
【プロ登山】死去の栗城史多さん、単独登山ではなかった? 現地紙がシェルパ4人(案内人)と登山していたと報道
1: 2018/05/22(火) 16:20:49.83 ID:CAP_USER9
1982年、北海道生まれ。栗城さんは8度目となったエベレスト挑戦に向け、4月の日本出立から細かくブログで状況を報告。だが、5月21日10時ごろ、「栗城は体調が悪く、7400m地点から下山することになりました。今後の行動は未定で、栗城が無事に下山して状況がわかり次第、お知らせいたします」との報告がなされていた。その後、栗城さんの公式ブログは21日午後、事務所の小林幸子氏が更新。栗城さんについて「このようなお知らせになり大変申し訳ございませんが、エベレストで下山途中の栗城が遺体となり発見されました」と死亡を伝えた。死の状況については「下山を始めた栗城が無線連絡に全く反応しなくなり、暗い中で下から見て栗城のヘッドランプも見当たらないことから キャンプ2近くの撮影隊が栗城のルートを登って捜索し、先ほど低体温で息絶えた栗城を発見いたしました」という。「生きて帰ることを誓っておりましたのに、このような結果になり大変申し訳ございません。生きて帰るため執着しないと誓っておりましたのに、最後に執着してしまったのかもしれません」と栗城さんの心情を推し量り、「皆様へのご報告が遅くなりなりましたこと、心よりお詫び申し上げます」と、ファンに謝罪。
一方、「何m地点で発見されたかなどこれ以上の詳細が日本でわからず大変恐縮ですが、またわかり次第お知らせ申し上げます」と詳細は不明だという。最後に「これまで栗城を応援していただき、本当にありがとうございました」と感謝の思いを伝えた。
公式サイトの経歴によれば、大学時代に山岳部で登山をはじめた。04年にマッキンリー(6194メートル)の登頂に成功すると、毎年高山に登り、8000メートル峰にも08年のマナスル(8163メートル)などに登頂。そして09年から、8848メートルのエベレストへの挑戦が始まった。13~14年を除いて毎年挑み、12年の4度目のエベレスト挑戦では、重度の凍傷で両手の指9本を切断することになったが、挑戦を続けた。15年の5度目では8150メートルまで到達した。あくなき挑戦を続けるその姿にはファンも多い。09年から登山のインターネット中継を行っていたほか、積極的にブログ・SNS発信を続けており、投稿のたびに多くの応援の声が集まった。サイトや著書では、「勇気」や「挑戦」の大切さを説き、感動の声が寄せられ続けた。訃報を伝えたフェイスブック投稿には、1時間あまりで1000件超のコメントが集まり、お悔やみの言葉がおくられている。アスリートの為末大さん、作家の乙武洋匡さん、ジャーナリストの堀潤さんら、著名人もツイッターで、その死を悼んだ。
一方で、その登山方法をめぐっては議論もあった。自身のウェブサイトやブログでは「単独・無酸素登山」を標榜してきたが、「単独」については登山界ではベースキャンプの先は第三者のサポートを受けずに登り切ること、という意味を持つのに対し、栗城さんの場合は自分の荷物を自分で背負うこと、との解釈がなされている。事実、冒頭のブログより先んじて訃報を出した21日の現地紙「ヒマラヤ・タイムス」では、「シェルパ(編注:ヒマラヤ登山の案内人)4人と登頂を目指していた」と帯同者の存在を伝えていた。「無酸素」の定義をめぐっても、疑問の声があったことは事実だ。
またそのスケジュールをめぐっては、性急ではないかと議論があった。エベレストは一般的に、現地入りしてから体を順応させながら、2か月ほどかけて登頂を目指すとされる。しかし栗城さんのブログをたどると、今回の挑戦は4月18日に日本出立を伝え、5月21日に登頂予定であると発信。17年の7度目の挑戦でも、4月10日に現地入り、5月23日に登頂予定としていた。いずれも1か月程度だ。
https://www.j-cast.com/2018/05/21329195.html?p=all

このような中で挑み、失敗し、9指を失った栗城さん。毀誉褒貶を受け続けながらも、何が彼をエベレスト山頂へと駆り立てたのか――。8度にわたる挑戦の物語は、悲劇的な結末を迎えた。

4/20 カトマンズ(1200m)から飛行機にてルクラ(2860m)着
4/21 徒歩でナムチェバザール(3440m)へ
4/22 タンボチェ(3860m)着
4/23 ペリチェ(4200m)着。ここまでシェルパ並の異様な速さで進軍
※高度障害防止のため1日500m、1000mを2日かけて登り1日休むようなペースが当たり前
※しかも今回は撮影のためスタッフとして「素人」も同行
4/24 ペリチェにて1日休息、の予定が強行の影響か【高熱】発症
4/25 【高熱】
4/26 【高熱】。夜頃復活
4/27 ベースキャンプ(5360m)入り
4/28 BCで停滞
4/29 登山の安全祈願の祈祷。無茶な日程の影響か【撮影班全員激しい頭痛】、撮影班のみ休養のためペリチェに
4/30 BCで停滞
5/ 1 BCで停滞
5/ 2 BCで停滞。【撮影メンバーの1人が細菌による腹痛でヘリ搬送→帰国】
5/ 3 登山開始予定も再度【高熱】
5/ 4 【高熱】
5/ 5 朝方平熱に。この日1日でC1(6050m)をすっとばしC2(6400m)まで上がるという無茶をまたする。【咳】が出始める
5/ 6 昼頃撤退しBCに戻る
※高い地点で身体を慣らすために登山隊はこういう昇降で身体を順応させつつ上がっていく
※順応には10~20日ほど書けるのが普通
※C2以降はC3(7300m)、C4(8000m)、山頂(8848m)と続く
5/ 7 BCで停滞
5/ 8 BCで停滞(悪天候)
5/ 9 【咳】によりヘリにてルクラ(2860m)の病院へ。高所肺水腫など命に関わる病気の可能性があるため。結果無事
5/10 BCに戻る
5/11 BCで停滞
>>>4/27のベースキャンプ入り以降、それより標高のある地点での活動はここまでわずか2日のみ
5/12 再度C2(6400m)へ。この頃天候の予報がよく、順応を済ませた他の隊は5/16頃から1週間ほどでの登頂往復を計画
5/13 C2で停滞。FBにて翌日順応のために昇ることを宣言
5/14 何故か深夜に登山開始、早朝に7000m付近(GPSより)。10時頃C2へ下山。17時頃BCへ下山
5/15 BCで停滞
5/16 BCで停滞。夜に、5/14は7300m地点付近まで行って悪天候で引き返したことと、18日から登り、登頂(予定)日は21日と発表
>>>4日ずっと登らなければならない厳しい日程
※栗城は過去に高所にて2日以上連続行動をしたことがない
5/17 BCで停滞。21日頃山頂は吹雪の予報なのに強行
5/18 朝早くBCを出発、夕方頃C2到着
5/19 1日C2にて停滞。これで事実上計画は不可能に
5/20 朝から出発、なぜか昼頃7300m地点より一度下山開始。再度登り自称7400m地点(GPSでは7300m地点のC3)に到達
5/21 朝方スタッフより体調が悪く下山することになりましたの報告、昼に死亡報告
※情報錯綜しており、シェルパにGPS持たせて行動させていた説あり
普通、ルクラからペリチェまでは、順化のため1週間以上時間をかけるのが常識だろ
そらBCで釘付けになるわ
死体になったまま6000m地点まで降りて
6000m地点でシェルパに発見されるとかどんなマジシャンだよ
プロ下山家の本領発揮だろ。
7400mに達したのは栗城史多のGPSのみ
毎回、シェルパに持たせて上に行かせて距離を稼いでいた
登山界では誰も栗城史多の登頂記録を信じていない
全て未登頂、もしくは不正とされている
確かな証拠が無い為
マジかそれ。
この国の奴ら、嘘つきだらけだな。
詐欺に何度も何度も何度も何度もひっかかるタイプ

本人が一番の素人だったという話では

無酸素だけでも難しいのに
単独でもないし、←全部なぜか善意のシェルパがやってくれるという川口探検隊方式
無酸素でもないよ、←そもそも酸素が必要な高度まで上がらないし。
無謀なことするって嘘ついてただけ
安全第一で下で休んでシェルパに全部
やらせてたけど貧弱すぎて死亡
本人がいないのが残念。惜しい人をなくした
事前に金渡してたら勝手にシェルパ4人もついてきただけで

味方、いな過ぎだろ
何年も前からばれてたけどそれがそれが最後に広まっただけだな
お調子ものの愛すべきバカを大人が囲んで限界を超えて調子に乗らせて死に追いやった事件
正確には登山単独死だけどな
いくら途中で引き返すつもりだったとはいえ山を舐めすぎだろう
制覇する必要ないんだしw
リスク承知で登ったんだし本望だろ

もっと低いところで死んどけば色んな人に迷惑かからなかったんだけどな
しかし、自分が子ども時代のことを振り返っても、勝利を目指すという欲求は、ある意味で人間の本能的な欲求でもあります。別にスポーツに限らず、テレビゲーム、カードゲーム、将棋、囲碁、マージャン、受験勉強、ケンカ・・・勝者と敗者に振り分けられる現象の前に、人間は勝つために、あらゆる手法を取り入れるものです。
ましてやチームスポーツの場合、勝利を目指そうとする指導者・リーダーが作り出す同調圧力の凄まじさは、体験した人なら皆理解できると思います。
勝利以外の価値観を創造し共有することは、可能なのでしょうか。