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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「雄呂血」は1時間13分のうち最初の1時間は愚にもつかない話(自分を善人だと信じて馬鹿なことや犯罪ばかりする馬鹿な侍の話)だが、それを我慢して最後の10分間の歌舞伎風味剣戟アクションを見るからこそ、まさに雄の血が沸き立つのである。しかも、剣戟と音楽(素晴らしいリズムでどんどん高まっていく三味線と鳴り物)の融合感が絶妙である。この部分だけは世界映画の名作と言える。たとえば「戦艦ポチョムキン」の階段を落ちていく乳母車のシーンのように。
下のコメントの言うように、映画祭で、つまり劇場で大勢の人と一緒に見たいアクションシーンだ。感動が数倍に倍化しそうである。変な言い方だがロックな映画とも言える。

(以下引用)

@honeybadger81
14 年前
@Bretzel42 これはかなり素晴らしい映像ですね。この映画のクオリティの高さを知っている人はあまり多くないと思います。現代人の目から見てもアクション映画(アクション悲劇?)としては率直に素晴らしい…これを映画祭で上映したら、きっと大騒ぎになるだろう

インターネット上では少しデリケートな話題であることは承知していますが、映画化の権利はもう公開されているのでしょうか?それとも誰かがまだこれに対する芸術的権利を保持しているのでしょうか?
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一部では胸糞映画ともカルト映画とも言われている(そんな記事を読んだ気がする)映画だが、フラジャイル嬢はこの映画を「コメディ映画」のジャンルに入れているし、映画そのものはまったく見る気が無いので、こうした「あらすじ紹介」は非常に助かる。同じようなタイプの人のために転載する。だが、全部読んだ上で言うのだが、「どこがコメディ映画だ?」www

(以下引用)midsommarって何だろう。midsummerで夏至かと思っていたが。目黒のサンマの親戚かな?

※ネタバレあり『ミッドサマー』が別れたほうが良いカップルにお勧めな理由は、あのシーンがあるせいだけじゃないよ
コメディ映画
ミッドサマー
Midsommar/監督:アリ・アスター/2019年/アメリカ

ダニーとクリスチャンの関係について

東京国際映画祭と、先行上映にて鑑賞。公開は2020年2月21日。
感想とネタバレ考察はこちら。
ミッドサマー/爆笑必至! 田舎へ行ったら……怖かった!? | 映画感想 * FRAGILE

さて。先行上映のとき、『ミッドサマー』についてアリ・アスター監督が「別れたほうがいいカップルに薦めて」と言っていた。
「固い絆で結ばれているカップルが観れば、なんの問題もないと思います。ただこの映画は、自分が恋人と別れたときに体験した葛藤から生まれた作品でもあります。もし自分たち2人は一緒にいるべきではないのかも?と考えるカップルがいるなら、『この映画を観て別れた』というレガシーを残してほしい」
「ミッドサマー」アリ・アスター初来日、「別れたほうがいいカップルに薦めて」 - 映画ナタリー

私はこの、監督の発言を聞いて、自分が思っていたことに対して確信が持てた。「固い絆で結ばれているカップルが観れば、なんの問題もない」これは本当にそうだ。この映画の主人公であるダニー(フローレンス・ピュー)と、彼女の恋人であるクリスチャン(ジャック・レイナー)が絆で結ばれていたのなら、あんな悲惨な結末にはならなかったであろう。結末だけでなく、彼女らの関係性は最初からもっと穏やかなものになっていただろう。そして、それでは映画としてうまく進まないだろうということも。

※以下ネタバレを含みます。
みんな同じこと考えてるかもだけど、記録しておくことが大事だと思って。
ダニーは両親と妹を最悪な形で亡くし、もう頼れるのはクリスチャンしかいない。彼女の、クリスチャンへの依存度は高く、時間やタイミングを問わず電話していることが伺える。そんなダニーに対しクリスチャンは優しく接しているかのように見えるのだが、しかし彼は「1年前からダニーと別れたいと思っている」ともこぼしている。友人たちはそんなクリスチャンの気持ちをわかっており、クリスチャン寄りの意見を出してくる。要するに別れてしまえということである。

また、クリスチャンがダニーに対してぎりぎりまでスウェーデン行きを伝えなかったことも、些細ではあるがダニーを深く傷つけ混乱させるには充分な出来事である。これではただダニーが気の毒なようにも思える。が、クリスチャンも、精神が不安定な彼女を独りにすることが出来ず、とはいえ要求を全部飲んでいたら本当にしんどくなるからもう無理、となる直前の状態にあるように思う。クリスチャンもまた悩んでいるのだ。

スウェーデン行きを自分に話していなかったことについて、ダニーはクリスチャンを問い詰める。その詰め方は一言で言うと大変めんどうくさい。座って話しましょ、怒ってないのよ、帰らないで、話したいだけなの、いいのよスウェーデン行ってもいいのでも事前に話してほしかった。だから今話しあいましょう、みたいなことを延々言っている。クリスチャンを手元に置いておき、詰めることで相手をコントロールしようとしているのかなとすら思う、話し合いたいのではないんじゃないか。とにかく自分の感情(意見ではない)をぶつけたいだけなのだ。

このように、ダニーとクリスチャンには、決定的なすれ違いがある。愛と依存を混同しているダニーと、そんなダニーに嫌気がさし友達に愚痴るものの、うわっつらだけはダニーに親切にするクリスチャン。ダニーとの関係以外でも、クリスチャンはクズ野郎なところをみせてくる。友達の論文のテーマを横取りしようとするシーンからは、クリスチャンがずる賢く自分のことだけを考えている人間だということがわかる。ダニーとクリスチャンは少し似ていて、ふたりとも自分のことだけを考え行動している。ダニーは精神疾患があり、さらに近親者の死によって精神的に追い込まれているがゆえだが、クリスチャンは元から自己中心的な性格の人物なのではないだろうか。

ダニーは、勧められた幻覚キノコを最初食べようとしない。これをわがままとするのは酷だが、周囲の友人らにしてみたら「なんで一緒に食べないんだ、一緒じゃないと違うトリップになるじゃないか」という、いらだちの原因となってしまう。一方でクリスチャンはダニーの誕生日を忘れ、慌てて取り繕う。

とはいえ、かつては彼らにも穏やかに相手を思いやり愛を育んだ日々があっただろう。そう思いたい。

だから、ダニーが最終的にクリスチャンを見放すことは、「(強制的とはいえ)他の女とセックスをしたから」というだけの理由ではない。『ミッドサマー』を「女から男への復讐の物語」だとするのなら、「自分をずっと裏切り続け、ぞんざいに扱ってきた男」への復讐ということだろう。繰り返しになるが、ダニーとクリスチャンの間に愛情はすでになく、それを表すかのように、劇中にはふたりのキスシーンはない(ただ、ディレクターズカット版にはキスシーンがあるらしい、未見である)。

ダニーはコミュニティに取り込まれる。それは彼女が願っていたことであろう。家族を失い、一緒にスウェーデンへ来たクリスチャンの友達もみな死んでしまう。恋人が自分を疎ましいと思っていることも薄々感じていただろう。そんな、居場所のなかった彼女が、ついに自分の「居場所」、ある意味では「家族」を見つけるというラストには、清々しいものを感じる。恋人から見放されそうだった彼女が、自分を大切に(少なくとも今は)扱ってくれる人たちのところへ組み込まれていくことを、否定できる人はいないのではないか。ダニーの気持ちに寄り添って見れば。コミュニティは世間一般の考え方からしてみれば異常だ。異常であっても、自分を受け入れてくれる土壌があるというのは、有り難いことだ。ダニーはこれまでの経験によって、「強さ」を手に入れたのかもしれない。コミュニティの中で女王として君臨する。孤独と戦い、自分の足で立つ。

アリ・アスター監督は、冒頭に引用したように「自分が恋人と別れたときに体験した葛藤から生まれた作品」と言っている。つらい経験をこのような映画に落とし込むには、自分と相手のどこが悪かったのかを見つめ直す必要があるように思う。それは非常にしんどい作業だったろう。なぜ彼がパートナーと別れるに至ったのかは知る由もないし、ふたりの出来事がどれくらい映画に反映されているのかもわからないが、エンターテインメントとして完成させられる手腕と、ある意味で冷静な眼差しを感じる。たいへん誠実な監督なのではないだろうかと思うのだ。
「超訳コネクト」から外国人による「東京物語」評をふたつ転載する。


(以下引用)


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● 「瞑想的な傑作」
  評価:★★★★★★★★★★

 僕が学校の授業で「東京物語」を観たのはしばらく前のことだった。授業で映画を観たことは何度もあるけれど、あれほど多くのクラスメイトが胸を詰まらせる姿を見たことはない。一番興味深かったのは、なぜそれほど心を揺さぶられたのかについて、クラスメイトのほぼ全員がうまく説明できなかったことだった。

 そして残念ながら、それは僕も同じだ。それにしても、文化や時代の違いといった壁もあるはずなのに、これほどシンプルな映画にこれほど感情をかき立てられるとは、本当に驚きだ。

 小津安二郎は世界で最も優れた映画製作者の一人と考えられていて、「東京物語」は彼の傑作だ。これを否定する理由は見当たらない。小津のカメラは時折議論の対象になる。彼は通常、カメラを床(もしくは畳)の高さにセットする。これによって、観客は登場人物たちと一緒に座っているような感覚になるのだ。カメラはほとんど動かない。パンするのはかなり稀だ。物語の流れは瞑想的と言えるほどゆっくり展開していく。
 
 この「東京物語」には、小津の作品を映画学校の生徒や映画ファンの間で人気にした要素の全てが含まれている。彼のほとんど動かないカメラ、過剰に強調されたところのない現実的な登場人物、細部へのこだわり、ある感情を象徴する「物」の存在、完璧なタイミングの音楽など、小津のとどまることを知らない映画への情熱がスクリーンから溢れてくるようだ。
 
「東京物語」は、誰にでもアピールするタイプの作品じゃない。普通の映画好きなら、「古い」、「白黒である」、「退屈そう」だからという理由で敬遠するだろう。ただし、注意深くて細かいところまで目が行くタイプの映画ファンにとっては、「東京物語」は実に鑑賞し甲斐のある映画だ。

「東京物語」は、他の小津作品同様、アートとしての映画とはどんなものなのかを示す良い例になっている。ストーリーを語り、命の真実とは何かをカメラで描こうとしている映画だ。今の観客が期待するような「エンターテイメント」とはかなり離れた場所にある。爆発もなければ暴力もない、カーチェイスもない。これが小津だ。そして、その小津の最も優れた映画と考えられているのが、この「東京物語」だ。




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● 「輝かしい作品。完全無欠。」
  評価:★★★★★★★★★★

 この作品は史上最高の映画というわけではないかもしれないし、私個人にとっても最も好きな映画というわけでもない。しかし、史上最も完璧な映画だ。複雑だがシンプルで、簡単に理解できるのに、見るたびに新たな発見がある。過去に立って未来を見つめる映画でありながら、もしかすると、未来に立って過去を振り返る映画なのかもしれないとも思える。そして、全ての優れた日本映画の中でも最も日本的な映画だ。

 公開されて60年以上が経ったのに記憶されている映画であり、今から60年経ってもまだ記憶されている映画であり続けているだろう。私個人の意見だが、非英語作品の中でもっとも素晴らしい映画だと思う。それが「東京物語」という作品だ。
 
 私としては、映画を観る全ての人々におすすめしたい。ただし、まず先にやってもらいたいことがある。黒沢映画を観てほしい。ジブリ映画を観てほしい。日本文化についての知識を得てほしい。ピロー・ショットとは何かを学んでほしい。その後、この作品を観てもらいたい。確かにこの作品には「英雄の旅」、「英雄と輪廻」のような世代の違いも文化の違いも飛び越えて伝わる要素も含まれている。しかし、日本文化と深く結びつき、日本文化が染み込んでいるような要素もあるのだ。そして、その部分には努力をしても理解すべき価値がある。もちろん、文化的な背景を知らなくても作品を楽しむことはできるのだが、その体験はどうしても薄いものになってしまうだろう。

 例えば、ピロー・ショットについて簡単に説明すると、これは「枕詞」のようなものだ。シーンの変わり目に挿入され、一見、物語とは関係ない背景描写のようなショットのことを指す。小津は観客に息をつく機会を提供し落ち着かせるために、このピロー・ショットを実に効果的に使うのだ。私は、このピロー・ショットを見るのが大好きだ。これを見ながら、次は物語がどう展開するのか楽しみにして鑑賞する。ただし、これは実に日本的なやり方でもある。あまりに日本的で繊細な手法であるため、この映画に興味を持つ人ですら、事前に知らなければ注意を払わずに見過ごしてしまうかもしれない。
 
 この映画のプロットはシンプルなものだ。年配の夫婦が東京に住む子どもたちに会いに行く。しかし、彼らの子どもたちはあまりに忙しすぎるため、自分の親を温泉宿に追い払ってしまうのだ。一見したところ「年長者を敬え」というタイプの物語と解釈してしまうかもしれない。しかし、それだけではこの物語の真価がまるで分からない。ロード・オブ・ザ・リングを「世界征服を企む悪者をやっつけろ」という映画だと解釈してしまうようなものだ。
 
 プロットがシンプルなものであるのに対して、登場人物たちは非常に複雑だ。ただし、その複雑さはこの作品の持つ感情に訴える力を邪魔することはない。映画の最後で登場人物たちが同じ場所に集まる場面があるのだが、薄情だったはずの登場人物も優しさを見せた登場人物も含めて、彼ら全てに共感してしまうだろう。こんなことのできる作り手の手腕は実に印象的だ。
 
 今挙げたのは、この映画が持つ魅力のほんの一部に過ぎない。他にも複雑でありながら愛すべき要素はたくさん登場する。私は、まるで映画の形を借りた詩のように感じた。個人的に感じたことと言えば、私は自分が愛する映画、高く評価している映画を観ている時でも、つい「自分ならもっとうまく撮れただろうな。」と思ってしまうことがある。だが、「東京物語」を観ている時に、同じことは一切思わなかった。
 
 シンプルさと複雑さの同居は、タイトルが映った時から始まっている。「東京物語」というタイトルは、思いつく限り最もシンプルなものだっただろう。まるで歌のタイトルのようだ。しかし、これは同時に深いものでもある。東京は、世界で最も物語に溢れた都市の一つと言ってもいいだろう。さらにこの映画がリリースされたのは、第二次世界大戦末期にアメリカの大規模な爆撃によって破壊された後、復興が始まった頃のことだった。そうした背景まで考えてみると、このタイトルはまるで手の込んだ装飾が施されたドアのように感じられてくる。一見したところは、ただの実用的なドアだ。しかし、じっくり眺めてみるとその装飾は何かを象徴しており、細かい部分にも意味があることが分かる…、そんな印象を与えるタイトルだ。
 
 私は通常、「抑制的な映画だから」という理由で高い評価を与えたりはしない。「抑制的」とは単なる流行語のようなものだと思っている。ただし、この映画については例外だ。この映画はあらゆる面で見事なバランスを保っている。なにか一つの要素が過剰に強調されてこのバランスが崩れてしまえば、この「東京物語」が史上最も素晴らしい映画の一つであると言われることはなかっただろう。そのため、あらゆるシーンで実に見事に抑制が効いている。ここが小津作品の素晴らしさだ。
 
 ただし、この完璧なバランスがあっても、登場人物たちと彼らの発した言葉を好きになれなければ、これほどこの映画を深く愛することは出来なかっただろう。登場人物たちはただ生き生きと描かれているだけではない。実に重要なことを語ってくれるのだ。その一番良い例は主人公とその友人達が、バーで酒を飲みながら三人で自分の子供達について語り合うシーンだ。普通の映画なら、ここは使い捨てのジョークにしかならない。実際、彼らの語る言葉だけを拾っていくと、単なる安っぽいメロドラマのセリフのようにも思える。しかし、それがこの「東京物語」の中で聞くと、どういうわけか極めて深遠で哲学的な議論のように胸に響いてくるのだ。私は畏敬の念に打たれずにはいられなかった。
 
 それでも、これは「東京物語」のベストシーンではない。少なくとも私の意見では、やはりラストがこの映画のベストシーンだろうと思う。具体的に語って台無しにするつもりはない。しかし、このラストシーンを観て胸を打たれない人はまずいないだろう。他のシーンと同様に完璧で、映画全体を見事に象徴するシーンだった。
 
 憂鬱になりすぎることなく悲しみを表現し、説教臭くならずに物事の本質を語り、派手さはないのに実に魅力あふれる作品だった。「東京物語」は、かつて創造された中で最も成熟し、最も思慮深い芸術の一つだ。
黒澤明の「用心棒」と「椿三十郎」は私が彼の作品の中で最も好きなふたつの作品だが日本人評論家は黙殺してきた。彼らは「娯楽作品」を軽蔑しているのである。「面白い」=「非文学的」という馬鹿思想である。
下の記事は海外の評論家による「用心棒」評である。

(以下引用)



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● 「名無しの男の原型」
  評価:★★★★★★★★★☆

 黒澤作品の中では、日本で最も大きな商業的成功を収めたのが「用心棒」だ。批評家や映画ファンの中には、この作品はそれほど深みのあるものではなく、娯楽要素の強いアクション映画だったから商業的に成功したのだと語る者もいる。しかし、この一年足らずのうちに三回この映画を観た私としては、こうした意見には賛成しかねる。娯楽要素があって楽しめる映画であるということは確かだ。だが、黒澤明と菊島隆三が書いたこの映画の脚本には見かけより深い内容が表現されているのだ。

「用心棒」について、何よりもまず先に理解しておかなければならないのは、この作品がダーク・コメディであるということだ。黒澤はそれまでも陰気で気の滅入りそうな場面だからこそ生まれるユーモアを表現しようとしてきた。そして、その黒澤の願いが叶えられたのが「用心棒」なのだ。三十郎という主人公の侍が黒澤の代理人を務めていて、黒澤がやりたいことを三十郎が映画の中で実行してくれる。三十郎が現実に存在していそうな登場人物に見えないのは、そのせいなのだろうと私は解釈している。

 三十郎のように謎めいていて無骨で、放浪中にほとんど自分と関わりのなかったことに巻き込まれていくという主人公は、映画の世界ではおなじみの存在だ。このキャラクターの原型は、黒澤が愛してやまないアメリカ西部劇の中にあったのだが、確立させたのは黒澤だ。そのため、「用心棒」以降、この三十郎に深く影響されて作られた登場人物はたくさんいる。たとえばクリント・イーストウッドが演じた「名無しの男」、あるいは「マッドマックス」にもこうしたキャラクターが登場する。
 
 ストーリーに関しては、映画が作られた当時の日本の状況を意識して作られている。主人公の三十郎がたどり着いた町はひと気がなく、薄気味悪い雰囲気だ。この町は対立する二つの集団に支配されていた。それぞれの集団の中心にいたのは商人だ。商人たちは用心棒としてならず者たちを集め、ならず者たちは金のために商人を必要としていた。こうした図式は、経済がたくましく成長していた頃の日本社会を映し出している。企業家と政治家は日本に富をもたらす一方で、裏ではヤクザの助けを得ていたのだから。
 
 黒澤は映画製作当時の「今」の状況に光を当てるために、あえて過去の世界を舞台にしたのだ。そして、今の世界に向けて語りたい哲学を表現させるために三十郎を使った、私はそう考えている。ある意味で、黒澤流に歴史を書き換えたのが、この「用心棒」なのだろう。日本の実際の歴史では、侍階級は存在感を失っていき、商人たちが台頭するようになった。しかし、黒澤の空想する歴史では三十郎を使うことで侍を墓地から呼び戻し、ならず者たちを一掃させ、町をきれいにさせるのだ。
 
 この作品は撮影術も素晴らしい。望遠レンズを使ったシーンがかなり多く、格好いいショットが随所に散りばめられている。画面構成の見事さ、役者たちの配置の仕方に関しては黒澤に並ぶ者はいないと言っても良いくらいだ。ワイドアングルで撮影されたシーンについても黒澤と撮影の宮川一夫に畏敬の念を抱かずにはいられない。街角を捉えた屋外のシーンなどは実に見事だ。三十郎がならず者たちと対峙するシーンでは、機械で作られた風が非常に効果的に雰囲気を盛り上げてくれる。
 
 アクションシーンの撮影に関しては、黒澤はかなりシンプルな手法を採る。多くの映画で見られるように、短いカットを次々に切り替えていくような手法は採らない。彼は対角線上に2台のカメラを置いて撮影し、あとは編集やカメラワークよりも役者たちの動きの方を全面的に信頼するというスタイルだ。
 
 それから、なんといっても、スクリーンの大半を占める三船敏郎の存在感の大きさは見事だ。彼からにじみ出る重厚さ、そして力強さ。チャーミングで、頭の回転も早く、柔和でもありながら、必要に応じて凄まじく攻撃的にもなるという三十郎の役柄に矛盾を感じさせることなく演じきれているのだ。三船は男性的かつ強烈な個性を、この作品に残してくれた。彼がならず者たちの行動を操る姿、そして直接対決する姿は実に痛快だった。仲代達矢も三船の一番の敵役として心に残る演技を見せてくれた。目を輝かせながら、力の象徴ともいうべきピストルを誇示する彼の振る舞いも、三船同様、強い個性を感じさせてくれた。
 
「用心棒」は、黒澤が生んだ他の傑作「羅生門」や「赤ひげ」ほど複雑な作品ではないかもしれない。だが、「用心棒」には伝えるべきメッセージが込められているし、この作品について語られるべきこともまだ残されている。

 黒澤の卓越した映画作りの能力が、映画というものを新たなレベルにまで引き上げてくれたのだ。必見の作品だ。彼が生み出した最高傑作の一つであることは間違いない。強くおすすめしたい。




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● 「人間は人間にとって狼である」
  評価:★★★★★★★★★☆

「人間は人間にとって狼である」という有名なラテン語のフレーズが、黒澤明の21番目の監督作品である「用心棒」を説明するのに相応しい。

「用心棒」は純粋かつ完璧な侍映画だ。侍映画に必要な要素は、外見上も内面に流れる思想もすべてが揃っている。侍映画の歴史は1930年代~1940年代まで遡れるが、この力強いジャンルが本当に確立されたのは1950年代前半で、ちょうど日本の映画が最初にヨーロッパで公開され始めた頃と同じ時期だ。それから現在に至るまでずっと生き続けているジャンルだが、「用心棒」は、疑問の余地なく全ての侍映画の中で5本の指に入る傑作だ。この優れた作品に登場する架空のキャラクターたちは皮肉まじりのユーモア、そして永遠の課題とも言うべき、人間の弱さを表現している。
 
 ところで、侍映画というジャンルは西部劇との共通点も多い。アメリカの伝承から生まれたのが西部劇なら、日本の伝承から生まれたのが侍の物語だ。西部劇について黒澤はこう語ったことがある。

「良い西部劇は誰もが好きです。誰もが弱いので、好ましい登場人物と偉大なヒーローを観たくなるからですね。西部劇は繰り返し繰り返し何度も作られてきました。そして、その過程の中で確かな文法ともいうべきものが確立されていったのです。僕もその中から何かを学べたと思いますね。」

 西部劇も侍映画も、共にそれぞれの国の歴史の中で重要な時代を舞台にしている。そして武器をとって戦うヒーローたちに焦点を当てている。そうしたヒーローたちは、時に社会の末端にいる者だったりすることもある。彼らが秩序を取り戻したところで、それが新たなより良い社会を作ることにはつながらないと知りつつも、武器をとって戦うのだ。「用心棒」の中でも、まさにこの通りの物語が展開される。

 黒澤には、遠い昔の時代を舞台にして自らの物語を作る癖があった。これは封建的な制度を嫌う自らの思想がプロデューサーや映画会社重役たちを怒らせないようにするためだ。現代と直接結び付けられることなく、彼は大きなスクリーンで自由に自分の思想を表現することができた。だからこそ、彼は侍映画を熱心に研究したのだ。

「用心棒」のストーリーは、今となっては古典的と思える。ただし、それはこのストーリーが後に多数の作品に借用されてきたからでもある。例えば「荒野の用心棒」(1964)、「ラストマン・スタンディング」(1996)などだ。用心棒という日本語はボディガード、またはヒットマンを意味する言葉で、まさにこの映画の主人公のことを指す言葉でもある。ストーリーは以下の通りだ。

 三船敏郎が演じる名もなき侍がある町にやってきた。そこにはやくざ者たちの組織が二つあり、日々、抗争を繰り広げている。侍はその片方に雇われることになった。だが、雇われているふりをしながら、侍は彼らを欺いていたのだ。侍の本当の狙いは二つの組織を共倒れさせることだった。騙されていることに気づいたやくざ者は侍を痛めつけ、監禁する。どうにか逃げ出した侍は身を隠しながら体の回復を待っていた。その間に抗争は激しさを増し、とうとう一方の組織が壊滅に追い込まれた。数日後、回復を遂げた侍は再び町に現れ、残るやくざ者達をすべて切り伏せる。そして彼は平和になった町を後に去っていく…。

 主人公が訪れたのは善と悪が対立する町ではない。悪と悪の対立であり、主人公の侍はどちらに付こうとも、悪しか選択肢はないという状況だ。これは映画を観ている我々にとって、馴染み深い状況でもある。我々としては争いをやめさせたいのだが、力がなくて、それを実現させることはできない。だが、「用心棒」のヒーローは我々と違う。彼には悪と悪の間に立ち、争いを終わらせる力がある。黒澤にとってこの種の社会的行為は、彼の他の作品を観ても、非常に重要なテーマであるはずだ。だが、彼はあえて大げさに騒ぎ立てたりはしない。侍の行動の裏には、実は隠れた道徳観があったなどという描写も一切行わない。
 
「用心棒」が我々に見せてくれるのは「人間は人間にとって狼である」ということであり、人間の本来の姿は動物であるということだ。だからこそ、道徳的に正しい解決方法を探ろうということ自体、極めて馬鹿げたことなのだという現実を示している。さらにそこから生まれるユーモアをも感じさせてくれる。「用心棒」からのメッセージの一つは、完璧に正しい倫理観を通じて世の中を見つめることなどできない、ということだ。幸福と利益を価値の基準にするという考え方と同様、正しい倫理を基準にするという考え方も黒澤の世界の中では崩れ去ってしまう。

 主人公の侍、三十郎は常に悪いことをしようとするわけではない。それは彼の美徳と言えるかもしれない。だが、それだけのことだ。彼は表面上良いことに見えても、実際は利己的な動機に基づく行動をとってしまうことだってある。一方の悪がもう片方の悪に勝つよう、彼が手助けする場面もあるが、それは連帯感からでもないし、道徳観とも無関係だ。そして自分の役目を果たし終えれば、彼は歩いて行ってしまい、全てを忘れ去るだけなのだ。彼の行動はギリシア悲劇に出てくる神に似ている。地上に舞い降り、務めを果たし、また去ってしまう。あるシーンでは、三十郎は高い火の見やぐらの上に登り、これから争いを始めようとするやくざ者達を楽しそうに見下ろしたりもする。彼にとって人間の営みは、単なる壮大なコメディなのだ。


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 こうした物語が、閉ざされ、単純化された世界の中で展開していくのだ。欲望はむき出しにされ、情け容赦無く、完璧に利己的かつ非倫理的な世界だ。やくざ者たちの残酷な姿は彼らの親分が息子を諭す時の「少しは人を殺してみせなきゃ、子分にもにらみが利かねえぞ。」という言葉に、最も明確に表れている。まさに動物の世界だ。

「用心棒」には、黒澤の自己風刺に近いのではないかと思えるシーンも時折ある。例えば、銃を持つ登場人物、卯之助は黒澤のニヒリスティックな世界観をよく表しているのではないだろうか。無邪気で好奇心旺盛な卯之助は、向こう見ずな行動をとる。腐敗した世界は、その教訓を彼の体に叩き込む。結果として、彼は自らの墓穴を掘る事になってしまうのだ。「用心棒」は純然たるジャンル映画だが、こうした個人的な視点や主観も強く盛り込まれた作品だ。

 そして、実は人間が守るべき道徳についても語っている。もちろん、これまで書いてきたように、主人公は道徳的な人間ではない。「町をきれいにする」という彼の行動の裏に隠れた立派な動機があったりするわけではない。むしろ彼はシニカルで哀愁を漂わせ、道徳心などは明らかに欠けている。ただ、そんな主人公の姿を動物的な世界の中で強烈に見せつけられるからこそ、ここに欠落した道徳心、そして人とはいかに生きるべきかというテーマが観客の心に強く浮かび上がらざるを得ない。そして、それでも三十郎のような存在を必要とする我々の弱さと矛盾にも気づかずにはいられないのだ。
 
「用心棒」は人間の本質、そして道徳心と倫理的なジレンマを描いた壮大な作品である。
「モンキー的映画の勧め」というブログから転載。
私は筒井康隆の大ファンだが「敵」は未読である。吉田大八という監督の映画も見たことがない。まあ、映画館で映画を見るのは、咳が出始めると止まらないので無理だが、小説のほうは、なぜか気が向かずに読んでいなかった。
以下、一部ネタバレだが、特に映画を見るのに邪魔にならない部分まで転載する。
映画後半はまさに筒井康隆的世界になるようだ。つまり、悪夢的ドタバタである。筒井康隆はあの年齢になっても枯れないのが凄い。

(以下引用)誤字や誤文を見え消しや下線で指摘だけしておく。

作品情報
「時をかける少女」「虚人たち」などでも知られる小説家・筒井康隆の同名小説を、「桐島、部活やめるってよ」で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した吉田大八監督の手によって実写映画化。



妻に先立たれひとり老年を謳歌している元大学教授の主人公のもとに、日常を脅かす「敵」が現れることで、穏やかに過ごそうとしていた人生の最期が一変していく姿を、日常と非日常が交錯しながら「敵」に翻弄される様を全編モノクロ映像で描く。



これまでも「紙の月」や「桐島~」、「騙し絵の牙」など原作小説を大胆な解釈で映像化に取り組んできた監督。

原作の筒井道隆に「映像不可能」としながらも、鮮やかに映像化に成功したその手腕が本作でも冴えわたる。

もう二度とこんな映画は作れないと自ら豪語するその中身や如何に。



キャストには、映画「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」や「ひき逃げファミリー」などで知られ、「ひまわり〜沖縄は忘れない あの日の空を〜」以来約10年ぶりの主演を演じた長塚京三。

人生最期の、いや最期から2番目になるかもしれない主演作品として努めたと語る。

他にも、「冷たい熱帯魚」、「沈黙~サイレンス~」の黒沢あすか、「火口のふたり」、「由宇子の天秤」の瀧内公美、「ナミビアの砂漠」、「あんのこと」の河合優美などが出演する。



果たして主人公にとって「敵」とは、苦しい存在なのか、それとも。





敵(新潮文庫)
敵(新潮文庫)

作者:筒井 康隆
新潮社
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恋と花火と観覧車
恋と花火と観覧車

長塚京三
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あらすじ


渡辺儀助(長塚京三)、77歳。
大学教授の職を辞して10年—妻(黒沢あすか)には先立たれ、祖父の代から続く日本家屋に暮らしている。



料理は自分でつくり、晩酌を楽しみ、多くの友人たちとは疎遠になったが、気の置けない僅かな友人と酒を飲み交わし、時には教え子を招いてディナーを振る舞う。



預貯金が後何年持つか、すなわち自身が後何年生きられるかを計算しながら、来るべき日に向かって日常は完璧に平和に過ぎていく。



遺言書も書いてある。

もうやり残したことはない。



だがそんなある日、書斎のiMacの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。(公式より抜粋)
DVDを借りるのも今は難しいと思うが、「ベストフレンド・ウェディング」を見ることができた人は幸いである。まあ、ユー・チューブでレストランでの「I say a little prayer」の合唱場面を見るだけでもいい。ちなみに、原題は「My best friend wedding」でMyが入る。
ちなみに、この映画ではルパート・エヴェレットは助演だが、下のようにコメントする人もいる。魅力的な俳優だったが、あまり出演作に恵まれなかった。

Rupert Everett should have won the Oscar for Best Supporting Actor for his role as George in My Best friend's Wedding.. the Say a Little Prayer restaurant scene was so iconic .. to that it was what the film is best remembered for ..
まさに、黒澤映画の最大の問題が、これ(セリフが聞き取れない)なのだよなあ。
コメント130は「荒野の七人」の間違い。「荒野の用心棒」は「用心棒」のパクリ。まあ、どちらも面白い。なお、後者の「マカロニウェスタン」(イタリア製西部劇)はクリント・イーストウッドが映画界で評価されるようになったきっかけ。


黒澤明の映画を見た結果wwwwwwwww
2025年01月29日01:40
動画・ストリーマー
タグ :#映画


10 Comments

s 30
1:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:28:14.29 ID:w0HZ3Nwb0
台詞が一言も聞き取れなくて草
吹き替え版作ってくれ


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2:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:28:30.44 ID:3Be2Xi1j0
いやほんとこれよ


3:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:28:49.67 ID:90bNT4w90
マジで録音環境が酷すぎるよな


4:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:29:31.71 ID:/dAGQzbm0
ただでさえ昔の映画だから録音状態が悪いのに当時でさえ「黒澤明の映画は聞き取りにくい」と言われてたくらいなんよ


5:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:29:44.68 ID:fBUqu/btd
吹き替え版はマジで欲しい


6:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:30:31.70 ID:PtSkpaOK0
黒澤明が日本よりも海外で評価が高いのは字幕や吹替で見てるから台詞を聞き取れないという難点が関係なくなるからなんよ


7:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:30:48.94 ID:3dTbmUCM0
早口のとこは前後の会話から推測するしかない


8:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:30:51.20 ID:k7U0vg0M0
日本語でも字幕必須なんだよな、この映画


9:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:31:37.45 ID:BA+QlCWj0
ワイの耳が悪いせいかと思ってたけど「黒澤明 聞き取れない」で検索すると映画評論家たちからも黒澤映画の唯一の欠点として指摘されてて草生えた


10:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:31:57.31 ID:rapsUGrO0
あれほんと酷いよな
今の技術力でなんとかならんのか


11:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:32:11.78 ID:dXj7bcl10
くっそわかる


14:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:33:15.61 ID:aqiu5yd00
マジで吹き替え版作ったら売れると思う
普通に面白いのに台詞聞こえないのだけが欠点だから


16:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:33:53.48 ID:TehrWlde0
字幕無しで黒澤映画観るとか罰ゲームやろ


18:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:34:15.20 ID:ummaJIrud
あれは外国語の映画だと思って字幕をオンにして鑑賞するものやで


21:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:35:36.55 ID:xTJn//RP0
でもめちゃくちゃ面白いんよ
騙されたと思って字幕で見ろ


20:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:35:14.00 ID:paszsu4Kd
外国人は最初から字幕で見てるから高評価してくれる模様


24:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:36:11.82 ID:VbZItvNi0
台詞が半分くらい聞き取れるワイの耳は結構優秀やろ


25:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:36:40.43 ID:Y5eFbF4w0
字幕で見たわ


26:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:36:42.03 ID:3Vt7F0FtM
どん底まじで好き


49:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:45:24.50 ID:Vc9vbTp80
>>26
わかる
ワイが引きこもってた頃のどん底時代を思い出すわ


30:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:38:19.45 ID:qxKYYb630
黒澤明に関する批評とか検索すると否定的な評価の99%が「台詞が聴き取れない」なんだよな
それ以外の部分は大絶賛されてるのに


32:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:39:14.10 ID:3ZkuM7YV0
マジで何一つ聴こえんけど雰囲気でなんとなくわかる


34:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:39:54.58 ID:dXj7bcl10
>>32
これもある


48:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:45:07.71 ID:wDnL0kNRd
黒澤映画のそのまんまの脚本で撮り直したらすげー面白そう


130:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 14:16:15.54 ID:2OAPs4wT0
>>48
荒野の用心棒見るんや

7人の侍のハリウッドリメイク(許可無し)


54:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:48:11.71 ID:Gk6m3LjF0
序盤「一言も聴こえん!なんやこれ」

中盤「慣れてきたわ。頑張ればちょっと聞き取れるやん!」

終盤「ファーwwwクライマックスの重要な長台詞が一切分からんかった!ふざけんな!」


82:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:57:07.12 ID:uwF0+juR0
黒澤監督は絵の見せ方が上手いんよね
凄い才能だとは思う


83:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 13:57:33.57 ID:zfv+IeUJ0
天国と地獄、用心棒クッソ好き


168:それでも動く名無し 2025/01/26(日) 14:52:35.38 ID:lUdDgI/00
日本の映画監督で海外から評価高いの黒澤くらいよな
何で他の監督は黒澤みたいに出来んのやろ



「ラビリンス」は、いわばアイドル映画であり、ジェニファー・コネリーとデヴィッド・ボウイが主演だからこそ見る価値があったのである。つまり、誰が監督をしても、俳優がダメならダメになることがほぼ確定的だろう。今のアメリカやイギリスにそういうアイドル俳優やアイドル歌手がいるか?

(以下引用)

『ウィッチ』や『ライトハウス』、『ノースマン 導かれし復讐者』のロバート・エガース監督が、最新作のゴシックホラー映画『Nosferatu(原題)』に続いて、根強い人気を誇る『ラビリンス/魔王の迷宮』の続編を手がけることとなった。

『ラビリンス/魔王の迷宮』は、ジム・ヘンソンが監督し、デヴィッド・ボウイとジェニファー・コネリーが出演した1986年のダークファンタジー映画。その直接的な続編となる映画の脚本・監督をロバート・エガースが務めるとVarietyが報じた。脚本は、『ノースマン 導かれし復讐者』でも共同脚本を務めたショーンとともに手がけることになるという。『ラビリンス/魔王の迷宮』の続編については以前、『フッテージ』や『ドクター・ストレンジ』のスコット・デリクソン監督で進行中だと伝えられていた。しかし、2023年以降は最新情報が何もなく、トライスター・ピクチャーズとジム・ヘンソン・ピクチャーズはエガースを監督を迎え、新たに続編を始動させたものと思われる。


1986年公開の『ラビリンス/魔王の迷宮』では、ジェニファー・コネリーが主人公のサラを演じ、サラの弟をさらうゴブリンの魔王ジャレスをデヴィッド・ボウイが演じた。サラは弟を救うため、ジム・ヘンソンによるマペットたちの助けを借りながらダークファンタジーの世界を冒険する。


「ナバロンの要塞」や「突撃」を挙げたのは映画通だが、たぶん爺さんだろうwww
私は、トータルで考えて「フルメタルジャケット」を推す。「面白さ」だけでいえば、「ナバロンの要塞」か。「大脱走」も面白いが、あれは「戦争映画」ではない。「収容所もの」である。戦闘場面が無いものは戦争映画と言うべきではない。それを入れるなら「禁じられた遊び」も戦争映画となる。なお、「突撃」はキューブリック作品のあれだと思うが、題名の似た別作品かもしれない。「攻撃」だったか、ジャック・パランスの名演の作品である。この両者を私は区別できない。


Jan
23
2025

「戦争映画の最高傑作をひとつ挙げよ」(東京大 2025)
Category: 未分類
1: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:01:46.42 ID:sB/CDIsg0
遠すぎた橋

引用元: ・https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/1737554506/


2: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:02:31.79 ID:XuIiLWHJ0
コマンドー定期

4: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:03:23.17 ID:oKUOT6RL0
ハートロッカー

5: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:03:31.91 ID:cyZ6WCSFd
合格者ワイ「地獄の黙示録」

6: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:04:35.28 ID:0qvmPbeZ0
火垂るの墓

7: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:05:13.74 ID:EZb4prhk0
203高地

8: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:05:31.28 ID:0X3t2E3M0
フルメタルジャケット

9: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:06:46.03 ID:OaIeEg8T0
炎628

10: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:06:55.21 ID:N59iZoUt0
ワイの大好きなブラッドピットがワイの大好きなシャーマンに乗ってワイの大好きなティーガーと戦うFURY

11: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:07:06.39 ID:g+1U+6gF0
インデペンデンス・デイ

12: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:07:17.04 ID:XC5tiZ+pp
スターウォーズ

13: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:08:14.46 ID:UCmPorBk0
ナバロンの要塞

14: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:08:16.19 ID:Xy6MYedFM
八甲田山

15: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:08:18.92 ID:rLzzrgtE0
プライベートライアン

16: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:09:35.10 ID:CuLzAGlo0
突撃

17: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:10:13.32 ID:5RzFLpB90
ターミネーター1と2

19: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:10:55.07 ID:nKIwva1r0
アンダーグラウンド

20: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:12:14.26 ID:k6b3N9kb0
大脱走

21: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:12:23.69 ID:LtD3T3BB0
戦う翼

22: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:13:32.43 ID:c85qzgZ60
ドイツ版スターリングラード

23: 名無しさん 2025/01/22(水) 23:14:42.57 ID:1d+bueey0
ぼくらの7日間戦争



私は小学生のころ、たぶん無料で潜り込んだ映画館で、この「第七の封印」の騎士と死神のチェスのシーンを見ている。いや、無料で潜り込んだのではなく、次に来る予定の映画の予告編だけ見たのだろう。そのシーンが非常に印象的で、この映画の監督は凄い人だな、と子供心に感じたようだ。それが後年、ベルイマンの「野いちご」を見る動機になり、「野いちご」は私の見た生涯の映画のベスト3に入っている。

〈以下引用〉下の記述の中の「ビビ・アンデショーン」はかつては「ビビ・アンデルセン」と表記されていた。いつから変更されたのだろうか。

『第七の封印』(だいななのふういん、スウェーデン語: Det sjunde inseglet、英語: The Seventh Seal)は、1957年製作のスウェーデン映画。イングマール・ベルイマン監督作品。

土着信仰とキリスト教信仰が混在する中世の北欧を舞台に、十字軍の遠征から帰途についた騎士と死神の対決を通して神の存在を問い掛けた作品。

概要

撮影風景
前作の『夏の夜は三たび微笑む』がカンヌ国際映画祭の特設賞である「詩的ユーモア賞」を受賞し、興行的成功を収めたことで自分の好きなように映画を製作できる自由を得たイングマール・ベルイマンが、一転して神の不在という実存主義的なテーマに挑んだ問題作である。

本作品でベルイマンは前年の『夏の夜は三たび微笑む』に続き、1957年度のカンヌ国際映画祭のパルム・ドールに二年連続でノミネートされた。受賞はならなかったものの、本作品は同映画祭の審査員特別賞をベルイマンに齎(もたら)した。前作と『第七の封印』の二作続けての批評的成功は、ベルイマンの世界的な映画監督としての声望を不動のものにした。同時に映画中で重要な役柄を演じたマックス・フォン・シドーとビビ・アンデショーンの二人にとって、本作品は彼らのキャリアを飛躍させる出世作にもなった。

ストーリー
舞台は十字軍の遠征が終わってまだ間もない頃のスウェーデン。騎士のアントニウス・ブロックとその従者ヨンスは、10年にも渡る無益な遠征から帰国する。そこで彼らが見たのは、黒死病に蹂躙される祖国と、神に救いを求め惑乱する哀れな民衆の姿だった。

故郷に辿りつくと同時にアントニウスは、彼の後を追ってきた死神の存在に気付く。アントニウスに死を宣告する死神に対して、彼は自らの命を賭けたチェスでの対決を申し入れる。それはただ死を恐れた上での時間稼ぎではなく、神の存在を確認し、徒労に終わった戦役で揺らいだ信仰を取り戻すためのものだった。

死神との勝負は長引き、その間の猶予を生かしてアントニウスは妻の待つ居城へと歩みを進める。道中でアントニウスは様々な人物に遭遇する。家族を疫病で失った少女、下劣な犯罪者に成り下がった嘗ての聖職者、火焙りの刑に処される魔女、疫病の蔓延を神の天罰だと考え自らを鞭打つ狂信者たち、純朴な旅芸人の一家、破滅の予感に恐れおののく人々、妻に駆け落ちされた鍛冶屋などなど。そのうち少女と旅芸人一家、鍛冶屋夫妻を一行に加え、アントニウスは更に城への旅を続ける。だが、それは同時に彼に残された猶予期間が終わりつつあることを意味していた。

城を目前としたある夜、アントニウスは死神相手にチェスでの敗北を認める。結局彼自身の魂の救済も神との対話も何一つ達成できなかったアントニウスだが、旅芸人の一家を死神から守ることには成功する。荒れ果てた城で妻と再会し、晩餐をとるアントニウスとその一行。だが無残にも死神が現れ、その場に居た者全員の命を奪ってしまう。

翌朝死神の魔の手から無事逃げ出した旅芸人のヨフが見たのは、死神に先導され数珠繋ぎになって死の舞踏を踊るアントニウスら犠牲者たちの姿だった。旅芸人一家がこれからも無事旅を続けることを予感させて、映画の幕は閉じる。

スタッフ
製作:アラン・エーケルンド
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:グンナール・フィッシェル
音楽:エリク・ノルドグレン
美術:P・A・ルンドグレン
振付:エルス・フィッシャー
キャスト
騎士アントニウス・ブロック:マックス・フォン・シドー
従者ヨンス:グンナール・ビョルンストランド
死神:ベント・エケロート
旅芸人:ニルス・ポッペ
旅芸人の妻:ビビ・アンデショーン
少女:グンネル・リンドブロム
ラヴァル:ベティル・アンデルベルイ
鍛冶屋:オーケ・フリーデル
鍛冶屋の妻:インガ・ジル
魔女:モード・ハンソン
トリビア
表題の「第七の封印」は新約聖書のヨハネの黙示録から採られたものである。該当箇所からの引用は映画の序盤と終盤にそれぞれ1回ずつ行われ、作品のテーマを暗示している。
黒いローブを身にまとった白い顔の男という本作品中の死神のイメージは、その後様々な映画やテレビドラマにおける死神像に影響を与えた。死神とのチェスのシーンも非常に有名である。
生涯で数多くの映画を監督したベルイマンだが、本作品のことを特に気に入っていたと言われる。
アーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画『ラスト・アクション・ヒーロー』に、本作の死神が映画の世界から現実の世界にやってくるシーンがあり、イアン・マッケランが演じた。
マーク・ウェブ監督作『(500)日のサマー』の劇中でジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じる主人公が夢の中で観る映画に本作のチェスシーンのパロディが登場する。
モンテ・ヘルマン監督作『果てなき路』の劇中で主人公の映画監督が本作を鑑賞するシーンが登場する。
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