忍者ブログ
ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
11
22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
o-zone
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
[7415]  [7414]  [7413]  [7412]  [7411]  [7410]  [7409]  [7408]  [7407]  [7406]  [7405
今さっきまで「らんま1/2」の新作を見ていて気がついたのだが、高橋留美子の漫画には女性(主に女らんま)のヌードは出るが、男女が(偶然のアクシデント以外)抱擁したりキスしたりするシーンはほぼゼロなのではないか。そして、もうひとつ、女性のパンチラもほとんど、いや、まったく出ないはずだ。
つまり、高橋留美子の考えでは、「ヌードはエロではない」「エロとは男女の性行為やそれを暗示するところに発生する」というのが基本にある、と私は愚考する。
なぜ、パンチラはエロで、ヌードは非エロかと言えば、後者は言うまでもなく、入浴などに必然的に伴うものだ。そこでいちいち発情するのはおかしいわけである。そこには、本来的に性行為が前提されていないのだ。裸になってセックスするか、風呂に入るかでは全然意味が違う。では、なぜパンチラはエロかというと、そもそも「女性がパンツを隠す」行為自体が、「そこに男性の情欲が発生する」ことを前提としているからである。男の目には、神秘の宝箱だ。だが、ヌードというのは、体全体がその対象であり、腕のヌードとか指先のヌードに発情する男は(たぶん)いない。
そして、あえて言えば、女性の全裸姿にもエロチシズムは無いか、希薄である。そこには何の神秘感もない。赤ん坊の裸と同じことだ。
いや、私が「パンチラ論」を書くのは、もう何度目になるか知らないが、これはエロスやエロチシズムについて論じた高名な文学者や哲学者が到達できなかった大きな発見だと自負しているwww
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
忍者ブログ [PR]