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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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細馬宏道による「映像研」OP分析だが、詳しく読んではいないが、違和感がある。
何より、「下手(しもて)」に敵対的存在がいる、という仮説がどうにも受け入れにくい。
確かに、歌詞の中で、「からかっていた奴ら」という部分があるのかもしれないが、アニメの中ではそういう存在はいない。単に映像研に無理解であるだけで、しかもそれは「敵」という存在ではないだろう。そもそも、現代のダンスパフォーマンスに、そのような象徴性を見出すのは無理ではないか。
いかにして、面白い動きや姿勢を作り(考案し)、それをどういう順序で構成するか、だけだろう。
いや、アニメの中では話が別だ、と言うかもしれないが、同じだと思う。
もっとも、「映像研」に関してはそう思うと言うだけで、私自身、姿勢の持つ象徴性には非常に興味があり、事象の深読みや裏読みも基本的には好ましいと思っている。(たとえば、人差し指を前方に突き出すだけで、その指の先にあるものを「指示」する、というのは人間だけに可能な行為であると言う。まさに、ここに「象徴」の文化的、文明的意義がある。つまり、「抽象化」の能力こそが人間と動物を分けるわけだ。)
ただ、関係ないものまで、「自分のお得意の土俵」に無理にねじ込むのは、「ポジショントーク」の一種に思われ、好ましいとは思わないのである。

なお、「下手」は「観客」から見て左側、というのは演劇をやる人には常識なのだろうが、一般人を相手にその言葉を使う時にはちゃんと説明する、という姿勢はいいと思う。その割には、妙なカタカナ語を説明抜きで使っている部分もあるが。



え、これから? すでにけっこう語ったのでは? いやいや、わたしはまだ問題の入口にすら立ってやしません。だって、あのひときわぐっとくる盆踊り、いや、キャラクターのダンス、というか舞いが、なぜかくも観る者の心をつかまえて離さないのか、それをただ「チープ」というひとことで説明してしまっていいのか、そこに込められたテクニックとパッションの一端を明らかにするくらいのことはしなければ、ミーム作りまくってる連中と初期衝動を分かち合うことすらできやしないではないか。というわけで、ずいぶん文字数を費やしてしまいましたが、実はここまでが話のイントロです。では、本題に入りましょう。

OP6つのカット

「映像研」OPのスタッフとしては絵コンテが湯浅政明監督、アニメーションにはAbel Gongora、木下絵李、Nick McKertowの3人がクレジットされています。わたしは一鑑賞者に過ぎないので、どのスタッフがどの作業をどんな風に進めたのかは知りません。ただ、いっけんチープに見えるこのオープニングが実はとんでもない精度でできていることは分かる。そこで、ここからは、誰の仕事か、ということはおいて、3人の舞いの部分について、あくまで映像を手がかりに分かることを考えていきます。


では、ここからちょっと地味な作業にお付き合いいただきますよ。めんどくさい奴とお思いでしょうが、ちゃんとあとで報われますからね。


「はい始まった」。


というところから「Easy Breezy」(作詞:Rachel・Mamiko、作曲:ryo takahashi・Rachel・Mamiko、編曲:pistacio studio)の3人の舞いは、始まります。舞いは、基本的には3+3=6つのカットでできています。まずは各カットに記号をつけましょう。キャラクターの登場順(金森→水崎→浅草)にイニシャルを用いて前半の3つをK1・M1・A1、 後半の3つをK2・M2・A2とします。また前半と後半は彩色が対照的なので、前半を「ノーマル」、後半を「サイケ」と呼びましょう。画面向かって右のことを「上手」、左のことを「下手」と呼び、登場人物にとっての左右と区別します。
それぞれのカットで3人は次のように動いています。


《ノーマル》
K1: 金森:下手に両掌を向け構える
M1: 水崎:下手に顔向けシェー
A1: 浅草:下手に向かってカンフーアクション、おどおどした目つき


《サイケ》
K2: 金森:下手に顔向け、右手構えてにらむ
M2: 水崎:上手に左腕水平に伸ばし、右腕上に上げてカメラ目線
A2: 浅草:上手から回転後、上手に体傾け、両腕上げ目ぱかーん


わかりやすいように模写した図をのっけておきますね。


下手に気をつけろ! ―3人世界の始まり―

3人の舞いを見て、まず最初に気づくのは、目の開閉の差です。ノーマルでは、金森(K1)も水崎(M1)もずっと目をつぶっており、浅草(A1)だけが、下手に向かって目を見開いている。これに対してサイケでは、金森は腕を構えた瞬間に目をかっと見開き(K2)、水崎はずっとカメラ目線で目を開けており(M2)、浅草は片目で上手を狙うように見てから、覚醒したように黄色い目を開きます。身も蓋もない言い方ですが、ノーマルに比べてサイケでは、3人は世界に対して目を開いている、と言えるでしょう。目の開き方にはキャラクターの特徴も出てますね。金森は睨む、水崎はカメラ目線で、浅草はウロがきたかと思うとぱかーんと覚醒する。


3人の体に、ある種の指向性があることにも注意しましょう。まず下手に対してはネガティブな指向が見られます。まず金森が下手に対して両掌を開き、拒絶を思わせるポーズをとり(K1)、水崎は下手に背を向けてシェーを決め(M1)、浅草も下手に向かってカンフーアクションかましてからウロたえた目つきでポーズする(A1)。とどめは再び金森が下手に仮想敵でも見つけたかのように、ぐっとにらみをきかせる(K2)。一方、上手にはポジティブな指向が見られます。水崎が読者モデルっぽく左腕を優雅に上手に出し(M2)、浅草は片目で上手に狙いを定めてから、上手に体を預けるようにぱかーんと笑む。大まかにいってノーマルでは下手に対するネガティブな指向が見られ、K2を経てサイケでは上手に対するポジティブな指向が見られるというわけです。


この指向性の変化は、背景の動きによっても後押しされてます。よく見るとノーマルでは背景は上手から下手に流れ、サイケでは逆に下手から上手に流れている。そのせいでノーマルからサイケに移ったときに、なんだか潮目が変わった感じがするのです。


さて、これら、3人の視線と体、そして背景に表れる動きは何を表しているのでしょう? それはリリックをきくと分かります。リリックは、次のように同期しているのです。


カット:リリック
K1: はい始まった
M1: 絡まった
A1: からかった
K2: やつらは
M2: どっかへ
A2: いっちゃった


「始まった」といいながらまだ金森は覚醒前で(K1)、「絡まった」のは水崎なんですね(M1)。金森と浅草という同級生コンビに、水崎があとから絡みだす第一話を思い出させます。そしてA1から、リリックはひとまとまりのことを言ってます。「からかったやつらはどっかへいっちゃった」。わたしはここで「桐島、部活やめるってよ」に描かれたような、スクールカーストにおける映画部の位置づけを思い出したりするのですが、それはともかく、学校において映像に打ち込んでる自分たちをバカにする「やつら」がいて、そいつらがこちらを「からかった」。その「からかい」と浅草の挙動不審カンフーアクションが同期する(A1)。浅草の目の焦点が合ってない。危うし浅草氏。しかし「やつら」に金森がにらみをきかせると(K2)潮目が変わります。「どっかへ」で水崎が溌剌と伸びをして(M2)、「いっちゃった」で浅草が「やった!」と解放的な表情になる。


オープニング前半のごく一部、合計わずか4秒足らずの6つのカットとリリックを経て、下手の不穏な「やつら」の気配は消え、3人の目は見開かれ、せいせいして、いよいよ世界が始まりました。まだ、始まったばかりです。


(つづく)


細馬宏通

早稲田大学文学学術院・文化構想学部教授。日常生活やメディアにあらわれるさまざまな声と身体の動きを研究している。著書に『ELAN入門』(ひつじ書房)、『二つの「この世界の片隅に」』『絵はがきの時代 増補新版』『浅草十二階 増補新版』(いずれも青土社)、『介護するからだ』(医学書院)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮社)など。もうすぐ大和田俊之(編著)「ポップ・ミュージックを語る10の視点」(アルテスパブリッシング)が出ます。






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