ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「紙屋研究所」より部分転載。例によって鋭い内容である。
元記事には、谷川ニコの「わたモテ」の数コマも載っている。
人間が最初に暴力と遭遇するのは他者との喧嘩であり、次にはスポーツだろう。勝敗がスポーツの本質である以上、スポーツというのは秩序の仮面をかぶった暴力なのである。広尾晃が言うのとは真逆に、スポーツマンシップとは、何が何でも相手に勝つという暴力的精神のことなのだ。
(以下引用)
スポーツの本質的暴力性
勝敗によって強さを決めるエトスを持つスポーツというものは、勝敗という明確な基準で勝者と敗者のコントラストを浮かび上がらせ、敗者に敗北という害悪を与えるという点で「本質的暴力性」(川谷前掲書p.124)を持っている。
「だからスポーツを学校で教えてはいけない」というつもりはぼくには全くない。むしろその勝負事としての暴力性ゆえに、我を忘れて興奮するほどののめり込むを生むわけで、スポーツの楽しさはそこにある。ただ、逆にその教育への導入には慎重で考え抜かれた設計が必要なのだ。
最近書いた記事、『僕はまだ野球を知らない』に出てくる強豪校の「格下見下し意識」はその副作用である。
kamiyakenkyujo.hatenablog.com
他方で、スポーツを教育の場に導入しながら、「勝敗に対する無関心」を起こしてしまう設計は、逆の失敗をしていることになる。
勝負事において勝敗にこだわらない態度は、スポーツの本質を失わせている。スポーツへの冒涜といってもいい。
前述の『スポーツ倫理学講義』の著者・川谷が次のように「あとがき」で述べていることは実に示唆に富んでいる。
スポーツ倫理学講義
作者: 川谷茂樹
出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
発売日: 2005/03
メディア: 単行本
この商品を含むブログ (6件) を見る
私がこれまでの人生で最も日常的にスポーツをしていたのは、九州の田川というさびれた炭鉱街の小学生だった頃である。
……最後の年、チームの中心にはYという同級生がいた。四番・サードで実質的には監督も兼ねていたYは、きれいごとではない、ほんとうのスポーツマンシップを全身で表現していた。一言で言えばそれは、「なりふりかまわず勝ちにいく」という精神である。たとえちょっとしたお遊びの試合でも、負けるとグローブを地面に叩きつけて悔しがるYの姿や、それに気押されて敵も味方も静まりかえる校庭の空気感を、今でも鮮明に思い起こすことができる。
……私は、勝つとそれなりにうれしいけど、負けてもYほど悔しくなかった。……自分さえ楽しければ負けてもかまわないという私の態度は、明らかにスポーツマンシップに反している。Yのおかげで私は、スポーツとは何よりもまず勝負事であるという根本的な事実を学んだと同時に、勝負事にそれほど情熱を傾けられない自分の個性も否応なく悟った。……
だから私には「スポーツはほんとうは勝負事なんかじゃない」ときれいごとを言いたくなる倫理学者=大人たちの気持ちが、手にとるように分かる。もしそのきれいごとが正しければ私も自分の態度を正当化できるのだけれど、残念ながらそんな子どもだましは、真剣かつ純粋にスポーツをやっていたあの頃の子供たちには全く通用しない。(川谷前掲書p.251-252)
ぼくはスポーツ=勝負事に真剣になれない自分のことを、この本のこの記述とともによく思い出す。
谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』15巻には高校の球技大会・体育大会においては「女子の球技大会は男子と違って空気を読み 楽しくやることが暗黙の了解」(谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス)だという登場人物の内語が出てくる。そんな中で全く「空気を読まず」に毎回「本気の」セーフティバント、カット打法からのフォアボールなどで確実に出塁するキャラ(小宮山)が描かれる。勝負事に本気にならない=スポーツとしてエトスを破壊することに抗することがここでは、クラスの空気を読まないことと重なって、絶妙なギャグとして立ち現れている。
ひょろひょろだまを投げる素人女子ピッチャーにクールな「マジ顔」(メガネの半分が光っている)でバントする小宮山、可笑しすぎる。
谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス
このギャグは、運動会におけるこの落差を見事に暴いている。
元記事には、谷川ニコの「わたモテ」の数コマも載っている。
人間が最初に暴力と遭遇するのは他者との喧嘩であり、次にはスポーツだろう。勝敗がスポーツの本質である以上、スポーツというのは秩序の仮面をかぶった暴力なのである。広尾晃が言うのとは真逆に、スポーツマンシップとは、何が何でも相手に勝つという暴力的精神のことなのだ。
(以下引用)
スポーツの本質的暴力性
勝敗によって強さを決めるエトスを持つスポーツというものは、勝敗という明確な基準で勝者と敗者のコントラストを浮かび上がらせ、敗者に敗北という害悪を与えるという点で「本質的暴力性」(川谷前掲書p.124)を持っている。
「だからスポーツを学校で教えてはいけない」というつもりはぼくには全くない。むしろその勝負事としての暴力性ゆえに、我を忘れて興奮するほどののめり込むを生むわけで、スポーツの楽しさはそこにある。ただ、逆にその教育への導入には慎重で考え抜かれた設計が必要なのだ。
最近書いた記事、『僕はまだ野球を知らない』に出てくる強豪校の「格下見下し意識」はその副作用である。
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他方で、スポーツを教育の場に導入しながら、「勝敗に対する無関心」を起こしてしまう設計は、逆の失敗をしていることになる。
勝負事において勝敗にこだわらない態度は、スポーツの本質を失わせている。スポーツへの冒涜といってもいい。
前述の『スポーツ倫理学講義』の著者・川谷が次のように「あとがき」で述べていることは実に示唆に富んでいる。
スポーツ倫理学講義
作者: 川谷茂樹
出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
発売日: 2005/03
メディア: 単行本
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私がこれまでの人生で最も日常的にスポーツをしていたのは、九州の田川というさびれた炭鉱街の小学生だった頃である。
……最後の年、チームの中心にはYという同級生がいた。四番・サードで実質的には監督も兼ねていたYは、きれいごとではない、ほんとうのスポーツマンシップを全身で表現していた。一言で言えばそれは、「なりふりかまわず勝ちにいく」という精神である。たとえちょっとしたお遊びの試合でも、負けるとグローブを地面に叩きつけて悔しがるYの姿や、それに気押されて敵も味方も静まりかえる校庭の空気感を、今でも鮮明に思い起こすことができる。
……私は、勝つとそれなりにうれしいけど、負けてもYほど悔しくなかった。……自分さえ楽しければ負けてもかまわないという私の態度は、明らかにスポーツマンシップに反している。Yのおかげで私は、スポーツとは何よりもまず勝負事であるという根本的な事実を学んだと同時に、勝負事にそれほど情熱を傾けられない自分の個性も否応なく悟った。……
だから私には「スポーツはほんとうは勝負事なんかじゃない」ときれいごとを言いたくなる倫理学者=大人たちの気持ちが、手にとるように分かる。もしそのきれいごとが正しければ私も自分の態度を正当化できるのだけれど、残念ながらそんな子どもだましは、真剣かつ純粋にスポーツをやっていたあの頃の子供たちには全く通用しない。(川谷前掲書p.251-252)
ぼくはスポーツ=勝負事に真剣になれない自分のことを、この本のこの記述とともによく思い出す。
谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』15巻には高校の球技大会・体育大会においては「女子の球技大会は男子と違って空気を読み 楽しくやることが暗黙の了解」(谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス)だという登場人物の内語が出てくる。そんな中で全く「空気を読まず」に毎回「本気の」セーフティバント、カット打法からのフォアボールなどで確実に出塁するキャラ(小宮山)が描かれる。勝負事に本気にならない=スポーツとしてエトスを破壊することに抗することがここでは、クラスの空気を読まないことと重なって、絶妙なギャグとして立ち現れている。
ひょろひょろだまを投げる素人女子ピッチャーにクールな「マジ顔」(メガネの半分が光っている)でバントする小宮山、可笑しすぎる。
谷川ニコ前掲書、15巻、126ページ、スクウェア・エニックス
このギャグは、運動会におけるこの落差を見事に暴いている。
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