写真はヴァンプ(妖婦)役時代の写真だと思う。妖婦役から良妻賢母役への転身が面白い。
(以下引用)
マーナ・ロイ
マーナ・ロイ Myrna Loy | |||
---|---|---|---|
マーナ・ロイの宣材写真 | |||
本名 | Myrna Adele Williams | ||
生年月日 | 1905年8月2日 | ||
没年月日 | 1993年12月14日(88歳没) | ||
出生地 | アメリカ合衆国 モンタナ州レイダースバーグ | ||
死没地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク | ||
活動期間 | 1925年 - 1982年 | ||
配偶者 | Arthur Hornblow, Jr. (1936-1942) John Hertz, Jr. (1942-1944) Gene Markey (1946-1950) Howland H. Sargeant (1951-1960) | ||
|
マーナ・ロイ(Myrna Loy、1905年8月2日 - 1993年12月14日)は、アメリカ合衆国の女優。良妻賢母な女性役を得意とした。本名はMyrna Adele Williams。
生涯[編集]
モンタナ州レイダースバーグ生まれ。父方はウェールズ系、母親はスウェーデン及びスコットランド系[1][2]。州議会の議員も務めた牧場主の娘で、1912年に州都ヘレナに移る。ヘレナ出身の俳優ゲイリー・クーパーと幼い頃に遊んだことがあるという。1918年に父がインフルエンザにより急逝[3]したのがきっかけで、母と共にロサンゼルス近郊に移住、それまでロサンゼルスの寄宿生女学校に学んでいたが、公立のヴェニス・ハイスクールに転じた。ちなみに同校の庭に建てられた彫像は在学中に彼女がモデルとして選ばれたものであり、今でも校庭の跡地に彫像は残っているが、現在は鉄柵で囲まれている[4]。
卒業後は少女時代から習っていたダンスの特技を生かし、ダンス教師として自活。1923年、グローマンズ・チャイニーズ・シアターのダンシング・チームに参加し、『十誡』のアトラクションで踊っていたところを写真家のヘンリー・ワックスマンが撮影し、それを見たルドルフ・ヴァレンティノが映画に起用しようとテストを受けさせたが、デビューは実現しなかったものの、『ベン・ハー』に端役としての出演を経て、1925年に『美人帝国』でデビュー。しかし別の文献によるとダグラス・フェアバンクス主演の『バグダッドの盗賊』上映のアトラクションとしてで踊っていたところをスカウトされたという説もある。ワーナー・ブラザースと契約し、芸名もガートルード・スタインの詩をヒントにマーナ・ロイとした。
1928年の"Crimson City"で中国女性を演じてからは、サイレント期は60本余りの作品でエキゾチックな妖婦役が専門であったが、1931年『人類の戦士』でまじめな役を与えられてからは心のやさしい女性役が多くなる。フォックス社に一年間在籍したのち、1933年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社と契約してからは、アーヴィング・タルバーグに認められて、1932年の『男の世界』や1936年の『巨星ジークフェルド』をはじめ、次々と話題作に出演し、人気が頂点に達した。特に1934年からはじまる「影なき男」シリーズは、ウィリアム・パウエルとの名探偵コンビが大評判となり一時代を築いた。二人はその後、『影なき男』シリーズ6本を含む12本で共演。実生活でも恋仲である事を噂されたが、実際には二人の間には何もなかったという。
戦後は1946年の『我等の生涯の最良の年』のフレドリック・マーチ扮する帰還兵の妻役で人気が再燃、1950年の『一ダースなら安くなる』に出演したのち、次第に脇役に回るも、その後もハリウッドの大御所女優のひとりとして活躍した。1950年代末から舞台へと進出、『裸足で散歩』のシカゴ公演ではサラ・シドンズ賞を受賞した。1973年にはブロードウェイにもデビューを果たす。
結婚歴は4度。戦中は赤十字活動、戦後は反マッカシーズムを表明。ユネスコ婦人代表をつとめたり、民主党の大統領候補を応援するなど政治への関心も強く、また、社会への献身的な活動も評価されている。1990年に、故郷ヘレナに劇場「ザ・マーナ・ロイ・センター」がオープンする。1991年には第63回アカデミー賞で名誉賞を受賞した(プレゼンターはアンジェリカ・ヒューストン。マーナ自身は中継で登場した)。
1993年12月14日、乳癌で死去。88歳。