貴ノ岩の悲劇、あるいは喜劇は、怒るべくして起こったという感がある。

はるかな昔、私は相撲界を少し知っている境遇にいたが、兄弟子が弟弟子に暴力をふるうのは、ごく普通の光景だった。

昭和の時代、「兄弟子とは無理篇にゲンコツと書く」と新聞や雑誌が書いていたものだ。何かミスをすれば殴られる。言い訳をしても殴られる。それどころか聞き返しただけで殴られる。何もなくても殴られる。
それが、相撲の世界だった。




大学野球も全く同様だった。1、2年生、いわゆる下級生は、3、4年生、上級生に殴られるために存在していたようなものだ。
古い野球選手は、「練習が終われば、一列に並ばされて片端から往復びんたを喰らったものだ」と述懐したりする。
そこには、「忌まわしい思い出」という感情は込められていない。むしろ「過ぎてしまえばいい思い出」とか「あの理不尽に耐えたから今の自分がある」と言ったりする。




海外でもそういう風習があるのかどうか、正確にはしらないが、日本のスポーツでは先輩が後輩を殴るのは犯罪にはならなかった。骨折するなど病院で治療が必要な暴力を受けても、誰も問題にしなかった。無茶苦茶である。

暴力は先輩、後輩の秩序を維持するためのマウンティングだったが、コミュニケーションとして認められていたのだ。

モンゴル出身力士の場合、数が少ないから部屋を超えて上下関係ができてしまう。彼らは民主国家に育ったわけではないから、人権の意識もコンプライアンスの意識もない。そしてモンゴルの力士は強いから、部屋も厳しく躾けなくなる。

平成の世になって、そうした異常な人間関係が問題視されるようになった。これは本当に良いことだが、いまだに古い指導者は「暴力」を賛美する傾向にある。

相撲に限らず、野球に限らず、暴力行為は一般社会の規範に照らして処罰すべきだ。選手を殴った監督は、傷害罪で告訴されるべきだ。「愛ある暴力は許される」というおよそ先進国とは思えない妄説を徹底的に粉砕すべきだ。