ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
(11/21)
(11/21)
(11/21)
(11/20)
(11/20)
(11/19)
(11/19)
(11/19)
(11/18)
(11/18)
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
P R
カウンター
小説のアニメ化がなぜ少ないのか、という議論のスレッドのコメントのひとつだが、別に「いいコメント」だというわけではなく、よくあるコメントの代表として載せただけである。
小説が原作で最良の結果を出したアニメが高畑勲の「赤毛のアン」だと思うが、これは当時は男女を問わず共通のイメージ把握ができていたことが大きいと思う。アニメをやる者なら児童文学はたいてい読んでいるわけだ。これは、当時はアニメの対象が子供だったからである。
だが、大人向けの小説となると、共通イメージを作るために全員がその本を読むのが大変だから、読めるのはせいぜいが短編小説となる。これが、同じく高畑勲の「火垂るの墓」が成功した理由だろう。
話はアニメには限らない。原作が小説である映画は、ほとんどが失敗しているのである。これはハリウッドの場合、監督自身が「言われて作っている」だけで、その原作小説をたいして好きでもないからだろう。他のスタッフも同じだ。日本も似たようなものだろう。
世界文学の中にはとてつもない傑作がゴロゴロしているが、それをアニメ化して成功することは難しいだろう。ひとつには、傑作文学は文章自体が精緻な芸術品であり、それはアニメ化や映画化は不可能だからだ。
アニメ化や映画化に適しているのは、筋が大きな意味を持っている短編小説だろう。ただ、それも、たとえばサキの小説を映画化したら、何の面白みもないだろうと思う。これは、やはり文章の雰囲気は映像化できないためだと思う。要するに、映像は「すべてを見せてしまう」という欠点があるのである。だから、言葉による魔術とは別だ。
小説のイメージは読者が脳内で作るものなのである。映像は最初からイメージを提供するから「読者の参加」が無い。もちろん、視聴者の参加を要しない「圧倒的な映像の魔力」というものもあるが、それは小説の「言葉の魔力」とは別である。つまり、「映像の魔力」は作り手の才能が圧倒的な場合だけ存在するのであり、稀だ。まあ、才能を云々するなら小説も同じではあるが、映画やアニメは「時間芸術」だから、読者がゆっくり反芻できる小説とは違うのである。
(以下引用)
化物語も響けユーフォニアムも内容はラノベだな
それはさておき理由はだいたいこんなところだな
マンガ原作と違ってアニメ化してもあまり本が売れないから
映像化する時に必要なイメージの共有が小説原作だと困難だから
(メインスタッフ全員が小説を読み込む必要があるので単純に時間がかかる。また絵は描けても文章を理解できない人は意外なほど多い、デザインに金がかかる。)
映像化する時に必要な細部も含めて映像尺の把握が困難でスケジュールコントロールが難しいから
(マンガの場合は単行本のここからここまでの指定で比較的用意伝えられるし再チェックも容易にできる。マンガの単行本を物理的に切って絵コンテ代わりにしたアニメ、便宜上脚本家はいることになっているが実際にはおらずマンガの台詞から台本起こしたアニメもある。小説の場合は心的変化が物語の鍵になっていることも多く、物語をアニメ用にリビルドするのがマンガに比べて困難。また小説では微妙な変化や仕草を物語の鍵にすることも多いが日本のリミテッドアニメは手法的にこれを苦手とする。逆にオーバーリアクションが多いマンガとの相性が良い)
小説が原作で最良の結果を出したアニメが高畑勲の「赤毛のアン」だと思うが、これは当時は男女を問わず共通のイメージ把握ができていたことが大きいと思う。アニメをやる者なら児童文学はたいてい読んでいるわけだ。これは、当時はアニメの対象が子供だったからである。
だが、大人向けの小説となると、共通イメージを作るために全員がその本を読むのが大変だから、読めるのはせいぜいが短編小説となる。これが、同じく高畑勲の「火垂るの墓」が成功した理由だろう。
話はアニメには限らない。原作が小説である映画は、ほとんどが失敗しているのである。これはハリウッドの場合、監督自身が「言われて作っている」だけで、その原作小説をたいして好きでもないからだろう。他のスタッフも同じだ。日本も似たようなものだろう。
世界文学の中にはとてつもない傑作がゴロゴロしているが、それをアニメ化して成功することは難しいだろう。ひとつには、傑作文学は文章自体が精緻な芸術品であり、それはアニメ化や映画化は不可能だからだ。
アニメ化や映画化に適しているのは、筋が大きな意味を持っている短編小説だろう。ただ、それも、たとえばサキの小説を映画化したら、何の面白みもないだろうと思う。これは、やはり文章の雰囲気は映像化できないためだと思う。要するに、映像は「すべてを見せてしまう」という欠点があるのである。だから、言葉による魔術とは別だ。
小説のイメージは読者が脳内で作るものなのである。映像は最初からイメージを提供するから「読者の参加」が無い。もちろん、視聴者の参加を要しない「圧倒的な映像の魔力」というものもあるが、それは小説の「言葉の魔力」とは別である。つまり、「映像の魔力」は作り手の才能が圧倒的な場合だけ存在するのであり、稀だ。まあ、才能を云々するなら小説も同じではあるが、映画やアニメは「時間芸術」だから、読者がゆっくり反芻できる小説とは違うのである。
(以下引用)
化物語も響けユーフォニアムも内容はラノベだな
それはさておき理由はだいたいこんなところだな
マンガ原作と違ってアニメ化してもあまり本が売れないから
映像化する時に必要なイメージの共有が小説原作だと困難だから
(メインスタッフ全員が小説を読み込む必要があるので単純に時間がかかる。また絵は描けても文章を理解できない人は意外なほど多い、デザインに金がかかる。)
映像化する時に必要な細部も含めて映像尺の把握が困難でスケジュールコントロールが難しいから
(マンガの場合は単行本のここからここまでの指定で比較的用意伝えられるし再チェックも容易にできる。マンガの単行本を物理的に切って絵コンテ代わりにしたアニメ、便宜上脚本家はいることになっているが実際にはおらずマンガの台詞から台本起こしたアニメもある。小説の場合は心的変化が物語の鍵になっていることも多く、物語をアニメ用にリビルドするのがマンガに比べて困難。また小説では微妙な変化や仕草を物語の鍵にすることも多いが日本のリミテッドアニメは手法的にこれを苦手とする。逆にオーバーリアクションが多いマンガとの相性が良い)
PR
この記事にコメントする