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サッカー音痴のサッカー論
サッカーというゲームがなぜ世界的な支持を受けているのか、理解しがたいが、現在の日本にもサッカーフアンは多いようだ。あのように単調で見づらいスポーツが、なぜ見るスポーツとして成立するのか不思議である。そもそも、どこに誰がいるのかさえ、観客にはほとんど分からないではないか。背番号や基本ポジションだけで、即座にあれは誰、あれは誰と分かるようになるまでは随分と時間がかかりそうだが、昨今のにわかサッカーフアンには、それが分かるのだろうか。プレー内容の理解にしても、たとえばパスが通らなかった場合、それはパスを出した者の責任なのか、受ける者の責任なのか、即座に分かるものだろうか。よく、中田英寿が、パスを受ける人間の限界ぎりぎりのパスを出すというが、それは誉めるべきことなのだろうか。それによって、味方のチャンスを潰すことの方が多いとすれば、それは単に「他人に厳しく自分に甘い」だけのプレーなのではないか。そうした様々なことで分からないことが多すぎるが、それでも私は考えるのが趣味だから、ここで無謀にも、自分がまったく知らないサッカーについて考察してみることにする。
とりあえず、サッカーのポジションはフォワード、ミッドフィルダー、ディフェンダー、ゴールキーパーの4種類とする。最近の、わけのわからない細分化したポジションは措いておく。私の記憶が確かなら、サッカーをやる人数は11人であった。プロの試合でもそれは同じだろう。予備メンバーとの途中交替が認められているようだが、それは何人までなのかは分からない。もしも交替なしでフル出場するなら、90分を動き回らねばならないわけで、これは野球などとは比較にならないスタミナが必要だろう。とはいえ、その90分の中での全力疾走は、大体、10メートルから50メートルくらいの距離での走りを間歇的に何十回か行うことになると思われる。その間は、軽いジョギング程度の走りだろう。1回の試合で、フルマラソンくらいのスタミナ消耗があるとは考えにくい。とはいえ、長時間走れ、ダッシュ力もあることがサッカー選手の第一条件ではありそうだ。ボールを正確に、力強く蹴る技術はそれに次ぐだろう。
(調べてみると、メンバー交代については、世界的な大会では大体、1試合3人までのようである。つまり、基本的には、ほとんどの選手は1試合にフル出場するものと考えて良いようだ。したがって、監督の采配とか交代ミスを云々するのは、あまり意味がない。そもそも、監督の指示に従って動いたところで、試合は生き物なのだから、選手が自己判断しなければゲームにはならないだろう。ジーコがワールドカップの日本代表選手に自主性を求めたこと自体はまったく正しいのであり、ただ選手がそのレベルではなかったというだけのことだ。このチームのチームレベルについては中田英寿も前々から不安を語っていたはずだ。そもそも、どんなスポーツでも、試合は選手がするものであり、監督の役割は選手を養成することが中心なのである。日本人はスポーツにおける監督の役割をあまりに重視しすぎる。だから長島ジャパン、王ジャパン、ジーコジャパンなどという、選手にとって侮辱的なネーミングをするのである。)
とりあえず、個々の選手が標準的な体力と技能を持っていると仮定して、サッカーにおいてどのような戦術が有効かをこれから考察してみよう。
その前に考えてみたいが、メキシコ五輪で日本のサッカーチームが3位に入ったのが、これまでの国際大会での最高の成績だと思うが、日本のサッカーはあれから少しも進歩していないのだろうか。もちろん、そんなはずは無いのであり、当時の日本のサッカーはいわば原始時代のサッカーであり、現在のサッカー選手は、当時とは比べ物にならない高度な技能と知識を持っているはずだ。では、世界のサッカー自体が進化して、日本との格差がいっそう広がったのか。それも信じがたい。集団スポーツの中でもサッカーという、球を蹴るだけの単純なスポーツが、戦略や練習方法などの進化でそう大きく変わるはずはない。違いがあるとすれば、サッカー自体の世界的な広がりによって、世界中のあらゆる国がサッカーというスポーツに参加するようになり、才能ある選手がサッカーというスポーツに集まるようになったということだろう。大相撲の世界に外人力士が加わるようになったら、日本人力士が活躍できなくなったのと同じことで、日本人という人種自体が、体力や運動神経の点で余り優れた人種ではない、ということなのではないか。(イチローや野茂、佐々木といった一部の天才はいるにはいるが、それは日本でも天才だったから大リーグでも活躍できただけのことだ。ここでは全体としての能力水準の話をしているのである。)
野球などは、団体競技でありながら、個人競技の面が大きい。たとえばバッターとピッチャーはある意味では1対1の対決をしているのである。野手は、自分のところに来たボールに対して、それをいかに処理するかの技能を見せるのであり、一つ一つのプレーは実は個人競技なのである。ところが、サッカーはまったくの団体競技である。基本的に、ボールが前線に出てこない限り、フォワードの仕事は無い。フォワードが働いているかぎり、ディフェンダーやゴールキーパーの仕事は無い。ディフェンダーが守り、フォワードが攻めるという仕事が有機的につながることで、いい試合ができるわけだが、ではいかにすれば上手く守り、上手く攻めることができるのだろうか。
ここで比喩を使うなら、野球が1対1の決闘であるのに対し、サッカーとは戦場での戦闘のようなものだ、と考えられる。つまり、集団対集団の戦闘だ。その戦闘において有効な戦闘方法はあるか。それはある。誰でも思いつくように、個々の戦闘を1対多数にすることである。つまり、常に、相手より多数の人数で闘うことだ。人間の目は前を見ることしかできないのだから、後ろから襲い掛かられれば、簡単にやられてしまう。敵が二人とも前にいたとしても、同時に二人の敵を相手にするのは容易ではない。逆に、こちらが常に多数の立場で戦うようにすることはできないか。これが第一の考えだが、その考察は後に回そう。(逆に、「宮本武蔵」では、1対多数の戦いを、1対1の戦いの連続に変えることで一条寺下り松の戦いに勝ったとなっている。)
第二の考えは、ゴールを守るのに何人が必要か、という問題から来る。もしも、11人全員がゴールの前で守ったら、相手の攻撃を完全に防げるというのなら、そうすればいい。それなら、少なくとも全試合を引き分けにできるし、サッカーでは引き分けでも勝ち点があるのである。もしも、7人くらいで完全に守れるなら、残り4人で攻撃をし、たまには点を取ることも可能だろう。そもそも、ミッドフィルダーとは何の存在意義があるのか。それは攻撃でも守備でもない中途半端な存在であるのに、現在のサッカーではミッドフィルダーを5人にも6人にもする傾向がある。そうすれば、何となく臨機応変に、攻撃にも守備にも移行できるという気がするからだろう。ところが、実際には、攻撃にも参加できず、守備にも参加できていないのである。ここで、守備とは、ゴールに打ち込まれるボールを止めるという働きのことだ。ミッドフィルダーがグラウンドの真ん中辺でうろうろしている間に、相手がシュートを決めるというのでは、ミッドフィルダーの存在意義などない。私の考える新しい戦術は、まずミッドフィルダーというヌエ的存在の存在意義を否定することから始めたい。
これまでの日本のサッカーでは、全員がまんべんなくグラウンドを走り回って疲れ果て、やがて体力にまさる相手チームに得点されていくというパターンが多かった。それはサッカーとは走り回るスポーツであり、献身的に走っていれば報われるだろうと何となく思っていたからである。残念ながら、サッカーにはそんな優しい神様はいない。私の考えるサッカーは、「走らないサッカー」である。つまり、キックとヘディングのみで試合を行い、ドリブルをほとんど使わないだけでなく、それぞれの担当ゾーンからほとんど動くことさえないサッカーである。それで勝つことは果たして可能か。(これは、究極のゾーンディフェンスということになるかもしれない。)
選手適性を考えたポジションを与えることで、この戦術はより有効になる。
フォワードは、何よりも点を取る意志を持った野獣、ストライカー、点取り屋でなければならない。今回のワールドカップで見せた柳沢や高原の姿は、彼らがけっしてストライカーでは無いことを示している。(柳沢は、ボールに触る機会が多かったところから見て、センスのある選手だと思われるが、ゴールへの意欲がゼロでは、彼をフォワードに置くこと自体が大間違いである。高原に至っては、ほとんどボールに触ることさえできなかったのではないか。)
点取り屋としてのストライカーは、チームに二人いればいい。その二人に中央付近からボールを回す、「ボール取り屋兼パッサー」が二人。柳沢などはフォワードよりもこれに最適だろう。残りはすべてディフェンダーでいいのではないか。もちろん、この場合、試合の大半の時間、ボールは相手チームに支配されることになるだろう。だが、相手がいかにシュートを打とうとも、それを確実にディフェンスできるなら、何も問題は無いのである。シュート本数は、相手とこちらが5対1でも10対1でもいい。そして、最終的なゴール数がたとえゼロでもいいのである。しかし、相手にもゴールを許さないこと。これは不可能なのだろうか。ゴール前に7人の人間がいて、シュートを成功させることは容易なことではないだろう。これまでの日本サッカーでは、相手に攻められている場合に、ミッドフィルダーの多くが遊休状態であったのではないか。
しかし、ここで皮肉なことを言えば、味方ゴールの前で守る味方の体というのは、実はキーパーにとってある意味では邪魔な存在ではないか。つまり、味方の体が壁になって、敵のシュートが見えなくなるのではないか、ということだ。もしそうだとすれば、ゴール前の守備は、キーパー以外にはあと二人くらいもいれば十分かもしれない。少なくとも、キーパーの視界を遮るほど近くには、あまり味方がいないほうがいいのかもしれない。ゴールキーパーを中心にして、ゴールの両サイドを守る形で2名、さらに、その前方に、敵の突進を止める役目の守備が4名から5名という形がベストではないだろうか。つまり、ミッドフィルダーのほとんどを自軍ゴール近くに最初から最後まで張り付かせるという陣形である。そのミッドフィルダーは、もしも敵のボールを奪えたなら、とにかくできるだけ遠く、敵ゴール方向へ蹴り出せばそれでいい。そのボールが再び敵に渡ってもべつにかまわないのである。とにかく、この戦術では、ゲーム時間の八、九割は敵の攻撃になるのは覚悟の上である。味方の攻撃チャンスは少ないのも覚悟の上。しかし、相手がいくら攻撃しても、それがゴールにさえならなければいいのである。
この戦術では、ドリブルの技能などはほとんど不要である。そもそも、ドリブルなど無用の技術である。ドリブルしてボールを運ぶスピードと、蹴ってボールを運ぶスピードとでは比べ物にならないはずだ。ならば、守りから攻めへ一瞬で転換するにはキックに勝るものはない。自軍ゴール近くから20メートル乃至30メートルほど前方にキックし、それがたまたま自軍選手に渡れば、その選手はさらに敵陣地にいる味方フォワードに向かってそれを蹴る。それがつながれば、その瞬間にシュートである。つまり、相手に攻められていたピンチは、わずか3秒から5秒でゴールチャンスになるのである。こうなると、相手にずっと攻められていたことなど問題にならない。
そして、この戦術は、試合後半になるに従って、どんどん有利になっていく。なぜなら、相手はずっと動き回ってスタミナを消耗しているのに対し、こちらはほとんど走ることをしていないからである。もしもボールが回ってこなければ、フォワードはずっと遊んでいてもいいのである。もちろん、自軍ゴール近くにいる連中は、ディフェンダーとしてボールを止めるだけでもスタミナの消耗はあるが、それは走ることによる消耗とは比べ物にならないだろう。
おそらく、この戦法を取った場合、相手チームはキーパー以外の全員を攻撃に回すだろう。しかし、そこが付け目でもある。その攻撃の際に、もしもこぼれ球をこちらが取ったなら、空っぽの相手陣内にボールを蹴りいれて、そこからほぼ100パーセントの確率でゴールできるのであるから。
この戦術の欠点はただ一つ。相手が同じ戦法を取った場合、膠着状態になることだが、しかし最初から格上相手に、引き分ければ御の字という戦法なのだから、それも問題はない。ブラジルやイングランド、アルゼンチンといった強豪チーム相手に、この戦法で戦ってみるのはどうだろうか。名づけて亀の子作戦である。
あるいは、オフサイドトラップを極端にした作戦はどうだろうか。自軍のディフェンスの最後尾を、ハーフライン近くまで上げれば、相手はそれ以上にゴールに接近できず、ロングシュート以外には得点できないことになる。視界の邪魔になるものが無いのに20メートルものロングシュートを止めきれないキーパーはいないだろう。もしもこれがルール上可能なら、亀の子作戦とは逆に、常に相手陣営で戦うという有利な試合運びになるはずだが、オフサイドというものが良く分からないので、これは最初から無理な作戦なのかもしれない。もしもこれが可能なら、みんながやっているはずだが、なぜやらないのだろうか。あるいは、ボールを持っていればオフサイドラインより相手ゴール近くに入ってもいいのだろうか。調べた限りでは、オフサイドのルールは、攻撃する際に、自分の前に敵側の人間が二人いなければならないとしか読み取れない。とすれば、キーパー以外の人間をずっと前に上げれば、相手の攻撃は実質的に不可能になるはずである。しかし、そうはなっていないのは、オフサイドとは「待ち伏せ禁止」のルールであるということ、つまり、最初からゴール前で待っていて、ボールを「受ける」ことのみを禁止するものであることが誰でもわかっているということなのだろうか。サッカーの試合を見る限りでは、オフサイドの意味はそのようなものだと思えるが、どうもよく分からないルールである。サッカーというスポーツの根底に関わるオフサイドのルールが私には今一つ良く分からない。
おそらく、オフサイドとはあらかじめゴール前(キーパー以外の相手守備の最後尾よりゴール近く)でボールを待つことを禁止する「待ち伏せ禁止」のルールなのだろう。確かにこれがなければサッカーというゲームはバスケットボール並に点が入るスポーツになり、大味なものになるはずだ。そして、オフサイドになるかならないかのすれすれで攻撃しなければならないことが、サッカーのスリルである、とも言える。(今、ウィキペディアで調べたら、オフサイドのルールは、大体、上記の理解でいいようだ。つまり、オフサイドポジションにいる人間にボールをパスしてはいけない、ということである。面白いことに、初期のサッカーでは、ボールを前に蹴ること自体が禁止されていたらしい。つまり、今のラグビーと同じく、後ろへのパスのみによってゲームが行われていたということだ。これは、サッカーでは手を使ってはいけないというのと同じく、[縛り]のルールである。ゲームとは、いかに面白い「縛り」を考案するかなのである。オフサイドもそうした「縛り」なのだ。)
というわけで、オフサイドを利用した新戦術の考察は泡と消えたわけである。まあ、こんなものだ。最初から断っているように、私はサッカーについては無知だから、こういう無駄な考察もある。しかし、無知ゆえの発想というものは無意味ではないだろう。
さて、ゴール前でボールを待ち受けることが不可能なら、戦術面でも大きな変化が出てくる。つまり、キックのみで相手ゴールに接近するだけではなく、ドリブルなどでボールをキープする技術が必要になってくるわけだ。もちろん、私の戦術の基本は変える必要は無い。ただ、ドリブルをゼロの状態から、キックとの比が9対1くらいにするだけだ。とにかく、ドリブルして走る時間と距離は短いほどいいという考えは変わらない。それは、キックとドリブルのスピードの問題だけではなく、ドリブルとは必ず相手に追いつかれるものであるからだ。ボール無しで走るのと、ドリブルしながら走るのとのスピード比は、同じ人間なら10対7から10対6くらいの違いがあるだろう。しかも、ドリブルするということは、ボールが体から1,2メートル離れながらキープされているということであり、その間にボールを奪われるという事態が常に起こる。ドリブルしながらゴールに接近する選手と、それを奪おうとする選手の鬩ぎ会いがサッカーの醍醐味であり、個人プレーの粋と思われているようだが、私にはこれは馬鹿馬鹿しく思われる。相手にボールを奪われる可能性の大きい「危険プレー」が、なぜもてはやされるのか。最初からそうしたプレーを避けることこそが、考えられねばならないはずだ。
もっとも優れたプレーは、ボールを奪った瞬間に、二人乃至三人の間でのキックでボールを中継し、相手ゴールに叩き込むプレーである。もたもたとドリブルし、その間に相手にボールを奪われるプレーなど、最悪のプレーだろう。もちろん、キックはドリブル以上に相手にボールを奪われ易い。味方にうまくパスできるような正確なキックは困難だからだ。しかし、体格と体力に劣る日本人にとって、体と体がぶつかりあうようなボールの奪い合いと、キックの応酬とどちらが有利かは自明のはずだ。もしも、中田やら誰やらが正確なパス能力を持っているなら、なぜそれを生かさないのか。柳沢にはボールを奪う能力があり、中田に正確なパス能力があるなら、この二人を攻撃起点とし、フォワードにボールを送り続ければ、勝機(ゴールチャンス)はあるはずだ。
おそらく、正確なパス能力と、シュート能力は違うのだろう。だからこそ中田をフォワードには使わないのだと思う。では、現在の日本で、誰がシュート能力があるのか。少し前なら、ゴン・中山だっただろう。ゴールへの意欲という点では明らかに他の選手より高いものがあり、実績も持っていた。しかし、今回の高原、柳沢にそれがあっただろうか。この二人をフォワードにした時点で、今回の日本チームは終わっていたと言える。それがジーコの罪と言えば罪だ。しかし、それは現在の日本サッカー界の問題点、つまりたいしたことも無い選手がちやほやされ、国際レベルとの違いも考えずに浮かれていたこと(要するに、マスコミ、ファン、選手たち、サッカー協会の罪)に比べれば小さな罪だ。
海外のクラブチームに所属する日本人選手のほとんどは、一流チームではレギュラーになれていない。その程度の選手たちを集めたのが日本チームであるという事実を直視すれば、どのような戦術が勝つためには必要かというのが見えてくる。それが、先ほどから書いているキック中心主義、防御(ゾーンディフェンス)中心主義のサッカーである。サッカーというスポーツでは、どのような強豪チームでも、相手が完全に守りを固めたら、なかなか点は取れないものだ。ならば、弱小日本がやるべきサッカーは自ずと決まるはずではないか。これまでの夜郎自大の日本サッカーは、自分のレベルを直視することで、新しい世界に入ることが可能なのである。
後で書くと言っておいたことを考察して、この考察全体を終わることにしよう。それは、1対多数の状況を作るということだが、これは相手も常にそう心がけていることだから容易ではない。私の亀の子作戦では、ディフェンスではこちらが多数で、攻撃ではこちらが少数ということになる。その結果は、針谷夕雲の「相抜け」、つまり引き分けである。
(以下引用)前半略。
休めばいいじゃん!
最近はFacebookなどのSNSで、練習試合のマッチングができる。これは本当にあった話なのだが、一昨年12月に「12月28日、活動できるグランドがありません。どなたか試合に呼んでくれないでしょうか!」という、切実さを感じさせる投稿が載っていた。
「おいおい、もう休めよ!」とスマホを見ながら思わずツッコミを入れたのだけれど、この方は冗談でもなんでもなく「試合させたい」「練習させたい」と本気で思って投稿していたわけだ。このケースだけでなく、一年中ずっとあらゆるマッチングサイトでいろいろなチームから「グランドがありません、試合に呼んで下さい!」ばかり。
反発覚悟で言うが「休めばいいじゃん」と思う。どうせいつも、子どもたちの週末をサッカーで潰してるんでしょ。グランドがないなら好都合、たまには休めばいい。そうしたら子どもたち、勝手に自分達で時間をコーディネートしますよ。普段のサッカーで息が詰まっている子は、家族でどこかに出かけるかもしれないし、遊びに夢中になるかもしれない。「もっとサッカーしたいよ!」という子は、1人でも仲間を誘ってでも、勝手にどこかでサッカーをするもの。
大人が全て管理して、スケジューリングして、教えて、鍛えて……「練習とはそういうもの」という概念から、大人がそろそろ自由になるべきだ。
どうしても週末にスケジュールを組まないと気が済まない指導者は、子どもたちより自分のことを優先しているのではないか。自分の居場所としての「少年サッカー」。その時間がなくなることが耐えられない、そんな人がとても多いのだと思う。これはあくまでも現場で感じる肌感覚でしかないけれど、かなり当たっている確信もある。「子どもたちのため!」と言ってるけど、本当はご自分がやりたいだけじゃないですか? 自分がやりたいからと、半強制的に子どもたちの時間を奪っていませんか。
心の遊び、ゆとりこそが成長を育む
休むことはマイナス、せっかく練習したことを忘れてしまう、錆びついてしまうという不安から、無理にでも練習を組み、時間を長くする……やればやるほど技術も体力もつく、コレができたら次はコレ、その次はコレ…と足し算にとらわれるばかり。
しかし、それは間違い。何かを練習するということは、何かを失うということ。何かを練習すれば、その何か以外のものが付随して上手くなったりするもの。コレができるようになったことで、できていたはずのアレができなくなったり…その繰り返しのサイクルの中で、子どもたちは成長していく。
コレとコレの要素を今一緒に練習に組み込むことによって、双方に爆発的な相乗効果が出るとか、コイツとコイツをペアで組ませて練習すればこういう効果が引き出せるだろうとか、その逆もあるとか……育成とはかけ算であり、たまに引き算、割り算、因数分解の要素もある。「やればいいってものじゃない」というごく簡単なことなのだが、大人のくせにそれを理解していない人が何故こうも多いのだろうと、不思議で仕方ない。
教えたことや練習したことは、全部伝わるわけがない。相手はロボットでもAIでもない、生身の人間なんだから。「教えたぜ……!」と自己満足していることは、半分も伝わっていればいいほう。ほぼ、その半分すら伝わらない。あとは選手それぞれの受け取り方と咀嚼の仕方次第。そこから先に、選手の個性を育む可能性がある。
だから、子どもたちに「もう無理」とか思わせたらいけないです。「もっとやりたい、もっとサッカーしたい!」という心の遊び、ゆとりがあるから、練習後にでも子どもたちは遊ぶ。練習がない日でも、自分たちで勝手に遊ぶ。その時間を残すことこそが大人の最大の役目だと、僕は確信を持って言える。
「週末だけの練習じゃ足りないから、あの子が行ってるから…」と、平日にあらゆる「スクール」に通わせる親も同様だ。「うちの子は週6でサッカーやってます」とか平気でいるからね。週末でも平日でも、子どもたちをサッカー漬けにして、サッカー以外のものに触れる機会を奪っている大人たち。
子どもの頃からサッカーしかして来なかった、なんてほぼ悲劇だ。サッカー以外にも楽しいスポーツはたくさんある。スポーツだけじゃなく、音楽や美術など他の芸術に触れる機会を、一番感受性が豊かなこの時期に奪ってしまうのは実にもったいない。旅行にだって、行けるならたくさん行ったほうがいい。
どうしても日本では「何かひとつに打ち込むことが美徳」のような風潮がある。「二兎を追う者は一兎をも得ず」なんて言葉もあるが、そんなのは二兎を追う意思すらなかったやつの言い訳だ。二兎を追うための時間のデザインの仕方が拙いだけ。サッカーだけが唯一の価値ではなく、他にも素晴らしいものがたくさんあること、そしてサッカーよりも大切なことが世の中にはたくさんあるんだよということを教えるのも指導者の重要な役割であり、親も含めた、大人全ての重責だと思う。
女の子と遊んだっていいし、社会活動に参加したっていい
「サッカーは自由なスポーツや。それを理解できないのなら、選手に伝えられないのなら、指導者失格やで」と、尊敬する方に言われたことがある。
自由の意味を伝えるのなら、まずはその本人が自由でなくてはならない。時間をデザインし、自分を、そして人生そのものをコーディネートする。それこそが真の自由だと自分は思う。しかしそんな観点や発想のカケラもない「不自由な」大人が、指導者側の多数を占めているのが育成年代の現状なのだと思う。
Time is Life。時間は人生そのものだ。時間の概念を、指導者はもっと大切にすべきだ。時間をどう使うか、どう使わせるよう導けるかを、もっと真剣に考えたほうがいい。時間を費やさせる、時間を共有する(させる)ということは、良くも悪くも、その相手側の人生の一部を奪うこと。大げさに聞こえるかもしれないが、そういうことだ。
スエルテ横浜では、今年からジュニアユース(U-15)カテゴリーも始める。練習は週2回で各日90分、週末は土日どちらかのみの活動とする予定だ。
つまり週4回、サッカーをやらない日がある。そこで何をするか、しないか。それを選手達自身がデザインし、自分をコーディネートしてほしい。塾に行ってもいいし部活をしてもいいし、女の子と遊んだっていいし、こっそり社会活動に参加したっていい。
サッカー以外のものにたくさん触れ、サッカーでお腹も頭も心もいっぱいになっていない状態の選手達が表現するサッカーは、必ずや魅力的なものになる。それぞれが主体的な意思を持つ魅力的な選手達に育ってくれると確信しているし、それを今からとても楽しみにしている。
週末しか練習日がないチームが、1日に4~5時間も練習時間を設定しているのならば、指導者が関与する練習は90分~120分にして、後の時間は全て子どもの自由にすればいい。もっとサッカーしたい子はゲームを始め、自主練したい子は頭の中でメッシやネイマールを思い浮かべながら、黙々とボールを触るかもしれない。
大人はそれを、ゆっくり眺めていればいいじゃないですか。ドッジボールを始める子だっているかもしれないし、用があるから、映画観に行くからと帰る子がいたっていい。それをあっさり許容してあげる懐の大きさを持つこと、それが大切なのだと思う。
テーピングまみれの選手を見るのは悲しい。「もう燃え尽きた、サッカーから引退する」と高校生に言わせるのも悲しい。そう言わせてしまう最初のスタートは、間違いなく少年期にあります。ご自分の経験則を捨て、今までの概念も捨て、大人がもっと自由になりましょう。
「行きたくないと駄々をこねることで、仮に他の選手が日ハムに指名されたとしてどんな顔をして送別するつもりだったのか。」
これは、(この事件自体に興味が無かったからだが)私は想像していなかった事態だが、十分以上に有り得た事態であり、その場合、本当に岩瀬はどういう顔でその選手を送り出したのだろうか。
岩瀬がそこまで考えていなかったとしたら、あまりに想像力が欠如している話で、想像していなかったはずはない。要するに、岩瀬の移籍拒否は非常に我儘な、「はた迷惑な行動」だったわけだが、日ハムが穏便に済ませたことで、その迷惑行動の度合いが表面化しなかったということである。岩瀬という人間への評価も私の中では大きく下落した。
なお、二つ目のコメントに書かれた、岩瀬の移籍拒否の理由もかなり納得のいく推測で、おそらく事実はこれに近いだろう。つまり、引退後の生活設計の「損得づく」での移籍拒否だったのではないか。
(以下引用)
- 2018年01月20日 08:56
- 中日にも岩瀬にもがっかりしたし腹が立ったニュースでした。
中日はそこまで出したくない功労者ならプロテクトしとけと思うし、思惑があって外したなら腹をくくって選手を説得しろと思う。「大野君は貰ったが岩瀬は出したくない。なんとかならないかな日ハムさん」とでも泣きついたのだろうか。
岩瀬もそこまで中日が好きならば、脇谷のようにFAまで頑張って胸張って帰ることを目指すべきだった。行きたくないと駄々をこねることで、仮に他の選手が日ハムに指名されたとしてどんな顔をして送別するつもりだったのか。日ハムと言うより、プロテクト外とした中日に腹を立てたのならその怒りは選手として交流戦やオープン戦の中日戦で晴らすべきだったろう。
>選手の権利としてのFAを活発にするためには、プロテクトだの人的補償だのは、ないほうが良いと思う。陰湿で、前向きではないと思う。
本件が契機になるとは思いませんが、同感です。
結果的に活躍の機会につながった場合もあるけれど、「プロテクト外」「補償選手」という立場は選手のプライドを過度に傷つけていると思う。選手会として文句を言って然るべき。
あちらで「このハゲー」などと言ったら、王室侮辱罪になりそうである。チャールズはそれほどハゲていなかったと思うが、ダイアナの家系の遺伝子か。
2018年01月21日 | │コメント(0) | │海外ニュース・世界事情 |
- 1 :風吹けば名無し :2018/01/20(土) 13:44:53.75 ID:QqWdba2x0.net
One's number one cut! William pays £180 for a buzzcut from Kate's hairdresser 'after Prince Harry teased him about his baldness'
http://www.dailymail.co.uk/news/article-5283807/Prince-William-sports-shaven-head-backs-NHS-scheme.html
「カリオストロの城」2大元ネタ、「やぶにらみの暴君」と「大盗賊」。
私が海外ドラマを見ていて可笑しく思うのが、最近は素人までも刑事ドラマ警官ドラマの真似をして、拳銃を両手持ちすることである。両手持ちのメリットは、安全性が高い(暴発時に自分の足を撃ちにくい)ことと、狙いの正確さが高まることだろう。しかし、その反面、両手で保持していたら、狙いを急に変えにくいのは自明である。体全体を撃つ方向に変える必要があるのだから当然だ。つまり、動く相手に対して臨機応変に狙いを変えていくのには片手持ちのほうが有利であることは、理屈だけで考えても分かる。
西部劇で拳銃を両手持ちしている例が希であることからも、「相手が動く」想定では片手持ちが合理的であることは明らかであり、刑事ドラマ警官ドラマで刑事や警官が両手持ちするのは、相手に「動くな」と声をかければ、相手は止まる、という想定の下でのことだと思う。そして、体を少しでも動かせば射殺すればいいのだから、両手持ちで十分、となる。
なお、銃の横撃ちは香港映画などで一時期よく見られたが、これはただのファッションでしかないと思う。二丁拳銃は、左手も右手と同じ精度で使える撃ち手なら、ある程度の意味はあるだろう。
映画での銃の扱いその3(横撃ちと片手撃ちについて)
両方とも、映画だけでなく、漫画などでもよく見る撃ち方ですね。
現実でもやれない技術ではないですが、当たるかどうかと言われれば、もちろん両手でちゃんと持った時に比べれば命中率は格段に落ちます。
片手撃ちは、変に大口径の銃でもない限りは可能です。
あとは自分の筋力と相談、といったところでしょうか。
アサルトライフルを片手で持つにはかなり力が必要ですからね。
サブマシンガンくらいなら、比較的軽量のものもあるので片手撃ちも可能でしょう。
大口径の銃でも、銃自体に重さがあるものは反動も多少緩和され、案外撃てるものもあるかもしれませんね。
ですが、実戦で片手撃ちをする機会は、そう多くはありません
片手で銃を持つということは、それだけ銃の保持が甘くなり、取り落としてしまったりする危険も多くなります。
片手だけで反動を受け止めるので、疲れやすくなり長期戦には向きませんし、しっかりと反動を受け止めることが出来ずに照準が狂ったり、動作不良を起こしてしまう可能性も高くなってしまいます。
と、デメリットは確かにありますが、メリットが無いというわけでもありません。
反対側の手がフリーになるので、ナイフやライトといった道具を持つことができますし、敵の接近を警戒をしながら作業をしなければいけない場合にも有効でしょう。
必ずしもやってはいけない行為というわけではなく、状況次第ではやってもいい行為、ですね。創作の場合は、かっこいいから、なんて理由で使ってももちろんいいと思いますが。
次に、銃を横に向けて撃つやり方ですが、こちらはほとんどメリットがありません。
照準器を使えないというのもありますし、拳銃なら多くは横に倒すと片手撃ちになってしまうんじゃないでしょうか。
照準器を使用しなくても当たりそうな距離で、咄嗟に射撃を行う必要がある場合や、遮蔽物に隠れながら狙わずに撃つ時なんかはやってもいいでしょうが。
映画でこれをするのは、正面から見た時に人物の顔が見えるようにするため、らしいです。
ただ、最近は射撃時のテクニックの1つとして、銃を斜めや横に構えたりするやり方も登場しています。
ですが、これはあくまで戦闘時に有効なテクニックとしてしっかりと作られているものであり、単に銃を横に向けるだけの撃ち方とは訳が違います。
銃を横にする撃ち方というと、馬賊撃ちというものもありますね。
その名の通り馬賊が使った射撃法で、馬上から銃を撃つ為のものですね。
某ステルスゲームで登場したので、案外知っている方も多いのではないでしょうか。
ただ、あのゲームで使用した射撃法は正確には馬賊撃ちではなく、ただの水平方向への流し撃ちなのでやり方を誤解されている方も多いでしょうが。
馬賊撃ちの詳細はこの記事では解説しませんが、もし希望される方がいましたら、感想欄にでも書いていただければ記事を作るなり感想で返信するなりの対応をさせてもらいます。
横撃ちも片手撃ちも、創作上で出すのならば現実以上にメリットはあるのかもしれません。
現実でも必ずしもやってはいけない行為ではないので、そこを気にされている方も大丈夫ですよ。
リアル重視の作品で気を付けるべき点としては、それが必要な状況なのか、持っている人物がちゃんと片手保持でも扱いきれる銃なのか、といったところでしょうか。
特別拘りが無い作品なら、特に気にせず使ってしまってもいいと思いますよ。
キバコの性格が如実に表れている。
真子は内心辟易しているわけだが、うっかり読むと、そういう細かい心理に気づかない読者も多いだろうし、この時点ではキバコが将来ああいう状態になると予想していた人も少ないだろう。しかし、改めて読むと、この4コマの中に将来の芽生えがきちんと描かれているのである。真子とゆりが親友であると知りながら、隣席のゆりを無視して真子にばかり話しかけているというところにキバコの性格の浅さがよく表れている。その点、その状況をはらはらしながら見ているもこっちの方がキバコよりは人間性に敏感な部分があるわけだ。
それが現在、なぜかもこっちを中心に太陽系あるいは星雲が出来ている、という状況につながっているのではないか。
もこっちの良さは何か、というのは案外誰も論じていない部分だが、偶然的部分もあるとはいえ、ネモやゆり、あるいは真子や吉田さん(ヤンキー)までも引き寄せる何かを持っているのは確かであり、それは「うわべだけのつきあいを本質的に嫌う」自尊心の高さのようなものではないか、という気がする。もちろん、クズな部分もたくさんあるのだが、「表面を飾って人間関係を維持する」ことに不快感を持つ人々には好感を持たれるところがあるわけだ。だから、加藤さんのようなスクールカースト上位の生徒でも、案外もこっちに好感を持っているのではないか。
なお、真子は、メンバーの中で一番、今江会長に近い聖人キャラだと思う。ただし、どこか違うのだが、それは多分、今江会長は本能的に行動しても間違わない聖人であるのに対し、真子はまだその域に達していない、というところかと思う。
キバ子はここで気づくしかなかったな
この後地獄編が待っているとはな
では、プロに入るとどうなるか、という予測だが、アマで最高に評価された投手たちがプロに入るのだから、清宮がこれまで対戦したレベル以上の投手にこれからどんどん当たることになる。
早熟で「子供相撲横綱」の清宮が、本物の相撲取りと戦うことになるわけだ。
清宮が最初で自信喪失するか、それとも、強敵の存在に奮起してそこから上昇していくか、その確率は五分五分だと思う。王貞治のホームラン記録を塗り替えたい、という大言壮語から見られるように、清宮は自分の力を過剰に評価している可能性が高い。とすれば、プロ入り後には、思うように打てないことで迷走する可能性のほうがやや高いように思う。
ただ、二流投手を打つのは上手い、ということは、ある程度の数字は残せるだろうという推測もできる。いわゆる「帳尻合わせ」である。
大胆に、かつ無根拠に予測するなら、順調に成長した場合で
1年目1軍出場40試合60打席くらいで15安打、3本塁打
2年目1軍出場70試合100打席くらいで25安打、7本塁打
3年目1軍出場80試合140打席くらいで40安打、12本塁打
といったところではないかと思う。もちろん、高卒すぐの選手としてはなかなかだろうが、一塁やDHの選手の成績としてはとうてい満足できるものではなく、「客呼び」のための存在でしかない。この程度ではチームの足を引っ張るもの、ということになり、上記のような順調な成長をしない場合、4年目くらいからは今の斎藤佑樹のように世間の非難を浴びる存在になるような気がする。ただし、そこを我慢して使えば、筒香くらいの打撃成績を残す選手になれる可能性もあるだろう。その頃まで清宮人気が続いているとはあまり思えないのだが。何しろ、スターは毎年生まれるのだから、一般人は数年前のスターなどほとんど誰も覚えていない。まあ、プロは世間に騒がれなくなってからが本当の勝負である。
(以下引用)
──高校時代の松井秀喜、筒香嘉智、そして清宮を比較したら、誰を一番評価しますか。
小倉 3人を比較したら、松井が一番です。清宮は、まだ本当にいいピッチャーと当たっていないから判断が難しい。まだ筒香のほうがいいピッチャーと対戦していますから。
筒香は横浜高校時代、故障があって、50試合くらいに欠場しています。当時はライトに打球を引っ張れなかったし、センターに打球が飛ぶことが多くて、なかなかホームランにならなかった。ライナー性の打球も多かったしね。もし故障せず、ライトに引っ張ることができていれば、清宮と同じくらいのホームランを打っていたんじゃないかなと思う。筒香と清宮は五分五分かな。
──清宮は大学進学も噂されていますが、高校卒業後、すぐにプロ入りしたほうがいいと思いますか。
小倉 即プロに行かなきゃダメです。技術的な指導が全然違うので、大学に行ったら回り道になります。すぐプロに行ったとしても、一軍に出るようなるにはどうしても時間がかかります。中田翔(北海道日本ハムファイターズ)もそうだったけど、プロ野球はそんなに甘いもんじゃないですから。
小倉清一郎(おぐら きよいちろう)
1944年、神奈川県横浜市生まれ。77年から横浜高校野球部監督、78年から横浜商業コーチ。90年から2014年まで、横浜高校のコーチ、部長を歴任。独自のメソッドと徹底した分析力で松坂大輔、涌井秀章、筒香嘉智らを育てた。甲子園出場春夏通算32回、うち優勝3回。著書に『参謀の甲子園 横浜高校 常勝の「虎の巻」』(講談社+α文庫)など。
野球なら左サイドスロー、相撲なら左上手投げか左下手投げ。豪快なフォームである。なお、野口英世は私生活の不品行ぶりが広く知られるようになったが、今でも小学生向け偉人伝では扱われているのだろうか。黄熱病の業績も怪しいものだ、という話もあった気がする。
子供のころの本で読んだ、野口英世の「てんぼう(手が開かない。手が棒である)」といういじめニックネームは今でも覚えている。
不具を克服して偉大な業績を上げた例としては、広島で被爆して手が不自由でありながら最多安打記録を打ち立てた張本の方が上だろうが、彼は在日韓国人のため、あまり広く言及されない。
それでもあえて岩瀬を擁護しますと、ドラゴンズは生え抜き最重視の
球団で、他球団の禄を食んだら現役引退後の待遇が悪化する
可能性がある。引退後もドラゴンズの伝手でコーチなり解説者なりの
仕事をするつもりでしょうから、数年の現役延長の為に待遇を
悪化させることは出来ない。出されるくらいならここで辞めたほうが
徳……ってことじゃないでしょうか。引退後を考えざるを得ない
年齢ですからねぇ。
岩瀬がドラゴンズを再建したいと思っているなら、この移籍は
受け入れるべきです。ファイターズの空気を知ることは、
ドラゴンズの淀んだ空気を打破する上で必ずプラスになる。
ただ、ドラゴンズのフロントには「絶対に呼び戻すから
ファイターズで勉強してきてくれ。それは君にとっても
ドラゴンズにとってもプラスになる」と説得できる人が
いないんでしょうな。いないから今みたいになってるわけで。