ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「タッチ」をずっと見直していたのだが、そろそろ最終回近くである。で、この作品の特徴を総括しておきたいが、箇条書きにしてみる。主に欠点と思うところである。
1:異常なまでの「強者尊敬」と「弱者蔑視」:たとえば、吉田や西村は「中途半端な強者」で、その虚勢ぶりが嘲笑の対象になる。特に吉田など、非常な努力によって弱者から強者になろうとしたが、その努力はほとんど認められず、「ちびの成り上がりの虚勢」として軽蔑されている。
2:異常な「ルッキズム」:まあ、これはすべての少年漫画に共通しているが、「タッチ」は特にそれが強い。西村の幼馴染など、ひどい面相、体型に描かれ、西村からもサディスティックないじめの対象となっている。最後に西村が南をあきらめ、「自分相応の彼女」として付き合うようになるが、それでも女のひどい外貌が周囲の嘲笑の対象として描かれる。
3:平凡人への軽蔑:これは「モブが最後までモブであること」で描かれる。達也が周囲の男たちを軽蔑し、軽視していることは、それがギャグめかしていても歴然としている。彼の目には南と和也と新田以外は無価値な人間とされている。孝太郎が肩を痛めた時にも、それにまったく気づかないのは、彼が孝太郎を馬鹿にし、軽視しているからである。まあ、孝太郎も馬鹿にされて当然な言動を初期にはしていたのだが、中盤以降は完全に達也の相棒である。だが、その故障に達也は気づかない。また、達也や南の周囲の大人たち、市井の人間は無責任で自己中心的で無神経な人間として描かれる。まともな大人はほとんど出てこない。これはギャグとしての面もあるが、尊敬に値する大人がほとんど出て来ないのはあだち充作品の特徴だろう。もちろん、作者のそういう個性が無ければ、その魅力も無くなるだろう。笑いの基本は嘲笑なのだから。
アニメとしては、シリーズ監督のときたひろこと総監督の杉田(杉井?)ギサブローの役割が視聴者からは見えない。たとえば、主題歌などの選定・決定は誰が決定権を持っているのだろうか。途中に、当時売れっ子だった作詞家売田雅勇の、糞みたいな歌詞(作曲家がメロディを付ける気も無かったような感じで、歌詞と曲が合わない。それに、「好きだよと、ハミングしても」のような謎のフレーズがある。ハミングでは歌詞は存在しない。つまり「好きだよ」とハミングするのは不可能。)が、最後の数回は再び康珍化の作詞、岩崎良美の歌に戻っている。康珍化も「チェッ チェッ チェッ」の歌詞で味噌をつけ、さらにその曲を使ったOPで、南のビッチぶり(セミヌード)を描いたのは監督の大失敗だったと思う。現実の女性がどうであれ、中高生の男子の理想は清純な美少女であり、ビッチではないのである。まあ、妄想の世界では別だろうが。
総括すれば、今の時代だとネットでかなり悪評を買いそうな作品で、「クロスゲーム」などのほうが評価されるのではないか。アニメ化も、かなりな成功作だった。登山少年は不要な(むしろ邪魔な)登場人物だったが。
1:異常なまでの「強者尊敬」と「弱者蔑視」:たとえば、吉田や西村は「中途半端な強者」で、その虚勢ぶりが嘲笑の対象になる。特に吉田など、非常な努力によって弱者から強者になろうとしたが、その努力はほとんど認められず、「ちびの成り上がりの虚勢」として軽蔑されている。
2:異常な「ルッキズム」:まあ、これはすべての少年漫画に共通しているが、「タッチ」は特にそれが強い。西村の幼馴染など、ひどい面相、体型に描かれ、西村からもサディスティックないじめの対象となっている。最後に西村が南をあきらめ、「自分相応の彼女」として付き合うようになるが、それでも女のひどい外貌が周囲の嘲笑の対象として描かれる。
3:平凡人への軽蔑:これは「モブが最後までモブであること」で描かれる。達也が周囲の男たちを軽蔑し、軽視していることは、それがギャグめかしていても歴然としている。彼の目には南と和也と新田以外は無価値な人間とされている。孝太郎が肩を痛めた時にも、それにまったく気づかないのは、彼が孝太郎を馬鹿にし、軽視しているからである。まあ、孝太郎も馬鹿にされて当然な言動を初期にはしていたのだが、中盤以降は完全に達也の相棒である。だが、その故障に達也は気づかない。また、達也や南の周囲の大人たち、市井の人間は無責任で自己中心的で無神経な人間として描かれる。まともな大人はほとんど出てこない。これはギャグとしての面もあるが、尊敬に値する大人がほとんど出て来ないのはあだち充作品の特徴だろう。もちろん、作者のそういう個性が無ければ、その魅力も無くなるだろう。笑いの基本は嘲笑なのだから。
アニメとしては、シリーズ監督のときたひろこと総監督の杉田(杉井?)ギサブローの役割が視聴者からは見えない。たとえば、主題歌などの選定・決定は誰が決定権を持っているのだろうか。途中に、当時売れっ子だった作詞家売田雅勇の、糞みたいな歌詞(作曲家がメロディを付ける気も無かったような感じで、歌詞と曲が合わない。それに、「好きだよと、ハミングしても」のような謎のフレーズがある。ハミングでは歌詞は存在しない。つまり「好きだよ」とハミングするのは不可能。)が、最後の数回は再び康珍化の作詞、岩崎良美の歌に戻っている。康珍化も「チェッ チェッ チェッ」の歌詞で味噌をつけ、さらにその曲を使ったOPで、南のビッチぶり(セミヌード)を描いたのは監督の大失敗だったと思う。現実の女性がどうであれ、中高生の男子の理想は清純な美少女であり、ビッチではないのである。まあ、妄想の世界では別だろうが。
総括すれば、今の時代だとネットでかなり悪評を買いそうな作品で、「クロスゲーム」などのほうが評価されるのではないか。アニメ化も、かなりな成功作だった。登山少年は不要な(むしろ邪魔な)登場人物だったが。
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