ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
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「リベラル」と「リベラリズム」が違うというより、日本のリベラルに見られる特性というものが、アメリカのリベラルとはかなり違う、ということであり、それは「憲法9条下の日本」という特殊性によるものではないか。もちろん、アメリカのリベラルにもまた偽善と欺瞞はあり、それは日本やアメリカの保守派にも偽善や欺瞞があるのと同様だろう。ただ、今の政治状況の大問題点のように「憲法9条を守りつつ、アメリカの世界戦略に協力する」というのは無理な話であって、安倍の戦争法案は最初から破綻している。その意味では安倍は従来の保守派の立ち位置から大きく逸脱し、「欺瞞」ならぬ「非論理の世界」に至っている。例の「後方支援は安全な場所で行うから戦争に巻き込まれることはない」という滅茶苦茶な答弁などはその代表的なものだ。
ところで、「リベラリズム」とは何か、と基本に立ち戻るなら、「コトバンク」に次のように書かれており、必ずしも「自由主義」を訳語としては限定できないようだが、「個々人の自由を認め合い、共生すること」がその基本思想であることは疑いないだろう。そして、政治思想としてのリベラリズムは「政府や支配権力の圧制や抑圧からの自由」(liberateは自由にする、解放する意)を求めるものだと言えるのではないか。
その意味で、リベラリズムに反対するのがしばしば被支配的立場の人間(2ちゃんねる住人に多いネットウヨなどはだいたいそうだろう)であることは奇妙きわまる話なのである。
(引用1)
異質な価値観を持った者同士の共存は個々人の自由を認め合い、共生することでしか解決しないという考えに基づき、ホッブズ、ロック、ルソー、カント、ヘーゲルといった近代哲学者は、「自由」を権利の基本原理とするリベラリズムの立場を深めてきた。ところが現在、リベラリズムに対しては様々な立場からの批判がある。フェミニズムや多文化主義は、その普遍性と公私の区分を批判する。また共同体主義はリベラリズムの想定する人間を、共同体の伝統や慣習から切り離されて具体的な内実を失った抽象的な個人とみなし、批判する。伝統的価値や人種や性別のような具体的な属性なしに、諸個人が「善き生」の構想を持つことはできないとするのである。また現代のリベラリズムは、権利や政治的正当性の基礎となる原理として必ずしも「自由」に依拠するわけではなく、論者によって様々な考え方がある。その意味でリベラリズムの一般的な訳語としての「自由主義」は適切とはいえない。例えば初期のロールズは公正を、ドゥオーキンは平等を基底的理念として提示した。ロールズは初期にはリベラリズムを人類的普遍性を持つものとして基礎付けようとしたが、後に近代市民社会という特殊な社会だけに適応できる政治思想としてその普遍性を否定した。その結果、権利の基礎の哲学的探求を放棄し、ローティやグレイらと同様に「政治的リベラリズム」の立場に立った。このようにリベラリズムの根本原理は何であるのか、またそれは必要なのかを巡っては、現在でも多くの議論がなされている。
(野口勝三 京都精華大学助教授 / 2007年)
(引用2)或る人の、ある本の感想とメモ。
駒場の東大の生協で発売されたばかりのこれを買ってきた。 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門』(毎日新聞出版) 「タイトルがね〜」とくさしながら読み始めたが中身がすごく真摯でかつ単刀直入なので引き込まれてしまって、タイトルなど気にならなくなった。
“帯には「偽善と欺瞞とエリート主義の「リベラル」は、どうぞ嫌いになってください!井上達夫」なんて宣言してある。”
ところで、「リベラリズム」とは何か、と基本に立ち戻るなら、「コトバンク」に次のように書かれており、必ずしも「自由主義」を訳語としては限定できないようだが、「個々人の自由を認め合い、共生すること」がその基本思想であることは疑いないだろう。そして、政治思想としてのリベラリズムは「政府や支配権力の圧制や抑圧からの自由」(liberateは自由にする、解放する意)を求めるものだと言えるのではないか。
その意味で、リベラリズムに反対するのがしばしば被支配的立場の人間(2ちゃんねる住人に多いネットウヨなどはだいたいそうだろう)であることは奇妙きわまる話なのである。
(引用1)
異質な価値観を持った者同士の共存は個々人の自由を認め合い、共生することでしか解決しないという考えに基づき、ホッブズ、ロック、ルソー、カント、ヘーゲルといった近代哲学者は、「自由」を権利の基本原理とするリベラリズムの立場を深めてきた。ところが現在、リベラリズムに対しては様々な立場からの批判がある。フェミニズムや多文化主義は、その普遍性と公私の区分を批判する。また共同体主義はリベラリズムの想定する人間を、共同体の伝統や慣習から切り離されて具体的な内実を失った抽象的な個人とみなし、批判する。伝統的価値や人種や性別のような具体的な属性なしに、諸個人が「善き生」の構想を持つことはできないとするのである。また現代のリベラリズムは、権利や政治的正当性の基礎となる原理として必ずしも「自由」に依拠するわけではなく、論者によって様々な考え方がある。その意味でリベラリズムの一般的な訳語としての「自由主義」は適切とはいえない。例えば初期のロールズは公正を、ドゥオーキンは平等を基底的理念として提示した。ロールズは初期にはリベラリズムを人類的普遍性を持つものとして基礎付けようとしたが、後に近代市民社会という特殊な社会だけに適応できる政治思想としてその普遍性を否定した。その結果、権利の基礎の哲学的探求を放棄し、ローティやグレイらと同様に「政治的リベラリズム」の立場に立った。このようにリベラリズムの根本原理は何であるのか、またそれは必要なのかを巡っては、現在でも多くの議論がなされている。
(野口勝三 京都精華大学助教授 / 2007年)
(引用2)或る人の、ある本の感想とメモ。
駒場の東大の生協で発売されたばかりのこれを買ってきた。 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門』(毎日新聞出版) 「タイトルがね〜」とくさしながら読み始めたが中身がすごく真摯でかつ単刀直入なので引き込まれてしまって、タイトルなど気にならなくなった。
“帯には「偽善と欺瞞とエリート主義の「リベラル」は、どうぞ嫌いになってください!井上達夫」なんて宣言してある。”
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