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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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あの用務員が関谷という名前だったというのは憶えていないが、重要な登場人物であるのは確かで、現代なら小学生女子をセックスの相手にする(それが無いと逆に不自然である。)どぎつい描写まで描かれていたのではないか。映画化だと、たとえば可愛い女子生徒の手を引っ張って行って一室に閉じこもるといった「匂わす」描写までしか描けないだろうが、そこまでだけでも描くのがいい。かえって観客の想像を掻き立てて、悪寒すら感じさせるだろう。あのような低劣な人間が、「大人である」というだけでその世界の最高権力者になる、というのは、形を変えた身分社会(上級国民対下級国民)の戯画にもなっている。
まさに用務員という感じの冴えない容姿に気味の悪さが漂うという点では、蛭子能収はまさに適役だろう。ほかに思いつかないくらいだ。
母親の描写が大事だ、というのも同感。最後で母親の自己犠牲的行動によって子供たちが救われるというのが最高の感動ポイントなのだから、その前の母親の悪戦苦闘の描写が非常に大事になる。つまり、布石を重視しなければならないのだが、パニックものの脚本家や監督は大イベント場面(スペクタクル場面)の描写しか頭に無く、人間のドラマとしては非常に低水準になりがちなのである。
まあ、それを逆手に取って人間ドラマをすべてカットして成功したのが「シン・ゴジラ」だったわけだが、映画館の大画面ならともかく、テレビ画面で二度見る気にならないのは、やはりそこが弱点だからだと思う。テレビ画面ではどんな大画面でもスペクタクル性はゼロになるからだ。そこが、人間ドラマもしっかりしている「ベン・ハー」あたりとの違いだ。

12月14日

ペストに冒された未来の息子を救うため、特効薬を入手するために自分の手を包丁で突き刺して病院に入院する母親の描写、生き残った唯一の大人である用務員の関谷が女子小学生をはべらせて「関谷様と呼べ!」「流行歌を歌え!」と叫ぶ場面がちゃんと描けていれば「映画漂流教室」は成功したも同然。


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  • 12月14日

    私見では漂流教室を映画化するポイントは「未来に居る息子とテレパシーでつながった母親の、現在時間での苦闘」「卑屈な独裁者・関谷様」の二点だと思うのだが、過去の映画化ではそこを押さえずに別のどうでもいい描写に力を入れている。


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  • 12月13日

    「漂流教室」の過去の映画化は私見ではすべて失敗しているが、私としては関谷様に蛭子能収をキャスティングしてもう一度リメイクしてほしい。


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私も「禁断の惑星」はお勧めである。なぜかネットテレビでは古い映画はあまり見られないし、特にヨーロッパの「名画」とされているものはほとんど見られない。また昔のB級映画でカルト的人気のあるものもほとんど見られない。
私がお勧めするSF映画(まあ、さほど観ているわけではないが)を10本挙げておく。番号は思いついた順であり、順位ではない。
なお、「スター・ウォーズ」は、見た時は結構面白かったが、まったく記憶に残っていない映画であるので、私のお勧めには入らない。元ネタである黒澤の「隠し砦の三悪人」のほうが面白い。



1。禁断の惑星
2。ゴジラ(第1作)
3。マタンゴ
4。地球の静止する日(オリジナル版)
5。遊星からの物体X
6。バック・トゥ・ザ・フューチャー(第1作)
7。2001年宇宙の旅
8。時計仕掛けのオレンジ
9。ジェニーの肖像
10。ロッキー・ホラー・ショー


案外思いつかない。「ロッキー・ホラー・ショー」はSFというよりSF映画が好きな人への愛情のこもった、カルト的ミュージカル映画である。私はSF映画があまり好きではないのかもしれない。「ジェニーの肖像」はSFというよりは超常現象を含むラブロマンスである。主人公の女優がもっと美人ならよかったが、全体の雰囲気が素晴らしい映画だ。

(訂正)前に「宇宙の静止する日」と書いたのは「地球の静止する日」の間違いなので訂正した。
なお、題名を正確に思い出せないためにリストに入れなかったクリストファー・リーブ主演「ある日どこかで」をリストに入れることにする。ロマンチックSFとしては最高傑作かもしれない。原題は「somewhere in time」で、「いつかどこかで」とか「ある日どこかで」ではなく、「時のどこかで」と訳すべきだろう。ラフマニノフの「パガニーニ主題による変奏曲(ラフマニノフのラプソディ)」の使い方が最高に見事で、過去の部分は薄い紗をかけたような画面であるのも、或る種の定番とはいえ、物語内容によく合っている。映画は、奇抜さを競うのではなく、昔からの技法を破綻なく使うほうが大事だと思わせられる。





『禁断の惑星』は絶対に観るべし。


















ほとんどの大人は「ET」を「ファンタジーSF」として観にきたわけで、作り手側は「子供を主な対象としつつ、一部の大人の鑑賞にも耐える作品」を作ったわけだ。私はむしろ、この映画が「子供騙し」に見られるのを避けたためか、登場する子供たちの家庭が片親家庭であることで、ファンタジーに余計なリアリティを与えたのはミスだったと思っている。
だが、ファンタジーというのは難しいもので、一般的には細部のリアリティは、全体の「大嘘」を観客に納得させるのに絶対に必要なのである。「ET」は、その細部のリアリティは素晴らしかった。逆に日本の特撮映画のほとんどがダメなのはそこなのである。その駄目さを一部の物好きが許容して甘やかしてばかりいるからいつまで経っても日本の特撮映画は進歩しない。
要するに、子供だましの映画は、子供すら本当は騙せないのである。
下の「オバハン」は、ファンタジーと「子供だまし」を混同している。



映画の鑑賞マナーで思い出すのは(これはスマホとか無い時代だけど)山上たつひこの『ええじゃない課』で須崎君が「ET」観に行ったら隣に傍若無人なおばちゃんと子供が座って酷い目に遭う話。「なんやこれ子供だましやなー」











「死霊の盆踊り」は、私も一生忘れることができない「サイテー邦題」だと思うが、インパクトは凄い。題名だけで歴史に残るだろう。
エド・ウッドは、カネも無く才能もまったく無いが、映画愛だけはハリウッドでもナンバーワンだっただろうという三流以下の監督として有名で、その作った映画もサイテー映画だと言う。
このふたつの併映というのは凄い。



  1. さんがリツイート

    サイテー映画の大逆襲2020!『死霊の盆踊り』&『プラン9~』、爆笑必至の特報解禁


  2. さんがリツイート

    『死霊の盆踊り』を超える邦題を、自分は知らない。














私がタケシの映画で、映画館で見たのが「あの夏いちばん静かな海」と、たぶん「キッズリターン」の2作だけだと思うが、どちらも傑作で、それで私は満足して、彼の暴力系、ヤクザ系の映画はたぶんひとつも見ていない。もともとその手の映画は見ていて楽しくないからだ。
「あの夏いちばん静かな海」は、聾唖者のカップルの話で、佐藤春夫の詩「海の若者」をモチーフにしたような映画で、ほとんどセリフが無く、ストーリーもほとんど無い話だが、実に詩情溢れる作品で、最初はタケシの映画の暴力性を嫌っていた淀川長治が、大絶賛したものである。確か、音楽は久石譲だったと思う。まさに、静謐の詩であった。
「キッズリターン」は、下のコメントにある会話で終わる青春物語だが、「青春残酷物語」という内容で、これも詩的な作品だった。人生や青春の苦さが詩情となっているわけだ。

この2作品は、ぜひテレビ放映してほしいと思う。未見だった若者は、この作品でタケシという「詩人」の魅力を知るだろう。

(追記)サービスに、「海の若者」の詩を挙げておく。この詩は歌曲にもなっていて、そちらも実にいい曲なので、ユーチューブで視聴をお勧めする。ただし、作曲者が複数いるようなので、あまり感心しない曲もある。


海の若者


ー佐藤春夫ー


若者は海で生(うま)れた。


風を孕(はら)んだ帆の乳房(ちぶさ)で育った。


すばらしく巨(おおき)くなった。


或(あ)る日 海へ出て


彼は もう 帰らない。


もしかするとあのどっしりした足どりで


海へ大股(おおまた)に歩み込んだのだ。


とり残された者どもは
泣いて小さな墓をたてた。








松本人志(初監督43才)   北野武(初監督42才)

大日本人         その男、凶暴につき
しんぼる         3-4X10月
さや侍          あの夏、いちばん静かな海。
R100           ソナチネ

最初の4本を比較すると才能の残酷さが分かるな
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「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな」
「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」
「バカやろう
まだ始まってもいねえよ」

こういうどストレートが死んでも投げられないのが松本 いつだって変化球







これは割といい指摘かもしれない。「物事の共通点」というのはなかなか気づかない部分である。強大な敵に策略で勝つ、というのは戦争モノではあるが、ヒーロー物は「正面から殴り合って勝つ」のが基本という感じは確かにある。アメリカ人特有の筋肉信仰だろうか。
例外が、「明日に向かって撃て!」の冒頭で、盗賊団の首領であるポール・ニューマンが、副首領みたいな大男に一対一の喧嘩で勝った者が首領になろうと挑まれ、それを承知した次の瞬間、「試合開始のゴング」が鳴る前に一発食らわせてノックアウトする場面である。これがジョン・ウェインなどだったら(最初から盗賊団に入らないだろうが)相手と30分くらい延々と殴り合ったのではないか(「静かなる男」「ドノバン珊瑚礁」参照)www
なお、ジョン・フォード監督のトレードマークのひとつであるこの「殴り合い場面」は、宮崎駿の「紅の豚」で援用されている。宮崎駿の男性の好みや女性の好みもジョン・フォード映画に近い。「紅の豚」のポルコ・ロッソの女性への態度は、「荒野の決闘」でのワイアット・アープの、ヒロイン、あるいはマドンナであるクレメンタインへの態度に似ている。女性崇拝主義的であり騎士道的であるわけだ。




さんがリツイート
10時間前

だから「ターミネーター2 特別編」でカットされたシーンが復活した時、敵のT-1000が段々と弱って行くシーンが公開版ではバッサリ切られたのわかる。倒せるかどうかのサスペンスを強めるのと、「弱ってる敵を倒してもカタルシスない」と思われたんだろうね。日本だと「なるほど!」だけど


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  • さんがリツイート
    10時間前

    日本だと「2」のT-1000って凍らした時点で勝ちだよね。液体金属だから、というトンチで。


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  • さんがリツイート
    10時間前

    これは昔からだからネタバレにならないと思うけどさ。ハリウッドって「高スペックの敵」「新型の敵」が出てきた時、「弱点をついて倒す」とか「トンチで倒す」って卑怯だとみなすみたいで 正面から殴りあって、気合いと根性で勝たないとダメみたいね。精密機器の弱点を突くって日本人的発想なのかなあ


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これらが同一人物であるらしいのも驚きだが、本物の顔がなかなか二枚目であるらしいのが面白い。下段左端の顔は、老人斑のメーキャップがなければ美男中年である。眉と目は千葉真一に似ているが、それより美男だろう。下段右下は、膝で歩いて小人に見せているのだと思われる。








さんがリツイート

まあ、僕らの親世代はこんなグロ時代劇見てたらしいし、怪獣ぐらい平気だったのかもしれませんな。今、この団徳麿さんみたいな時代劇スターいたら怒られるのかな。







これはいい所を突いていると思う。「製作費」や「宣伝費」が水増しされていて、その中に、制作側の利得が最初から入っているわけだろう。つまり、赤字になっていても実は制作側は困らない。もしかしたら、税金面でも興行収入は赤字のほうが有利なのかもしれない。

言い換えれば、ハリウッド映画自体がセレブの食い物であるわけだ。こういう商売をやっていたら長期的には映画界の自殺行為である。



さんがリツイート

最近のハリウッド映画、一億ドル稼いでも大赤字とか、製作費と宣伝費かけ過ぎだろ。一体なんにそれくらい使うんだ。みんなで美味い物でも食ったのか。










たとえば「評した」を「表した」のように書くなど、日本語の怪しい人が書いた記事のようなので、コッポラ監督の「(マーベル映画は)卑劣だ」という意味不明の評語も、元の英語が何なのか分からないとその発言の是非を論じることもできないのだが、「(マーベル映画は)幼稚だ」なら分かる。あるいは、「卑劣だ」と訳しそうなのは「低劣だ」だろうか。映画を評するのに「卑劣だ」はおかしいだろう。漫画からネタを得ているのは、マーベル漫画の卸元なのだから「卑劣だ」は当たらない。
まあ、スコセッシやコッポラの気持ちは分かる。私はマーベル映画は一つか二つ見たか見ないか程度の経験しかないが、幼稚そのものの内容であり、小中学生くらいが見るのに適した映画だろう。私は子供向け映画を馬鹿にしているのではない。むしろ、子供向け(家族向け)映画ほど真剣に作っていたのが、過去のアメリカ映画界の最大の美点だったのである。マーベル映画は、子供向けではなく、「大人子供」向けだから気持ち悪い。

ちなみに、私自身、頭が中学生であることを自負しており、だからこそこのブログのタイトルも「アンファニズム(子供主義、くらいの造語)」なのだが、それは「大人社会の偽善」への嫌悪からのものであり、子供だからいい、ということではない。現代のオタクに見られる、いい大人が自分の「子供趣味」を誇る姿勢こそ厭らしいと思っている。
マーベル映画など、その象徴のようなものである。

大物監督のマーベル映画批判が止まらない。映画『ゴッドファーザー』や映画『地獄の黙示録』などで知られるフランシス・フォード・コッポラ監督がマーベル映画を「卑劣だ」とコメント。(フロントロウ編集部)

大御所監督のマーベル論争

 フランシス・フォード・コッポラは、映画『ゴッドファーザー』や映画『地獄の黙示録』など誰もが一度は耳にしたことのあるクラシック映画を多数生み出してきた監督。娘は映画『ヴァージン・スーサイズ』や映画『ロスト・イン・トランスレーション』などを製作した、ソフィア・コッポラで、甥はなんと俳優のニコラス・ケイジという映画一族。


 現在80歳を迎えるコッポラ監督は現地時間20日にフランスで開かれた映画の祭典リュミエール・フェスティバルで、先日マーベル映画について「映画ではない」と発言したマーティン・スコセッシ監督の発言を支持する姿勢を示した。


画像: 大御所監督のマーベル論争

 「マーティン・スコセッシがマーベル映画はシネマじゃないと言ったが、彼は正しい。なぜなら、シネマとは私たちに何かを教え、悟りや知識やインスピレーションなど何かを習得させるべきだから。同じような映画を何度も何度も見続けることで何かを得られる人はいるのだろうか」


 そう、マーベルシリーズを表したコッポラ監督は、さらに同インタビューの中で、「マーベル映画は映画ではない」と語ったスコセッシ監督は、「マーベル映画を卑劣だと言わないだけ優しい。自分ならそう言うね」とまで強気の発言。


 ちなみにスコセッシ監督以上に厳しいコメントをマーベル映画に放ったコッポラ監督だけれど、マーベル映画である『ブラックパンサー』のあるシーンには感銘を受け、何度も見返していたと、同作品監督のライアン・クーグラーがDVD特典のコメンタリーで語っていた。(フロントロウ編集部)











映画の70%(だったか)はキャスティングで決まる、という説もあるようだが、「ドリトル先生」をロバート・ダウニーjrにやらせるのは、ホームズをやらせるのと同じくらいの暴挙だと思う。まあ、ホームズにはまだ少しキティ(Kitty guy)的なところもあるが、ドリトル先生は、動物も含めて人道主義の塊のような善良な人間であり、人殺しの似合うRDjrにはまったく合わないだろう。
ただし、予告編を見ると画面作りは見事であり、原作を知らない子供には好まれる映画になるかもしれない。なお、役者としてのRDjrは嫌いではない。「明るい精神異常者」役にはぴったりだと思う。




さんがリツイート

ロバート・ダウニー・Jr.主演最新作「Dolittle」予告編が解禁。動物と話せる不思議な能力をもつドリトル先生の壮大な冒険が始まる。トム・ホランド、マリオン・コティヤール、アントニオ・バンデラス、ラミ・マレック、レイフ・ファインズら豪華出演。来年1月17日全米公開。


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