金本は、それまで成功していた高山や鳥谷の打撃フォームに口出しして、彼らの選手生命をほとんど終わらせたから大罪人なのであって、佐藤輝明のようにまだプロ仕様になっていない打撃を改造するなら早いうちがいいに決まっているが、まあ、その改造に当人が納得するまでは「この打撃フォームでは駄目だ」という自覚を持たせるしかないだろう。それは、彼を一軍で使う被害がチームに出る、ということだ。(清宮や安田を使い続けた日ハムやロッテはそのためにチーム成績をかなり犠牲にしたのである。)つまり、阪神は早くもアキレス腱を抱えたということだ。
阪神ドラ1佐藤輝明を早くも襲う「打撃フォームにメス」の悪しき伝統
おそらく、いきなり打撃フォーム改造はできないし、首脳陣もやらないと思うから、打撃を根本から改造して使えるのは数年後かと思う。下手をしたら永遠に江越である。
「頭で分かっている」ことと「身体がそれをできること」とはまったく別で、それが可能になるのは練習(繰り返し)で身体に覚え込ませるからである。
大和の打撃でフォロースルーが大きくなったと書いてあるコメントもあったが、「打つ瞬間だけ力を入れる」結果、自然とそうなるわけだ。
なお、インパクトの瞬間だけ力を入れるというのはピッチングでも同じで、投手の場合は「リリースの瞬間に力を入れる」ようだ。それを徹底しているのが元広島の現大リーガー前田健太である。
- 2021年01月30日 18:23 ID:atOEch.b0
- リアルで野球やってるやつは元記事を読んだほうがええぞ。
2ページ目で佐野が話してる感覚がすべてや。
左足(左打者なら右足)を踏み出してからは球を迎え打たない、
回転で打つ感覚と、打つ瞬間だけ力を入れる。
バッティングが上手い人がみんな共通している点やし
ワイもコーチに教わったけど結局出来なかったことや。
- 2021年01月30日 18:26 ID:TXvqe4Mk0
- 元々守備が上手いのも守備練習が大好きだからだし、同じ理由で打撃も上がっておかしくない。まあ、チーム通算で言えば阪神時代と比べて良くなったとは言いきれないし、大きな影響はホーム球場が変わったことだと思うけど。
- 2021年01月30日 18:55 ID:zj9x9.FD0
- >>19
この感覚と桑原は真逆に見えるな
ステップから力みが出てる感じ
正直に言えば、この映画を見た当時の私はまだまだ映画鑑賞力が無かったから、この映画の魅力を十分に感じていなかったのだが、もう一度見てみたい映画である。できれば映画館で観たい作品だ。
(以下引用)
遂に封印を解かれた玉三郎のオペラティック巨篇『夜叉ケ池』
1979年10月20日、極めて異色にして壮麗な日本映画が公開された。その泉鏡花原作、篠田正浩監督、坂東玉三郎主演の松竹映画『夜叉ケ池』は、封切館で公開される前に洋画系の劇場でロードショー公開された。華々しい公開のされ方にもかかわらず、本作は81年と87年にテレビ放映されたほかは諸事情から一度もソフト化されず、劇場で上映される機会もほとんどなく、事実上の「封印」状態がほぼ40年にわたって続いていた。ところが、篠田監督が90歳を迎える3月、なんと4Kデジタルリマスター版としてふたたび陽の目をみることとなった。これは映画史的な、寿ぐべき椿事である。
1970年代の公開当時は、邦画各社が自信の大作を公開する際、一般封切の前に洋画のロードショー館で先行公開して箔をつけるという興行のスタイルがあったが、『夜叉ケ池』もこうした邦画の大作志向のなかで巨費を投じて製作され、私が初日に観たのも現在の有楽町マリオンの場所にあった丸の内ピカデリーという堂々たる洋画系の旗艦劇場の大スクリーンであった。この日は篠田監督と坂東玉三郎の挨拶もついて盛況、劇場には玉三郎ファンの若年から中高年まで幅広い女性観客が詰めかけていたが、終わった後は何かあっけにとられている感じだった。それもそのはず、この映画は従来の数多くの泉鏡花原作の映画作品のような、オーソドックスなメロドラマやファンタジーの枠から果敢にはみ出した知的遊戯、知的冒険のかたまりだったからだ。『夜叉ケ池』は、いかにも早すぎる作品であった。
『夜叉ケ池』は鏡花が大正2年に発表した戯曲だが、諸国を旅する植物学者の山沢学円(山崎努)がたまたま赴いた山中で美しい女・百合(玉三郎)に出会う。ところがさらに百合の夫に会えば、それは数年前、各地に伝承される物語を集めに出かけて消息不明となった親友・萩原晃(加藤剛)だった。学円が訳を聞けば、萩原は百合と結婚してこの村に住み、亡くなった鐘守の遺志を継いで日々龍神を鎮める鐘を撞いていた。折しも三国ケ嶽の夜叉ケ池の底では、剣が峰の千蛇ケ池に住まう恋しい公達のもとへ飛んでゆきたい龍神の白雪姫(玉三郎の二役)が、まさに鐘の霊力で動きを封じられ、思いを焦がして悶々としていた。しかし、強権的で愚かな代議士・穴隈(金田龍之介)が雨ごいのために百合を龍神の生贄に捧げよと村人を煽動してこの清らな夫婦を迫害し、ついに鐘が撞かれない日が訪れる。はたして白雪は自由の身となり、夜叉ケ池は氾濫、村は畏怖すべき洪水により容赦なく水中に没してゆく……。
この物語を描くにあたって、篠田正浩監督は舞台ならぬ映画で男性の玉三郎に百合と白雪の二役をオファーし、当時29歳であった玉三郎はこの難役を果敢に受けて立った。そもそも鏡花を愛してやまない玉三郎は『天守物語』『海神別荘』『日本橋』などの出演、演出をつとめ、88年の映画『帝都物語』では鏡花本人を粋に演じてみせたほどで、『夜叉ケ池』の繊細な女性性の表現も素晴らしかった。玉三郎が百合として優しく、白雪として激しく語る台詞は、田村孟と三村晴彦の脚本が鏡花調の日本語の艶を敬虔に活かし、いかにも美しい。ところが、この玉三郎の女性性への「越境」に鼓舞されるように、本作では実にさまざまな文化的「越境」が沸き起こるのであった。
たとえば玉三郎を囲む俳優は加藤剛、山崎努から唐十郎に至る新劇、映画、アングラ演劇と壁を超えたメンバーの混成部隊であり(湯尾峠の万年姥に扮した丹阿弥弥津子の貫禄は圧巻)、鏡花の和の世界に対して音楽は冨田勲のシンセサイザーによるクラシックのアダプテーションがふんだんに活かされた。当時の冨田はちょうど『地獄の黙示録』の音楽をコッポラからオファーされた時期(惜しくも実現せず)で、まさに脂ののった季節であったが、白雪姫の壮麗な出現に『展覧会の絵』の「古城」が、村を襲う洪水のカタストロフにプロコフィエフ『スキタイ組曲』の「ヴェレスとアラへの讃仰」が、夜叉ケ池から解き放たれた白雪一行の飛翔にドビュッシーの『ピアノのための前奏曲』の「沈める寺」が、冨田の意匠を経てもう噓のようにはまっている。
そして、セットデザインも粟津潔、朝倉摂という尖鋭なデザイナーたちが大胆に生み出す前衛的な幻想世界と、松竹大船撮影所の手練れ・横山豊によるオーセンティックな現実世界の「越境」が目覚ましく、池の底に棲む鯰、鯉、蟹の妖怪(三木のり平、井川比佐志、常田富士男のコメディリリーフが愉しい)も本来は純和風のはずが、こういう世界観にあってはバタ臭いクリーチャーのようで洒落ている。さらに驚きは、こうした文芸作品の構造と匂いをもって描かれる作品の、最後の山場である洪水の場面がまるでスペクタキュラーな「特撮映画」に転ずることだ。このシークエンスを手がけたのは、当時東映の『宇宙からのメッセージ』の特撮技術が絶賛されたばかりの特技監督の名匠・矢島信男で、まだCGもない時代のミニチュアワークと光学合成によるアナログ特撮の、これはひとつの頂点をなす偉業だろう(矢島は東映の特技監督として勇名を馳せたが、出発点はこの松竹大船の特殊技術課であって、カラー時代の松竹の富士山クレジット映像は矢島の手になるものだ)。
事ほどさように『夜叉ケ池』は、篠田監督と玉三郎の「越境」の意志に共振した多種多様な才能がよってたかって「越境」しまくったところに生まれた、空前絶後の知的遊戯づくしの大作である。古寺の鐘楼までもが南米イグアス瀑布に「越境」するという、かくも外連味たっぷりのオペラティックな奇想が意外や『夜叉ケ池』に似合ってしまうのは、江戸文芸の伝承者とばかり思われている鏡花が、実はゲルハルト・ハウプトマン『沈鐘』にインスパイアされてこの戯曲を書いたからかもしれない。
※『夜叉ケ池』は2021年3月、CS局「衛星劇場」で放送後、夏に渋谷ユーロスペースの篠田正浩監督特集にてスクリーン上映、Blu-ray発売予定。
私が小池都知事を見て連想するのはおてもやん、つまりオカメの顔ではなく、博多にわかの例の「目だけのマスク」である。小池の目はあのマスクの目にそっくりだと思う。つまり、非人間的な表情の目だ。彼女の酷薄さをよく示していると思う。新コロ騒動の中だから口元は普通にマスクで隠して、目はあの博多にわかのマスクを着ければ、小池百合子の出来上がりである。
私は監督やコーチや球団フロントの批判はよくやるが、選手の批判はあまりやらない方だと思う。まあ、性格的に嫌いな選手は時々出てくるが、選手に粘着して批判する、という行為は愚劣だと思っている。どんな馬鹿だろうがDQNだろうが、プロ選手になっただけで、才能に加えて、常人にはできない膨大な努力をしてきた凄い連中なのである。
(以下引用)
この記事でも面白い内容の発言が多いが、特に興味深い部分をピックアップする。
それは「重いバットを使う意義」である。これは大胆な提言であり、当人も言うように危険性もあるが、清宮のように「小器用」な選手がワンランクアップするためにはかなり成功可能性が高い方法だと思う。
なお、門田は、その重いバットを使いながら、当時ナンバーワンと思われるスイングスピードの持ち主だったのである。いかにバットを振り込んでいたかが分かる。
2020.01.02
村上、清宮、安田は本物のスラッガーか。
門田博光がこだわりの大診断
- 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
- photo by Koike Yoshihiro
清宮に限らず、今のバッターに思うことは、とにかくバットが軽い。操作性がいいということで使っているんでしょうけど、手打ちになってしまって、打球に勢いがない。僕らからしたら890グラムとか900グラムなんて箸みたいなもんやったけど、今はそれが主流になっている。
小さい曲がりの変化球に対応するためやろうけど、それでも結果が出るから、手先で打つスイングが多くなる。重いバットを扱おうとしたら、しっかり腰から回さんと振れないからね。
僕がオリックスに移籍した時(1989年)に1キロのバットを使っていたら、みんな興味を持って真似したんやけど、最後までついてきたのはブーマーだけ(笑)。ブーマーはしっかり腰を使ってスイングしていたけど、ほかの選手は、僕からすれば手打ちやった。
今の選手に重いバットを使わせると、手首などケガの心配もあるやろうけど、もし清宮が重いバットを扱えるようになったら、腰の入ったスイングも身について、ワンランクもツーランクも上のバッターになると思うんやけどね。
とはいえ、まだ20歳。僕なんかに比べたらはるかにええもん持ってるから、まずは体を万全にすること。今年は背中の柔らかいスイングをまた見たいね。
(以下引用)
なお、「新機軸」は経営方針について使う言葉ではないと私は思っている。興行界の創作手法において、たとえば、時代劇だのに人物たちが現代の口調そのままで喋る、というような新しい手法(まあ、この例はそれほど新しくはないが、最初は新機軸だったわけだ。)に使うものだろう。もちろん、経営方針に使うことも可能だろうが、違和感はある。
数字は悪くないのに番組打ち切り…テレビ業界に新機軸
テーマは「向上心は人を幸福にするか」というものである。
世界史的というか、歴史的には人類は向上心によって文明を豊かにし、多くの人がそれによって幸福になってきたわけだが、問題は「向上心を持っていた当人は幸福なのか、幸福だったのか」どうかである。もちろん、遊び事ですら向上心があるから上達(向上)してより面白くなる、という事実があるから向上心自体を全面否定するという馬鹿な話はしない。ただ、その本質を「哲学的に」考えてみようというわけだ。
要するに、向上心とは「現在の自分を不満に思うこと」であるのは明白である。幸福とは満足した状態であり、不幸とは不満足な状態なのだから、これ(向上心を持っている状態)は不幸そのものの状態ではないだろうか。
しかも、その「向上した状態の自分」とは「今の自分ではない何か」なのだから、向上した段階でその自分が自分に満足するという保証は無い。まあ、努力次第で勝てる確率の高い賭けだから、やる意味はあるだろう。しかし、その状態に達するまでの苦闘努力は、その成果と釣り合うだろうか。つまり、「努力と成果のコスパ」はどうなのか、ということだ。
ここで、真面目な提言をするが、「不足状態そのものを楽しむ」という生活哲学を持つのは、かなり人生を幸福にするものだと思う。もちろん、これは昔から言われていることで、竜安寺だったかどこかの石に掘られた「吾は唯だ足るを知る」もその思想である。ここでは、それを発展させて、「不足もまた幸福となりうる」という哲学を提唱しているわけだ。つまり、不足があるからその不足を満たすためにあれこれ工夫する、その「頭を使い、身体を使う楽しさ」を不足状態は与えてくれるわけである。
で、これは「向上心」そのものではないか、と文句を言われそうだが、べつに「上に向かえ」と私は言っていない。上に向かおうとするから「自分は今、下にいる」と感じる、その感情こそが実は不幸の根本原因ではないか、と私は言っているのである。向上とは、様々な意味で「重力に逆らうこと」であり、苦しさや不幸の原因である。会社内での出世も政治家の権力争いも学校での成績争いもスポーツの勝ち負けも要は「相手が上か自分が上か」の争いでしかない。「上も下もたいした違いはない」という思想を多くの人が持てば、この世界の争いの9割は無くなるだろう。ただ、「競争がもたらす成果」もかなり無くなるだろうが、人類の文明はそろそろ極限に達しているのだから、人々が争うことで誰かが利益を得る、という思想などもはや人類を幸福にはしないだろう。そんな浅ましい、野獣の思想にそろそろ決別してはどうか。