ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
(11/21)
(11/21)
(11/21)
(11/20)
(11/20)
(11/19)
(11/19)
(11/19)
(11/18)
(11/18)
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
(09/04)
P R
カウンター
話が格闘技からだいぶ逸れてしまったが、精神のコントロールということも、格闘議論の一部なのである。
精神のコントロールというと、よく「平常心」と言うが、我々の平常の心は、まったくだらけきった散漫なものであり、勝負事には向かない。もちろん、この言葉は、「あがるな、舞い上がるな、力むな」ということを言っているのだが、「平常心」と言葉にすると、その大事な部分が消えてしまうのである。言葉で事柄の代理をさせてはいけないということだ。こういうのが、禅家で言う「野狐禅」、つまり生悟りにつながるのである。我々は言葉だけで思考を停止してしまう傾向がある。それに気をつけなければいけない。
平常心が望ましい状態なら、ではどうすればその「平常心」が得られるかを考えねばならないはずだが、たいていの人間は、「平常心」と心に唱えれば、平常心が得られると思っている。宮本武蔵などはプラグマチストだから、こういう場合は実践的な指針を与えたものである。敵討ちをしたいというある素人に剣術を教えた後、武蔵は、「勝負の場に行く前に、地面を見て、蟻がいるかどうか探してみよ。もしも蟻がいれば、この試合は必ずお前が勝つ」と、占いのようなことを教えた。その男は言われた通りにして蟻を見つけ、決闘にも勝った。後で武蔵が種明かしをして言ったのは、「地面には必ず蟻はいるものだ。しかし、蟻を見つけきれるほど落ち着いていれば、勝負には必ず勝てるということだ」ということだった。心が感情に支配されている状態では、我々は冷静に戦うことはできない。しかも、我々は自分のその状態に気づかないのだ。武蔵のこの処方は、決闘のことでのぼせた頭を、目の前の事実に集中させることで冷静さを取り戻させた、素晴らしい処方だと言える。日常的な生活技術として言うなら、悩み事から逃れるには、別の仕事に集中するのが一番だ、ということである。我々は同時に二つの事に集中することはできない。別の仕事に集中している間に、頭もクールダウンして、悩みは軽減されているものである。勉強や仕事のスランプ克服も同様で、スランプの時は単純作業に集中すればいいのである。
しかし、勝負事で、上がらないでおくことは容易ではない。いや、勝負事に限らず、たとえば大勢の人の前でスピーチをする場合など、上がらないようにするのは難しい。そのいずれの場合でも、上がるというのは恐怖心である。勝負なら、負けることへの恐怖心、スピーチなら、人々から笑われることへの恐怖心。その恐怖心を克服するにはどうすればいいのか。その良薬の一つは、自分は負けるはずがない、失敗するはずがないという自信である。自分のほうか相手より上だという自信があれば、敗北への恐怖は少ないだろう。したがって、力の無い人間が勝負で恐怖心を持つのは当然であり、対策はない、ということになる。それ以前に、力が無いくせに勝負をしようというのが無謀だということだ。恐怖心を克服するもう一つの良薬は、負けても、失敗してもどうということはない、という開き直りである。スピーチなどで失敗して笑われてもいいじゃないか、と思えれば、恐怖心は減らせる。スポーツの勝負でも、負けても命まで取られるわけじゃないのだから、と開き直れば、恐怖心は減らせる。もちろん、命を賭けた本物の格闘、決闘なら話は別だ。テレビなどに出るプロの格闘家など、何度でも負けているではないか。
しかし、恐怖心などは、実は試合が始まるまでの問題であり、いざ試合が始まれば、目の前の事に心は集中するから、恐怖心の問題などは本当は意味が無いのである。チャーチルだかルーズベルトだかが言ったという「我々が恐れるべきものは恐怖そのものである」という言葉は、恐怖は、その実体以上に我々を消耗させるということだろう。つまりは、幽霊の正体が枯れ尾花だろうが、それが我々を怖がらせるという事実はあるのである。だから、恐怖が存在するということは無視できないが、その恐怖は我々自身の心が作り出した幻影的なものであるという事実を忘れないようにするべきである。
だいたい、格闘技について言いたいことは書いたと思うので、これくらいで話を終わろう。実のところ、私は格闘技経験者でもなく、格闘技を数多く観戦しているわけでもない。ただ、物事を分析的に考えるのが趣味の一つだから、その対象を格闘技にとって考察してみただけのことだ。経験者から見たらナンセンスな記述が多いだろうということはわかっているが、どのような批判を受けようが、書いている間は私自身が楽しんでいたから、それで十分報われてはいる、ということである。
PR
この記事にコメントする