最後の、ヴォネガットの創作法メモが面白い。
ただし、これは大衆小説、つまり「読者中心の小説」の創作法であり、商業作家、職業作家ならこれでいいが、「自分自身のための小説」には当てはまらない創作法だろう。そして、実は、読者無視で自分自身が楽しむために書いた小説のほうが、読者優先の作品よりも傑作になる事例が多いのである。たとえば、夏目漱石の初期小説は、明らかに、書いた本人が誰より楽しんで書いていた。そして、日本で純文学、特に私小説と呼ばれているものは、実は読者のためでも自分自身のためでもなく、文芸評論家や同業者の目しか頭に無いことが多い。つまり、文学ギルド内での「文学的評価」だけが創作動機という卑しい作品だ。
(以下引用)
20071102(Fri)
■[BOOK]バゴンボの嗅ぎタバコ入れ / カート・ヴォネガット
- 作者: カートヴォネガット,Kurt Vonnegut,浅倉久志,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/09
- メディア: 文庫
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■ヴォネガット最後の短篇集
カート・ヴォネガット最後の短篇作品集。とは言っても執筆された年代は1950~63年のごく初期のものであり、雑誌掲載作品などオリジナル原稿の存在しない作品を研究家が地道に集めて編纂されたものであるという。そういった意味で作者の落ち穂拾い的な習作作品を想像して読み始めたのだが、どうしてどうして、どの短篇にもヴォネガットらしさがたっぷり詰まった珠玉の作品集となっている。むしろ、最初っからヴォネガットはやっぱりヴォネガットだったんだなあ、と思わせる優しさや暖かさが伝わってきて、ヴォネガットよ、本当にこれが最後になっちゃうのかい、などと改めて惜別の念に駆られてしまった。
確かにテクノロジーの取り扱い方やアメリカ家庭の描き方には時代を感じさせるものがあるにせよ、それがヴォネガットの作品世界を遜色させる事は決してない。むしろ短篇だからこそ、人間の営み、愛情や心の痛みというものは、一層くっきりと描かれている。アメリカ50年代の高級紙に掲載されていた作品ばかりということからか、どれも分かりやすく、中庸で、そして何より素晴らしい事に、どの作品も、読後感が非常に良い。ヴォネガットといえばシニシズムやニヒリズムを思い浮かべるけれども、そういった作家エゴをおくびに出すことなく、徹底して商業作家としての手腕を発揮した作品ばかりだ。
■”効率主義”への視線
では作家エゴを押さえたこれらの作品のどの辺にヴォネガットらしさを感じるのかというと、それは処女長編《プレイヤーピアノ》に代表されているような、効率主義に対する冷ややかな眼差しだろう。これはよくヴォネガットの”文明批判”と呼ばれがちなものだけれども、ちょっと大仰な響きがあるから、あえてこの言葉は使いたくない。確かに長編作品におけるヴォネガットは”文明批判の人”であったり”世界を憂える人”であったりするのだが、ヴォネガットの本質と作品の魅力は決してそこだけにあるわけではないと思うからだ。そしてヴォネガットが効率主義を嫌うのは、「今までのやり方で十分楽しくて幸せにやってきたのに、なんでこれをゴチャゴチャと弄繰り回して、せっかちで心落ち着かない世の中に変えてしまうんだい?」なんていう、実に素朴で個人的な部分から出ているもののように感じる。なによりヴォネガットは文学者でありこそすれ、決して論客などではないからだ。そして文学というのは、まず第一に個人を扱うものなのではないか。
こういった効率主義に対して皮肉を浴びせかけ、クスリと笑わせるのが『記憶術』『パッケージ』『貧しくてゆたかな町』あたりの作品だろう。また、作者の第2次大戦の従軍体験を窺わせる『記念品』『ジョリー・ロジャー号の遭難』『あわれな通訳』などという作品もあったりする。『才能のない少年』『野心家の二年生』『女嫌いの少年』はハイスクールの鼓笛隊を主役にした連作。『恋に向いた夜』『駆け落ち』『失恋者更正会』はラブロマンスと結婚生活についての物語。こうしてみると実にバラエティ豊かだ。総じて、基本的にどの作品もコミカルでユーモラスだ。作品の感触の暖かさからは古き善きアメリカへの憧憬すら感じる。どの作品も楽しめたが、個人的には『ジョリー・ロジャー号の遭難』とタイトル作『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』のやるせなさが特に好きだった。
弄りようによっては暗く残酷な物語に持っていくことが出来そうな作品でさえ、ヴォネガットは決して主人公を不幸のどん底に落として終わりにしたりはしない。「生涯一度も本当に悪い奴を作品に登場させた事がなかった」といわれていたヴォネガットだからこそ、登場人物たちへの愛情は決して惜しまないということなのだろう。そんな中でSF作品である『死圏』『2BR02B』だけはどこまでも暗く憂鬱なのが非常に対比的だ。ヴォネガットは正確にはSF作家ではないが、これらの作品の暗さから、ヴォネガットにとってSF小説を書くということは何を意味していたのか、そしてなぜSFという設定を選ばなければそれらを表現できなかったのかを窺うことができるのではないだろうか。
■おまけ・ヴォネガット創作講座
最後に、序文でのヴォネガットによる《創作講座初級篇》をちょっと抜粋しておこう。創作に興味のある方には参考になるのではないだろうか。
《創作講座初級篇》
1.赤の他人に時間を使わせた上で、その時間は無駄でなかったと思わせること。
2.男女いずれの読者も応援できるキャラクターを、少なくとも一人は登場させること。
3.例えコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること。
4.どのセンテンスにも二つの役目のどちらかをさせること…登場人物を説明するか、アクションを前に進めるか。
5.なるべく結末近くから話を始めること。
6.サディストになること。どれほど自作の主人公が善良な人物であっても、その身の上に恐ろしい出来事を降り掛からせる――自分が何からできているかを読者に悟らせる為に。
7.ただ一人の読者を喜ばせるように書くこと。つまり、窓を開け放って世界を愛したりすれば、あなたの物語は肺炎に罹ってしまう。
8.なるべく早く、なるべく多くの情報を読者に与えること。サスペンスなぞくそくらえ。何が起きているか、なぜ、どこで起きているかについて、読者が完全に理解を持つ必要がある。たとえゴキブリに最後の何ページかをかじられてしまっても、自分でその物語を締めくくれるように。