サッカー音痴のサッカー論
サッカーというゲームがなぜ世界的な支持を受けているのか、理解しがたいが、現在の日本にもサッカーフアンは多いようだ。あのように単調で見づらいスポーツが、なぜ見るスポーツとして成立するのか不思議である。そもそも、どこに誰がいるのかさえ、観客にはほとんど分からないではないか。背番号や基本ポジションだけで、即座にあれは誰、あれは誰と分かるようになるまでは随分と時間がかかりそうだが、昨今のにわかサッカーフアンには、それが分かるのだろうか。プレー内容の理解にしても、たとえばパスが通らなかった場合、それはパスを出した者の責任なのか、受ける者の責任なのか、即座に分かるものだろうか。よく、中田英寿が、パスを受ける人間の限界ぎりぎりのパスを出すというが、それは誉めるべきことなのだろうか。それによって、味方のチャンスを潰すことの方が多いとすれば、それは単に「他人に厳しく自分に甘い」だけのプレーなのではないか。そうした様々なことで分からないことが多すぎるが、それでも私は考えるのが趣味だから、ここで無謀にも、自分がまったく知らないサッカーについて考察してみることにする。
とりあえず、サッカーのポジションはフォワード、ミッドフィルダー、ディフェンダー、ゴールキーパーの4種類とする。最近の、わけのわからない細分化したポジションは措いておく。私の記憶が確かなら、サッカーをやる人数は11人であった。プロの試合でもそれは同じだろう。予備メンバーとの途中交替が認められているようだが、それは何人までなのかは分からない。もしも交替なしでフル出場するなら、90分を動き回らねばならないわけで、これは野球などとは比較にならないスタミナが必要だろう。とはいえ、その90分の中での全力疾走は、大体、10メートルから50メートルくらいの距離での走りを間歇的に何十回か行うことになると思われる。その間は、軽いジョギング程度の走りだろう。1回の試合で、フルマラソンくらいのスタミナ消耗があるとは考えにくい。とはいえ、長時間走れ、ダッシュ力もあることがサッカー選手の第一条件ではありそうだ。ボールを正確に、力強く蹴る技術はそれに次ぐだろう。
(調べてみると、メンバー交代については、世界的な大会では大体、1試合3人までのようである。つまり、基本的には、ほとんどの選手は1試合にフル出場するものと考えて良いようだ。したがって、監督の采配とか交代ミスを云々するのは、あまり意味がない。そもそも、監督の指示に従って動いたところで、試合は生き物なのだから、選手が自己判断しなければゲームにはならないだろう。ジーコがワールドカップの日本代表選手に自主性を求めたこと自体はまったく正しいのであり、ただ選手がそのレベルではなかったというだけのことだ。このチームのチームレベルについては中田英寿も前々から不安を語っていたはずだ。そもそも、どんなスポーツでも、試合は選手がするものであり、監督の役割は選手を養成することが中心なのである。日本人はスポーツにおける監督の役割をあまりに重視しすぎる。だから長島ジャパン、王ジャパン、ジーコジャパンなどという、選手にとって侮辱的なネーミングをするのである。)
とりあえず、個々の選手が標準的な体力と技能を持っていると仮定して、サッカーにおいてどのような戦術が有効かをこれから考察してみよう。
その前に考えてみたいが、メキシコ五輪で日本のサッカーチームが3位に入ったのが、これまでの国際大会での最高の成績だと思うが、日本のサッカーはあれから少しも進歩していないのだろうか。もちろん、そんなはずは無いのであり、当時の日本のサッカーはいわば原始時代のサッカーであり、現在のサッカー選手は、当時とは比べ物にならない高度な技能と知識を持っているはずだ。では、世界のサッカー自体が進化して、日本との格差がいっそう広がったのか。それも信じがたい。集団スポーツの中でもサッカーという、球を蹴るだけの単純なスポーツが、戦略や練習方法などの進化でそう大きく変わるはずはない。違いがあるとすれば、サッカー自体の世界的な広がりによって、世界中のあらゆる国がサッカーというスポーツに参加するようになり、才能ある選手がサッカーというスポーツに集まるようになったということだろう。大相撲の世界に外人力士が加わるようになったら、日本人力士が活躍できなくなったのと同じことで、日本人という人種自体が、体力や運動神経の点で余り優れた人種ではない、ということなのではないか。(イチローや野茂、佐々木といった一部の天才はいるにはいるが、それは日本でも天才だったから大リーグでも活躍できただけのことだ。ここでは全体としての能力水準の話をしているのである。)
野球などは、団体競技でありながら、個人競技の面が大きい。たとえばバッターとピッチャーはある意味では1対1の対決をしているのである。野手は、自分のところに来たボールに対して、それをいかに処理するかの技能を見せるのであり、一つ一つのプレーは実は個人競技なのである。ところが、サッカーはまったくの団体競技である。基本的に、ボールが前線に出てこない限り、フォワードの仕事は無い。フォワードが働いているかぎり、ディフェンダーやゴールキーパーの仕事は無い。ディフェンダーが守り、フォワードが攻めるという仕事が有機的につながることで、いい試合ができるわけだが、ではいかにすれば上手く守り、上手く攻めることができるのだろうか。
ここで比喩を使うなら、野球が1対1の決闘であるのに対し、サッカーとは戦場での戦闘のようなものだ、と考えられる。つまり、集団対集団の戦闘だ。その戦闘において有効な戦闘方法はあるか。それはある。誰でも思いつくように、個々の戦闘を1対多数にすることである。つまり、常に、相手より多数の人数で闘うことだ。人間の目は前を見ることしかできないのだから、後ろから襲い掛かられれば、簡単にやられてしまう。敵が二人とも前にいたとしても、同時に二人の敵を相手にするのは容易ではない。逆に、こちらが常に多数の立場で戦うようにすることはできないか。これが第一の考えだが、その考察は後に回そう。(逆に、「宮本武蔵」では、1対多数の戦いを、1対1の戦いの連続に変えることで一条寺下り松の戦いに勝ったとなっている。)
第二の考えは、ゴールを守るのに何人が必要か、という問題から来る。もしも、11人全員がゴールの前で守ったら、相手の攻撃を完全に防げるというのなら、そうすればいい。それなら、少なくとも全試合を引き分けにできるし、サッカーでは引き分けでも勝ち点があるのである。もしも、7人くらいで完全に守れるなら、残り4人で攻撃をし、たまには点を取ることも可能だろう。そもそも、ミッドフィルダーとは何の存在意義があるのか。それは攻撃でも守備でもない中途半端な存在であるのに、現在のサッカーではミッドフィルダーを5人にも6人にもする傾向がある。そうすれば、何となく臨機応変に、攻撃にも守備にも移行できるという気がするからだろう。ところが、実際には、攻撃にも参加できず、守備にも参加できていないのである。ここで、守備とは、ゴールに打ち込まれるボールを止めるという働きのことだ。ミッドフィルダーがグラウンドの真ん中辺でうろうろしている間に、相手がシュートを決めるというのでは、ミッドフィルダーの存在意義などない。私の考える新しい戦術は、まずミッドフィルダーというヌエ的存在の存在意義を否定することから始めたい。
これまでの日本のサッカーでは、全員がまんべんなくグラウンドを走り回って疲れ果て、やがて体力にまさる相手チームに得点されていくというパターンが多かった。それはサッカーとは走り回るスポーツであり、献身的に走っていれば報われるだろうと何となく思っていたからである。残念ながら、サッカーにはそんな優しい神様はいない。私の考えるサッカーは、「走らないサッカー」である。つまり、キックとヘディングのみで試合を行い、ドリブルをほとんど使わないだけでなく、それぞれの担当ゾーンからほとんど動くことさえないサッカーである。それで勝つことは果たして可能か。(これは、究極のゾーンディフェンスということになるかもしれない。)
選手適性を考えたポジションを与えることで、この戦術はより有効になる。
フォワードは、何よりも点を取る意志を持った野獣、ストライカー、点取り屋でなければならない。今回のワールドカップで見せた柳沢や高原の姿は、彼らがけっしてストライカーでは無いことを示している。(柳沢は、ボールに触る機会が多かったところから見て、センスのある選手だと思われるが、ゴールへの意欲がゼロでは、彼をフォワードに置くこと自体が大間違いである。高原に至っては、ほとんどボールに触ることさえできなかったのではないか。)
点取り屋としてのストライカーは、チームに二人いればいい。その二人に中央付近からボールを回す、「ボール取り屋兼パッサー」が二人。柳沢などはフォワードよりもこれに最適だろう。残りはすべてディフェンダーでいいのではないか。もちろん、この場合、試合の大半の時間、ボールは相手チームに支配されることになるだろう。だが、相手がいかにシュートを打とうとも、それを確実にディフェンスできるなら、何も問題は無いのである。シュート本数は、相手とこちらが5対1でも10対1でもいい。そして、最終的なゴール数がたとえゼロでもいいのである。しかし、相手にもゴールを許さないこと。これは不可能なのだろうか。ゴール前に7人の人間がいて、シュートを成功させることは容易なことではないだろう。これまでの日本サッカーでは、相手に攻められている場合に、ミッドフィルダーの多くが遊休状態であったのではないか。
しかし、ここで皮肉なことを言えば、味方ゴールの前で守る味方の体というのは、実はキーパーにとってある意味では邪魔な存在ではないか。つまり、味方の体が壁になって、敵のシュートが見えなくなるのではないか、ということだ。もしそうだとすれば、ゴール前の守備は、キーパー以外にはあと二人くらいもいれば十分かもしれない。少なくとも、キーパーの視界を遮るほど近くには、あまり味方がいないほうがいいのかもしれない。ゴールキーパーを中心にして、ゴールの両サイドを守る形で2名、さらに、その前方に、敵の突進を止める役目の守備が4名から5名という形がベストではないだろうか。つまり、ミッドフィルダーのほとんどを自軍ゴール近くに最初から最後まで張り付かせるという陣形である。そのミッドフィルダーは、もしも敵のボールを奪えたなら、とにかくできるだけ遠く、敵ゴール方向へ蹴り出せばそれでいい。そのボールが再び敵に渡ってもべつにかまわないのである。とにかく、この戦術では、ゲーム時間の八、九割は敵の攻撃になるのは覚悟の上である。味方の攻撃チャンスは少ないのも覚悟の上。しかし、相手がいくら攻撃しても、それがゴールにさえならなければいいのである。
この戦術では、ドリブルの技能などはほとんど不要である。そもそも、ドリブルなど無用の技術である。ドリブルしてボールを運ぶスピードと、蹴ってボールを運ぶスピードとでは比べ物にならないはずだ。ならば、守りから攻めへ一瞬で転換するにはキックに勝るものはない。自軍ゴール近くから20メートル乃至30メートルほど前方にキックし、それがたまたま自軍選手に渡れば、その選手はさらに敵陣地にいる味方フォワードに向かってそれを蹴る。それがつながれば、その瞬間にシュートである。つまり、相手に攻められていたピンチは、わずか3秒から5秒でゴールチャンスになるのである。こうなると、相手にずっと攻められていたことなど問題にならない。
そして、この戦術は、試合後半になるに従って、どんどん有利になっていく。なぜなら、相手はずっと動き回ってスタミナを消耗しているのに対し、こちらはほとんど走ることをしていないからである。もしもボールが回ってこなければ、フォワードはずっと遊んでいてもいいのである。もちろん、自軍ゴール近くにいる連中は、ディフェンダーとしてボールを止めるだけでもスタミナの消耗はあるが、それは走ることによる消耗とは比べ物にならないだろう。
おそらく、この戦法を取った場合、相手チームはキーパー以外の全員を攻撃に回すだろう。しかし、そこが付け目でもある。その攻撃の際に、もしもこぼれ球をこちらが取ったなら、空っぽの相手陣内にボールを蹴りいれて、そこからほぼ100パーセントの確率でゴールできるのであるから。
この戦術の欠点はただ一つ。相手が同じ戦法を取った場合、膠着状態になることだが、しかし最初から格上相手に、引き分ければ御の字という戦法なのだから、それも問題はない。ブラジルやイングランド、アルゼンチンといった強豪チーム相手に、この戦法で戦ってみるのはどうだろうか。名づけて亀の子作戦である。
あるいは、オフサイドトラップを極端にした作戦はどうだろうか。自軍のディフェンスの最後尾を、ハーフライン近くまで上げれば、相手はそれ以上にゴールに接近できず、ロングシュート以外には得点できないことになる。視界の邪魔になるものが無いのに20メートルものロングシュートを止めきれないキーパーはいないだろう。もしもこれがルール上可能なら、亀の子作戦とは逆に、常に相手陣営で戦うという有利な試合運びになるはずだが、オフサイドというものが良く分からないので、これは最初から無理な作戦なのかもしれない。もしもこれが可能なら、みんながやっているはずだが、なぜやらないのだろうか。あるいは、ボールを持っていればオフサイドラインより相手ゴール近くに入ってもいいのだろうか。調べた限りでは、オフサイドのルールは、攻撃する際に、自分の前に敵側の人間が二人いなければならないとしか読み取れない。とすれば、キーパー以外の人間をずっと前に上げれば、相手の攻撃は実質的に不可能になるはずである。しかし、そうはなっていないのは、オフサイドとは「待ち伏せ禁止」のルールであるということ、つまり、最初からゴール前で待っていて、ボールを「受ける」ことのみを禁止するものであることが誰でもわかっているということなのだろうか。サッカーの試合を見る限りでは、オフサイドの意味はそのようなものだと思えるが、どうもよく分からないルールである。サッカーというスポーツの根底に関わるオフサイドのルールが私には今一つ良く分からない。
おそらく、オフサイドとはあらかじめゴール前(キーパー以外の相手守備の最後尾よりゴール近く)でボールを待つことを禁止する「待ち伏せ禁止」のルールなのだろう。確かにこれがなければサッカーというゲームはバスケットボール並に点が入るスポーツになり、大味なものになるはずだ。そして、オフサイドになるかならないかのすれすれで攻撃しなければならないことが、サッカーのスリルである、とも言える。(今、ウィキペディアで調べたら、オフサイドのルールは、大体、上記の理解でいいようだ。つまり、オフサイドポジションにいる人間にボールをパスしてはいけない、ということである。面白いことに、初期のサッカーでは、ボールを前に蹴ること自体が禁止されていたらしい。つまり、今のラグビーと同じく、後ろへのパスのみによってゲームが行われていたということだ。これは、サッカーでは手を使ってはいけないというのと同じく、[縛り]のルールである。ゲームとは、いかに面白い「縛り」を考案するかなのである。オフサイドもそうした「縛り」なのだ。)
というわけで、オフサイドを利用した新戦術の考察は泡と消えたわけである。まあ、こんなものだ。最初から断っているように、私はサッカーについては無知だから、こういう無駄な考察もある。しかし、無知ゆえの発想というものは無意味ではないだろう。
さて、ゴール前でボールを待ち受けることが不可能なら、戦術面でも大きな変化が出てくる。つまり、キックのみで相手ゴールに接近するだけではなく、ドリブルなどでボールをキープする技術が必要になってくるわけだ。もちろん、私の戦術の基本は変える必要は無い。ただ、ドリブルをゼロの状態から、キックとの比が9対1くらいにするだけだ。とにかく、ドリブルして走る時間と距離は短いほどいいという考えは変わらない。それは、キックとドリブルのスピードの問題だけではなく、ドリブルとは必ず相手に追いつかれるものであるからだ。ボール無しで走るのと、ドリブルしながら走るのとのスピード比は、同じ人間なら10対7から10対6くらいの違いがあるだろう。しかも、ドリブルするということは、ボールが体から1,2メートル離れながらキープされているということであり、その間にボールを奪われるという事態が常に起こる。ドリブルしながらゴールに接近する選手と、それを奪おうとする選手の鬩ぎ会いがサッカーの醍醐味であり、個人プレーの粋と思われているようだが、私にはこれは馬鹿馬鹿しく思われる。相手にボールを奪われる可能性の大きい「危険プレー」が、なぜもてはやされるのか。最初からそうしたプレーを避けることこそが、考えられねばならないはずだ。
もっとも優れたプレーは、ボールを奪った瞬間に、二人乃至三人の間でのキックでボールを中継し、相手ゴールに叩き込むプレーである。もたもたとドリブルし、その間に相手にボールを奪われるプレーなど、最悪のプレーだろう。もちろん、キックはドリブル以上に相手にボールを奪われ易い。味方にうまくパスできるような正確なキックは困難だからだ。しかし、体格と体力に劣る日本人にとって、体と体がぶつかりあうようなボールの奪い合いと、キックの応酬とどちらが有利かは自明のはずだ。もしも、中田やら誰やらが正確なパス能力を持っているなら、なぜそれを生かさないのか。柳沢にはボールを奪う能力があり、中田に正確なパス能力があるなら、この二人を攻撃起点とし、フォワードにボールを送り続ければ、勝機(ゴールチャンス)はあるはずだ。
おそらく、正確なパス能力と、シュート能力は違うのだろう。だからこそ中田をフォワードには使わないのだと思う。では、現在の日本で、誰がシュート能力があるのか。少し前なら、ゴン・中山だっただろう。ゴールへの意欲という点では明らかに他の選手より高いものがあり、実績も持っていた。しかし、今回の高原、柳沢にそれがあっただろうか。この二人をフォワードにした時点で、今回の日本チームは終わっていたと言える。それがジーコの罪と言えば罪だ。しかし、それは現在の日本サッカー界の問題点、つまりたいしたことも無い選手がちやほやされ、国際レベルとの違いも考えずに浮かれていたこと(要するに、マスコミ、ファン、選手たち、サッカー協会の罪)に比べれば小さな罪だ。
海外のクラブチームに所属する日本人選手のほとんどは、一流チームではレギュラーになれていない。その程度の選手たちを集めたのが日本チームであるという事実を直視すれば、どのような戦術が勝つためには必要かというのが見えてくる。それが、先ほどから書いているキック中心主義、防御(ゾーンディフェンス)中心主義のサッカーである。サッカーというスポーツでは、どのような強豪チームでも、相手が完全に守りを固めたら、なかなか点は取れないものだ。ならば、弱小日本がやるべきサッカーは自ずと決まるはずではないか。これまでの夜郎自大の日本サッカーは、自分のレベルを直視することで、新しい世界に入ることが可能なのである。
後で書くと言っておいたことを考察して、この考察全体を終わることにしよう。それは、1対多数の状況を作るということだが、これは相手も常にそう心がけていることだから容易ではない。私の亀の子作戦では、ディフェンスではこちらが多数で、攻撃ではこちらが少数ということになる。その結果は、針谷夕雲の「相抜け」、つまり引き分けである。