ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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上に書いたタイトルは、日本公開時には「500日のサマー」となっていて、「500日の夏」って何だよ、と私は人知れず腹をたてたのだが、映画そのものは見ていないし、見る気もしなかった。単に「変な日本語」が嫌い、というだけである。
下の引用は、その映画を論評した「Flajile」(綴りはうろ覚え)というサイトから引用したものだが、映画そのものより、ここに書かれた或る種の女性の精神のあり方が、面白い。おそらく、かなり正直に書いていると思う。このサイトの英語の綴りが「fragile」なら、「繊細な(壊れやすい)」意味だから、この女性は自分自身を的確に表現しているのではないか。
もしかしたら、この引用はこのブログで二度目かもしれない。
(以下引用)赤字は私(当ブログ筆者)による強調。
(500)日のサマー
(500) Days of Summer/監督:マーク・ウェブ/2009年/アメリカ
ディズニープラスで鑑賞。劇場へは足を運んでおらず、初見は配信でした。今回で観るのが2回目になります。
あらすじ:恋だった。
※ネタバレしています。 注意書きをしていません。
冴えない青年トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)が趣味の合いそうな女の子、サマー(ズーイー・デシャネル)に一目惚れをするお話。時系列がバラバラになっており、物語は2人が別れるところから始まります。サマーとの1日1日が、トムにとっては大切な日々であったということを思い知るんですね。モテる女の子にはモテるだけの理由があって、その魅力は誰もを魅了してしまいます。
この映画はのちに『モテキ』(2011年)に影響をあたえました。ついでに『モテキ』の話をすると、良いところも悪いところもあれど、『(500)日のサマー』に欠けていた「女性側の言い分」が入っているところが、『(500)日のサマー』より良かったかなと思います。でも、あえてサマーの言い分を入れなかった意図もわかります。物語の軸がぶれますから。
趣味が合うという理由で人を好きになるとき、趣味以外のことが合わなくても、ある程度は許容すると思うんですね。私はそうでした。なににせよこの映画を語ろうというとき、自分の話を抜きにしては言葉が出てこないのです。なぜなら、私にはサマーの気持ちしか理解できず、トムに感情移入している人とこの映画の話をすると喧嘩になってしまうんですよ。だからずっと避けていました。もう公開から10年以上経っているし、私もそのぶん歳を取りましたので、もういいかなと思って書いている次第です。
私には、サマーのようなときが過去にありました。私は異性愛者で、男性がいつもそばにいてくれて自分に惚れている状態が好きでした。笑顔で相手をコントロールし、傷つくことを避け、かわりに相手を傷つけて、でもそれが悪いとは全く思っていない。他者に対するリスペクトがなかったんです。相手も自分と同じ、血の通った、涙を流す人間だということさえも、きちんと理解していなかった。なぜそんな女になってしまったかというと、時はさかのぼって14歳のころの話になるのですが、これはあまりにも私の中で大きなトラウマの話なので、安易に語ることができません。
ざっくり言うと、自分に価値がないと思っていたんですね。価値がないから、人と真面目に付き合うことができない。自己肯定感の低さゆえだったと思います。にっこり笑ってなにもかもをやりすごし、にっこり笑って相手が自分に惹かれていくのを楽しむ。男性からの恋愛感情を受け止めることでしか、自分の価値を実感することができなかった。サマーもそうだ、とは言いません。映画の中で描かれないことを推測するのはただの妄想ですから。
座ったトムの膝の上に自分の足を乗せたり、公園で「ペニス!」と叫んだりするようなところも、私は、これはかつての自分のことかな……と思ってしまうんです。なお、相手の膝の上に自分の足を乗せるのは今もやりますが、さすがに「ペニス!」と叫ぶことはありません。シンプルにやべえやつですからね。
変わった人だ、と思われたかったんです。今ならそれを簡単に表現できるミームがあります。「おもしれー女」ってやつです。モテるモテないに外見は関係ないと思っています。相手の興味を、どのような形であれ惹くことができればいいというだけだと思っています。
関係に名前をつけたがるトムと、そんなことどうでもいい、幸せなんだからと言うサマー。サマーの態度は逃げに見えるでしょう。
私はよく恋愛をパフェに例えます。
私は恋愛をパフェのようなものだと思っていて、上の方の、キラキラして華やかで果物がきれいに乗っている、おいしいところだけを食べているのが一番良いと思っている。パフェは下の方もまあおいしいが、だんだん色んなものが混じってしまってコーンフレークでごまかされた気もしてしまう。(略)これはもうどうしようもないことだ。パフェの上の方だけ食べて生きていくことはできない。
花束みたいな恋をした/私のような貴方との恋 | 映画感想 * FRAGILE
サマーは私と同じで、恋愛のキラキラした美味しいところだけ食べていたいんだと思います。関係に名前がつき、第三者から恋人同士と認識され、次第に将来のことを考えたりしていくうち、それが破綻してしまうのを嫌がっているのではないのかなと。そうだとしたら、彼女が思わせぶりな態度ばかりとって、キスやセックスやちょっとした「好き」という言葉でトムを束縛していくことに不思議はないんです。深入りせず、美味しいところだけ楽しむ。享楽的と思えますが、そうすることで自分を守っているんだとも思うんですよね。
最後のほう、「サマーが他の人と結婚したことをわざわざ改めて報告する理由がわからない」と言われたことがあります。これは私はよく分かる話で、この場合の私の立場はトム側なんですよね。
一時期、男性の友人が結婚する直前に私に会いたがって、食事をしたひとが2〜3人いました。そういうふうに会った人の中で、今も良好な友人関係を続けていられている人はいません。このことについて「RPGをやっているとき、ラスボス戦直前に『そういえば、最初の村にあった宝箱には何が入っていたんだろう』って思って開けに行くようなものですよ」と言われ、爆笑しながら納得したことがあります。私が男性の気持ちを慮ることがなかったように、一部の男性は私の気持ちを慮ることがなかった。お互い様だと思いますね。
下の引用は、その映画を論評した「Flajile」(綴りはうろ覚え)というサイトから引用したものだが、映画そのものより、ここに書かれた或る種の女性の精神のあり方が、面白い。おそらく、かなり正直に書いていると思う。このサイトの英語の綴りが「fragile」なら、「繊細な(壊れやすい)」意味だから、この女性は自分自身を的確に表現しているのではないか。
もしかしたら、この引用はこのブログで二度目かもしれない。
(以下引用)赤字は私(当ブログ筆者)による強調。
(500)日のサマー
(500) Days of Summer/監督:マーク・ウェブ/2009年/アメリカ
ディズニープラスで鑑賞。劇場へは足を運んでおらず、初見は配信でした。今回で観るのが2回目になります。
あらすじ:恋だった。
※ネタバレしています。 注意書きをしていません。
冴えない青年トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)が趣味の合いそうな女の子、サマー(ズーイー・デシャネル)に一目惚れをするお話。時系列がバラバラになっており、物語は2人が別れるところから始まります。サマーとの1日1日が、トムにとっては大切な日々であったということを思い知るんですね。モテる女の子にはモテるだけの理由があって、その魅力は誰もを魅了してしまいます。
この映画はのちに『モテキ』(2011年)に影響をあたえました。ついでに『モテキ』の話をすると、良いところも悪いところもあれど、『(500)日のサマー』に欠けていた「女性側の言い分」が入っているところが、『(500)日のサマー』より良かったかなと思います。でも、あえてサマーの言い分を入れなかった意図もわかります。物語の軸がぶれますから。
趣味が合うという理由で人を好きになるとき、趣味以外のことが合わなくても、ある程度は許容すると思うんですね。私はそうでした。なににせよこの映画を語ろうというとき、自分の話を抜きにしては言葉が出てこないのです。なぜなら、私にはサマーの気持ちしか理解できず、トムに感情移入している人とこの映画の話をすると喧嘩になってしまうんですよ。だからずっと避けていました。もう公開から10年以上経っているし、私もそのぶん歳を取りましたので、もういいかなと思って書いている次第です。
私には、サマーのようなときが過去にありました。私は異性愛者で、男性がいつもそばにいてくれて自分に惚れている状態が好きでした。笑顔で相手をコントロールし、傷つくことを避け、かわりに相手を傷つけて、でもそれが悪いとは全く思っていない。他者に対するリスペクトがなかったんです。相手も自分と同じ、血の通った、涙を流す人間だということさえも、きちんと理解していなかった。なぜそんな女になってしまったかというと、時はさかのぼって14歳のころの話になるのですが、これはあまりにも私の中で大きなトラウマの話なので、安易に語ることができません。
ざっくり言うと、自分に価値がないと思っていたんですね。価値がないから、人と真面目に付き合うことができない。自己肯定感の低さゆえだったと思います。にっこり笑ってなにもかもをやりすごし、にっこり笑って相手が自分に惹かれていくのを楽しむ。男性からの恋愛感情を受け止めることでしか、自分の価値を実感することができなかった。サマーもそうだ、とは言いません。映画の中で描かれないことを推測するのはただの妄想ですから。
座ったトムの膝の上に自分の足を乗せたり、公園で「ペニス!」と叫んだりするようなところも、私は、これはかつての自分のことかな……と思ってしまうんです。なお、相手の膝の上に自分の足を乗せるのは今もやりますが、さすがに「ペニス!」と叫ぶことはありません。シンプルにやべえやつですからね。
変わった人だ、と思われたかったんです。今ならそれを簡単に表現できるミームがあります。「おもしれー女」ってやつです。モテるモテないに外見は関係ないと思っています。相手の興味を、どのような形であれ惹くことができればいいというだけだと思っています。
関係に名前をつけたがるトムと、そんなことどうでもいい、幸せなんだからと言うサマー。サマーの態度は逃げに見えるでしょう。
私はよく恋愛をパフェに例えます。
私は恋愛をパフェのようなものだと思っていて、上の方の、キラキラして華やかで果物がきれいに乗っている、おいしいところだけを食べているのが一番良いと思っている。パフェは下の方もまあおいしいが、だんだん色んなものが混じってしまってコーンフレークでごまかされた気もしてしまう。(略)これはもうどうしようもないことだ。パフェの上の方だけ食べて生きていくことはできない。
花束みたいな恋をした/私のような貴方との恋 | 映画感想 * FRAGILE
サマーは私と同じで、恋愛のキラキラした美味しいところだけ食べていたいんだと思います。関係に名前がつき、第三者から恋人同士と認識され、次第に将来のことを考えたりしていくうち、それが破綻してしまうのを嫌がっているのではないのかなと。そうだとしたら、彼女が思わせぶりな態度ばかりとって、キスやセックスやちょっとした「好き」という言葉でトムを束縛していくことに不思議はないんです。深入りせず、美味しいところだけ楽しむ。享楽的と思えますが、そうすることで自分を守っているんだとも思うんですよね。
最後のほう、「サマーが他の人と結婚したことをわざわざ改めて報告する理由がわからない」と言われたことがあります。これは私はよく分かる話で、この場合の私の立場はトム側なんですよね。
一時期、男性の友人が結婚する直前に私に会いたがって、食事をしたひとが2〜3人いました。そういうふうに会った人の中で、今も良好な友人関係を続けていられている人はいません。このことについて「RPGをやっているとき、ラスボス戦直前に『そういえば、最初の村にあった宝箱には何が入っていたんだろう』って思って開けに行くようなものですよ」と言われ、爆笑しながら納得したことがあります。私が男性の気持ちを慮ることがなかったように、一部の男性は私の気持ちを慮ることがなかった。お互い様だと思いますね。
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