かで伝説の域を出ないが、全打者三振になりそうな試合で、最後の打者が振り逃げで28連続三振になった、9回裏にわざと走者をためて無死満塁にし、しかも野手を全員ベンチへ引き上げさせて打者に勝負を挑んだなどの逸話がある。それ以外にも「今から9人連続三振を取る」と宣言して達成したり、野手全員をマウンドの周りに座らせて投げるなどショーマンシップにも長けていた。
1930年には、メジャーリーグ選抜との交流戦で22奪三振完封勝利を記録している。しかし、ベーブ・ルースとの対戦の機会は無く、晩年になっても残念がっていたという。ただし、ベンチからペイジの投球を見ていたベーブ・ルースの顔が青ざめていったとの証言が複数残っている。なお、「記録がはっきりしている1934年は105試合で104勝を挙げている」と言われることがあるが、この年のペイジの公式戦成績については主にニグロ・リーグの強豪ピッツバーグ・クロフォーズに所属し、独立リーグのキューバン・ホース・オブ・デイヴィッドでの成績と合わせ13勝2敗という記録が残っている[2]。