あるいは、文春の内容がすべて真実で、小沢(元)夫人がただの馬鹿で、誰かに利用されたのかもしれない。
まあ、いずれにしても消費税増税審議入りを前に、増税派にとってうまく反対派潰しの記事が出たものである。
その一つを転載する。
いかにも「あるよなあ、ある、ある」という感じである。中学校時代というのは、こういう理不尽なことがありがちだし、こういうように「空気」ですべてが決まるというのは大人社会も同じである。
しかし、極悪人にされてしまった与謝野晶子にとっては傍迷惑な話だろう。本人はこの世にはいないのだから抗議もできないし。逆に言えば、その場にいない人間をスケープゴートにすることで一座を丸く収める、というのは案外と大人の知恵と言えるかもしれない。
(以下引用)
極悪人・与謝野晶子
ちなみに、与謝野晶子といえば思い出すのが、中学生の時の話です。
クラスの女の子が私に本か何かを見せて、「このよしゃの・・・あきこってさ」のようなことを言ったので、なにげなく、私が「あ、それ、よさのって読むみたいだよ」と言いました。
すると、彼女はしばらく黙った後に涙を流し始めたのです。
私 「え・・・?」
彼女「ひどい・・・。私がちゃんと読めないからって・・・」
私 「いや、あの・・・」
周囲にいた生徒たちが「お?」と気づき、寄ってきます。
周囲「なんか、オカが女の子泣かしてるぞ」
私 「な・・・。違うって」
周囲「ひ ・ ど ・ い! ひ ・ ど ・ い!」
シュプレヒコールが鳴り響く中でその事情を話すと、その周囲の中の一人が、
「それはやっぱりオカが悪い」
ということになりました。
すなわち、与謝野の「謝」は、どうやったって「しゃ」にしか読めないから、○○ちゃん(女の子)が正しいと。
それを聞いて私が、「オレだけが悪いんじゃない。そんな名前がついているほうも悪い」と言うと周囲も納得し、結局、「この世の中で最も悪い人間は与謝野晶子だ」ということで決着したことで、彼女も泣くのをやめて、みんなで、「よかったよかった」ということになりました(どんな話だよ)。
こんなことは、酒を飲み始めた最初の頃から経験的に知っていた。
つまり、二日酔いには
1 甘い飲み物を飲む
2 トマトジュースを飲む
の二つが効くということだ。
それより先にするべきことは
1 トイレに行って大小便を出し、体内のアルコールを排出する
2 風呂に入って酒の匂いを消す
3 歯を磨いて口中の酒の匂いを消す
の三つだ。
二日酔いの気分の悪さは、体内に残留するアルコール分と、体の外の酒の匂いに原因の大半がある。
甘い飲み物を飲むのは、アルコールが体内でホルムアルデヒドに変化して、体内の糖分が減少するので、それを補うためとか何とかいった理由がちゃんとあるようだが、トマトジュースの場合は二日酔いに効く理由は知らない。下記記事でも科学的説明は省略されている。だが、効果があることだけは確かだ。ただし、日本製のトマトジュースは不味いので、カゴメよりはV8の野菜ジュースをお勧めする。
ついでながら、ブラッディ・マリーはべつに二日酔いにならないとは思わない。トマトジュースがカクテルに合うとも思わない。むしろ二つを合わせると、酒の味がしなくなるだろう。
(以下引用)
トマトジュースで「アルコール血中濃度が低下」 アサヒグループ、カゴメの共同研究で明らかに
アサヒグループ(兵庫県神戸市)とカゴメ(愛知県名古屋市)が、5月25日に発表したところによると、飲酒時にトマトを一緒にとることで、血中アルコール濃度が低下することが明らかになった。(参照:日本人の42%が不眠に悩み。キューライフ調査結果を発表)
この内容は両社がヒトに対して行った試験により、分かった事で、研究結果は、5月18日~20日までの日程で宮城県において行われた第66回日本栄養・食糧学会大会で報告された。
発表によると、ヒトがトマトジュースとアルコールを同時摂取すると、トマトジュースなしのケースと比べ、血中のアルコール濃度や体内の貯留量が平均で約3割も減少し、体内からアルコールが消失するまでにかかる時間も50分短くなることが確認されたという。また、そのメカニズムは動物実験で確認されており、トマトの摂取がアルコールの代謝に関わる酵素を活性化させることが明らかになったという。
さて、今夜はいつものバーでブラッディ・マリーをチョイスされてはいかが?
あちこちでこの怒涛の最終シリーズへの感動が語られている。
まるで「まどか☆マギカ」のようだ。
まだ最後の最後は分からないが、ここまで来て、過去をふりかえると、すべてが違った風景として見えてくる、というのも「まどか☆マギカ」を思わせる。
だが、とりあえず、素晴らしい感想を紹介しよう。ほかにも素晴らしい感想はあるが、まずはこれ。
(以下引用)
「さよなら絶望先生」ゾクゾクゾク!衝撃展開すぎる件
・「さよなら絶望先生」イヤッホオオオウ!衝撃展開すぎる件
「さよなら絶望先生」泣いても笑っても後2話である。
今週のタイトル、300話「私達の知ってる可符香ちゃんは天使みたいないい子でした」。ついに風浦可符香の深層に迫るのである。
![8](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/8/d/8d14596a.gif)
風浦可符香
…オーケー、いったん情報を整理しよう。
・風浦可符香はP.N(ペンネーム)である。
・超ポジティブ少女である
・卒業写真では可符香だけ写っていなかった
・あびるの眼帯が取れたらクラスメイトが可符香に見えた
・鏡には慈愛溢れる表情
・以降は本編から姿を消した
・死んで成仏してない証(羽根)をまとう
・クラナドは風子が可符香に見える(駄目絶対音感)
情報整理おしまい。
むむむむ、なかなか意味深ですね。
一体何者なんですか可符香ちゃんは。
さあ、可符香の正体を知ろうではないか。
以下、ネタバレ全開ですので知りたくない人はディスプレイの変わりに来世でも見てて下さい。
風浦可符香とは何者だったのか?
![9](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/b/a/ba9862dc.gif)
風浦可符香とは?
「風浦可符香という人物は存在しません」
/' ! ━━┓┃┃
-‐'―ニ二二二二ニ>ヽ、 ┃ ━━━━
ァ /,,ィ=-;;,,, , ,,_ ト-、 ) ┃ ┃┃┃
' Y ー==j 〈,,二,゙ ! ) 。 ┛
ゝ. {、 - ,. ヾ "^ } } ゚ 。
) ,. ‘-,,' ≦ 三
ゞ, ∧ヾ ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚
'=-/ ヽ゚ 。≧ 三 ==-
/ |ヽ \-ァ, ≧=- 。
! \ イレ,、 >三 。゚ ・ ゚
| >≦`Vヾ ヾ ≧
〉 ,く 。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
ちょ、ちょっと待って下さい!
風浦可符香なんて存在しないって…!?
確かに
「幻想…共同幻想の一種じゃないんですか」
「閉ざされたコミュニティーで起こりうる、集団催眠のようなもの…」
「伝承や宗教を信じ込むことで脳が見せてしまう天使や妖精や河童といったような幻影。そう、天使のような」
天使といえば絶望先生は確かに見た。
可符香が目の前に存在するのに絶望先生にしか見えなかった天使がいた。「0.001秒の悪魔」(199話)である。
![10](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/e/b/ebcd3a52.gif)
天使
可符香が目の前にいるのに、絶望先生にだけはもう一人の可符香が見えていた。絶望先生の深層心理に潜む0.001秒の天使である。ただのギャグでネタだったのか、何で可符香とまったく同じ姿だったのか。風浦可符香は天使…?
話を本編に戻そう。
刑事は可符香は共同幻想で天使って事でいいじゃないですかという回答に「ふざけるな」と一括。当たり前である。「何の共通の伝承も宗教もない所で何故クラス全員が同じ人物を、同じ幻を見ていたと言えるのか」と読者と同じ疑問を投げかける。
絶命先生は人間の記憶は脳だけでなくあらゆる臓器、血液にまで記憶があるとか不可解な事を。そして新井智恵先生は「記憶転移」というものを説明する。臓器移植に伴いドナーの記憶の一部が受容者に移る事があるんだとか。以前あびるが角膜移植を受けた左目は、前の持ち主をひいた車のナンバーがフラッシュバックすると述べていました。
絶望少女は全員何らかの移植を受けた受容者。
![11](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/5/9/59e26d54.gif)
2-への生徒は受容者
「2ーへだった生徒達は一つ共通点があります」
「彼女達は全員が何らかの移植を受けた受容者であり」
「たった一人のドナーから提供を受けているという点です」
ある者(小節あびる)は角膜を、あるもの(何で木津千里だけ「もの」と平仮名?)は心臓を、ある者(小森霧)は肺をドナーから提供されたなんだって。まあこの辺りはあびるの角膜移植である程度は予想できました。
命を引き継いだ絶望少女達にとっては、ドナー提供者は母のような存在なのです。なるほど、あびるが鏡で見た可符香の眼差しはこれか!
そして可符香の実体も判明。
最初に絶命先生の元に訪れた風浦可符香は常月まとい、別の日に訪れた風浦可符香は木津千里…。どういう事かといえば、受容者たちが代わる代わる交代で風浦可符香を演じていた、もとい出現していたのである。
![12](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/e/3/e327690e.gif)
可符香の正体
「受容者達は他の受容者の中に出現した彼女を風浦可符香と認識していた。一人の人間が複数の人格を有する多重人格とは逆に、一人の人格が複数の人間の中に存在していたんです」
な、なんだってー!
風浦可符香は正確には存在しないけど、1人の少女が絶望少女達に臓器移植した事によって、記憶の共有など一種の共同幻想が起こり受容者の中に風浦可符香が出現し、他の受容者は彼女を風浦可符香と認識する。1人の人格が複数の人間の中に存在している。
しかし凄い。今読み返すと色々と気付かされる。
めるめるが初登場した時(7話)の可符香は上記の絶命先生の説明の通り、確かに腕に包帯を巻いていました。
![14](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/7/a/7affd94b.gif)
7話の可符香
つまり、7話「アンテナ立ちぬ、いざ生きめやも」の時はあびるが可符香だったという。凄い…ビックリ仰天です。2-への絶望少女が1人登場しない時に、その娘が可符香をやっているというのである。
これは…出番が少なく毎週のように加賀愛が登場しなくて絶望していた俺の目からウロコである。つまり、加賀愛が可符香をやっていた可能性もあり、実は登場していたんじゃないかと思うわけである。
そして、核心に迫る。
風浦可符香というものは共有人格である、と。
![13](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/5/b/5bcedf9c.gif)
可符香の正体
共有人格者
PN(パーソナリティー)シェアリング
これが可符香の「P.N」である。
ゾクゾクしました。鳥肌立てながら読んでました。
しかし、改めてアニメのOP見るとビビッとくるね。
原作にポロロッカしたのか、最初からそういう構想でアニメのOP作っていたのか知りませんが。1期OP「人として軸がぶれている(AA)」では、カオスな動画だなぁという印象しかなかったんですけど、最後に可符香が妊娠してるんですよね。
![3](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/c/3/c33f61ab.jpg)
可符香妊娠
これは母のようという意味があったのかは分からないんですけど、この時の歌詞が可符香の台詞で「アタシがいるよ気付いて」なんですよね。なんて意味深なんですか!
2期(俗・)OP「空想ルンバ(AA)」は臓器臓器臓器臓器臓器…というグロテスクな作画が途中で挟まっていました。なんだこの気味の悪いのは、全然ルンバじゃないよ!と、思ったものです。
![4](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/b/3/b38cd7a9.jpg)
ルンバルンバルンバ
臓器臓器臓器のサブミナル効果。
もうどう考えても可符香の臓器にしか見えませんよ!
受容者である絶望少女達がOPでカオスな中にいるのに、可符香だけは入っておらず最後に寂しそうに立っていたのが印象的です。
そしてOVAシリーズ(獄・)2.5期
絶望少女達が可符香に変わる演出がありました。
![5](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/c/3/c3ccfe30.jpg)
絶望少女が可符香に
また「嘘」の顔文字の可符香、いつも首吊ってるのは絶望先生なのに逆に首吊り落下する可符香と助けようとする(?)絶望先生、絶望少女の残骸の上で踊り狂う可符香…と今見ると意味深すぎて唸る。
最高にカッコイイ、最凶にカオスだった3期(懺・)「林檎もぎれビーム!(AA)」では、可符香は地球の上に立ってたり宇宙空間を笑顔で漂っていた。何よりも落下する可符香とそれを助ける絶望先生が印象的でした。
![6](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/2/f/2f8c3a98.jpg)
空から落下する可符香を助ける
どういう意味だろうか。
まあ、アニメは別物であまりアニメを意識するなという気もするけど、落下する可符香を助ける絶望先生というのは何か引っ掛かりますよね。
話を本編に戻そう。
風浦可符香の本名は百閒様なら余裕で予想できたものである。
可符香の本名はドナーカードや図書カードで確認できます。
![15](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/6/0/601a1785.gif)
可符香の本名
赤木杏である。
今の可符香は実在しないかもしれない。
しかし、絶望少女達の過去回想では可符香にソックリな娘が同級生だったり、トラウマを植え付けていたりした。これも共同幻想なのかといえば、否である。だって名前呼ばれてるもん。
![16](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/6/a/6a8544d5.gif)
杏ちゃん
「あらー杏ちゃん、よかったねー」
オーケー!もう一度整理しよう。
・赤木杏は実在していた
・高校入学前に交通事故で他界したのだろう。
・絶望少女達にドナー提供をした
・風浦可符香として絶望少女が演じる
・まだ未練(羽根)があって成仏していない
赤木杏は確かにいた。いや、本当にいるんですよ!オヤシロ様が『い』るように、赤木杏も2-へに『い』るんだよ。けけけけけ。
![17](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/2/3/23c913a0.gif)
赤木杏は実在する!
絶望少女達が代わる代わるでなる風浦可符香ではなく赤木杏としているのである。誰かが風浦可符香役をやってるんじゃありません。「風浦さん」とか「可符香ちゃん」と呼ばれるのでなく、赤木と呼ばれているのである。
絶望少女達が代わる代わりに風浦可符香になる。
「2-へ」に赤木杏がいる。可符香でなく赤木杏。なんという矛盾!
生きる事って最初からクイズ
あなたがこうして現世に存在する理由は
可符香でなく赤木杏がいる条件…
![18](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/5/d/5da2ba58.gif)
「今週の絶望先生は取材のためお休みです」
糸色望不在時である。
ある朝目覚めると風浦カフカは小節あびるになっていた
ある朝目覚めると風浦カフカは木津千里になっていた
ある朝目覚めると風浦カフカは(常月まといになっていた)
ある朝目覚めると風浦カフカは(小森霧になっていた)
ある朝目覚めると風浦カフカは
![19](http://livedoor.blogimg.jp/yamadax0823/imgs/5/4/5446d693.gif)
なっていた。
さよなら風浦カフカ
「出会ってはいけない二人が出会ってしまった」
「出会ってはいけない二つの魂が出会ってしまった」
依り代として首を鍛えている絶望先生
まだ羽根(未練)があって卒業(成仏)していない赤木杏
…もう何も言うまい。
赤木杏に幸あれ!次回最終回!
ついでに言うと、なぜAKBのセンターは年増のブスの指定席なんだ?
しかし、おぎやはぎのこの発言はすごい。名前しか知らないタレントだったが、今後の注目株だ。
(以下引用)
おぎやはぎがラジオでAKB総選挙を痛烈批判!
![](http://blog-imgs-44.fc2.com/n/e/w/news020/Screenshot_1_20120609222551.jpg)
・小木「藤森や庄司と視聴率を予想しあって6%くらいだと思ってた」
・小木「高橋みなみが酷い・・・努力努力うるさいよーwすげー私は努力努力してるって言うんだけどさ・・・普通そういうのって自分で言うもんじゃないよね
あんまり努力努力って言われると引いちゃうんだよw何か選挙のために努力してんのか何の為に努力してるのか分からないしさ
努力アピールをここまでされるとやらしい人間に見える」
・小木「篠田麻里子が怖い・・・潰すつもりできてくださいっていうけど後輩はひよっちゃうよねw
顔も怖いしさー朝ズバのみのもんたみたいな赤鬼の顔みたいだしさw潰すつもりできてくださいって言っても結局ファン投票だしさ関係ねーと思うよそういうのはw
・矢作「キャバクラと同じだなw媚びて太い客を持ったもん勝ち」
・小木「結局AKBはキャバ嬢より安上がりな女たち」
・小木「選挙のシステムも一人一票じゃないとさー何か見てても納得いかないんだよな」
・小木「大島優子は自分に酔ってるね・・・」
もっとやれ
これ正論だな
消されるぞ
計算つくした笑顔に泣き顔に気持ち悪い
これが全てだな
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
AKB総選挙 平均18.7%
社会現象って何かね?
芸も無いし何か貧乏臭いんだよね
「なにがおおおだよ(笑う)」
ラジオ聴いてみたら言ってるけどスポーツ選手とかいちいち努力アピールしないでしょ
http://www.youtube.com/watch?v=vR4EPyV30bc#t=12m30s
小木「凄いアピールしてんだよ努力努力って」
「普通言わなくない?」「普通言わないほうが良いじゃん」
「ちょっと歪んでる」「努力努力いわれるとひいちゃうじゃん」
「努力をいうなよ スーパースターの選手で努力アピールする人なんていないよ」
「なんかいやらしい人間に見える」
「ただ、俺はたかみな好きだからさ」
(矢作爆笑)
「そういうふうに思う人もいるんじゃないか、ってこと」(笑)
批判してなくてワロタw またアンチのぬか喜びww
小木の雑なフォローw
批判というより完全にバカにしてるよね
おまえwww
「おぎやはぎ」に完全騙されてるぞwww
「俺たかみな好きだから」は批判をかわすための「ウソ」だからwww
これはうまいw
>「ただ、俺はたかみな好きだからさ」(矢作爆笑)
「ただ、俺はたかみな好きだからさ」
(矢作爆笑の心打ち)「お前ww心にも無いこと言うなよwwww」
でもホントにこんな事いったのか信じられん
ラジオではホンネヲ言えるよ
長編だが、馬鹿馬鹿しくて面白いので一挙転載する。本当は、これへの読者のコメントまで載せたいところである。そのコメントの中には答えは「たこ焼き」じゃないか、というのがある。まあ、宇宙人=タコ型生物などというのも相当古いので、筆者の盲点になっていたのだろう。で、相手はタコなのだから、大阪人は、相手をまったく恐れず、たこ焼きにして食ってしまったというわけである。
(以下引用)
2009年10月11日
大阪人はいかにして最強の宇宙兵器を倒したのか
先日、レンタル落ちの中古DVDが安く売られていました。
ふと思えば、昔、映画漬けのような生活をしていた時があったのが信じられないほどここ数年は映画を見ていない生活でした。
特に、リーマンショック後のこの1年はもう本当に全然映画なんて見なかったし、見る気にもなりませんでした。
まあ多分、「現実の方が映画より面白い時」は映画になんて興味がいかないのかもしれません。そういう意味では、今はまた「映画の方が面白いかも」という退屈生活だということかもしれませんが。
そんなわけで、その中古DVDのリストを見ていたら、スティーヴン・スピルバーグの「宇宙戦争」(War of the Worlds)が、150円で売られていました。「150円とは、スピルバーグも形無しだな」と思いつつ、それを買ったのでした。これは2005年の公開の時から気にはなっていて、「なんで今頃そんなものリメイクするんだ?」と思ってはいましたが、1953年版の宇宙戦争も好きだったので、いつかは見ようと思っておりました。
宇宙戦争はもともと1800年代の終わりに書かれている古典SFで19世紀末のイギリスを舞台にしたものです。詳しいところはこちらなどに出ていますが、要するに、火星人が地球にやってきて武力で人類に攻撃をしかける話で、その圧倒的な火力の前に人類は為す術なく殺されていきます。
エイリアンが使う兵器はトライポッドと呼ばれる戦闘マシンで、原作では「家より背が高い3本脚の戦闘機械」とされていますが、スピルバーグ版では家どころかビル・・・いや、ドバイの高層ビルより高そうな戦闘マシンで、そこから出る光線も昔はレーザー光線のようなものでしたが、スピルバーグ版では破壊力がアップしていて、光線というより、どうも一種の重力波的な感じの、本当にものすごい破壊力の武器で人間も建物もあらゆるものを破壊していきます。
▲ 最強の宇宙兵器トライポッド。高さは目算で数百メートルはありそうです。
この宇宙戦争は宇宙からきた円盤などにより攻撃されるのではなく、「あらかじめ地球の内部に埋められていた」戦闘兵器が一気に地上に出てくるところから話は始まります。「あらかじめ」というのは何万年も前からのようです。
で、あっという間にアメリカの各地の街は壊滅状態となり、人々の大移動が始まるのですが、その状況の中で様々な噂が飛び交うわけです。ヨーロッパは全滅らしいとか、いろいろな話が出てくるわけですが、途中、唐突に、
「大阪では(この戦闘兵器を)何体か倒したらしいぞ」
(Somehow they killed a few of these things in Osaka. That's what I heard. )
という台詞が出てくるのです。
自分でも理由はよくわからないのですが、この台詞を聞いた瞬間に頭を殴られたような感覚になり、個人的にはリーマンショック以来のショックがついにきたのです。
「大阪ショックかよ!」
と思いつつも、それ以来ずーっとこの言葉が頭にこびりついていて、最近そのことばかり考えています。他のことはあまり考えていません。最近、戦争マニアの友人とこの大阪問題を討論したりしましたが、兵器論の好きな彼からは「なぜか」という答えは導き出されませんでした。
このことに関してはこちらなどには、「これは『ゴジラ』をはじめ怪獣映画を多数製作している日本に、監督のスピルバーグが敬意を表したものである」とありますが、どうもそんな感じではない。
なぜなら、この戦闘マシンの圧倒的な火力と防御力は映画そのものが十分に語っていて、とても簡単にこんな「やっつけたらしい」なんて台詞を入れられるようなシロモノではないからです。映画ではアメリカ陸軍もお手上げの状態ですし、パッと見て、「何人くらいの人間で倒せるだろう」と考えると、たとえば、東京ドームに5万人くらい入るとして、その数を想像してみても、
「あー、だめだめ。5万人では話にならない」
ということが直感的にもわかります。
じゃ、100万人では?
500万人では?
と考えてみると、多分、生身の人間だと(武装していても)何百万人いてもダメではないかという感じがするのです。
人間に倒せる相手ではない。
しかし、大阪では倒せた。
大阪にいるのは人間ではないのだろうか・・・・・。
現在の大阪首都圏の人口は1211万人らしいですが、高齢化の現在ではこの半数以上に戦闘意志がないと見ると、大阪人総出の戦闘能力人口は500万人程度。さて、500万人で、「何体かのこの戦闘マシンを倒せるのか」と思うと疑問視せざるを得ないのです。
どうも・・・大阪人はパワー対パワーで戦闘マシンに勝ったというわけではなさそうだ、という推察が成り立ってきます。
「力 vs 力ではない何かの方法」があったのだ、と思わざるを得ない部分があります。
それは何なのだろう・・・と最近ずっと悩んでいるわけです。
下らないといえば下らない悩みではありますが、これが「日本では・・・」とか「東京では・・・」という台詞ならそんなにこんなことは考えなかったと思うのです。しかし、「大阪では何体か倒したらしいぞ」となると妙に具体的な感じで、お酒を飲みながら映画を観ていたのですが、思わず、
「マジかよ」
と呟いていました。
▲ この台詞を聞いた時の私の顔
その瞬間から「しかし、どうやって・・・」という思いがつきまとって、そのせいで映画の後半はちゃんと見ていないので、全体的にどんな映画かということはあまり覚えていないのですが、上に書いたように、「武力 vs 武力で大阪人がトライポッドを倒した」とはスピルバーグも想定していないと思われます。映画に出てくる戦闘マシンはそんなレベルのものではない。
大阪に何があるのだろう・・・。
私は大阪のことをほとんど知りません。
たこ焼き、ソース2度づけ禁止の串カツ、イカ焼き、赤福、人形浄瑠璃、新喜劇・・・。
これらだけであのトライポッドを倒すのは難しい。
多分これらではない。
Wikipediaを見てみましたら、大阪の特徴として「大阪は商業の町としての性格上、お互いに角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術が発達した。こうしたことが大阪でお笑い文化が花開く素地となったのではないかとされる」とあります。
なるほど、それは知らなかったです。
「かめへん」などの言い回しに代表される、「まあいいじゃないか」的な思想もそのあたりと関係しているかもしれません
この「かめへん」主義は近隣アジアではわりとメジャーな意識で、韓国には「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)、という言葉があり、タイ語では「マイペンライ」(まあいいじゃないの)という言葉があり、どちらも大変にメジャーな言葉です。
話は脱線しますが、今から20年近く前なので、今の韓国とはいろいろと違いますが、初めて韓国のソウルに行った時に、泊まったホテルのベッド横の照明が破損していて、しかも、冬なのにどうも暖房がちゃんと効いていない。
旅行本にあった韓国語で「いろいろと壊れているようなんだけど」と、ホテルのフロントに電話をしたのですが、相手は少し考えてから、
「ケンチャナヨ」(気にすんなよ)
と言ってきました。
この場合は私の方から言う分には角が立たないと思うのですが、向こうから言われるのはどうも変な感じがします。
しかし、私もすぐに、
「アラッソ」(うん、わかった)
と電話を切ったのでした。
考えてみれば、照明が壊れていようと、暖房が壊れていようと、部屋は寝るためだけのもので、別にそんなことはどうでもよかったからです。そして、「部屋は寒いし、すぐ外に行こう」と、ソウルの初めての夜に出て、それはそれは楽しいもので、「ああ、暖房が壊れていてよかったねえ」などと一緒に行った友人と話したりしました。
今でも韓国語は20語程度しか知らないですが、「ケンチャナヨ」はその中でも最初の方に覚えた韓国語です。
大阪の「かめへん」精神は、同じ日本での他の地域の思想よりも、むしろ上の「ケンチャナヨ」や「マイペンライ」の思想性に近いモノを感じます。
となると、武器は、
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
うーん、これだけではあの戦闘マシンは倒せそうもないなあ・・・。
他に何が大阪にあるのだろう。
▲ トライポッドはシールドで防御されていて、陸軍のあらゆる攻撃、空軍のあらゆる攻撃に耐えられます。大阪人はこんなものをどこから攻略したというのか。
カオスの発祥地としての関西
通常の生活をしている分にはまったく関係のない話で恐縮なのですが、大阪というと、娯楽文化ではお笑いなどが挙げられることが多いと思いますが、実は日本と世界のアンダーグラウンド音楽の登場と発展に関しては、大阪や京都は歴史的に非常に重要な役割を担っていました。
特に、ノイズミュージックというジャンルがあって、これはクラシック音楽の実験音楽から発展したものと、パンクなどから発展したものがあり、ここではパンクから発展した方の話ですが、基本的にマニアックなジャンルなので、リスナーの数など全世界でも数千人から数万人かと思われるのですが、そのほとんどは白人文化系の白人と日本の日本人です。
そして、供給側となると、もう圧倒的に日本人の独壇場で、この世界では日本は1970年代から異常といってもいいリスペクトを受けています。「オレたちは日本人のようにはできない」という絶望感を多くのノイズマニアの白人たちは抱いていて、ここまで日本と日本人がリスペクトされているジャンルというのは音楽ではこれだけではないでしょうか。
世界のノイズ四天王というのは、イギリス人のホワイトハウスというのだけが白人で、あとは基本的には日本人です。
秋田昌美 (Merzbow)
非常階段 (Hijokaidan)
山塚アイ (Hanatarash)
山崎マゾ (Masonna)
が四天王といっていい存在で、それぞれリンクは Wikipedia ですので、 Wikipedia に載る程度の存在ではあることはおわかりになるかと思います。それぞれが1970-80年代くらいから活動しているのですが、このジャンルにはこの4名しか世界にはいなかった時代があります。全然関係ないですが、秋田昌美は徹底したヴィーガン(動物肉、魚介類、甲殻類、卵、乳製品、蜂蜜などをすべて食べない過激なベジタリアンで、革製品も絶対に身に付けない)で、日本で初めてそのことに関しての本を書いた人でもあります。
そして、リスナーの多くが白人というイビツな構造。
まあ、この音楽のこと自体はどうでもいいことですので、ここでやめますが、この人たちや、あるいは日本で最初期のパンクバンドの人たちの多くが「関西出身」なのです。特に京都と大阪が異常に多い。上でも秋田昌美だけが東京で、あとは関西です。
「混沌としたものはすべて関西から生まれる」というのは、音楽の世界ではウソではないです。
ちなみに、この音楽の内容自体は通常の方が聞くようなものではないのでアレですが、興味がある場合はYouTubeなどにたくさんあります。日本ではほとんど需要がないので、検索では、上の名前の後ろにつけた英語でなければ出てこないかもしれません。
さて、なんでノイズミュージックなんていう唐突なことを書いたのか。
私が今回の「大阪と火星の問題」でふと思い出したのが、1996年の火星人襲来コメディ映画「マーズ・アタック」。
火星から地球に襲来した無敵の火星人の弱点は、インディアン・ラブ・コール(リンクから聴けます)という古いウエスタンソングでした。それを聴くと、火星人は頭が爆発して死んでしまうのです。
つまり、火星人は特定の音に弱い可能性があるということです。ノイズミュージックを含めて、この「大阪にある音」というものも凶器になった可能性があります。(関西弁がダメだったという可能性も)
▲ 映画「マーズ・アタック」。古いウエスタンソングを聴いていたおばあさんが火星人に襲われそうになった時に、ヘッドホンのジャックががステレオから外れてこの歌が大音量で流れます。その瞬間から火星人たちは次々と死んでいきます。これがキッカケで地球は危機から救われます。つまり、映画ではこのおばあさんが地球を救ったのでした。
そういえば、ちょうどマドモアゼル愛さんの記事で、
モーター音、スピーカーから出る一切の音、あらゆるノイズが消え、自然音のみとなった時、人間の魂にある変化がきっと起こる。私たちを本当に攻撃しているものは、だからノイズなのだ。
という下りがありました。
ノイズには攻撃性が確かにあるようです。
ちなみに、ノイズミュージックの存在意義というのは、上でマドモアゼル愛さんが言っている「私たちを攻撃しているもの」を音によって再現させる試みで、そういう意味では左脳的な音楽と思われやすいのですが、実際には「不快を作り出す」ことに特化している極めて右脳的な音楽ジャンルです。
たとえば、ふだん生活している中では騒音は単に騒音として、あるいは自然の音さえも単なる音として過ぎていき、それを確認したりはしませんが、それをレコードやライブなどで再確認する試みと言えます。
ちなみに、私はいろんな音楽を聴きますが、ノイズミュージックはそういう興味の対象の中のひとつというだけで、いつもノイズを聴いているわけじゃないですよ(笑)。「毎日のBGMがノイズ」というほどには狂ってはおりません(海外にはそういう人もたくさんいるのです)。沖縄民謡もハードコアパンクもヒップホップもフォークソングもノイズミュージックもモダンジャズも私には等しく愛しいものなのであります。
さて、それはともかく、大阪=ノイズミュージックの街。つまり、「ノイズ攻撃」。これが対火星人に使える可能性が出てきています。
ここまでを整理すると(整理するようなこっちゃねーだろ)、大阪にあるボイントは、
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
・ノイズ攻撃
が挙げられます。
しかし、これだけでは最強の宇宙兵器に対してはまだ弱い気もします。
私は北海道で生まれて、東京で大人時代を過ごしています。
大阪や関西の価値観は一番私から遠いもので、それは不思議でもあり、同時に部分的には少しの憧れもあります
外国人たちが体験する大阪ショック
10年くらい前に、アメリカのソニック・ユースというパンクバンドの大御所が日本にライブに来たことがあります。
その後にアメリカの音楽雑誌に彼らのアジアツアーに関してのインタビュー記事があり、リーダーのサーストン・ムーアという人が、日本の、特に「大阪の驚き」ついて嬉々として語り続けていたことがあります。音楽雑誌のインタビューなんだから、ライブはどうだった、とか観客がどうだったとか言うのが普通なのですが、
「大阪はすごい・・・すごすぎる。あんな街が地球上に存在していたなんて・・・。今でもあれがリアルだとは信じられない。みんな異常にハイになっちゃって、結局、朝まで大阪で遊びまくったよ」
と興奮気味に語っていたのを思い出します。
彼らはニューヨーク出身で、そこを中心に活動しているので、都会の夜景なんかにそんなにショックを受けるわけがないと思うのですが、夜の大阪の夜景からものすごいショックを受けたらしいのです、夜の歌舞伎町もある程度のインパクトはあったようですが、大阪のショックはそれを上回っていたようです。
リドリー・スコットの「ブレードランナー」の夜景も日本・・・というより大阪の再現っぽいですし、ブラック・レインという映画では、日本が撮影場所になっているのですが、「 リドリー・スコットは『ブレードランナー』で描かれていたような雑多で猥雑なイメージを日本に求めていたが、実際の日本はかなり清潔な街並みであったために驚いたという」ということだったのだそうです。
▲ 映画「ブレードランナー」に出てくる屋台。やめてケレの左ト全っぽい店の主人は日本語で客に応対します。料理の量は多めらしく、変な食べ物を4つ注文する主人公に対して「2つで十分ですよ」としきりに言っています。
▲ 「ブラックレイン」。大阪の街で暴走族に囲まれるマイケル・ダグラスとアンディ・ガルシア。この15年後にこの大阪で、あのトライポッドが倒されることになります。
外国人には、「変な日本幻想」がある人たちがいるのは確かで、上のサーストン・ムーアのように本当に来てショックを受けるパターンと、リドリー・スコットのように、意識が先行し過ぎて、実際に見てガッカリするパターンとどちらもあるようなのですが、スピルバーグの、
「大阪では何体か倒したらしいぞ」
にはこのどちらかの意識も入っているかとは思います。
しかし、そこは天下のスピルバーグ。無意味であるわけはない。
もしかしたら、スピルバーグは夢か何かでトライポッドを打ち倒すたくましい大阪人の姿を見たのかも知れません。武器はお笑いかノイズかお好み焼きかはわかりませんが、「結局、大阪の一人勝ちかよ」と呟いているスピルバーグの姿が目に浮かびます。(どんな姿だよ)
不思議な日本人
それにしても、日本というのは日本人の私が言うのはヘンですが、不思議な概念に包まれていますね。日本が良いとか悪いとかではなくて、やっばり不思議だよなあと。
ヤスさんが配布して下さっている WebBot の予測には、ふだんはまったく日本のことが出てこないですが、最新のレポートに唐突に日本が出てきます。
日本では古代の日本文化のいわばルネッサンスのようなことが起こり、お辞儀などの伝統的な風習に込められた深いニュアンスや、その象徴的な意味が再認識されるようになる。これは世界に広められる。
とあり、しかも、これらの習慣は世界に伝わっていき、
この日本式礼儀作法とその思想は、今後100世代、2000年にわたって異なった種の間でコミュニケーションが行われるための基本的な方法となる。
とあるのです。
「異なった種の間」というのは人類同士だけではなく、エイリアンとのコミュニケーションも含まれるのだそうで、何とも驚く展開にはなってはいます。
日本式礼儀作法というのは、お辞儀とか、会釈とか、あるいは謙遜とか謙譲とか恥の概念とかそういうものも含まれるかもしれませんが、これらは私は日本人なのでそれらをある程度理解していて、また、大好きですが、多くの外国人にとっては、理解が難しい生活習慣であり、また概念じゃないかとは思うのですね。
これらの日本式礼儀作法の存在意義の根底には、多分、「白黒をはっきりさせない」という「曖昧OK」の部分があって、ここが特に白人文化圏や中国文化圏などとぶつかるような気がするのですよ。
しかしまあ、ここで上の
・角の立たない円滑で穏和なコミュニケーション術
・かめへん主義
というのも思い出したりして、「白黒をはっきりさせない」というのはひとつの処世術なのかもしれないなあ、なんて思います。そのパワーは最終的には「かめへん攻撃」として、最強の宇宙兵器トライポッドを倒してしまい、アメリカ人たちの間で噂になるほどのことになっていったのかもしれません。
まあ・・・一億人の日本人が「また、大阪かよ」と呟いて死んでいく時に1200万人の大阪の人だけは生きていくのかもしれません。
羨ましい気もしますが、まあ、どうでもいいか。
まさに「かめへん」であります。
いずれにしても、私を元気にしてくれたスピルバーグと大阪人に感謝します。
大阪に幸あれ!
私もニュースを見た時に、少し違和感を持ったのだが、すぐにその疑問を忘れてしまっていたのだ。(こういう忘れっぽさが、国民操作に利用されるのだが)
つまり、「通報した人は、なぜ彼女が菊池(菊地?)直子だと分かったのか」という疑問である。私なら、手配書の写真を見て、目の前の人間が同一人物だとは絶対に分からないだろう。
たいていの人の観察力はその程度のものである。ならば、次の問題は、「通報したのは誰か、その人はマスメディアに顔を出すことのできる人間だろうか」ということになる。
つまり、警察はずっと前から、菊池直子がここにいることはつかんでいたのではないか、ということだ。
で、今のタイミングで逮捕したのは、もちろん別の問題から国民の目を逸らすためだろう。
まあ、重罪の逃亡犯が捕まったという事実には変わりはないから、それ自体はいいにしても、この逮捕の状況には何か怪しげなものがある。
(以下引用)
【6月4日】 あれだけの枚数で顔をあちらこちらにさらされてなお17年もの間、正体を隠して逃げ延びて生き抜くことが可能なんだなあこの国は、って思わせてくれた菊地直子容疑者の発見から逮捕へと届く事件。住んでいた場所こそギリギリ感が漂うものの仕事は普通に介護ヘルパーとして働き月々15万円とかを確保していたっていうからよほどの働き者。当然大勢の人と出会い会話もしていただろうけれどもそれでもすぐに誰だって気付かないとしたならいったい、似顔絵とか手配書といったものにどんな意味があるんだろうかって気にもなってくる。痩身になっていて眼鏡もかけて髪型も違えばそうそう同じ人だとは人間気付かないものだろう。
でも逮捕のきっかけは確か通報があったってことで、それとなく似ていたんだろうかそれとも別の事情があったりするんだろうか。去年の終わりに通報したっていう人もいるけれど、痩身ぶりからしたら同一人物とすぐに気付くとは思えないし、それが手配書の横にいて同じ人だと気付いたというからさらにどこか妙な話。そっくりな人をそういえば見たのよあそこにいたのよ警察に教えたけれど取り合ってもらえなかったのよ、ってな具合に話が大きくなってしまったって可能性もあるのかな。残るは1人だけれど、ある意味女性ってことで象徴めいた存在になっていた菊地容疑者の逮捕でまたひとつ、1995年の地下鉄サリン事件が過去へと押し流されたような気もしてる。忘れ去られるにはまだかかるけど。連合赤軍くらいの薄れた記憶になっていくんだろうなああと10年もしたら。
このサイトで映画の話が出るのは珍しいと思うが、この記事の後半、「フルメタル・ジャケット」(完全徹甲弾とでも訳すか。)の話は素晴らしく面白い。
(以下引用)
でも、今回の記事の話はわかりやすい話です。
アポロ11号の月面着陸の話です。
ちなみに、私は「アポロは月には行っていない」というような、いわゆるアポロ陰謀論とかに関しては「どちらでもいい」という人ですので、そういう話とは違う単純に「面白い話」です。
過去記事でも月面着陸に関しては何度かふれたことがあります。
2年くらい前には、
・キューブリックの亡霊: 2001年宇宙の旅とアポロ11号の月面着陸
2010年12月05日
という記事で、2002年にいわゆる「アポロ計画陰謀論」の先駆けとなったフランスのテレビ番組のことをご紹介したことがあります。
内容は記事を読んでいただくとおわかりかと思いますが、そのフランスのテレビ番組の中では、映画監督のスタンリー・キューブリックの 1968年の映画『2001年 宇宙の旅』についてふれられています。
この映画は、アポロ8号が初めて月の裏側を回って写真を撮影する前に作られた映画で、つまり、「まだ人類が誰も月から見た地球の光景を知らなかった時」の映画でした。まして、アポロ11号が実際に月面に着陸して、月の上の様子が実際にわかったのは映画の翌年の1969年でした。
その「誰もまだ月から地球を見たことがない時」に映画で描かれたその様子が下のシーンでした。
![](http://oka-jp.up.seesaa.net/image/lander-moon-earth.jpg)
その後、アポロ8号が撮影した月面から入りこんだ地球の光景の写真は、まさに上の映画のシーンとそっくりだったのです。
しかし、それが、どうして「陰謀論」と結びつくのか私には不思議でした。
私はこれは人間の想像力とむしろ関係あると考えます。
スタンリー・キューブリックの想像力と科学検証ワークなら、この程度のことは十分になし得るだろうことは、他のキューブリックの映画を見ていればわかります。
たとえば、同じキューブリック監督の戦争映画「フルメタル・ジャケット」では、月面の様子どころではない「想像力の結実」が見られます。
架空の完全スナイパーを作り出した想像力
1980年代の映画「フルメタル・ジャケット」のラストのほうでは「ベトナム人少女のスナイパー」が出てきます。彼女は廃墟の物陰から米兵をひとりずつおびき出して正確に射殺していき、主人公の所属する小隊を混乱と恐怖に陥れます。
つまり、この映画の山場の戦闘シーンは「米兵の小隊の十数人 vs ひとりの女の子」という戦いなのでした。普通はこんな戦いはリアリティを持って描くことは難しいです。
しかし、その M16自動小銃を構えて米兵のボディを丁寧に撃ち抜いていくベトナム人少女の姿に、当時の銃器の専門家たちは驚嘆したものです。
「なるほど! こうやればいいのか」と。
当時は(基本的には今でも)実際の戦場で重い自動小銃を携行して撃つのは「男性の軍人」でした。しかも、米軍の彼らは、自動小銃を「オート」(連射のような感じ)でババババッと撃つので、あまり狙う必要がないんです。しかも、体格もあり、腕力もあるので、銃の扱いも簡単です。
ところが、当時のベトナム軍には銃弾は貴重なもので、無駄には撃てない。なので、普通の銃のように「一発ずつ単発で撃つ」ということが求められて、そして、当然、「一発ずつ撃って相手に当てるには高い技術」が必要です。それにはある程度の体格と腕力と、そして射撃力が求められる・・・と考えるのが普通です。
ところが、フルメタル・ジャケットに出てくる少女は、日本でいえば中学生くらいの体重でいえば30キロ代くらいの細い女の子で、その子がほぼノーミスで米兵を次々と倒していく。
「過去記事(この記事の中の張桃芳とシモ・ヘイヘというセクション)」のフィンランドの伝説の射撃手であるシモ・ヘイヘみたいな超人ならともかく、「腕力のない普通の少女」が次々と相手を遠距離から単発射撃で撃つことは大変に難しい(シモ・ヘイヘも極めて背の低い人でしたが)。
しかし、映画では、
・そういう状況での狙撃はどうしたらいいのだろう。
ということが完全に再現されていたのです。
つまり、専門家が見ても、「これならできる」と太鼓判を押した架空の世界が再現されています。
多分、そういう状況(子どもの狙撃兵が単発射撃で正確に相手に当てていく)は、誰も経験したことがないし、方法論もなかったと思います。もちろん、「ひとりずつおびき出して撃つ」というのは、第一次世界大戦から現在まで続く、どんな戦場にでもある普通の戦闘スタイルですが、「中学生くらいの少女」というところがポイント。
いつだったか忘れましたが、米国の射撃協会だったか研究会だったか、どこだかの団体が、「歴代の映画の中で最もリアルな射撃シーン」というのを選んだことがあって、その第1位に選ばれたのが、この「フルメタル・ジャケット」でベトナム人のスナイパー少女を演じた女の子の射撃でした。女優さんの名前は知りません。
![vietnam.jpg](http://oka-jp.up.seesaa.net/image/vietnam.jpg)
▲ 映画「フルメタル・ジャケット」より。左に見えるのが銃を構えるベトナム人少女スナイパーの手と銃。これは、廃墟の適度の高さの窓枠を用いた方法と左手での自動小銃の押さえ方で、銃の揺れを最大限まで抑制し、「射撃のミスを少なくするため」の最善の方法のようです。
専門家によれば、この少女の演技の自動小銃の持ち方、構え方、狙い方、すべてが「この状況の中では驚くほど完ぺき」だったとのことです。つまり、おかしな話、アメリカでおびただしく作られた「戦争映画」の中で、「最もきちんと兵士の姿を再現した」のは、たくましきハリウッド役者ではなく、ベトナム人役の少女だったということになります。
![vietnam2.jpg](http://oka-jp.up.seesaa.net/image/vietnam2.jpg)
▲ 主人公の米兵に発見された瞬間のスナイパーの少女。でも、対面では適うわけもなく、主人公に拳銃で射殺される。
そして、この「架空ともいえる光景」を作り出したのは、スタンリー・キューブリックと彼の軍事指導スタッフだったわけで、すべては「実際には経験したことのないことを再現した」という意味では、2001年宇宙の旅の月面の光景と同じでした。
そんなわけで、もし仮に、ホントーにもし仮に、キューブリックが「月面着陸の映像を作ってくれ」と米国政府から頼まれたとしたら、それをできる想像力と検証力がキューブリックにはあったと思いますけれど、でもそんなことがあったとしても、それは「バイト感覚」でやったんじゃないでしょうかねえ。
1960年代の独立系の映画監督はお金がいつも必要だったはずなんですよ。
どんなに有名に見えても。
多分、すぐに画像が消されると思うが、こんなのを見つけた読者もすごい。
「どうな」「っちゃうんでしょうね」を言うときの可符香(字はこんなか? もう今なら「可腑化」としてもいいくらいだ。もちろん「腑」って内臓ね)の顔がすごい。「どうな」つまり「ドナー」ですよ?
しかし、最初から結末がああなることを隠して、よく今まで描いてきたものだ。やはり、これは天才の作品だ。
ついでに言うと、例の押尾事件のずっと前から、「絶望先生」の中では押尾学がいかに人格低劣な人間であるかがほのめかされていた。私は「絶望先生」解析サイトを読んで、押尾学という芸能人が存在することを知っていたので、あの押尾事件が起こって、本当に驚いたものである。
(以下引用)
当たり前に接してる先生が怖い
他にもありそう…
「写真と実物は大違いってことはないだろうな。しかしみんな若いなあ。法律は大丈夫か?」
「いえいえ、そのへんはまあ。1万円で握手もできますよ」
「握手? 馬鹿か! 隣のキャバレーのほうがましだ」
(以下「2ちゃんねる」から転載)
![](http://livedoor.blogimg.jp/rabitsokuhou/imgs/d/a/dafe190f.jpg)