私自身はドラマ芸術(すなわち「物語」を核とする芸術)は、視聴者や読者の願望充足がその最大の美点であると考えているので、下の意見には反対だが、「願望充足」ドラマの危険性は確かに存在していると思う。
だが、通常の場合は、世間の大半の人々は現実は現実、フィクションはフィクションと「心の中の棲み分け」をして生きているのであり、それでいいのではないか。
もちろん、それは「消耗品としての芸術」を大量生産するという事態につながり、現実にそうなっているのだが、もともと「本物」は昔から芸術のほんの一部でしかなかったのだ。すなわち、古典となって残る芸術は、いつの時代でもちゃんと出て来るのであり、心配はいらないのである。
(以下引用)
日本のアニメは、安価に作るために作画枚数を減らすところから出発した。それでも面白く見せるには演出の工夫が必要だった。しかもその基盤には洗練の度をきわめたマンガのコマ割りという先輩があった。そしてたちまち熟練の度を加え、アニメーション作画も巧みになって、ついに「現実には起こりえないことを、いま現実に起こっていることとして実感させる」観客巻き込み型映画の一ジャンルを見事に形成するまでになったのである。
(略)
映像の中のヒーローがいかにも英雄然としていれば、観客は自分との距離をはっきり保つことができる。ところが現在の巧みな作劇術では、一見観客と同程度の凡人に、非凡な力を発揮させ、大活躍して問題を見事に解決したり何かを達成させる。主人公を身近に感じ、自分と重ね合わせ、作品世界に没入させるためである。(略)[主人公は状況も把握せぬまま果敢に行動し]
いつの間にか身につけた超能力によって、なぜか成功する。成功するために必要なのは、的確な状況判断や戦略ではなく、「愛」や「勇気」なのだから。
子供や若者が現実社会に足を踏み出すのに勇気が要るのは今も昔も同じである。現実の状況の複雑怪奇さの前でたちまち怖じ気づいて立ちすくんでしまったり、踏み出したとたんに跳ね返されたり、しばしば劣等感にさいなまれたりする。特に状況が掴めていないと一歩も足が前に出なくて当然である。真の勇気は状況を把握することからしか生まれないのだから。さらに、実人生では、一つの技能を身につけるだけでも大変な努力が必要だ。何かを達成するためには刻苦勉励しかない。
ところが、そのようなプロセスの具体的な描写が、これらの作品群にはほとんどまったく見られない。
(略)
こういう映像を見ていくら「勇気をもらっ」たつもりになっても、現実を生きていくためのイメージトレーニングにはならないことは当然である。それどころか、[成功している素晴らしい自分という]きわめて有害なイメージを身につける危険性がある。
(略)
[現実に対処する訓練が不足し、肥大した自己イメージと現実の貧弱な自己とのギャップにさいなまれ、甘美な映像世界に逃避し、「ひきこもる」。そういう世界から卒業しないまま現実世界を生きるなら表現者・評論家になるしかない]
(略)
たとえば、個人ですべてをCG制作したことで評価された『ほしのこえ』という中編アニメがある。(略)特徴のある絵ではないしアニメートもほとんどなされていないけれども、映像の出来は決して悪くない。
私はこれをまったく評価できず、ワンアイディアによる「(子供ではなく)青年だまし」で、「くだらない」としか思わないが、巧みな表現によって社会性のない現代青年の心をくすぐり、琴線に触れることができたようで、売れ行きもよく、いくつか受賞もした。要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の脳天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。
[脚注:「急いで言いそえなければなければならないが、これはこの段階での評価であり、作家の道を歩み出した作者が、その社会生活のおかげで、以後、もっと社会性のある作品を作りはじめる可能性は充分にある。」]
世界に誇る文化、輸出産業などともてはやされる日本アニメ。いまや肯定的にしか語られず、ほとんど誰も心配しないけれど、それが、もし世界中に、目に見えぬ怖ろしい影響をまき散らしつつあるのだとしたら。