ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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ながたかずひさ「ユルネバ!」から全文転載。
ながた氏は業界の人間だから、同業者に批判的な意見は書けないのだろう、と皮肉な見方もできるが、私は「マーニー」は見ていないので何とも言えない。しかし、下記記事を見ても、平板単調な物語なのだろうな、という想像はつく。やはりこれは脚本の責任が一番なのではないか。もちろん、米本監督の演出力欠如、という可能性もある。
ドラマとは、「ドラマ性」という言葉もある通り、劇的なものがあるからドラマなのであり、たとえば「東京物語」や「野いちご」のように、一見何も事件らしい事件が起こらなくても劇的緊張を保ったドラマというものもある。私は「アリエッティ」にはそれをまったく感じなかったし、「マーニー」もおそらくそうなるだろう、と思っている。これは作劇者の資質によるものだ。だが、風景描写などの叙情性はある監督なので、それを目的とした作品づくりをするというのも一つの方向ではある。しかし、たとえ子供相手がメインの作品と言っても、ドラマ性を欠いたドラマが一般大衆(「面白いもの」に対するその嗅覚は案外鋭いものだ)を引き付けることはないだろう。つまり、ジブリがこういう方向で作品作りを進めるなら、それは企業としては致命傷になるだろう、ということである。
なお、「アニメ」とは「アニマ」つまり「生命」とか「精霊」を語源としていたはずであり、「生命性」の欠如した、動きのないアニメはアニメではない。それはストーリーにも通じることだ。物語としての「動き」が無いアニメが子供を引き付けるはずはない。
要するに、米本監督は「アリエッティ」への反省がまったく無いまま「マーニー」を作ったのだろう、と私は推測している。批判に対して「俺の方向性は間違っていない」と居直っているのかもしれない。(精神構造が、サッカー日本代表の「自分たちのサッカー」論によく似ている。)
(以下引用)
2014年07月22日
映画「思い出のマーニー」監督:米林宏昌
http://marnie.jp/index.html
とてもいい作品でした。
(以下ネタバレあり)
便宜的にフィジカル(物理的)な部分とロジカル(論理的)な部分とに分けて考えてみます。
フィジカルな部分では弱点一つ、
「ちょっと平板ではないかな」
とは思いました。
脚本が悪いというよりも(むしろこちらは詰め込み気味)やはり監督の抑揚の付け方=演出がちょっと物足りなかったです。絵も動きも効果もタイムスケジュールも。
『アリエッティ』観てましても米林監督は抑制が効いた演出がお好きなのだろうとは思いますが、せっかくのアニメしかもファンタジー、「もったいない」という印象です。
ただ、傷というわけではなくこのぐらいがお好きな方も多いでしょうし、できもしない無理をして変な味入っちゃう方が問題ではあるので、まあ次回はもう少しはっちゃけていただいても、ぐらいの希望を出しておくことにして。
もちろん、いい「ハサミ」持ってる人呼んで来る手もあります。自社生産だと描いてる人の顔浮かんで切れない、とかあるでしょうしねぇ。
あとやっぱり「宮崎の影」は観る方に絶対あって、メシの描写やギュッと抱く描写であのくどくどしい熱さ・執念が無いと、物足りなく感じちゃうのはもうしょうがないです。
で、ロジックの方ですが、こちらはいいかんじ。
近現代のコンテンツ(芸術・エンタメ)における大テーマの一つに、
「発狂した世界にどうやって『引っかかり』を見つけて生きてゆくか」
があると思うのですが、この作品ではそれを見失っていた杏奈ちゃんが、無事見つけて日常へ帰っていく、その過程が丁寧に描かれていました。これだけで合格点です。
皆さんご存知のようにこの世界は(社会は、そこに棲まう人間たちは)
「合理的であるフリをして自分たちでそれを守らない」
「人情を大切にするフリをして『嫌だ』という人間の声を無視する」
という具合に発狂しており、しかもそれを絶対に認めようとしない。
元来が「まとも」である子どもたちはこの矛盾にブチ当たって困り果てた末、3種(正確には4種)の対応を取らざるを得ません。
1 杏奈のように 世界はこんなもんで「自分がおかしいんだ」と閉じこもる
「お母さんがお金貰ってた」というのは「不機嫌を表現していいんだ」と自分に許可を与えるトリガーに過ぎず、不機嫌の理由は別(世界の発狂)にある。
2 ふとっちょぶたさんのように 「どうもおかしいんだけど物事動かさな始まりませんし」と先送る
杏奈に罵倒されて(母親が動転するほど)号泣したのは、「お前のやってることでは問題は解決しない、むしろ問題の維持に手を貸している」と一番痛い所を突かれたからです。
3 その他の子どもたちのように 気づいてないフリをしてアホのフリをする
これが最も短期的に安全な対応策ですが、これで一生過ごしきれるとは限らない。たぶん無理でしかもこの問題は、はしかと同じく遅く発病するほど重くのしかかる。あと、「アホのフリ」と「アホ」は同値by兼好法師。
4 稀に 「おかしいのは世間や」をずっと持ったまま成長する
が、それを口に出しても黙殺されるので結局123どれかにスライドするか、変人呼ばわりウエルカムな無縁人生に身を委ねて挙句、世間には無影響。
で、このすべての子どもが直面する危機に際して、私たちはだいたい大人になる時に何か一つでも
「引っ掛かり」
を世界の中に見つけ、そこを嵐の中のアンカーポイントにしてなんとかかんとか、世界および「生きること」に折り合いをつけます。
「とにかく何かわからないけどこれをやっている間は「生きている」」
という何かを。
恋でも友情でも趣味でも仕事でもマンガでも温泉でもビールでも讃岐うどんでも、なんでもいいんですそれは。
マーニーを初めて見た瞬間、杏奈は思わず、身体が勝手に動くようにして、近づこうとします。
これこそが「見つけた」瞬間であり、それ以降今までの消極性が嘘のように野山を転げまわるようにして彼女を追う。
しかし「これが無くては生きていけない」とまでいくとこれは悪い意味での依存で、だからマーニーは消える。
あなたが掴んだものは「世界との繋がり」であって、わたしではない、と教えるように。
と、そこで終盤の杏奈になりきると、初めて周囲が見えてくる。
そこに居たのは、それぞれのやり方でこの危機を乗り切ったであろう大人たち(頼子さん、大岩夫妻、久子さん、といちさん)と、彼らが自分を見守ってくれていたという事実。
マーニーは特に(ヒロインですし)、この子どもと大人の二面を持たされています。子どもの面では杏奈の写し鏡のように「世界から弾き出されている」子で、大人の面で見れば「そういう子どもを見守る」ことにその「引っ掛かり」を(最後の最後にようやくのことで)見出した人、です。
だからこそそれを、杏奈に早く伝えたかった。呼び寄せたとも言えましょう。
『もののけ』以降のジブリ映画は基本的に、この「世界との繋がりが不安定な人」が、どのようにしてその「繋がり」を再構築・再確認していくか、がメイン・テーマですので、たいへん普遍性があります。その中でも「夢か現かわからないマーニーの存在」以外に特殊舞台装置の無い当作品は、「入り込み易さ」という面で取っ付き易い作品だと思います。
一見すると
「思春期の不安定な女の子が不思議な体験を通じて一歩成長した」
という「よくあるお話」なのですが、それにとどまらないのはここ、世の理不尽・不条理をきっちり描くことで(無意味な高速道路、押し付けがましい七夕祭りやボランティア、もちろん杏奈やマーニーの子ども時代を巡るトラブル)、
「悪いのは君じゃなくて世界なんだけど、もうしわけないがそれを乗り越えるのは君自身だ」
というメッセージを大人としてちゃんと発している点でしょう。
「生きろ」
「生きねば」
と言われた時に、上述の危機にある子どもは序盤の杏奈のような曇った瞳で
「どうして?」
と問います。その時に我々大人は
「いいことがある」
という答えをひとつと、もうひとつ、
「酷いこともたくさんある。それを招いているのは我々大人だ」
という言いにくいことも伝えねばなりません。そして非常に無責任にも厚顔無恥にも、
「いいことを手がかりに生きて、この世界をちょっとでも良くしてくれ」
と願う。
だいたいの大人はそれが恥ずかしいし、虫がよすぎるし、もっとシンプルに自分の非を認めたくないので、
「いいことがある」
としか言わない、ので、信じてもらえない。
米林監督はそこを逃げずに真正面から取り組んだのです。
夢のような風景・環境に居る、どうしようもなく「普通」=発狂した人々と(言うまでもありませんが、発狂した世界で普通であるということは発狂してるってことです)、そんな「普通」になりたい、つまり狂ってしまいたいとまで自暴自棄を起こした杏奈=わたし。
目を背けたくなるようなリアルで、実際目を逸らしたほうがエンターテイメントとして一時の「癒やし」になる性能は高まるわけですが、そこを耐えて観客が目を逸らさない範囲ギリギリを狙って粘り強く描く、からこそ、一歩踏み込んだ作品になる。
見習いたい。
ということでたいへんいい作品ですので、劇場でぜひ。
小難しいこと考えなくてもこの季節、北海道の風景観てるだけでホッとできます。ジブリは夢を現実にするのが相変わらず最高に巧い。
ああ、また行きたいなあ北海道!
余談ですが(近年の)ジブリ映画に反応しない人が世の中には2種類居て、
・やりたいことやってやりたくないことやらなかっためちゃくちゃ幸せ(&幸運)な人
か、
・これを観てしまうと自分の依って立つ世界が崩壊するのが怖いので目を逸らす人
のどちらかです。
ウチの母なんか前者でして(笑)それどころかこの作品にも出てますね、さやかちゃん。ジブリ名物女丈夫、いつでも「私は私」と言い放てる、あの歳にして既に危機を乗り切っている、もしくは危機など無い!少女です。
まあ実際稀に居ますよ特に女の子には。男はだいたい上記4になっていじけるんですけど。
彼女がマーニーの部屋の住人になる、というのも、穿ち過ぎかもしれませんが未来への希望を暗示させる、いい筋回しだと思いました。
それはそうと問題は後者で、この方々というのはつまり「宝箱の鍵が宝箱の中」の状態ですので、一筋縄ではいきません。そしておそらく、そういう人は想像するより割と多い。
次回も米林作品、観に行きますとも。
ながた氏は業界の人間だから、同業者に批判的な意見は書けないのだろう、と皮肉な見方もできるが、私は「マーニー」は見ていないので何とも言えない。しかし、下記記事を見ても、平板単調な物語なのだろうな、という想像はつく。やはりこれは脚本の責任が一番なのではないか。もちろん、米本監督の演出力欠如、という可能性もある。
ドラマとは、「ドラマ性」という言葉もある通り、劇的なものがあるからドラマなのであり、たとえば「東京物語」や「野いちご」のように、一見何も事件らしい事件が起こらなくても劇的緊張を保ったドラマというものもある。私は「アリエッティ」にはそれをまったく感じなかったし、「マーニー」もおそらくそうなるだろう、と思っている。これは作劇者の資質によるものだ。だが、風景描写などの叙情性はある監督なので、それを目的とした作品づくりをするというのも一つの方向ではある。しかし、たとえ子供相手がメインの作品と言っても、ドラマ性を欠いたドラマが一般大衆(「面白いもの」に対するその嗅覚は案外鋭いものだ)を引き付けることはないだろう。つまり、ジブリがこういう方向で作品作りを進めるなら、それは企業としては致命傷になるだろう、ということである。
なお、「アニメ」とは「アニマ」つまり「生命」とか「精霊」を語源としていたはずであり、「生命性」の欠如した、動きのないアニメはアニメではない。それはストーリーにも通じることだ。物語としての「動き」が無いアニメが子供を引き付けるはずはない。
要するに、米本監督は「アリエッティ」への反省がまったく無いまま「マーニー」を作ったのだろう、と私は推測している。批判に対して「俺の方向性は間違っていない」と居直っているのかもしれない。(精神構造が、サッカー日本代表の「自分たちのサッカー」論によく似ている。)
(以下引用)
2014年07月22日
映画「思い出のマーニー」監督:米林宏昌
http://marnie.jp/index.html
とてもいい作品でした。
(以下ネタバレあり)
便宜的にフィジカル(物理的)な部分とロジカル(論理的)な部分とに分けて考えてみます。
フィジカルな部分では弱点一つ、
「ちょっと平板ではないかな」
とは思いました。
脚本が悪いというよりも(むしろこちらは詰め込み気味)やはり監督の抑揚の付け方=演出がちょっと物足りなかったです。絵も動きも効果もタイムスケジュールも。
『アリエッティ』観てましても米林監督は抑制が効いた演出がお好きなのだろうとは思いますが、せっかくのアニメしかもファンタジー、「もったいない」という印象です。
ただ、傷というわけではなくこのぐらいがお好きな方も多いでしょうし、できもしない無理をして変な味入っちゃう方が問題ではあるので、まあ次回はもう少しはっちゃけていただいても、ぐらいの希望を出しておくことにして。
もちろん、いい「ハサミ」持ってる人呼んで来る手もあります。自社生産だと描いてる人の顔浮かんで切れない、とかあるでしょうしねぇ。
あとやっぱり「宮崎の影」は観る方に絶対あって、メシの描写やギュッと抱く描写であのくどくどしい熱さ・執念が無いと、物足りなく感じちゃうのはもうしょうがないです。
で、ロジックの方ですが、こちらはいいかんじ。
近現代のコンテンツ(芸術・エンタメ)における大テーマの一つに、
「発狂した世界にどうやって『引っかかり』を見つけて生きてゆくか」
があると思うのですが、この作品ではそれを見失っていた杏奈ちゃんが、無事見つけて日常へ帰っていく、その過程が丁寧に描かれていました。これだけで合格点です。
皆さんご存知のようにこの世界は(社会は、そこに棲まう人間たちは)
「合理的であるフリをして自分たちでそれを守らない」
「人情を大切にするフリをして『嫌だ』という人間の声を無視する」
という具合に発狂しており、しかもそれを絶対に認めようとしない。
元来が「まとも」である子どもたちはこの矛盾にブチ当たって困り果てた末、3種(正確には4種)の対応を取らざるを得ません。
1 杏奈のように 世界はこんなもんで「自分がおかしいんだ」と閉じこもる
「お母さんがお金貰ってた」というのは「不機嫌を表現していいんだ」と自分に許可を与えるトリガーに過ぎず、不機嫌の理由は別(世界の発狂)にある。
2 ふとっちょぶたさんのように 「どうもおかしいんだけど物事動かさな始まりませんし」と先送る
杏奈に罵倒されて(母親が動転するほど)号泣したのは、「お前のやってることでは問題は解決しない、むしろ問題の維持に手を貸している」と一番痛い所を突かれたからです。
3 その他の子どもたちのように 気づいてないフリをしてアホのフリをする
これが最も短期的に安全な対応策ですが、これで一生過ごしきれるとは限らない。たぶん無理でしかもこの問題は、はしかと同じく遅く発病するほど重くのしかかる。あと、「アホのフリ」と「アホ」は同値by兼好法師。
4 稀に 「おかしいのは世間や」をずっと持ったまま成長する
が、それを口に出しても黙殺されるので結局123どれかにスライドするか、変人呼ばわりウエルカムな無縁人生に身を委ねて挙句、世間には無影響。
で、このすべての子どもが直面する危機に際して、私たちはだいたい大人になる時に何か一つでも
「引っ掛かり」
を世界の中に見つけ、そこを嵐の中のアンカーポイントにしてなんとかかんとか、世界および「生きること」に折り合いをつけます。
「とにかく何かわからないけどこれをやっている間は「生きている」」
という何かを。
恋でも友情でも趣味でも仕事でもマンガでも温泉でもビールでも讃岐うどんでも、なんでもいいんですそれは。
マーニーを初めて見た瞬間、杏奈は思わず、身体が勝手に動くようにして、近づこうとします。
これこそが「見つけた」瞬間であり、それ以降今までの消極性が嘘のように野山を転げまわるようにして彼女を追う。
しかし「これが無くては生きていけない」とまでいくとこれは悪い意味での依存で、だからマーニーは消える。
あなたが掴んだものは「世界との繋がり」であって、わたしではない、と教えるように。
と、そこで終盤の杏奈になりきると、初めて周囲が見えてくる。
そこに居たのは、それぞれのやり方でこの危機を乗り切ったであろう大人たち(頼子さん、大岩夫妻、久子さん、といちさん)と、彼らが自分を見守ってくれていたという事実。
マーニーは特に(ヒロインですし)、この子どもと大人の二面を持たされています。子どもの面では杏奈の写し鏡のように「世界から弾き出されている」子で、大人の面で見れば「そういう子どもを見守る」ことにその「引っ掛かり」を(最後の最後にようやくのことで)見出した人、です。
だからこそそれを、杏奈に早く伝えたかった。呼び寄せたとも言えましょう。
『もののけ』以降のジブリ映画は基本的に、この「世界との繋がりが不安定な人」が、どのようにしてその「繋がり」を再構築・再確認していくか、がメイン・テーマですので、たいへん普遍性があります。その中でも「夢か現かわからないマーニーの存在」以外に特殊舞台装置の無い当作品は、「入り込み易さ」という面で取っ付き易い作品だと思います。
一見すると
「思春期の不安定な女の子が不思議な体験を通じて一歩成長した」
という「よくあるお話」なのですが、それにとどまらないのはここ、世の理不尽・不条理をきっちり描くことで(無意味な高速道路、押し付けがましい七夕祭りやボランティア、もちろん杏奈やマーニーの子ども時代を巡るトラブル)、
「悪いのは君じゃなくて世界なんだけど、もうしわけないがそれを乗り越えるのは君自身だ」
というメッセージを大人としてちゃんと発している点でしょう。
「生きろ」
「生きねば」
と言われた時に、上述の危機にある子どもは序盤の杏奈のような曇った瞳で
「どうして?」
と問います。その時に我々大人は
「いいことがある」
という答えをひとつと、もうひとつ、
「酷いこともたくさんある。それを招いているのは我々大人だ」
という言いにくいことも伝えねばなりません。そして非常に無責任にも厚顔無恥にも、
「いいことを手がかりに生きて、この世界をちょっとでも良くしてくれ」
と願う。
だいたいの大人はそれが恥ずかしいし、虫がよすぎるし、もっとシンプルに自分の非を認めたくないので、
「いいことがある」
としか言わない、ので、信じてもらえない。
米林監督はそこを逃げずに真正面から取り組んだのです。
夢のような風景・環境に居る、どうしようもなく「普通」=発狂した人々と(言うまでもありませんが、発狂した世界で普通であるということは発狂してるってことです)、そんな「普通」になりたい、つまり狂ってしまいたいとまで自暴自棄を起こした杏奈=わたし。
目を背けたくなるようなリアルで、実際目を逸らしたほうがエンターテイメントとして一時の「癒やし」になる性能は高まるわけですが、そこを耐えて観客が目を逸らさない範囲ギリギリを狙って粘り強く描く、からこそ、一歩踏み込んだ作品になる。
見習いたい。
ということでたいへんいい作品ですので、劇場でぜひ。
小難しいこと考えなくてもこの季節、北海道の風景観てるだけでホッとできます。ジブリは夢を現実にするのが相変わらず最高に巧い。
ああ、また行きたいなあ北海道!
余談ですが(近年の)ジブリ映画に反応しない人が世の中には2種類居て、
・やりたいことやってやりたくないことやらなかっためちゃくちゃ幸せ(&幸運)な人
か、
・これを観てしまうと自分の依って立つ世界が崩壊するのが怖いので目を逸らす人
のどちらかです。
ウチの母なんか前者でして(笑)それどころかこの作品にも出てますね、さやかちゃん。ジブリ名物女丈夫、いつでも「私は私」と言い放てる、あの歳にして既に危機を乗り切っている、もしくは危機など無い!少女です。
まあ実際稀に居ますよ特に女の子には。男はだいたい上記4になっていじけるんですけど。
彼女がマーニーの部屋の住人になる、というのも、穿ち過ぎかもしれませんが未来への希望を暗示させる、いい筋回しだと思いました。
それはそうと問題は後者で、この方々というのはつまり「宝箱の鍵が宝箱の中」の状態ですので、一筋縄ではいきません。そしておそらく、そういう人は想像するより割と多い。
次回も米林作品、観に行きますとも。
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