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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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# 248 ゲームの自由度
 
 テレビゲームの中で私が特に好んでやるのがロールプレイングゲームの「剣と魔法」物だということは前に書いたが、そうしたゲームの特徴は「旅と戦いと報酬」である。つまり、ゲーム世界を旅しながら敵や怪物と戦い、戦いに勝って報酬を得る、というのが基本だ。その中でもストーリー性が強いものと弱いものがあり、私が好むのはストーリー性は弱く、そのゲームの中をただふらふらとさまよっているのが楽しいというゲームだ。そうしたゲームは一般的には「自由度が高い」という。ドラゴンクエストなどは比較的自由度は高い方だが、それでもストーリーはわりと明確である。ファイナルファンタジーあたりになると、私から見れば、向こうが勝手に決めたストーリーラインに沿って、ただゲーム機を操作しているだけのような気がして、あまり好みではない。つまり、非常に自由度が低いのである。そうした日本の作品に大きな影響を与えた本場のRPGが「ウルティマ」であるが、その「ウルティマ」ほど自由度の高いゲームも滅多にないだろう。私は「Ⅵ」しかやっていないし、しかもそれを10年近くやってまだクリアしてもいない。それどころか、このゲーム世界のどこに何があるのか、まださっぱりわからないのである。攻略本でも見れば分かるかもしれないが、このゲームは別に攻略するためのゲームではない。私はただその中を旅するのが楽しいし、ふとした機会に何かの発見をするのが楽しいのである。スーファミだからデータセーブも1つで、同じデータで延々とやるか、白紙に戻してやるしかないという厳しさだが、それもいいだろう。それこそ、人生と同じく一回性のものではないか。こんな名作が、日本ではほとんどやる人がいないというのは寂しいことである。
 
 
 
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最近、高橋留美子の「めぞん一刻」を全巻読み直したのだが、大昔に週刊誌で読んでいた時には気づかなかったことが多い。主人公の五代のダメ人間ぶりは、同様に全巻を見直ししたアニメで、よく分かっていたが、ヒロインの響子さん(管理人さん)が、案外と人間的な弱点の多い人間であることは、雑誌掲載当時は、まるで気づかなかった。おそらく、それは五代と自分を同化して見ていたからだろう。惚れてしまえばあばたもえくぼというわけだ。しかし、もう一つの発見は、すぐれたキャラクターにおける欠点は欠点ではない、ということだ。音無響子が完全無欠な人間だったら、これほどの魅力は持ち得なかったはずである。察しの悪さ、視野の狭さ、決断力の無さ、短気さ、嫉妬心の強さなどがあるからこその響子さんなのである。それらの些細な欠点は、彼女の純粋さ(実は、その純粋さも、結婚を前にすると幾らかの計算がどうしても入ってくるところに、作者の冷徹な視線があるが)、愛情の深さ、優しさ、まっすぐな正義感など、さまざまな長所の前では、むしろ香辛料になるわけである。
ついでながら、「めぞん一刻」に出てくる中で一番の大人はアケミさんだと私は思っている。なかなか深みのある人間で、最後のあたりで、「あんたみたいな面倒くさい女から男を奪うほど、あたしは暇じゃないよ」とか何とか、子供っぽい強情を張る響子さんに毒づくセリフは最高だった。もちろん、毎回下着姿で登場するというサービスぶりも素晴らしいのだが。
高橋留美子氏には、ぜひ、もう一度、このような大人向けのロマンチック・コメディを描いてほしいものである。
高校野球選抜チームが、今、アメリカでアメリカチームと試合を行っているが、昨日の試合で興南高校の4番打者の真栄平一塁手がホームランを2本打った。ところが、テレビでは先発の一二三投手が好投した、というニュースばかりである。普通、4回1失点の投手と、ホームラン2本の選手では、後者がニュースだろう。確かに一二三もなかなかの好投ではあるが、あちらの広い球場で2本もホームランを打った選手とは比較にならない。マスコミが勝手にスターを作り、そのスター選手中心にニュース作りをしていくという姿勢は昔からあるが、こういうことばかりやっているから、マスコミは視聴者に見放されるのである。
ともあれ、真栄平選手は、その才能が開花しつつあるようである。真っ向勝負のアメリカ人相手の方が、彼には向いているのではないか。そのまま、あちらに残って大リーグ入りでも目指したらどうだろうか。何なら、ステロイドでも使って肉体改造をするという手もあるし。(これは冗談だが、最近の大リーグの記録の大半は、ステロイドによる肉体改造をした選手たちによる記録である。バリー・ボンズの年間73本という、あきれたホームラン記録がその代表だ。マクグワイア、サミー・ソーサなど、すべてそうである。投手でいえば、ロジャー・クレメンスなどがそうらしい。)

アンファニズムとは、フランス語の「子供=アンファン」に「主義=イズム」をくっつけた私の造語である。つまり、「子供主義」だ。子供主義とは何かというと、大人の正体は子供である、ということ、あるいは大人か子供かは年齢とは無関係だ、ということである。子供の中にも大人はいるし、大人の中にも子供はいる。それを肯定的にとらえて、もっと自由に気楽に生きよう、と世の中の「大人」たちに呼びかけるのがアンファニズムである。


昔、私がまだ二十代はじめの頃に、友人の知人の家に遊びに行ったことがある。その男の人は多分40代くらいだったと思うが、その人の部屋にはモデルガンがたくさん、壁に掛けられていた。それを見て、私は、「この人は偉い!」と思った。当時の私は大人と子供ははっきりと違うし、いつまでも子供っぽい嗜好を持っているのは恥ずかしいことだという既成概念に囚われていたのである。この男の人のように、自分の子供っぽい嗜好を堂々と他人の前に見せているのは立派だ、と私は考えたわけだ。
この時の経験が私の「アンファニズム」の土台にある。

社会的な関わりの中では、人間は大人的な体面を守り、大人として行動することを要求される。それは当然である。しかし、趣味・嗜好の世界では、これはダメとか、これは恥ずかしいという既成概念に囚われる必要などまったく無い。これが私の言うアンファニズムだ。別の面から見れば、大人というパラダイムを捨てることで、精神を自由にしよう、ということでもあるが、まあ、理屈はどうであれ精神(内面生活)の中でまで自分が大人であることに縛られる必要などない、ということである。

ありえただろうアリエッティについての妄想など。
アリエッティが、マチ針を見つけて、それを剣のようにスカートに挿す所があったが、そのマチ針が話の中で生かされていないのは残念。
まあ、それでネズミと戦うなどというのは、誰でも考える展開で、だからそういうアイデアは捨てたのかもしれないが、やはり映画の基本は活劇であり、戦いというものこそ映画的ドラマの王道ではないかと思うのである。それが、妙な婆さんとの戦いどころか、戦いにもならず逃げ出すというのでは、ドラマも何もあったものじゃない。しかも、それが少年の「好意」の結果であるというわけだから、見終わった後の印象があまりすっきりしない。
無責任な観客の立場からは、やはり、ここは陳腐な展開だろうが何だろうが、小人らしい特性を生かし、工夫に満ちた、ネズミや猫や犬との戦いのエピソードが欲しかった。「グレムリン」でグレムリンの中の一匹が映画の「ランボー」の真似をするが、そういう体の小ささを小道具で補った戦いは、観客を面白がらせたと思う。
もちろん、映画全体のトーンが静謐な印象なのだから、それと不調和になってはいけないのだが、しかし、ドラマ的な盛り上がりが無さ過ぎるのもどうか、ということだ。
しかし、米本(だったか?)監督には、かなりの力量があることは分かったのだから、今後は宮崎駿的キャラクター、ジブリ的描写からある程度離れて、冒険をしてもらいたいと思うのである。
私は大昔から(と言ってもまさかのらくろ世代ではないが、杉浦茂くらいは知っているくらいの人間だ)野球漫画が好きだったのだが、残念ながら野球漫画で野球そのものの魅力を描いた作品はほとんど無かった。水島慎二(綴りは正しいか?)の「ドカベン」や「野球狂の歌」「あぶさん」なども、野球を題材にしてはいるが、基本は人間ドラマであり、野球の戦略面が描かれることはほとんど無かったのである。その証拠に、これらの作品はほとんど監督不在と言っていいくらいに監督の存在が軽視されている。「野球狂の歌」の五利監督など、ベテラン投手(兼コーチ?)の岩田鉄五郎よりも発言権が低いのである。まして、戦略や戦術など、皆無であった。
野球の面白さは、昔の騎士や武士の頃の戦争の面白さに似ている。つまり、個人的武勇や技量と、全体としての勝利が結びついたり結びつかなかったりするところである。豪傑を揃えれば戦に勝てるとも限らないのだ。そこに戦略や戦術というものが存在するのだが、かつての野球漫画には、戦略・戦術面の面白さは皆無だったと言ってよい。
その野球漫画に革命を起こしたのが、何と女性漫画家の作品である「おおきく振りかぶって」である。(私は固有名詞に弱いので、私のブログの中の人名や作品名は、ほとんどうろ覚えであることを断っておく)この作品は、実際の試合における実質的監督とも言うべき捕手視点から描かれることが多く、ほとんど1球ごとのボールの持つ意味が克明に描かれている。まさしく、マニアによるマニアのための野球漫画である。大昔の「アストロ球団」という馬鹿マンガ(今ではその馬鹿馬鹿しさが評価されてカルト漫画の扱いを受けている面もあるが)は、1試合の描写に1年くらいかかった記憶があるが、「おおきく振りかぶって」も、1試合の経過を追うだけでそれくらいかかりそうである。しかし、野球好きな人間にとっては、これほど面白い漫画も滅多にない。
この漫画の影響かどうか、それに近い野球漫画も最近は増えつつあり、野球漫画は今、黄金期を迎えていると言えるかもしれない。たとえば、「ラストイニング」や「ダイヤのエース」なども、野球の戦略・戦術の面白さがかなりの比重を占めている作品である。一方、これらより知名度の高い「メジャー」などは、古色蒼然と言いたいような古めかしい「少年野球漫画」で、戦略も戦術もあったものではない。もちろん、そうした漫画の方が好きだという層の方が一般的なのである。
何はともあれ、野球の持つ「考えることの喜び」を掘り出してくれた「大きく振りかぶって」には、私は感謝している。その割に、作者の名前も作品名もうろ覚えだが。

夏目房之介氏による「アリエッティ」評。(無断コピーです。)やっぱりプロらしい見方だね。私の雑な印象批評とは違う。


観てきました。
いいんじゃないでしょうか。
原作を読んでませんが、小さな人々の視点からの世界を緻密に構築する手つきはジブリの伝統みたいなものを感じます。人間の目から見た庭や植物や家具の世界と、それを小さい者の視点で絵と運動について繰り返す映像作り。小さなティーポットから落とすお茶の表面張力。ドールハウスの使い方。要するにアニメの面白さの、少なくともひとつに「世界観を変えて緻密に隅々まで創り上げること」があるということに気づいている、という点で、可能性を感じさせる作品でありました。
成功してるかどうかはともかく、祖母の乗る古いベンツを、わざわざ3Dではなくて手描きで描いたのも、多分温かみみたいなものをそこに残したかったのだと思う。停まってるときも、くにくに動いてるのは愛嬌というべきかな。

ただ、どうしてもジブリ作品として観てしまうので、キャラクターの弱さを感じてしまうのも事実。
この作品でキャラがたってるのはお手伝いのハルさんで、樹木希林の声もいい。逆に宮崎アニメがいかにそれぞれのキャラを強く造形しているかに感心してしまう。
それと、この作品は「女の子」のためのものだなと感じる。ドールハウスに感じる夢みたいな感覚の中で作品が立ち上がるところが見所だが、「男の子」が無条件で感情移入できる部分がない。人間側の主人公は心臓手術直前で動けないし、アリエッティは冒険というほど動いていない。父親も何か物分りのいい定点なだけだし、いちばん「男の子」っぽい野性的なスピラーは、せっかくの弓に矢をつがえただけで射ってないし(藤原竜也を声にあててるのに使い方が勿体ない気もする)。まあ、そういう映画だからいいんだけど、もし「男の子」っぽい部分が結末にからんで盛り上がってたら、もっとすごい作品になってたかも。

ともあれ、女性と一緒に行くといい映画ですかね。女性はじゅうぶん満足すると思う。

「借り暮らしのアリエッティ」。なかなか面白かった。盛り上がりは無いが、描写の繊細さは、「ポニョ」の宮崎駿より上じゃないかな。ただ、話の終わり方は、ハッピーエンドではないので、あまり良くない。ジブリ作品の主な観客層は子供であることを考えると、はっきりとしたハッピーエンドで終わるのが作る側の義務だろう。もちろん、アンハッピーエンドではないから、それでいいと言えばそうなのだが、見ていた子供たちも、どういう反応を示せばいいのか戸惑っただろう。
アリエッティは、美人すぎ。原作を知らないから何とも言えないが、もう少し元気でボーイッシュな感じの女の子がよかった。
女中のお春さんは不気味すぎ。なぜあれほど小人を迫害するのか、理解しがたい。小人が泥棒するったって、たいした物は盗んでいないのだから、害虫駆除の会社の人間を呼ぶほどではないだろう。「殺さずに捕まえろ」とは言っていたが、捕まえてどうする気なのかがわからないから、不気味。アリエッティのお母さんを扱う乱暴な態度からすると、善意で捕まえているとはまったく思えない。屋敷の女主人が小人たちに好意を抱いているのは知っているはずだから、お春さんのこの態度はまったく不可解。しかも、小人の側に立つ少年をあらかじめ部屋に閉じ込めた上で小人を捕獲しようというのだから、まったく不気味な婆さんである。
でも、全体的には、丁寧な描写で、良い作品だった。
専門の声優を使わないという方針を相変わらず守っているが、ギャラの高い有名俳優を使ったところで、興行成績が上がるとは思えないし、貧しい声優たちの生活を守るために、専門声優を使ってやるべきだと思うのだが、どうだろう。それとも、専門声優は貧しくはないのかな?

話が格闘技からだいぶ逸れてしまったが、精神のコントロールということも、格闘議論の一部なのである。
精神のコントロールというと、よく「平常心」と言うが、我々の平常の心は、まったくだらけきった散漫なものであり、勝負事には向かない。もちろん、この言葉は、「あがるな、舞い上がるな、力むな」ということを言っているのだが、「平常心」と言葉にすると、その大事な部分が消えてしまうのである。言葉で事柄の代理をさせてはいけないということだ。こういうのが、禅家で言う「野狐禅」、つまり生悟りにつながるのである。我々は言葉だけで思考を停止してしまう傾向がある。それに気をつけなければいけない。
平常心が望ましい状態なら、ではどうすればその「平常心」が得られるかを考えねばならないはずだが、たいていの人間は、「平常心」と心に唱えれば、平常心が得られると思っている。宮本武蔵などはプラグマチストだから、こういう場合は実践的な指針を与えたものである。敵討ちをしたいというある素人に剣術を教えた後、武蔵は、「勝負の場に行く前に、地面を見て、蟻がいるかどうか探してみよ。もしも蟻がいれば、この試合は必ずお前が勝つ」と、占いのようなことを教えた。その男は言われた通りにして蟻を見つけ、決闘にも勝った。後で武蔵が種明かしをして言ったのは、「地面には必ず蟻はいるものだ。しかし、蟻を見つけきれるほど落ち着いていれば、勝負には必ず勝てるということだ」ということだった。心が感情に支配されている状態では、我々は冷静に戦うことはできない。しかも、我々は自分のその状態に気づかないのだ。武蔵のこの処方は、決闘のことでのぼせた頭を、目の前の事実に集中させることで冷静さを取り戻させた、素晴らしい処方だと言える。日常的な生活技術として言うなら、悩み事から逃れるには、別の仕事に集中するのが一番だ、ということである。我々は同時に二つの事に集中することはできない。別の仕事に集中している間に、頭もクールダウンして、悩みは軽減されているものである。勉強や仕事のスランプ克服も同様で、スランプの時は単純作業に集中すればいいのである。
しかし、勝負事で、上がらないでおくことは容易ではない。いや、勝負事に限らず、たとえば大勢の人の前でスピーチをする場合など、上がらないようにするのは難しい。そのいずれの場合でも、上がるというのは恐怖心である。勝負なら、負けることへの恐怖心、スピーチなら、人々から笑われることへの恐怖心。その恐怖心を克服するにはどうすればいいのか。その良薬の一つは、自分は負けるはずがない、失敗するはずがないという自信である。自分のほうか相手より上だという自信があれば、敗北への恐怖は少ないだろう。したがって、力の無い人間が勝負で恐怖心を持つのは当然であり、対策はない、ということになる。それ以前に、力が無いくせに勝負をしようというのが無謀だということだ。恐怖心を克服するもう一つの良薬は、負けても、失敗してもどうということはない、という開き直りである。スピーチなどで失敗して笑われてもいいじゃないか、と思えれば、恐怖心は減らせる。スポーツの勝負でも、負けても命まで取られるわけじゃないのだから、と開き直れば、恐怖心は減らせる。もちろん、命を賭けた本物の格闘、決闘なら話は別だ。テレビなどに出るプロの格闘家など、何度でも負けているではないか。
しかし、恐怖心などは、実は試合が始まるまでの問題であり、いざ試合が始まれば、目の前の事に心は集中するから、恐怖心の問題などは本当は意味が無いのである。チャーチルだかルーズベルトだかが言ったという「我々が恐れるべきものは恐怖そのものである」という言葉は、恐怖は、その実体以上に我々を消耗させるということだろう。つまりは、幽霊の正体が枯れ尾花だろうが、それが我々を怖がらせるという事実はあるのである。だから、恐怖が存在するということは無視できないが、その恐怖は我々自身の心が作り出した幻影的なものであるという事実を忘れないようにするべきである。
 
だいたい、格闘技について言いたいことは書いたと思うので、これくらいで話を終わろう。実のところ、私は格闘技経験者でもなく、格闘技を数多く観戦しているわけでもない。ただ、物事を分析的に考えるのが趣味の一つだから、その対象を格闘技にとって考察してみただけのことだ。経験者から見たらナンセンスな記述が多いだろうということはわかっているが、どのような批判を受けようが、書いている間は私自身が楽しんでいたから、それで十分報われてはいる、ということである。

 あらゆるスポーツ(技能)に共通する上達のポイントがある。それは、「力を抜く」ということである。すぐれたスポーツマンに共通しているのは、力みが無いということだ。力は、必要な時に、必要なだけあればいいということである。体中力みかえった人間ですぐれたスポーツマンはいない。
 ゴルフを例にあげよう。うまいゴルファーは、力一杯にボールを引っぱたいたりはしない。距離が欲しければ、一つ大きめのクラブを使えばいいだけのことだ。つまり、「道具に仕事をさせる」ということだ。力を入れると、逆に、クラブの軌道はゆがみ、ヘッドの角度はずれ、あらゆる欠点が出てくるだろう。
 スポーツに限らず、あらゆる技能で、力を抜くことは上達への道である。たとえば、金ノコで鉄パイプを切るとする。初めての人間は力をこめて鋸を動かし、数分で疲れ果てるが、パイプはほとんど切れていない。一方、慣れた人間は、ほとんど力を入れず、軽く前後に動かしているだけである。しかし、初心者の数倍速く切り終える。金ノコを使ったことのある人間なら知っているが、金ノコはけっこう重い。その重さには意味があるのである。その重さが上から下に加わることと、鋸を前後に引く動作によって、パイプは切れていくのである。力をこめたところで、人間の力など、鉄パイプにはほとんど影響はないのである。ここでは、力を入れることには、疲労を高めるだけの効果しかないのだ。(一番いいのは電動金ノコを使うことであるが、ここでは頭ではなく体を使う話だとしておく。)
力を抜くことが必要なのは、体を使うことだけではない。我々がテレビで見る芸能人は、なぜあのように楽々とふるまえるのだろうか。彼らの姿こそ、まさしく「力が抜けた」姿であり、禅家で言う、「随所に主となる」に近い状態だと私には思われる。どんな二流三流の芸能人でも、彼らには自らのすべてを、裸の姿を人前にさらけ出す覚悟だけはあるということだろう。だからこそ、何一つとどこおることなく反応できるのである。彼らが人間として上等かどうかはさておき、ほとんどの坊主よりはある種の悟達の域に達していると思われる。(よく勘違いされるところだが、ある種の技能の達人だからといって、必ずしも人格的にすぐれているとは限らない。また、その技能以外の知識的な面では、それらの達人は幼稚園児並ということもありうるのである。囲碁や将棋などの名人が政治や経済まで論じるのはおこがましいと言うべきだろう。)
あらゆる技能とは言っても、頭脳労働だけは、「力を抜く」こととは無関係のようだ。そもそも、頭脳労働では、力の入れようもない。しかし、ここで一つ大事なことがある。それはロシアの神秘思想家、グルジェフの考えだが、思考と感情は別々のセンターがあるという考えだ。理性と感情は別という言葉は我々にもおなじみだが、我々はしかし、どちらも結局は同じ脳の働きなんだから同一だとも思っている。それをまったく別のものと考えることは、有益な面がある。それは、自分は今理性を使っているか、それとも感情に支配されているかと省みることで、より冷静な判断が得られるということだ。これを私の次兄は「気を使うな。頭を使え」と簡潔に表現した。この言葉は私の一生の宝になっている。感情に支配された状態が、いわば精神的に「力の入った状態、力んだ状態」である。頭脳労働でも、これは有害な状態だろう。逆に、感情で行動するべき時に、冷静に理性を働かすのも間違いで、恋人(あるいは幼児)との語らいに理性的な発言ばかりしていては相手に嫌われるだけだろう。恋愛などというものは、「あばたもえくぼ」という熱に浮かされた状態なのであり、理性の分野ではない。
 
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