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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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ウィキペディア記事である。
最初に千賀を見た時に、これは将来のSBのエースどころか「パリーグのエース」になる、と思ったものだが(このブログの昔の記事の中にあると思う。昔と言っても今年の話で、千賀が東浜とともに、6勝0敗くらいだった頃の記事だ。)下の記事によれば、2012年に一軍デビューしているが、私がテレビで野球観戦をし始めたのは、やっと今年からである。それまでは仕事の都合などで、見ることができなかったのだ。録画できるタイプのテレビも昔は持ってなかったし。それに、パリーグの試合の放映など、NHKが年に数回やる程度で、SBの試合など見る機会は無かった。テレビ放映に関し、巨人や阪神がいかに恵まれているか、わかろうというものだ。だから、正義感の強いというか、仁侠心の強い(笑)私は不遇なパリーグのファンになり、アンチ巨人、アンチ阪神になったわけだww 強いチームを応援する人間は、だいたい、老人や子供や病人をいじめるのが好きな人間だろうww まあ、SBのようにまともにチーム運営の努力をやり、その結果強豪になった球団だけは認めることにしている。嫌いなのは、マスコミに作られた人気の座にあぐらをかいている傲慢な巨人や阪神だけだ。中日はオーナーと球団社長が嫌い。ここも「中日新聞」というものがあり、ミニ巨人的な面もあるが、選手たちが気の毒だから、球団としては応援している面もある。

そんなことより、千賀(名の「こう」の字がATKで出ない)投手だ。こんな投手が育成上がりであり、他球団スカウトの目にまったくかからなかったというのが面白い。
下の記事を見ると、故障が多いのが気になるが、今年はここまで故障無しでやってきているところを見ると、とうとう自分自身の「最適フォーム」を見つけたのではないか。
とすれば、彼は今年だけの「確変」ではなく、これからも同じように活躍できる可能性が高いということである。私も彼を初めてテレビ画面で見たときは、「お化けフォーク」に驚いたものである。





千賀滉大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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千賀 滉大
Kodai Senga
福岡ソフトバンクホークス #41
千賀滉大20120330.jpg
2012年3月30日、雁の巣球場にて
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地愛知県蒲郡市
生年月日1993年1月30日(23歳)
身長
体重
186 cm
86 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション投手
プロ入り2010年 育成選手ドラフト4位
初出場2012年4月30日
年俸2,500万円(2016年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

千賀 滉大(せんが こうだい、1993年1月30日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属する愛知県蒲郡市出身[1]プロ野球選手投手)。


経歴[編集]

プロ入り前[編集]

実父が岩城滉一のファンであることから、出生時に「大」と命名[2]。小学校2年生から三谷東若葉、4年生からは北部サニーボーイズに所属した[3]蒲郡市立中部中学校時代には、軟式野球部で三塁手としてプレー[1]愛知県立蒲郡高等学校への進学後に投手へ転向した。


蒲郡高校では、1年時から公式戦に登板すると、2年時からはエースとしてチームを牽引。2年秋と3年春は故障などで公式戦に登板しなかったが[1]、3年時の夏に全国高等学校野球選手権愛知大会へ出場。3回戦で敗退した。


2010年の育成ドラフト会議で、福岡ソフトバンクホークスからの4巡目指名を受けて入団[4]。「アマ球界に詳しい」という愛知県のスポーツショップ経営者からの薦めで、当時のスカウト・小川一夫が千賀の獲得を決めたという[1][5]

プロ入り後[編集]

2011年

この年から二軍監督に就任した小川の下で、もっぱら三軍戦に登板[6]ウエスタン・リーグ公式戦への登板機会はなかった[5]が、シーズン終了後のみやざきフェニックスリーグで二軍戦デビューを果たすと、4試合の登板で通算3回1/3イニングを無失点に抑えた。


2012年

若手選手主体のB組に参加した春季キャンプの紅白戦で好成績を残したことから、キャンプ終盤に一軍へ抜擢[7][8]。しかし、読売ジャイアンツ(巨人)とのオープン戦(3月9日)登板中に左足首をひねって緊急降板を余儀なくされた[9]ため、開幕を二軍で迎えた。ウエスタン・リーグ公式戦で開幕から先発ローテーションに入るほど好調だったことを受けて、4月23日支配下選手契約へ移行するとともに、背番号を「21[10]に変更した[11][12]同月30日にプロ入り後初の出場選手登録を果たすと、同日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)に先発投手として一軍デビュー[13][14][15]。しかし、レギュラーシーズン全体では、一軍公式戦2試合の登板(オール先発)で0勝1敗という成績に終わった[16]。その一方で、ウエスタン・リーグでは、9月20日の対オリックス・バファローズ戦で9回1死まで無安打無得点と好投。シーズン通算では、18試合の先発登板でリーグ最多の108イニングを投げるとともに、最優秀防御率(1.33)[17]のタイトルを獲得した[18]。また、7勝(リーグ2位タイ)、勝率.700(同3位)、83奪三振(同2位)という成績[19]で、チームのリーグ優勝に貢献した。その一方で、シーズン終了後に右肩痛を発症した[20]ため、秋季キャンプに参加しなかった[21]


2013年

先発からセットアッパーに転向した岩嵜翔と交換する格好で、背番号を「21」から「41」に変更[22]。1月の自主トレーニング中から投球フォームの改良へ積極的に取り組んだ[5]末に、中継ぎ要員として自身初の開幕一軍入りを果たした[23]3月31日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で一軍初救援を経験すると、4月3日の対北海道日本ハムファイターズ戦(福岡ヤフオク!ドーム)から6月21日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(郡山総合運動場開成山野球場)まで、セットアッパーとして27登板試合連続無失点を達成。この間には、4月11日の対オリックス戦(福岡ヤフオク!ドーム)で一軍初ホールド5月12日の対埼玉西武ライオンズ戦(熊本県藤崎台県営野球場)で一軍初勝利を挙げている[24]。初めてクローザーに起用された6月26日北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)では、延長10回裏に一塁手中村晃のタイムリーエラーで自責点0ながらサヨナラ負けを喫した[25]一方で、救援投手による公式戦連続無失点イニング(34回3分の1)パシフィック・リーグタイ記録を樹立[26][27]。この試合から4登板試合連続で敗戦投手になった[28]ことから[29][30]7月4日に出場選手登録を抹消されたが、同月14日にセットアッパーとして一軍へ復帰した。パシフィック・リーグの監督推薦選手として初めて出場したオールスターゲーム[31]では、第2戦(明治神宮野球場)の4回裏から2番手として初登板。2イニングを無失点・(クリーンナップから4者連続を含む)5奪三振と好投した[32]ことから、敢闘選手賞を受賞した[33][34]。リーグ戦の再開後は、7月26日の対日本ハム戦(福岡ヤフオク!ドーム)でクローザーとして一軍初セーブを挙げたものの、8月以降の登板では救援失敗が相次いだ。さらに、9月4日の日本ハム戦(東京ドーム)では、5回裏に7球を投げたところで左脇腹に痛みを訴えて緊急降板[35]。翌5日の診察で左腹斜筋の肉離れが判明した[36]ため、同日に出場選手登録を再び抹消されると、そのままシーズンを終えた。シーズン終了後の12月9日には、推定年俸3,300万円(408パーセント増)で契約を更改する一方で、球団フロントに対して先発への再転向を訴えている[37]


2014年

春季キャンプのスタートを主力選手中心のA組で迎えた[38]が、調整不足で早々にB組へと降格[39]。オープン戦では、6試合の登板で2セーブ、防御率1.50(6イニング1失点)という好成績を残した。一軍でのロングリリーフを求める首脳陣の判断で2年連続の開幕一軍を逸した[40]が、4月4日にシーズン初の出場選手登録。登録後は、点差とは無関係の局面での救援登板が続いた。5月23日の対阪神タイガース戦(福岡ヤフオク!ドーム)で自身1年振りの勝利を挙げた[41]が、右肩に違和感が生じたことから、6月15日に登録を抹消。抹消後の検査では「疲労」と診断された[42]ものの、結果としてシーズン中の実戦復帰には至らず、12月下旬に投球練習を再開した[43]


2015年

前年発症した右肩痛のリハビリを経て、春季キャンプ前の自主トレーニングから、先発への再転向を視野に調整[44]。ウエスタン・リーグ公式戦でも開幕から先発で好投を続けていたが、一軍先発陣の層が厚いことなどから、出場選手登録は8月18日にまで持ち越された。同日の対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)で一軍公式戦3年振りの先発登板を果たすと、7回を被安打4の無失点と好投。一軍公式戦では自身3年振り、一軍の先発では自身初の勝利を挙げた[2]。また、ウエスタン・リーグでは、公式戦16試合に登板。規定投球回数に達しなかったものの、9勝2敗、2完投、96奪三振、防御率2.00という好成績で、リーグ史上初の4連覇に貢献した。一軍公式戦では4試合の登板(先発3試合)で2勝1敗という成績を残したが、チームのリーグ連覇で迎えたポストシーズンでは、ロングリリーフ要員として起用[45]千葉ロッテマリーンズとのクライマックスシリーズ ファイナルステージでは、第1戦(10月15日[46]および第3戦(同月17日、いずれも福岡ヤフオク!ドーム)[47]の救援でピンチを完璧に凌いだことによって、チームを日本シリーズ進出に導いた。東京ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、10月27日の第3戦で、1点リードの5回裏2死1塁から2番手投手としてシリーズデビュー。山田哲人から逆転の2点本塁打(シリーズ史上初の3打席連続本塁打)を浴びて敗戦投手になった[48]が、翌28日の第4戦(いずれも神宮)では、2点リードの7回裏からの登板で2イニングを完璧に抑えた[49]。なお、シリーズ終了後の秋季キャンプには、投手出身の一軍監督・工藤公康の方針で「強化指定選手」として参加。工藤は、投手陣の競争に勝ち抜くことを条件に、千賀を翌2016年から一軍の先発陣に組み込むことを明言した[50]。その一方で、12月26日には、自身と同じ年齢の一般女性と結婚したことを発表している[51]


2016年

開幕から先発ローテーションの一角を担い、プロ初完投を記録した。

選手としての特徴[編集]

スリークォーターから投げるストレートは力強く、2013年にリリーフとして起用された際には平均球速約149km/h[52]、最速156km/h[53]。かつての野田浩司を彷彿させる落差の大きいフォーク(通称「お化けフォーク」)[54]、縦のスライダーで空振りを奪う[55]


ストレートについては、高校時代に最速144km/hを記録。プロ1年目には、基礎体力の養成を優先した結果、1年間で最速記録を152km/hにまで伸ばした[5]。2年目には、当時の先輩投手・近田怜王の勧めで、スポーツトレーナーの鴻江寿治が主宰する合同自主トレーニングへ近田、チェン・ウェイン吉見一起上野由岐子などと共に参加。鴻江から身体の使い方を学んだことをきっかけに、低めへのストレートの伸びを大幅に向上させた[5]。地元球団である中日ドラゴンズのスカウトは、ソフトバンク入団後に二軍での千賀の投球を視察した際に「愛知にこんな選手がいたなんて…」と悔しがった[2]


高校時代には浅めに握るスプリットフィンガード・ファストボールを投げていたが、スライダー回転していたため人差し指を縫い目にかける工夫をした。制球難に苦しんでいた千賀は2012年1月の自主トレで球界屈指のコントロールを誇る吉見に積極的にアドバイスを求め[56]、親指の使い方を教わり 「20球に1球しかまともに落ちなかったフォーク」が毎回真下に落ちる完成度の高いフォークへ変わった[57]


救援投手として起用され始めた2013年のレギュラーシーズンでは、一軍公式戦でチームトップの51試合に登板。同点の局面で登板した7試合のうち、5度救援に失敗した。その一方で、僅差でのリードを背負って登板した18試合では、17試合を無失点で凌いでいた。当時は直球とフォークを主体に投球を組み立てていたが、2015年の先発再転向後は、スライダーを配球に加えることで投球の幅と安定感を増している[2]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2012ソフトバンク220000100.000294.270800100759.643.21
201351000014117.20023256.132126018510116152.401.03
20141900001103.5009022.21705012810551.990.97
2015430002100.6678522.19010002100210.400.85
通算:4年76500047120.364436106.0651490113511130262.211.08
  • 2015年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

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