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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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SNS上の流行語は一度流行ると後は何の説明もなしに使われるので、「言ったもん勝ち」「知っているオレは偉い。知らない連中はSNSの下層階級」の汚い世界になる。
私はテレビが接続されていないのでプロ野球を見る機会もないが、下の記事を読むかぎりでは広島の野球はまったく立派なもので、「ゴキブリ呼ばわり」されるようなものではない。むしろそうした悪口を言う連中のほうが「ゴキブリ以下」だろう。まあ、どういうのがゴキブリ以下かは知らんが。ウジ虫? SNSの糞溜めサイトの中で喜々としてうごめいている。

(以下引用)

2025-04-19 07:09:02
ゴキブリ野球
テーマ:ブログ
かねてからSNS上では、広島カープの本拠地・MAZDA Zoom-Zoomスタジアムのことを「欠陥球場」と揶揄する向きがあるようです。

なんかこれは、エラーによる敗戦のことを、エラーをあたかも球場のせいにして、ズムスタを「欠陥球場」と呼んでいるからなのですが。

すると今度は、カープの野球スタイルを「ゴキブリ野球」と揶揄する輩が出てきました。

かつて1950年代に、カープ球団が資金難に陥った際に、フマキラーの資金援助を受けたという経緯から、カープ独特のスモールベースボールのことをあたかもゴキブリみたいだとのことで、「ゴキブリ野球」という蔑称が生まれたみたいです。

もっとも私は、こういった機動力野球は大好きなので、まぁ欠陥球場とかゴキブリ野球とか、言いたい奴には言わせておけ、ってところでしょうか。
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下に引用する文章を、まず虚心坦懐に読んで、正直にどう思ったか、自己確認したうえで、その後に書く私の感想を読んでみるべし。まあ、そちらは読まなくてもいいが、とにかく、どういう感想を持ったかだ。

(以下引用)

 事実は小説よりも奇なりと言うけれど、実際にはどっちもどっちだ。どっちもどっちだが、作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。状況の設定やプロットの配分によって、その気になればどんな「奇」も扱える。
 ただ小説は読んでもらうものだから、読み手を誘導しつづけられないかぎり、破綻する。「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。この「偶」を文章にするのは、やや技がいる。「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。とりわけ登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。



(以上引用)




引用文は松岡正剛の「千夜千冊」の記事の冒頭の一節だが、その文章の非論理性に呆れるのは私だけだろうか。いや、私は未読の本を概要だけでも知りたい時に、「千夜千冊」サイトを利用したことはあるし、便益を得たこともある。だが、この文章はあまりにひどい。
まず、当人は作家(小説家)ではなく、何か小説を書いた人だとは聞いたこともないのに、なぜ

1:作家が「奇」を衒う小説をつくるのはそれほど難しくない。

と断言できるのか。滅茶苦茶を書いて「小説」になることはありえないのである。それは小説ではなく、文章の落書きだろう。下手な小説でも、一応小説として読めるのを書くのは頭と根気が要るのである。

2:「奇」の反対は「偶」である。人の世は「奇」の連続ではなくて「偶」にたゆたっている。

頭がおかしいのではないか。「奇」の反対が「偶」であるのは数学、いや算数の話であり、人の世が「偶」にたゆたっているはずもない。人の世の話なら「奇」の反対は「平凡」「日常茶飯事」だろう。

3:「偶」は「遇」でもあったから、だらだらは書けない。

「偶は遇でもある」は駄洒落以下である。そしてなぜ「遇」であるならだらだらとは書けないのか。

4:登場人物の「偶」を描写しつづけるには技がいる。

登場人物の「偶」とは何か。意味不明である。

なお、この引用した文章はフローベールの「ボヴァリー夫人」を解説・評論した記事の冒頭である。このふたつの段落が、どのように「ボヴァリー夫人」と結びつくのか、と興味を持った人がいるなら、この部分は「成功した」と言えるだろうが、それより先に、解説者(松岡正剛)の頭を疑う私のような人間は、単なるひねくれ者か?

なお、松岡氏は最近亡くなったばかりだが、死んだ人間だからといって批判してはいけないということもないだろう。

なお、小林秀雄の文章の非論理性を言う人が最近増えている(例の林先生など。)かと思うし、私も昔はそう思っていたが、あれは「非論理的」であるというより、「詩人的直観」で問題のポイント(結論)を断定的に言って、説明をしないだけである。当たり前の話で、詩人的直観は論理とは別物だから説明は不可能だ。

上記に引用した松岡の文章は詩人的直観ではなく、「単なるその場の思い付きの垂れ流し」である。つまり、私の文章のようなもので、「商品」にできるものではない。
私の翻訳はここ(その19)で終わりである。まあ、もともと後半部が切り取られた本を訳すというアホな作業ではあるが、その第一章すら完走できなかった怠け者ぶりだ。

だが、まあ、一種の娯楽にはなった。私にとっては考えるという作業は娯楽なので、熱意が無くなればやる意味もない。


(以下自己引用)


Wild Magic 第一章その19 2016/05/01 (Sun)

「それなら、分かった。でも、これだけは覚えておいて。あんたに上品な格好をさせ、きちんと身支度させるのは私の務めだってね。私は他人からけちん坊だと言われたくはないからね」
ダイネは彼女が注文して食べた料理の多さを思い出した。「私に変なところがあったら、そう言ってください。直しますから」
オヌアはくつくつ笑った。「十分いいよ」
戻ってくるとクミールは馬囲いの外の寝台の支度をした。(注:寝台を「上げた」とあるが、意味不明。)「もう寝たほうがいい」彼女は忠告した。「明日の夜明けの1時間前には出発するからね」
ダイネは携帯寝具を横たえ、のたくるようにその中に潜り込み、覆いの毛布の下で、ゆるいドレス以外は全部脱いだ。「オヌア?」
女はすでに眠りかかっていた。「うん?」
「ありがとう」

(原文ではここで1行空き。つまり、意味段落の切れ目である。このシーンの終わり、ということ。)


これも私の別ブログから転載。

(以下自己引用)

創造も思考も「一歩ずつ進め」が原則 2018/12/16 (Sun)

創作に限らず、私の場合は思考そのものが、前の思考に引きずられて後の思考が出てくる。
頭の中だけで考えると、必ず堂々巡りになるので、文章化すると前に進める。
つまり、文章化すると、思考の現在の立地点が視覚化され、その部分を見直すことで思考の先、あるいは別の進路の可能性が頭の中に浮かんでくる
私の別ブログから転載。

(以下自己引用)

女性曰く「秒速5センチメートルの遅さで恋愛などできるか!!」 www 2022/11/28 (Mon)

このスレッドは恋愛についての男と女の違いが良く出ていると思う。男は「純愛主義」であり、女は「現実主義」だということである。これは「恋愛賞味期限の違い」から来ている。女は自分の賞味期限が短いことを熟知しているから、男がうじうじしているのが我慢できないわけだ。男はそれについての想像力が無いから、うじうじしながら恋愛感情を自分の中で転がし続ける。それ自体が趣味的なものですらある。女が陽キャラが好きだというのは、話が早いからだろう。試しに寝てみて、駄目なら別れて次を探す。そうでないと、あっという間に賞味期限切れになる。そうなると、「女は処女でないといけない。恋愛に純粋でないといけない」などと言う男は興味の対象外になるわけだ。


2021年11月29日15:39
彼「秒速5センチメートルというアニメ作品を見て欲しい」→見たあとに「主人公に共感できなかった」と感想を言ったら「女ってそうだよね」とため息つかれた
カテゴリ愚痴
コメント(4)

pose_yareyare_man
561: 恋人は名無しさん 2018/12/23(日) 14:48:53.86 ID:g5wqcJTD0.net
秒速5センチメートルというアニメ作品を見て欲しいと言われたから見たんだけど
主人公に共感できなかったと言ったらら女ってそうだよねとため息つかれた
クリスマス前にこんなことで険悪になるの本当に馬鹿らしいから頼まれても見なきゃ良かった

Wild Magic 第一章その17 2016/04/30 (Sat)

「ふむ、あんたの方は彼女を赦免するかい、陛下?」女はタホイに言った。(注:ここの英文は意味不明だが、こう訳しておく。何かのユーモアなのだろうが、ユーモアになっているのかどうか。)「私は、あんたの代わりに働く、働き者を探したほうがよさそうだね。あんたの新しい友達は私と一緒に来るんだよ。見張ってな!」彼女はダイネを囲いから連れ出した。(注:ここでのオヌアの言葉も原文は意味不明だが、とりあえずの訳。まあ、もともと辞書すら引かずに、意訳し、超訳する予定だったのだが、辞書を引いても意味不明の原文が多くなってきたwww)


Wild Magic 第一章その18 2016/04/30 (Sat)

広場にごたごた立っている料理屋のテントの一つでオヌアは二人のためにたっぷりとした食事を注文した。食事の後、ふたりはその辺を探索した。しばらくするとダイネの目は目を凝らすことに疲れてきた。貧しい山村から来て、彼女は目を向けるたびにあらゆる所にあまりにも多くの物が見られることが信じられなかった。
「直しておくものは無いかい」彼女の新しい雇い主は尋ねた。彼女の目は皮製品の店の陳列棚の上のブーツを見ていた。
「大丈夫です」ダイネは答えた。クミールの疑うような眼差しに出遭って、彼女は強く言った。「本当です。雨があまりに―」彼女は、盗賊たちの攻撃を受けたのが他人の農場だったかのように見えるように言おうとして、言葉を飲み込んだ。「雨があまりに多くて火を焚くのが大変なんで、道具はたくさん持ち出したんです。衣類やブーツや寝袋や。本当に何も要りません」(注:ここの原文はまったく意味不明。この作者は、「含蓄のある」表現が好みらしい。翻訳者泣かせである。だんだん、訳すのが面倒になってきた。)女の緑灰色の目にまだ疑いの色があるのを見て、彼女は手を上げた。「女神さまに誓います」






「存じる」は使用法の難しい言葉で、「自分自身の行為」の場合は「あなたのことは私も存じ上げております」のように使う、「存じ上げる」が普通で、「他人の行為」の場合は「上げる」を省いて「これ、ご存じですか? それともご存じない?」のように使うかと思う。
下のツィート(Xでの発言をXと言うわけにはいかないだろう。まったく、マスクは余計な問題を起こしたものだ。)は、おそらく「存じ上げる」という言葉をご存じないのだろう。しかし、無理に変な敬語を使わないで「知っていない、知らない」と言えばいいのである。

(以下引用)

神山 翼@お茶大・気象学
@kohyama_met
僕も専門ではないので古い文献しか存じないのですが、通常Kanter (1977)を根拠に35%、あるいは保守的に見積もって3割を目標設定にすることが多いと思います。 x.com/ktydrcb/status…

私もヒトラーの絵は上手いと思う。まあ、それ以上に上手い人が美大にうかるのかもしれないが、美大出の現代画家で、(たぶん美大に行っていない)ゴッホのような個性的な絵が描けた人がいるだろうか。それ以前に彼らは「美しい」絵を描いたことがあるだろうか。あるなら、それがなぜ、ネットなどで紹介された事例がほぼゼロなのか。

(以下引用)

ヒトラーの絵であることを隠して「美大に落ちたワイの絵を見て」って、ヒトラーの絵をアップしてる人がいた。

反応は、上手いじゃん、この上手さで美大に落ちるのかみたいな感じで高評価。

で、ヒトラーの絵でしたって種明かししたら、どうりで不快感を感じたわけだとか言い出す人がでてきた。

後知恵バイアスってすごいな。

この人の中では、自分は感性が鋭いから、異常者の絵は無意識に見抜けるぜって感じなんだろうな。

Wild Magic 第一章その15 2016/04/28 (Thu)

オヌアはくつくつ笑った。「それは私の母がよく私を脅すのに使った文句だよ。(注:ここまで訳すと、前の部分で「馬肉を使った饅頭」としたのが不適切だとなるので、後で訂正しておく。まあ、もう少し、先まで読んで訳せ、という話だが、それも面倒なので、これまでどおり、読み進めながら同時に訳すことにする。そのほうが面白いし。)さあ、あんたと私の犬のタホイを引き合わせようかね」彼女は指を唇に当て、口笛で二つの短い音を出した。大きな物体が囲いの後ろの壁から飛び出してきて、ポニーたちの間を、その蹄(注:hoovesが辞書に無いのでこう訳しておく。)や歯を、やすやすとかわしながらやってきた。柵の上を軽々と飛び越え、オヌアの足に体をこすりつける。自分の主人の尻までと同じくらいの高さで、灰色の巻き毛で包まれている。
「ポニーとほとんど同じくらい大きいのね」ダイネは掌を広げて差し出した。犬は機嫌悪そうに唸り声をあげ、彼女の指をwarily嗅いだ。

(注:辞書に無い単語が時々出てくるが、最終的には飛ばして訳すにしても、とりあえず、なるべく形跡だけ残すようにしておく。)


Wild Magic 第一章その16 2016/04/29 (Fri)

「タホイというのはクミールの言葉で牡牛の意味さ。気をつけな、そいつは主人以外には危険だから……」オヌアは言いかけて黙った。タホイの羽毛のような尻尾が振られていた。戦士のような、彼女の番犬が、機嫌のいい子犬のようになって、ダイネの掌をなめ、立ち上がって彼女の顔を嗅いだ。「そいつは番犬だと思われていたんだけどねえ」オヌアは眉をひそめた。「愛玩犬なんかじゃなくて。すべての人間を自分の友達と思うようなね」
「彼を責めないでください」ダイネは顔を上げて、弁解するように言った。彼女の指はタホイの掻いて貰いたいところを掻いていて、犬の尾は嬉しげに地面を叩いている。「動物たちは私が好きになるんです。それだけです」

漫画家小島アジ子氏の名言である。まさに、言いえて妙。
常に「この結論(決定)は、それが正解という意味ではなく、単に当座の解決である」という意識を持つべきだろう。

(以下引用)

考え続けて問い続けることに意味があり、結論を出してしまえばそれがどういう結論であれ、その問題に対する思考停止であり、思考停止は、差別や人権問題の解決に対しての敗北である
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