元プロレスラーで参議委員議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。
力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。89年には参議選で初当選した。近年は腰の手術に加えて心臓の難病「全身性アミロイドーシス」も患い、入退院を繰り返していた。
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晩年は自ら“最強の敵”と語る病魔との格闘だった。猪木さんは19年6月の政界引退直後の同8月に最愛の田鶴子夫人を亡くした。同時期に自身も腰を手術。同9月には数万人に1人の確率で発症する「全身性アミロイドーシス」と診断された。タンパク質線維が心臓に沈着して、多臓器不全などを発症する難病で、20年11月以降は感染症や腸捻転なども併発。新型コロナウイルスにも感染して「何度も死にかけた」と明かしていた。近い関係者によると、猪木さんは今月にもテレビ番組収録の予定が入っていたが、この2、3日で体調が急に悪化したという。そして1日朝までに死去したという。
深刻な病状の中、22年5月には青森県十和田市に建立した「アントニオ猪木家の墓」の建立式を兼ねた田鶴子夫人の納骨式に参列。同8月28日には東京・両国国技館で行われた「24時間テレビ45愛は地球を救う」(日本テレビ系列)にも車いすに乗って出演。「本当は起きる状態ではないんですが、私も皆さんにお会いすることで、元気をもらいました」と語っていた。
病魔に侵された痛々しいやせ衰えた姿を、あえてSNSで発信し続けた。その理由について本人は「かっこ悪い姿でも別にいいんですよ。かつてのファンは逆の反応で、手紙には『かっこいい、かっこいいと』。そう思ってくれている以上は頑張る」。さらに「そのときそのときにやりたいということを、逃げずにやる」とも語っていたが、病は着実に進行していた。
力道山にスカウトされて60年にプロレスデビュー。同期のジャイアント馬場さんが脚光を浴びる中、なかなか芽が出なかったが、67年に馬場さんとのタッグ“BI砲”でインターナショナル王座を獲得。一躍人気レスラーになったが、後年の本紙の取材に猪木さんは「馬場さんの女房役に徹した。エゴを隠して戦い続けていたが、次第に我慢できなくなった」と当時の本音を吐露していた。
71年12月、会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスを追放されると、翌72年に新日本を旗揚げ。4カ月後に全日本を旗揚げした馬場さんと敵対した。海外人脈を生かして人気外国人レスラーを集めた馬場さんに対し、猪木さんはストイックに強さを追求するストロングスタイルを掲げた。国際プロレスのエースだったストロング小林との一騎打ちを実現させるなど、当時タブー視されていた日本人対決にも積極的だった。
一方で「プロレスに市民権を」と訴えて、他の格闘技の王者たちとの異種格闘技戦に乗り出した。柔道のウィリアム・ルスカ戦、ボクシングのムハマド・アリ戦はプロレスの枠を超えて注目された。後に猪木さんは「アリ戦をなぜやったのか。それはプロレスへの劣等感。オレらの時代は八百長論ばっかり。だから誰もが認めるアリと戦えば、プロレス全体のステータスが上がると考えた」と本紙に明かしている。
その異種格闘技戦で連戦連勝、プロレスでもアンドレ、ハンセン、ホーガンら強豪と数々の名勝負を繰り広げ、猪木さんは伝説のプロレスラーとして不動の地位を築いた。
その知名度を生かして、全盛期を過ぎた89年に参院選に初当選。その後は「猪木祭り」を開催するなど格闘技のイベントプロデューサーとしても手腕を発揮。ソ連やイラク、北朝鮮でもプロレス興行を実現させた。10年には日本人として初めて世界最大の団体WWEの殿堂入り。その偉大な功績は世界からも高く評価されていた。