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橋上ヘッドコーチを期待しているヤクルトファンもいるようだ。
私は橋上の人柄は知らないが、野村があれほど買っていた頭脳なのだから、優れたものがあるのだろう。選手を活かすも殺すも監督やコーチ次第なのだから、ヤクルトというチームにとっては才能のあるコーチというのは大きな価値があるはずだ。
V9巨人も、王長嶋という両スーパースターだけの力ではなく、言うまでもない話ではあるが、緻密な野球を土台から作り上げた川上監督と牧野ヘッドコーチの手腕が大きいのである。特に牧野は他球団(中日)のOBでありながら、その頭脳(牧野が書いた新聞のコラムか何かで川上は知ったらしい。)を買った川上が招聘してヘッドコーチにした人間だということを知らない人も今の若い人の中には多いかと思う。
(追記)ウィキペディアから「牧野茂」の記事を抜粋転載。
大学の先輩である杉下茂監督が辞任したことを受けて同年退団。地元の名古屋市で、スポーツ紙「デイリースポーツ」所属の野球解説者として野球記事を執筆していた。
舌鋒鋭く巨人の長所短所を批評する彼の書いた新聞記事を見た当時の巨人監督・川上哲治が、その内容に感銘を受け、コーチとして迎えることを決意。1961年シーズン途中の7月25日に巨人の一軍コーチとして入団した。当時、自球団出身者以外の者をコーチとして招聘したのは巨人ではもちろん、他球団においても例がなかった。川上監督はロサンゼルス・ドジャースで実践され、成功を収めた組織野球戦術「ドジャース戦法」(スモールベースボールの礎)をチームに根ざすことを考えていた。牧野の執筆した記事を読んだ川上はその野球理論に惚れ、ドジャース戦法導入のキーマンと考え、コーチとして入団させた[2]。それまで「特別練習」と呼んでいた練習をより強い意味にしようという思いから「特別訓練」、略して「特訓」という言葉を生み出した。これがマスコミによって喧伝され、現在では誰もが当たり前に使う言葉として定着した。この年の巨人のキャンプはドジャースがスプリングトレーニングを毎年実施しているベロビーチで行われた。
牧野はチームの帰国後もアメリカに残り、ドジャーズ戦法をはじめとした組織野球戦法の研究に努めた。ボロボロになるまで『ドジャースの戦法』を読み耽り[3][4]、その内容をすっかり丸暗記してしまった[5]。1963年春にはベロビーチでその著者であるアル・キャンパニスから直接指導を受け、「守備練習こそが勝利への直通路だ」と結論付けた[6]。そしてその成果は1965年から1973年までの9連覇という形で現れる。V9になった73年には、作戦コーチとして活躍。川上巨人の名参謀として川上監督の絶対的な信頼を得た。
頼むぞ高津監督、橋上ヘッド