2分28秒と2分32秒。
これが何の時間か分かるだろうか。これは2015年秋アニメである『落第騎士の英雄譚』と『学戦都市アスタリスク』で、主人公がヒロインの着替えに遭遇するまでにかかった時間である。
2015年秋アニメが1周しつつある今日このごろ。いつもなら「どれが一番面白いか」とか「どれが一番売れるか」という話題が多いのに対し、今季は様子が違っていた。上記2作品があまりにも似ているところから始まり、なぜラノベ原作アニメはどれも似たり寄ったりなのかという話題が発生していた。
いくつか読んでみたが、テンプレ化が起きる理由について語っているところは多いのに対し、そのテンプレの中身について語っているところは殆ど無い。なので俺が説明しようと思う。取り上げるのはタイトルにあるように「作品開始から3分以内にヒロインが脱ぐ」という理由である。この「3分以内に脱ぐ」というのは上記2作品に限った話ではない。先行研究を紹介しよう。
これによると『精霊使いの剣舞』は2分48秒で全裸になり、『銃皇無尽のファフニール』にいたっては1分28秒だ。ちなみに『落第騎士』の原作でヒロインが脱ぐのは2行目であるらしい。1回のツイートに余裕で収まる。なぜヒロインたちはこれほどまでに脱ぐのを急ぐのか。それは「脱いでそれを主人公に見られる」ことで彼女達はヒロインとなるからである。また、これを理解できると他にも幼馴染が敗北する定めであることや、非処女が嫌われる理由がよく分かる。
石鹸枠
本論に入る前に、言葉の使い方をはっきりさせておきたいので書いておく。タイトルに「ラノベ」と書いたが、これはあくまでも「わかりやすさ」のためである。全てのラノベが当てはまるというわけでなければ、ラノベに限った話でもない。実際、冒頭に書いた「今季のラノベ原作アニメはテンプレすぎる」という話題でも、ラノベと括るのは間違っているという意見がしばしば見られた。なのでこの記事では「石鹸枠」と呼ぶことにする。
石鹸枠は俺の考案ではなく、すでにある言葉だ。この言葉は説明するよりも、含まれる要素を羅列したほうがわかりやすい。以下の要素はニコニコ大百科で挙げられているものだ。
- ハーレム要素
- ラッキースケベといったテンプレイベント
- 学園もの
- ファンタジー世界
- 魔法および異能を使ったバトル
- メインヒロインが初登場時に裸
- 主人公がヒロイン達と違うイレギュラーな能力
- MF文庫J作品(他レーベル作品の台頭により弱まった)
石鹸枠とは (セッケンワクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
近年の深夜アニメをある程度見ている者なら「ああ、アレのことか」といくつか作品を思い浮かべることができるだろう。以上の要素は必須というものではなく、含んでいると石鹸力あるいは濃度が高いと言うべきものだ。大百科にも「しかし、最終的には各々の裁量次第なのでこれらの作品を見たことがない人はまず1話を視聴し、自分の中の石鹸枠を確立して欲しい。」と記されている。なのでこの記事では現在「テンプレラノベアニメ」と呼ばれるような作品について石鹸枠と呼んでいく。
油を注がれた者
使う言葉が決まったところで本題に入る。なぜ石鹸枠のヒロインはすぐに脱ぐのか。これを説明するには宗教を持ち出すとわかりやすい。それも旧約聖書を中心に考える。では石鹸枠のヒロインが服を脱ぎ、それを主人公に見られるのは何に相当するのか。それは「油を注がれる」ということだ。
その昔、イスラエルでは王や祭祀、それに預言者を任命するときはその者に油を注ぐという規定が存在した。油を注ぐ側の人間もそれなりの者であり、祭祀や預言者などがそれを行う。そして聖書においては油を注ぐ対象は主=神が定めていた。ちなみに救世主を意味する「キリスト」とは、ヘブライ語で「マーシアハ(メシア)」意味は「油を塗られた者」である。
このように聖書の世界においては、資質を持っている者でも油を注がれる以前は王や預言者でなく、油を注がれることでその役割が定まるのである。そしてこれは石鹸枠のヒロインにも同じことが言える。つまり、登場した時点ではまだヒロインではなく、脱いでいるところを主人公に見られた時にヒロインと確定するのだ。
更に言えば、ヒロインは油を注がれた者の中でも「イスラエルの王」に近い存在といえる。王は主人公ではないかと思うかも知れないが、石鹸枠における主人公は神たる作者の声を代弁する預言者である。それに対して視聴者が求め、金を貢ぐ対象となるヒロインは王と呼ぶにふさわしい。有名どころで言えばゴリアテを倒したダビデは特に類似点がある。
"David, Reni (Louvre INV 519) 02" by Coyau - 投稿者自身による作品. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
ダビデがもともと羊飼いであることを筆頭に、聖書の世界では指導者を「羊飼い」とし、導かれる民衆を「子羊」と例える。これまで石鹸枠を見ている人を「視聴者」と書いたが、元はラノベであるので別の呼称を用いたい。聖書に倣って「子羊」でもいいのだが、日本人にはイメージしにくい。なので石鹸枠にハマっている人を家畜つながりで「子豚」とする。以降この記事で「子豚」と書いてあれば、石鹸信者と思ってもらいたい。
石鹸枠がこのような任命システムを採用しているのは美少女の増殖に原因がある。作品内に美少女が一人だけであるならば、それがヒロインであるとすぐにわかるだろう。しかし、他のジャンルでは男がやるような役割も美少女がこなし、モブまでも美少女化が進んだ昨今においては誰がヒロインなのか判断できない。そしてヒロインは埋没し空気と化す。「エアヒロイン」という言葉がそれを物語っている。
この状況を打破するために生まれた手法が、「脱いでいるところを主人公に見られる」ことでヒロインを確定させるというものだ。このラッキースケベ自体は昔からあるものだが、それを任命の儀式に転用したのである*1。これにより子豚は美少女の群れからヒロインを的確に見分けることが出来るようになった。
あまり脱ぐ脱ぐ書いているとこのブログの品位が落ちるので、これも聖書の表記を参考にして、以降は代わりに「石鹸を塗られた」と書きたいと思う。「ヒロインが石鹸を塗られた時〜」と書かれていたら、脱いでいるところを見られたのだなと思えばいい。
主人公は中を見る
ここまで読んだ者ならば、次の疑問が浮かぶのではないかと思う。「ヒロインと認定される他の方法はないのか」と。先に解答を言ってしまえば、他にある。『対魔導学園35試験小隊』の鳳桜花に、自分がヒロインになった時のことを尋ねれば彼女はこう答えるだろう。「主の御手が私の上に置かれていた」と。
いわゆる「乳揉み」というやつだ。これも間違いなくヒロイン任命の儀式、すなわち石鹸を塗られる行為である。聖書においても手で触れられるというのは重要な行為であり、様々な意味を持つ。
これらが任命の儀式としてふさわしいことには理由がある。聖書で主が王を選定するとき、預言者にこう語っている。
「私が見るところは人とは異なる。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
サムエル記上 16章7節
任命するためには本質、つまり「ありのままの姿」を見る必要があるということだ。直接触れるというのも結局は同じこと。実際に触って確かめているわけである。だから主人公は触れるだけで済まさず揉むのだ。こうして本物を確かめられた彼女達は晴れてヒロインとなる。
3分の壁
石鹸を塗られることでヒロインとなるならば、これは早々に行わなければいけない。石鹸枠に求められているのは主人公ではなくヒロインである。それなのになかなか石鹸を塗られないと物語は進まず、子豚の心は離れてしまう。誰に付いて行けばいいかわからないからだ。うかつに適当な美少女を選ぶと、そいつは3話で死んでいる危険性がある。Twitterのアイコンをまた変えることになったら目も当てられない。
なので豆腐メンタルな子豚たちが不安で切る前に、早々にヒロインを確定させて安心させてやる必要がある。その制限時間が3分なのだ。この「3分」という制限時間は動画に関わるものならば経験から知っているものであるらしい。例えば小池一夫はその著書でこう語っている。
漫画だと、冒頭の7ページ。キャラクターを好きになってもらう。映像なら3分が限界ですが、YouTubeやニコニコ動画なら20~30秒でしょう。そこまでにキャラクターを絶対に起ててしまわなければなりません。
小池一夫のキャラクター新論 ソーシャルメディアが動かすキャラクターの力
これは一般的なテレビ番組でも同様の制限時間であるらしい。
テストみたいな、試金石みたいなことですが、結論的に3分はちょうど人間の心理にぴったり合うというのがだんだんわかってきたのです。これが第1点です。なにしろ視聴率20%、2000万人のデータですから、これは圧倒的です。
私はうまくいったと思っていましたが、3分30秒ぐらいからチャンネルを変えられている。
映像を取り入れたプロモーション|株式会社イズ・アソシエイツ
他の番組でもそうだがアニメは新作が一斉に始まり、視聴者はどれを継続するか素早く判断しなくてはいけない。子豚の判断基準はどのようなヒロインが登場するか、ということに重点が置かれているため、3分以内にヒロインを確定させなくてはいけないのだ。そういう意味で『ヘヴィーオブジェクト』は子豚的に最悪なスタートを切っていた。なにせ4分30秒に渡って兵器と世界観の説明が延々と続く。あれで子豚は振り落とされた。逆にうまいと関心したのは『35試験小隊』である。
まず2分34秒でバニーを出すことにより子豚の心をつなぎ留め、メインヒロインが出るまでの時間をかせぐ。石鹸枠としてあるべき姿と言えよう。
このヒロインを素早く確定させるというのもまた、旧約聖書における王の選定に近いものである。旧約聖書においては預言者が王となる者に出会うと、主が「こいつが王になる者だ、さあ油を注げ」と急かしてくる。間違っても王にふさわしいかどうかじっくりテストするなんてことはない。
塗り直し
ヒロイン任命システムについての基本的な説明は終えた。当然のことであるが、子豚はここまでのことを把握した上で視聴に臨んでいる。だから毎度似たような展開でも楽しく見ているのだ。ここからは応用的な内容に入る。
まずはヒロインが複数の場合どのような扱いとなるのか、である。これも聖書に書いてある通りでいい。最初にイスラエルの王として油を注がれたのはキシュの息子サウルである。彼は主に選ばれたものであったのだが、主の「アマレク人を滅ぼせ」という命に背いた。これに怒った主は新たな王としてダビデを指名し、預言者は彼に油を注いだ。サウルは美しく勇敢であったが、ダビデはさらに竪琴もうまかった。これを石鹸枠に当てはめると「ヒロイン交代」である。
"Rembrandt Harmensz. van Rijn 030" by Rembrandt or workshop - geheugenvannederland.nl : Home : Info : Pic. Licensed under Public Domain via Commons.
したがって新しく石鹸を塗られた者が現れたなら、それが新しいヒロインであると考えれば良い。しかし、石鹸枠における複数ヒロインというのはヒロインが交代と言うよりも、増えていくと言ったほうが正しい。この場合は石鹸を塗られる頻度と質、それに更新タイミングから総合的に判断することになる。これら情報によって誰がメインヒロインか、あるいはその回は誰がヒロインであるのか子豚は見極めている。
先にエアヒロイン代表として『インフィニット・ストラトス』の箒を出したが、彼女は1話の時点では石鹸を塗られていたし、間違いなくヒロインであった。しかし後続のヒロイン、特にシャルと比較した時、箒に塗られれていた石鹸の厚みは薄く、古かった。これによって彼女は子豚からヒロインだと認められなくなったのである。
その点では『アスタリスク』のユリスはスタートから飛ばしていると言える。なにせ1話で2度も塗られたのだから。
ヒロインになりそこなるもの
ヒロインになる者がいる一方で、ヒロインとして創られたはずなのになれない者もいる。ここまで読んだ人ならわかると思うが、これは石鹸を塗られなかったために起こることだ。もちろん「石鹸枠的になれなかった」という話であり、設定上ヒロインとされているなら、塗られなくてもヒロインであると言っていい。子豚は認めないだろうが。
今季のアニメで印象的だったのは『コメット・ルシファー』である。この作品は石鹸枠として作られたものではないし、そもそもラノベ原作でもない。なので石鹸枠の規定に従う必要は無いのだが、子豚を失望させたのもまた事実である。1話で主人公は偶然にも地下に落ち、そこには謎の装置があった。そしてその装置から現れたのが本作のヒロイン、フェリアである。眠った状態の彼女は主人公の腕の中へと落ちてきた。そのシーンを以下に示す。
最初から服を着ている。石鹸の定めに従うならば、ここは全裸で登場すべきところであった。これが流れた時、子豚たちの嘶きは実況に響き渡ったという。
また、『コメット・ルシファー』にはもう一人ヒロインっぽいキャラがいる。しかし子豚は1話終了時点で彼女をヒロイン候補から外している。それは彼女が幼馴染(っぽいの)であるからだ。幼馴染は順序が逆になってしまう。石鹸枠においてヒロインは以下の順番で行動しなくてはいけない。
- 主人公との出会い
- 石鹸を塗られる
- 打ち解ける
- ちょろい
それぞれの時間を極限まで短縮することは許されるが、飛ばすことや逆にすることは許されない。ところが幼馴染は「出会い」が描写されず、打ち解けた状態からスタートする。石鹸を塗られるのはそれよりも後だ。これでは敗北するのも仕方ない。幼馴染が石鹸枠でヒロインになるためには、主人公と再会するところから物語を始め、実質的に出会いからスタートさせるしかない。よそよそしくなっていたらなおさらいい。もっとも『IS』の箒はそれでもダメだったが。
背信行為
子豚にとって最も許されざる行為、石鹸枠でやってはいけないことに、浮気・NTR・非処女がある。そこらへんのモブがやる分には問題ないが、ヒロインがしては大問題となる。子豚がこれらに怒ると他の人々は「器が小さい」とか「男尊女卑だ」などと子豚を非難する。しかしここまで読んだ人ならば子豚が怒る理由もわかるだろう。上記行為は神に背く行いであるからだ。
聖書では主に敵対する存在として悪魔がいる。しかしこの悪魔が一番やることというのは国を滅ぼすとかではなく、主が選定した者を誘惑することである。油を注がれた者はこれに打ち勝つ、主への忠誠を保ち続けなくてはいけない。
"Ary Scheffer - The Temptation of Christ (1854)" by Ary Scheffer - [1]. Licensed under Public Domain via Commons.
したがってヒロインが浮気や寝取られるというのは、言うなれば悪魔の誘惑に屈したのと同じであり、主を裏切ったわけである。わざわざ主人公が石鹸を塗ったのに、それを否定したのだ。主は一度の命令に従わないだけで新たな者を選ぶ存在である。従わないどころか裏切るとは、子豚がキレるのも当然と言えよう。また浮気に近いものとして、主人公の気を引くために他の男に寄るというのもあるが、もちろんこれもNGだ。恋の駆け引きなんて言い訳は通用しない。神を試してはならないのだ。
そして子豚が我を忘れて暴走するほどのことである、実はヒロインが非処女であるという大罪。これはもはや主を欺いていたわけであるので、許されていいはずがない。塗られる石鹸の質というのは、言うなればどれだけ辱めを受けたかということである。それなのに非処女では、主人公は少年向けの作品でこれ以上何をすればいいというのだ。子豚が「耳に石鹸がかかる」と言ってしまう理由が分かっていただけただろうか。
異文化を理解する
以上で石鹸枠の仕組みと子豚の心理についての説明を終わりとする。これで少しは彼らの文化を理解できたはずだ。
ここ数年言われているように、オタクの数は年々増加の一途をたどっている。正確に言えばオタク分野に興味を持つ人が増えているわけである。しかしオタク文化にもわかりやすいものもあれば、わかりにくいものもある。今回の一連の騒動は、実はわかりにくい石鹸文化と外の人間の文化摩擦と言えよう。今回俺が子豚でないのに記事を書いたのは、こうした文化摩擦を少しでも減らしたいと思ったからである。
この石鹸文化は理解するのが難しい点が多い。しかも最近石鹸枠から派生したと言われる異世界転生ハーレム枠はさらに輪をかけて理解し難い。なにせこの中の一派は作者・読者(視聴者)・主人公を同一視する三位一体説を唱えるものまで出る始末。詳しくない者はうかつに触れないほうがいい。
さてアニメの選別を再開するとするか。
学戦都市アスタリスク<学戦都市アスタリスク> (MF文庫J)
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歴史は繰り返す
なんか去年の今頃も同じようなことを書いていた気がするな、と思ったらやっぱり書いていた。
秋アニメ何なの。