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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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尾崎豊が、その歌とはまったく異なり、お行儀のよい若者だったこと、つまりその歌の歌詞は完全なフィクションだったことは知られているが、これは普通なら当たり前である。しかし、彼の悲劇は、その歌詞と彼自身が同一視され教祖的存在になったことである。そのために彼の低迷期と死に至った覚せい剤乱用が生じたのだろう。

(以下引用)


特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた[27][28]校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが露呈していた時代世相と相まって一部の若者の間で社会現象となる[27][注釈 4]。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。

無期限活動休止 -覚醒剤取締法違反で逮捕−完全復活[編集]

一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する[1][5]。当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する[29]。そんな中で所属事務所が立ち上げたレコード会社への移籍が決定[1][5]、プロデューサーの須藤ら懇意にしていた音楽スタッフとも離れてしまい、新しいアルバムの制作は何度も中断された[29]。その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライブツアーが始まるも、9月に肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる[1][13]。その年の暮れには覚醒剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷[30]、バックバンド「Heart Of Klaxon」のメンバーとも関係が悪化する[30]。復帰後にリリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演を行い、東京ドームにて復活ライブを行うが、同時期に制作していたアルバム『街路樹』は発売延期を繰り返し、シングル「核 (CORE)」の完成度を含め満足のいく活動からは程遠かった。


一方プライベートでは一般人の女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBS・ソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。しかし同時に事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく[31]、尊敬する浜田省吾の個人事務所であるロード&スカイも短期間で契約を解除した[31]。個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を立ち上げるも経営面の管理のほかにプロモートからライブスケジュールを自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送る中で、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった[32]。その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年(平成3年)末に母親が急死。交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。


20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。

26歳での突然死[編集]

1992年(平成4年)4月25日(土)早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを、家主の妻に発見された[33]。5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる[34]。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが[35]、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る[35]。しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した[1][36][37][38]。死因は肺水腫[39](詳細は後述)。


  • 1988年(昭和63年)
  • 1992年(平成4年)
    • 4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて泥酔状態で発見され、警察に通報される。救急車で墨田区の白鬚橋病院に運ばれ診察を受け、妻と兄とともに自宅マンションに帰宅する。その後、夫人、兄、マネージャーが見守るなか、自宅マンションで暴れたり眠ったりを繰り返しながら、突如危篤状態となり、救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容される。蘇生措置がされるが午後0時6分に死亡[1]。26歳没(享年27)。
    • 4月30日、東京都文京区護国寺で行われた追悼式には3万7,500人ものファンが詰めかけた。

人物[編集]

クールで尖ったイメージのある尾崎だが、プライベートの尾崎は明るい好青年であった。


当時はロックバンド「OZONE」でボーカルとして活躍し、尾崎と同じCBS・ソニーに所属していた俳優の坂上忍は、インタビューで「尾崎はいつも暗い顔して写真に写ってたけど、プライベートはホントに明るくて。こっちのほうがよっぽど暗かったですから。『忍ちゃーん!』とか言って登場して来るぐらいですからね」と語っている[51]。別の対談では、坂上は尾崎のファースト・アルバムを聴いて「クドくない?」と思ったという。坂上は一度だけ尾崎と2人きりで飲む機会があったが、そこで尾崎から「もう曲が書けない」という本音を聞いた。それでも尾崎が(吉川晃司本田恭章を含めた)4人の中では最後まで歌い続けるだろうと思ったが、26歳の若さで誰よりも先に亡くなるとは信じられなかったと語っている[52]


2013年(平成25年)12月1日にWOWOWで放送された『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY』で、尾崎の曲のアレンジャーも務めたギタリストの町支寛二は「話を交わすときはいつも純真な青年ってイメージで。だから初めてライブを観に行ったとき、スイッチがひとつ入っちゃう感じに鳥肌が立ちましたね」と述べた。また、RED WARRIORSの小川清史は「リハーサルの間に「実は尾崎、俺『Bow!』って曲凄く好きなんだ」って言ったら、顔をくしゃくしゃにして『本当?』って喜んでくれて」と語っている[53]


1991年(平成3年)の「1991 BIRTH TOUR」のサポート・ベーシストを務めた渡辺茂は「初対面のときに、それまでいろんな仲間から変わってる奴だと散々聞いてたが、普段は礼儀正しくて大人しかった。でもステージの上では破壊的で、跳ぶわ、ピアノの上に寝るわでびっくりしました」と述べた。サクソフォーンを担当した関誠一郎は「服装は派手だけど、普通の人で、気さくな感じだ」と、パーカッションの里村美和は「熊本(熊本県・阿蘇で行われたロックイベントBEAT CHILDのこと)で僕が佐野元春とやってるときに初めて会ったんだけど、真面目で礼儀正しいやつだと思った」と語っている[54]


また、10代のころは尾崎自身のカリスマ性やイメージを保つために、写真はすべてモノクロームで掲載され、笑顔の写真も自粛された。

死因について[編集]

当初の公表と死体検案書との乖離
初めは事件性がないとして行政解剖が行われる予定だった。しかし千住署、警視庁、検察庁が前日夜に協議した結果、全身にすり傷があり右目の上にコブもあることから司法解剖に切り替えられ、午前10時から東京監察医務院の医師らによって検視、その後解剖が行われた[58]。その結果、死因は肺に水がたまる肺水腫であると発表され、極度の飲酒によるものだと考えられた[58][59]。しかし1994年(平成6年)、司法解剖時に尾崎の体内から覚醒剤が検出されていたことが明らかとなった。覚醒剤について記された「死体検案書」がマスコミに流出すると、尾崎の死因について様々な憶測を呼んだ[59]
司法解剖医による見解
検視を担当した支倉逸人によれば、尾崎の死因は肺水腫であることのみを発表し、肺水腫の原因が覚醒剤中毒であることは伏せられていた。中毒は経時的な悪化によるものではなく、大量の覚醒剤服用(オーバードース、薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論づけられている。内臓も覚醒剤を経口摂取した形跡があり、肺にも覚醒剤中毒の症状が見られたという[60]
他殺の疑惑
尾崎の遺体には全身のほとんどに多数の傷やあざがあり、亡くなった当初は傷害致死の可能性も指摘された。しかし警察は状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他者からの暴行によって生じるものとは異なる状態であったとの記述がある。またそれを裏付けるように尾崎が転倒したり暴れて転げ回っていたという証言を警官が確認しており、このような異常行動は覚醒剤中毒者によく見られるものである。なお、支倉によれば頭部に小さな外傷性くも膜下出血も確認されているが極めて微量の出血であり、死に至るほどの重症ではなかったという[60]
1994年(平成6年)にはテレビ朝日が、流出した「死体検案書」のコピーやジャーナリストが取材した結果を元に妻と知人が覚醒剤を飲ませて殺害したとする説を主張、尾崎の死を検証する番組を製作した。ところが尾崎の妻がテレビ朝日と記事を執筆したジャーナリストを相手取り訴訟を起こしたため、番組はお蔵入りとなり放送されることはなかった[61]。結果は原告の尾崎の妻が一審・二審・最高裁すべてで勝訴した[60]。(テレビ朝日は一審判決後原告と和解)。
7年後の1999年(平成11年)には週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施されている尾崎の写真と死体検案書が掲載された。しかし、この記事は検死を行った支倉に対して一切の取材を行わずに書かれたものであったことが著書で述べられている。支倉は著書内で覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには酒と同じくらい不確実性が高いと述べている[60]
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