旗の下に、いざ集わん!:『英国王のスピーチ』
Paul Bond
2011年2月3日
トム・フーパー監督、デビッド・サイドラー脚本
『英国王のスピーチ』
歴史的な出来事を扱おうとする映画制作者は、ある種の課題に直面する。作品が成功するためには、出来事の一言一句、あるいは元の言葉に忠実な再話である必要はないが、映画には、根本的な歴史的真実や、現代との欠かせぬ関わりといった要素が必要だ。『英国王のスピーチ』は称賛や褒賞を多く与えられてはいるものの、この点では、ほとんど失敗だ。
『英国王のスピーチ』は、ある種の強さを示している。何より演技が素晴らしい。しかも、思いがけない、ありそうもない友情を通して、吃音を克服しようと奮闘する男の、比較的、繊細な描写を中心に据えている。映画の温かさと魅力は、このテーマに由来する。コリン・ファースは、子供時代から悩んでいる発話障害と苦闘するバーティ(アルバートの略称)、ヨーク公、後の英国王ジョージ6世(1895-1952)を素晴らしく演じている。
とはいえ、物語は、本質的に、イギリス王室、そして、その1930年代における、更により一般的な役割に関する、好意的で、往々にして畏敬の念に満ちた見方に基づいている。この二つのテーマが居心地良く両立しているわけではない。
バーティは、厳格でこどもを虐待するジョージ5世(マイケル・ガンボン)の次男だ。吃音のため、演説がうまくできない。映画は、吃音を埋め合わせるテクニックを教えてくれる、俳優としては成功しそこねて言語療法士になったライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)のところに、彼がいやいやながら通う様子を描いている。障害で苦しんでいる人々を助けるべく最善を尽くそうとする、上品で寛容な人物のローグを、ラッシュは魅力的に演じている。
ローグが登場する場面には、王室のうぬぼれに対する、きわどい打撃となっている部分もあるが、決して無礼が行き過ぎることはない。バーティと妻のエリザベス(ヘレナ・ボナム・カーター)を穏やかに、からかうだけだ。映画俳優達にとって、セリフの品質への関心は明白だ。映画のキャストは非常に有能で、素晴らしい声の持ち主ばかりだ。バーティの言語障害は、ガンボン、デレク・ジャコビ、クレア・ブルーム等々、周囲の素晴らしい発声によって強調される。とはいえ、この映画、王冠をつけた『マイ・レフトフット』というわけではない。
バーティの吃音克服は、実際そうだったのだが、政治的行動に向けられたものとして描かれている。しかし、この描写にこそ問題がある。この映画での出来事の見せ方は、本質的に、戦時の敵に対する挙国一致を“イギリス最高の時”として描き出す為の一環として、戦時中に作られ、以来忠実に繰り返されているプロパガンダに沿っている。
バーティの吃音についてすら、映画は、彼の演説の結果について、受け売りで偽りの説明を提示している。戦時首相のウインストン・チャーチルは、実際、BBCにジョージ国王の演説の吃音部分を削除するよう指示を出していたのだ。
映画の弱さの核心は、1936年1月、ジョージ5世逝去後の憲法上の危機にまつわる、どこか浅薄で、好ましくない部分を削除した、この映画による説明にある。ジョージ5世の長男デビッド(ガイ・ピアースによる素晴らしい演技)がエドワード8世として王位についた。彼は一度離婚をしたことのあるアメリカ社交界の花形、ウォリス・シンプソン(イヴ・ベスト)と関係しており、王位に就いてから、彼女と結婚する意図を発表していたが、彼女はまだ二人目の夫と結婚状態にあり、それは許しがたいものと見なされていた。
シンプソンが離婚すると、カップルの事がアメリカのマスコミによって暴露され(イギリスのマスコミは、法律的にそうした報道をすることを禁止されていた)、イギリス国教会の長という国王の立場に対する道徳的な非難から君主制の名声を守るため、必死の準備がなされていた。一年以内に彼は退位し、バーティがジョージ6世となる道を開いた。
退位の危機は、歴史上の逸話としては、そういうことになっている。しかし一皮めくると、事件の背後には、それとは別の、シンプソンとエドワードのヒトラー・ナチス党との密接な関係を巡る、政治的にはるかに危険な懸念があったのだ。
シンプソンは、以前性的関係を持ったことのある外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップを含め、ナチス幹部と多くの密接な関係をもっていた。退位後間もなく、カップルはヒトラーの客としてババリアに留まった。カップルはナチスの侵略軍によって、再び王位につくことを進んで受け入れていたことも文書中で、明らかになっている。
王室がファシズムをあからさまに支持するというのは政治的に難題だったろう。スタンリー・ボールドウイン首相は辞任せざるを得なかったろう。ルーズベルト米大統領もエドワード8世のファシストへの共鳴を懸念していた。バーク貴族名鑑の出版局長ハロルド・ブルックス-ベーカーによると、“親ナチスの王を相手にしなくとも良くしてくれた”ので、ルーズベルトは、シンプソンを、起こり得ることとしては“最善の事”と考えていたという。
2003年、彼女がナチスに共鳴していた為、エドワードと彼女との結婚を承認するのをイギリス政府は拒否しており、二人が政府の秘密情報をナチスに提供しているかどうかをスパイすべく、この王室のカップルのもとに、FBIが工作員を送り込んでいたことを記した1940年代に集められたFBIファイルが公開された。
映画は、そうでなければならないが、ナチスに対する二人の共鳴を認めている。ヨーロッパ中の革命運動を警告されて、エドワード8世は主張する。“ヒトラー氏が連中を処理してくれるだろう。”これは1966年にエドワードが書き、“東方を攻撃して、共産主義を永遠に粉砕するよう、ドイツを奨励するのは、イギリスの、またヨーロッパの利益に適っていた”と言明した、ニューヨーク・デイリー・ニューズの記事と一致している。
対照的に、『英国王のスピーチ』は、バーティやエリザベスを含めた王室の他の人々の好ましくない部分を削除した描写を、依然として表明している。危機の克服で、善良で、個人的に勇敢な王の指導力のもと、ドイツにおけるファシズム発展に対する国民的反対の先頭に立つ君主制を実現したとして描かれている。
チャーチル(ティモシー・スポールは充分生かされていない)は、ヒトラーを懸念している、ジョージ国王に対する絶大な支持者と見なされている。ボールドウィン首相(アンソニー・アンドリュース)は、1937年に、ヒトラーに関して“チャーチルはずっと正しかった”と言って辞任を申し出る。偉大な先見の明のある、反ナチス指導者というチャーチルに関する戦時プロパガンダを映画はあおっている。実際には、ナチス・ドイツによるイギリスの権益に対する脅威を巡る懸念から、チャーチルがエドワード退位を支持するに至ったわけではない。王が“王党”を率いるという噂があった為、むしろ彼は懸命に王位に留めておこうとしていたのだ。
即位後、ジョージ6世も妻も大英帝国を守るという見地から宥和政策を支持した。1939年、ユダヤ人避難民達が“こっそりパレスチナに入り込んでいる”ことを知って、ジョージ6世は、外務大臣のハリファックス卿に、“これらの連中が出生国から離れることを防ぐための手段が講じられていることを嬉しく思う。”という手紙を書いている
ハリファックスは、ユダヤ人の“無許可移民をチェックすべく”ナチスを奨励するよう、駐ベルリン・イギリス大使に電報を送っていた。後の皇太后、エリザベスは、長年にわたる宥和政策の支持者、ハリファックスと親密だった。ハリファックスとの密接な同意を示していると見なされている彼女の文書の一部は、現在も公開が差し止められたままだ。
魅惑的なお話ではある。しかし、監督トム・フーパーと脚本家デヴィッド・サイドラーは繰り返し、手加減をしている。これは、お上による神話化作業について、ほとんど無批判な映画だ。フーパーは、『英国王のスピーチ』を、戦時中、英国空軍に服務して、亡くなった祖父に捧げている。彼はこれを“無益な死”と表現している。祖父の飛行機は作戦から帰還途中だったが、最寄りの空港への着陸を拒否されて、墜落したのだ。
制作ノートを引用すれば、彼にとって、ジョージ6世についての映画は“イギリス国民を鼓舞し、戦闘に団結させた”導き手として現われた。1939年、ジョージ6世としての初のクリスマス時の開戦演説で映画は絶頂に至る。次第に大きくなる音楽を背景に、放送局のスタジオと、国中の家庭や工場で演説を聞いている人々のうっとりとした表情のカットが繰り返される。これが、映画中でほぼ唯一、普通の人々の光景だ。演説を終えると、ジョージとエリザベスはバッキンガム宮殿のバルコニーへと向かい、とうとう彼の側についた群衆に歓迎される。
時折、本当の懸念に対するヒントもある。ジョージ5世が逝去する前に、バーティと父親は三つの選択肢について話し合う。“我々と、革製長靴と、プロレタリアの奈落の間に、誰がたちはだかるだろう?”
後にバーティは、新たに即位したエドワード8世と、進展しつつある政治状況について話し合い、ヨーロッパ王室が直面する革命の脅威について警告する。エドワード8世は“王様業”に忙しいと言い、バーティは“王様業とは不安定な職業です”と答える。
社会革命の危機に対する、このような遠回しの言及がこの映画の限界だ。これで、映画の体制順応的教訓を埋め合わせられるわけではない。ジョージ5世は、映画中の議論を驚くべきセリフで要約している。
“余が王なら、権力はどこにある? 余が宣戦布告をできるか? 政府を作れるか? 税金を取り立てられるか? いいや! それでも、余が発言する際には、余は彼等の為に発言していると、彼等が思っているがゆえに、余は全権力の座にある。”
『英国王のスピーチ』は、イギリス国家の頂点に立ち、政治的関心によって形作られている君主制を、彼等が皆と同じ、感情的トラウマを患う一家ではあるが、国家の長という立場によって、一層困難にさせられているものとして描き出す、かなり陳腐で、大いに好意的な一連の映画の最新版に過ぎない。ローグは、患者の正体を知る前に、王室の一員であることを、年季強制労働に、知らずになぞらえてしまう。エリザベスは、“まあそんなところね。”と同意する。このような取り組み方には、ほとんど価値はあるまい。
記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2011/feb2011/king-f03.shtml
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日本でも、似たようなセレモニーが今晩あるようだ。恥ずかしながら?これまで、一体何が、誰が、何を受賞したのか全く知らない。
speech、スピーチ、辞書をみると、「演説」だけでなく、「話し方」という意味もある。「言語障害」、speech impediment, speech disorder, speech defectなどと表現されるようだ。邦画名、この両方の意味を含められるよう考えているのだろう。
イギリスのマスコミ・映画界が、この映画を褒めそやすのは当然。
アメリカ史からは、同じテーマの映画は逆立ちしても作れない。日本でも多数の皆様がつめかけられるのだろう。
この映画をご覧になった後、『クイーン』も見たくなった。英国史を勉強したくなった、という勤勉な方々もおられるようだ。
名著『拒否できない日本』著者による新刊『中国を拒否できない日本』(題名は『中国も拒否できない日本』の方が相応しいだろう。)の中に
「英国こそ真の敵だった」という見出しがある。(164ページ)
『大川周明の大アジア主義』で、英国こそが、米国に対日開戦を使嗾した大東亜戦争の主敵だったのではという仮説を提示した。
とある。『クイーン』を見ても、英国史を少々勉強しても、これには気づくまい。もちろん趣味は人それぞれ。
この映画の話で、犯罪被害者が、拉致犯人に、共感、愛情を感じるようになる、ストックホルム症候群を思い出した。国民総ストックホルム症候群。
案の定、オバマ大統領、反体制運動を弾圧したと、イラン政府を非難している。
暑くて、酒が呑め、米第五艦隊の司令部を擁する、天国のようなバーレン政府が反体制運動を弾圧し、死者を出した。
クリントン国務長官は「アメリカは暴力行使に強く反対し、民主化に向けた変革の動きを支持します」と述べた。
「すべての人は、平和的に集会を行う権利がある」と指摘したうえで、バーレーン政府に対し、治安部隊の暴力行為に深い懸念を伝えたことを明らかにした。
また、「国民のために、意味のある変革に続くプロセスに戻るよう要求する」と述べ、民主化改革を促した。
大切な盟友、サウジ、クェート、バーレン等、民主主義と無縁の専制王政縁故国家における本当の民主化を許容し、第五艦隊司令部を廃止するのだろうか。そうであれば、日本も独立を認められることになる。眉に唾。眉に唾。