宮崎駿監督「一話ですが……。僕はもう、一話を見た途端、首を吊ろうかと思った」
「ラナってのはね、コナンが一目見た途端に、 一生この女のために頑張るぞというくらいの美少女でなければならないと (僕は) 思い込んでるのに、すごいブスラナが出て来ましてね」#未来少年コナン
ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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まあ、若い男にとって筋肉は服以前の問題だし、男が筋肉ゼロでどんな洒落た服を着ても無意味だろう。だが、所詮はナルシズムである。女から見れば男のナルシストほど嫌いなものは無いと思う。つまり、それは「女に興味がない」「女にサービスする気がない」ということなのだから、観賞用美形として以外の価値は無いわけだ。
なお、下の写真は「筋トレの筋肉は使用価値が無いから威嚇にしか使えないでしょ」という揶揄だろうが、実に的を射ていると思う。
ただし、筋肉量は打撃力に関係はある。つまり、デブが強いのと同じだ。「力=重さ×速さ」だから、デブや筋肉達磨は力はあるはずだ。ただし、筋トレで作った筋肉には速さが絶望的に無いと思う。中量級までのボクサーの腕には無駄な筋肉が無い。重量級になると重さもパワーになり、速さの要素の重要性が薄れるから筋肉達磨やデブボクサーも出てくる。
なお、下の写真は「筋トレの筋肉は使用価値が無いから威嚇にしか使えないでしょ」という揶揄だろうが、実に的を射ていると思う。
ただし、筋肉量は打撃力に関係はある。つまり、デブが強いのと同じだ。「力=重さ×速さ」だから、デブや筋肉達磨は力はあるはずだ。ただし、筋トレで作った筋肉には速さが絶望的に無いと思う。中量級までのボクサーの腕には無駄な筋肉が無い。重量級になると重さもパワーになり、速さの要素の重要性が薄れるから筋肉達磨やデブボクサーも出てくる。
174: 風吹けば名無し 2020/05/07(木) 08:19:29.40 ID:XkM6Zh3qa
195: 風吹けば名無し 2020/05/07(木) 08:21:06.14 ID:rKxF0/F10
>>174
これはバカにしすぎやわ
これはバカにしすぎやわ
208: 風吹けば名無し 2020/05/07(木) 08:22:11.40 ID:Nd/fO1oe0
>>174
かわいいからよし!
かわいいからよし!
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「未来少年コナン」の「原作」である、アレクサンダー・ケイの「残された人々」を、アニメを見た人が読むと驚くのではないか。まったく、原作の雰囲気も内容もアニメとは別で、まったく「話が面白くない」し、「雰囲気が暗い」し、「人物に魅力が無い」のである。つまり、宮崎駿はこの原作をアニメにしたのではなく、この原作にヒントを得て、まったく違う作品にした、と言っていい。つまり、芥川龍之介がアンブローズ・ビアスの短編から発想を得て「藪の中」を書いたようなものだ。
この「換骨奪胎」は、宮崎駿の天才性をよく示していると思う。優れた作家でも、無から何かを作り出すわけではない。その作品そのものが優れていれば、元ネタがどこから来たかはさほど問題ではないと私は思う。手塚治虫も、素人作品を参考にして自分の作品に活かしたことはあったようだ。それは、その素人にとっては名誉と言うべきだろう。
黒岩涙香なども換骨奪胎の名人で、海外の作品(無名の大衆小説含む)を見事に日本を舞台にして名作にした。「鉄仮面」など、その代表的なものだ。ボアゴベーという原作小説作家は本国でも今では誰も知らない程度の作家であり、埋もれた作品らしい。(映画の「仮面の男」の原作はデュマで、まったく別作品)
この「換骨奪胎」は、宮崎駿の天才性をよく示していると思う。優れた作家でも、無から何かを作り出すわけではない。その作品そのものが優れていれば、元ネタがどこから来たかはさほど問題ではないと私は思う。手塚治虫も、素人作品を参考にして自分の作品に活かしたことはあったようだ。それは、その素人にとっては名誉と言うべきだろう。
黒岩涙香なども換骨奪胎の名人で、海外の作品(無名の大衆小説含む)を見事に日本を舞台にして名作にした。「鉄仮面」など、その代表的なものだ。ボアゴベーという原作小説作家は本国でも今では誰も知らない程度の作家であり、埋もれた作品らしい。(映画の「仮面の男」の原作はデュマで、まったく別作品)
一部で有名になってあちこちでリツィートされているものだが、宮崎駿が第一話のラナの描き方に大落胆したのは事実だろう。実際、原画の大塚康夫(字はこうだったか)は第二話以降はラナを描かせてもらえなかったと言う。
まあ、私が見る限りでは、第二話以降もそれほど「美少女化」したとは思えないというか、第一話のラナをとんでもないブスと思った宮崎駿のほうがおかしいと思うのだが、おそらく宮崎の脳内ではラナは「女神化」しており、自分でもどう描いていいか分からず、大塚氏に期待したのではないか。ところが、想像以上に「ブス」だったわけだ。つまり、漠然とした空想上の「美少女」との落差による失望だろう。
大塚氏にとっては非常に気の毒な話で、第一話のラナは海辺で気絶しており、意識が少し回復して顔を上げた途端、巨大なサメの顔と対面し、目を回すのである。その目を回す顔を「美少女」に描け、と言われたのだから理不尽な要求というものだろう。
で、「作品内現実」の次元で考えると、コナンは生まれて一度も女を見たことが無いのである。そういう子供に女性の美という観念があるだろうか。つまり、一目見た途端に、「一生この女のために頑張るぞ」と思うのは、ラナの美しさのためだとしたら、その美の基準は、たとえばおじいの老年顔の醜さとの対比によるものであり、他の少女と比較してのものであるはずはないわけだ。その意味ではラナが「絶世の美少女」である必要性は無い。
まあ、視聴者としては、ラナがブスや平凡な顔では視聴継続する気にもなれないし、宮崎駿もブスなヒロインのためにアニメ作りを延々と続けるのは御免だっただろう。まさに「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」なのである。それは、相手がフィクションの女性だろうが同じだ。
なお、宮崎駿をペドフィリア扱いする馬鹿がいるが、彼は単に少女というものを女性美の極致としているだけで、性欲的な対象としているわけではない。創作においてまで少女を美や崇拝の対象とすることは変態的だ、というのは馬鹿な精神科医か馬鹿なフェミニストだけである。
なお、ナボコフの「ロリータ」も、少女を性欲の対象ではなく、崇拝の対象とした物語である。主人公(語り手)のハンバート・ハンバートがロリータをセックスの相手にするのは、相手から誘われたから応じただけであり、しかもそれ以前にロリータは同年齢の少年と性体験を持っていたのだ。
まあ、私が見る限りでは、第二話以降もそれほど「美少女化」したとは思えないというか、第一話のラナをとんでもないブスと思った宮崎駿のほうがおかしいと思うのだが、おそらく宮崎の脳内ではラナは「女神化」しており、自分でもどう描いていいか分からず、大塚氏に期待したのではないか。ところが、想像以上に「ブス」だったわけだ。つまり、漠然とした空想上の「美少女」との落差による失望だろう。
大塚氏にとっては非常に気の毒な話で、第一話のラナは海辺で気絶しており、意識が少し回復して顔を上げた途端、巨大なサメの顔と対面し、目を回すのである。その目を回す顔を「美少女」に描け、と言われたのだから理不尽な要求というものだろう。
で、「作品内現実」の次元で考えると、コナンは生まれて一度も女を見たことが無いのである。そういう子供に女性の美という観念があるだろうか。つまり、一目見た途端に、「一生この女のために頑張るぞ」と思うのは、ラナの美しさのためだとしたら、その美の基準は、たとえばおじいの老年顔の醜さとの対比によるものであり、他の少女と比較してのものであるはずはないわけだ。その意味ではラナが「絶世の美少女」である必要性は無い。
まあ、視聴者としては、ラナがブスや平凡な顔では視聴継続する気にもなれないし、宮崎駿もブスなヒロインのためにアニメ作りを延々と続けるのは御免だっただろう。まさに「永遠に女性なるもの、我らを牽きて往かしむ」なのである。それは、相手がフィクションの女性だろうが同じだ。
なお、宮崎駿をペドフィリア扱いする馬鹿がいるが、彼は単に少女というものを女性美の極致としているだけで、性欲的な対象としているわけではない。創作においてまで少女を美や崇拝の対象とすることは変態的だ、というのは馬鹿な精神科医か馬鹿なフェミニストだけである。
なお、ナボコフの「ロリータ」も、少女を性欲の対象ではなく、崇拝の対象とした物語である。主人公(語り手)のハンバート・ハンバートがロリータをセックスの相手にするのは、相手から誘われたから応じただけであり、しかもそれ以前にロリータは同年齢の少年と性体験を持っていたのだ。
「バートン・フィンク」は見たはずだが、ほとんど内容は覚えていない。
しかし、コーエン兄弟の早すぎる「8 1/2」と考えれば何も難しいことはないのではないか。つまり、映画創造に携わる人間の創造の苦悩を現実と妄想を入り乱れさせて描いたものかと思う。
その構造からして「理解する必要性などまったく無い」のであって、面白いシーンを楽しめばいいという類の作品だろう。つまり、町山の(映画を理解するための)「詳しい解説」もほとんど意味は無い気がする。
(以下引用)
しかし、コーエン兄弟の早すぎる「8 1/2」と考えれば何も難しいことはないのではないか。つまり、映画創造に携わる人間の創造の苦悩を現実と妄想を入り乱れさせて描いたものかと思う。
その構造からして「理解する必要性などまったく無い」のであって、面白いシーンを楽しめばいいという類の作品だろう。つまり、町山の(映画を理解するための)「詳しい解説」もほとんど意味は無い気がする。
(以下引用)
とある編集者のツィートだが、私は昔から、「古い物の中にこそ宝がある」と言っている。それを別の言い方をすると「新作の八十%はクズ」(数字や言い方は適当)という「スタージョンの法則」になる。
(以下引用)
BUBKA最新号で杉作J太郎さんが鋭いこと言ってる。 「コロナで新しいものの創作が滞ってる結果、文化に新旧のボーダーがなくなった。だから今ラジオで古い曲をかけると、若者からいい反応が返ってくる。ついに人類が『最新』という時の呪縛から逃れられたんです」 今こそ古典にも親しむ時だと。納得。
(以下引用)
BUBKA最新号で杉作J太郎さんが鋭いこと言ってる。 「コロナで新しいものの創作が滞ってる結果、文化に新旧のボーダーがなくなった。だから今ラジオで古い曲をかけると、若者からいい反応が返ってくる。ついに人類が『最新』という時の呪縛から逃れられたんです」 今こそ古典にも親しむ時だと。納得。
ローリング・ストーンズの歌の中で私が唯一好きな「As tears go by」をユーチューブで聞いていたら、下のコメント欄にこの訳詞が載っていたので転載する。いい訳だと思う。
なお、歌のタイトルは「涙あふれて」と普通は訳されているらしいが、「涙あふれるままに」が適訳かと思う。たいして違わないと言われそうだが、「涙あふれて」だとasが利いていない気がする。下の訳の「ながら」がasであるが、歌のタイトルだと「涙を流しながら」だと今一つである。「流しながら」何をするのだ? という感じになるわけだ。「ままに」だと、「そのままにしておく」感じになる。つまり、呆然とした感じだ。
(以下引用)
jetstranslation
1 年前
歌詞和訳
夕方
俺は腰を掛け
子供たちの遊ぶ様子を眺める
笑顔が見えるけど
俺に向けてではない
俺は腰を掛け、眺める
涙を流しながら
俺の財産で買えるのはすべてではない
子供たちの歌声を聴きたい
俺に聞こえるのは地面を叩く雨の音だけ
俺は腰を掛け、眺める
涙を流しながら
夕方
俺は腰を掛け
子供たちの遊ぶ様子を眺める
俺が昔やってた遊び
子供たちは新しいと思ってる
俺は腰を掛け、眺める
涙を流しながら
なお、歌のタイトルは「涙あふれて」と普通は訳されているらしいが、「涙あふれるままに」が適訳かと思う。たいして違わないと言われそうだが、「涙あふれて」だとasが利いていない気がする。下の訳の「ながら」がasであるが、歌のタイトルだと「涙を流しながら」だと今一つである。「流しながら」何をするのだ? という感じになるわけだ。「ままに」だと、「そのままにしておく」感じになる。つまり、呆然とした感じだ。
(以下引用)
jetstranslation
1 年前
歌詞和訳
夕方
俺は腰を掛け
子供たちの遊ぶ様子を眺める
笑顔が見えるけど
俺に向けてではない
俺は腰を掛け、眺める
涙を流しながら
俺の財産で買えるのはすべてではない
子供たちの歌声を聴きたい
俺に聞こえるのは地面を叩く雨の音だけ
俺は腰を掛け、眺める
涙を流しながら
夕方
俺は腰を掛け
子供たちの遊ぶ様子を眺める
俺が昔やってた遊び
子供たちは新しいと思ってる
俺は腰を掛け、眺める
涙を流しながら
「映画のブログ」という、味も素っ気もないタイトルのブログだが、ゲームに対する造詣と愛情が深い筆者だと思われる。前にも「ドラゴンクエストユアストーリー」批判の文章で引用したかもしれない。
私は「光のお父さん」は、映画は見ていないがテレビ版で一話だけ見た。悪くないと思ったが、続けて見ようとまでは思わなかったのは、一番地味なあたりだったからだろう。今後、ネット配信で見る機会があれば見てみたい。
(以下引用)
なぜなら、映画よりもゲームのほうがずっと面白く、強烈な体験だからだ。
アクションゲームやアドベンチャーゲームに比べれば、映画のほうが物語性の豊かさや、人情の機微の描き方において勝り、ゲームファンをも楽しませる作品になるかもしれない。
けれどもロールプレイングゲーム(RPG)が相手ともなると、映画が優位に立つのは難しそうだ。なにしろ、映画というメディアは劇中人物の行動を傍観することを基本としており、受け手は観客の立場に留まり続けるのに対し、ゲームは受け手がみずから考え、行動するものだから、(他者が作ったシナリオをなぞりながらも)当事者として幾多の試練を経験できるのだ。他人の行動を傍から見ているよりも、みずから行動し経験するほうが緊張も感動も大きいのは間違いなかろう。
だから、ゲームを扱った映画を観ていても、私なんぞは映画を楽しむより先にゲームをやりたくなることがしばしばだ。気もそぞろというか、ロールプレイングゲームを行わずにロールプレイングゲームっぽい映画を観ているこの時間は何なのだろうと思ってしまう。
和製ロールプレイングゲームの代表格であるドラゴンクエストシリーズを作った 氏は、シリーズ作品が立て続けに発売された1980年代を振り返り、「当時、『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』(1988年)を映画化しようという話があったのですが、お断りしたんです。ゲームは体験してこそ面白さがわかるもの。それを映画にして客観的に観ても、面白くないでしょう? と」と語っている。
映画監督の山崎貴氏も「ゲームと映画は相性が良くない」とゲームの映画化は断ったという。「ゲームは人によっては何十時間もやるメディアですから感情移入の幅が半端ない。それを映画という技法で対抗するのは難しいなと」「ゲームは体感時間が長くてインタラクティブだけど、映画は一方通行だし尺が限られている。ゲームの映画化でうまくいった試しがないでしょう、と言いました」[*1][*2]
ポール・W・S・アンダーソン監督の『バイオハザード』(2002年)などなかなかの成功作だと思うから、「ゲームの映画化でうまくいった試しがない」とまでは云えないかもしれないが、誰もが同じように考えているのは確かだろう。
ところが、『 』はロールプレイングゲームを題材にして、ずっとゲームの話ばかりしている映画なのに、その素晴らしさは圧倒的だ。映画を観ている114分のあいだ、私は笑いをこらえきれなかったり、滂沱の涙を流したりした。本作は思ってもみないほどの感動大作だった。
劇中で何度も言及される「 」がキーワードであろう。シズル感とは、食べ物の映像が映れば食べたくなり、飲み物が映れば飲みたくなるような、五感に訴えかける感じのことである。
広告代理店に勤める主人公は、クライアントから「もっと広告にシズル感を」と何度も求められる。仮想現実の世界を描いた『 』(2018年)で、スティーヴン・スピルバーグ監督は美味い食事にありつけるのは現実の世界だけだと主張した。そう、ゲーム内の仮想世界にはシズル感がないのだ。
『劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』が巧いのは、現実世界のドラマが、ゲームの世界にないものの補完になっていることだ。
現実の職業人生、家族との軋轢や悲しみ、異性との素敵な出会い、そういった諸々が、まず等身大のドラマとして観客を映画に引き込む。
そこへきて、映画の山場は異世界エオルゼアでのモンスターとの戦いだ。これまで中高年の男性を描いた邦画の山場といえば、 とか 等が描かれたものだった。しかし本作では、人間を含む様々な種族の仲間たちと協力しての、武術や魔法を駆使した壮絶な戦いが繰り広げられる。こんなにスケールの大きなクライマックスを迎える実写日本映画にはなかなかお目にかかれない。現実世界のドラマに没入したその先にとてつもないクライマックスが待っているから、観客の感情は尋常ではない激しさで揺れ動く。
異世界エオルゼアでの物語に軸足を置いてみれば、ゲームの世界観を理解し、感情移入するプロセスを、現実世界での退職したお父さんと息子のエピソードに置き換えることでショートカットした映画ともいえる。
何十時間もインタラクティブなプレイを行うことでようやくゲームに感情移入できるところを、誰もがとっつきやすく理解しやすい親子の関係や職場での出来事に代替させることで、たった114分のあいだに観客を決戦に向かう仲間たちに感情移入させる。敵を倒した感動を分かち合える状態に持っていく。
長時間プレイして得られる喜びを、観客も疑似体験することができるのだ。
しかも、舞台となるエオルゼアは、一般的な邦画の制作費と製作期間をはるかに上回るコストを投じて開発されたファイナルファンタジーXIVの世界。緻密に作り込まれた仮想世界の美しさ、雄大さといったらない。映画のために一から作ったのでは、こうはいくまい。
面白いのは、映画用に作られたCGIではなく、ゲームの運営元であるスクエア・エニックスが提供したサーバー上に名プレイヤーが集結し、腕を振るってキャラクターを動かすことでエオルゼアでのドラマが進行していることだ。
スポーツを観戦するように、名プレイヤーのゲーム実況を見て楽しむことが普及した昨今、ファイナルファンタジーXIVに精通したプレイヤーたちの妙技を見るのも楽しかろう。野球映画に例えれば、映画のために本物の一流野球選手に集まってもらい、公式戦とは別に試合を開催して、それを劇中のドラマとして上映するようなものだ。
しかもしかも、誰もが本名や素顔を明かすことなく知り合えるオンラインゲームのマスカレード的な面白ささえも、本作は取り込んでいる。
ゲームの世界で、息子であることを隠しながらお父さんに接していることは、主人公と観客が共有する秘密だ。どのタイミングで、どうやってお父さんに秘密を明かすのか。真実を知ったお父さんはどんな反応をするのか。観客の興味は尽きない。
正体を知ったらさぞや驚くだろうという期待は、しょぼくれた隠居爺さんが実は先の副将軍であるという水戸黄門や、見ず知らずの大富豪モンテ・クリスト伯が実は旧知の船乗りエドモン・ダンテスであるというような楽しさをもたらし、この上なくワクワクさせてくれる。
そして、現実世界での家族の心配のピークと、異世界エオルゼアでの決戦と、主人公が正体を明かす瞬間のすべてが一点に集約して、映画は最高のクライマックスを迎える。なんという構成の妙だ。うまい、うますぎる。[*3]
『レディ・プレイヤー1』は、ゲーム内の世界を魅力たっぷりに描きながらも、真の人生は現実世界にこそあると説いた。
本作は、ゲームもまた人生の一部なのだと訴える。本作の主人公のモデルであり、本作のキャラクターの操作も担当した 氏は、次のように述べている。
---
なので知ってほしいのです。僕らがモニターに映る「何を見ているのか」、一生懸命「何をしているのか」。この映画に出てくるモニターの向こう側の世界は、僕の実際の体験に基づくオンラインゲームのとても「リアル」な世界であり、「真実の姿」です。
それはずっとすれ違ってきた親子の仲を修復する事ができましたし、映画になるほどおもしろい物語でもあるのです。そんな力がオンラインゲームにはあるのだという事を多くの人に知ってほしい。
---
面と向かっては話しにくい相手でもゲームの中なら対話できる。遠く離れた相手でも、ゲームの中なら一緒にいられる。
電話やチャットで連絡するのとはまた違う。仮想世界とはいえ、同じ場所に集い、一緒に冒険して苦楽を共にできるのだ。
その楽しさ素晴らしさを、本作はたっぷり味わわせてくれる。
[*1]
[*2]
[*3] 映画『翔んで埼玉』で知った方も多いだろう。埼玉銘菓 の惹句。
『 』 [か行]
監督/野口照夫、山本清史(エオルゼアパート)
脚本/吹原幸太
出演/坂口健太郎 吉田鋼太郎 佐久間由衣 山本舞香 佐藤隆太 財前直見 南條愛乃 寿美菜子 悠木碧
日本公開/2019年6月21日
ジャンル/[ドラマ]
ゲームを原作とする映画や、ゲームを扱った映画は少なくない。それらの中には面白い映画、優れた映画もあるのだが、総じて私はゲームを扱ったり原作にすることに肯定的になれなかった。
私は「光のお父さん」は、映画は見ていないがテレビ版で一話だけ見た。悪くないと思ったが、続けて見ようとまでは思わなかったのは、一番地味なあたりだったからだろう。今後、ネット配信で見る機会があれば見てみたい。
(以下引用)
『劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』 退職したらゲームをしよう
なぜなら、映画よりもゲームのほうがずっと面白く、強烈な体験だからだ。
アクションゲームやアドベンチャーゲームに比べれば、映画のほうが物語性の豊かさや、人情の機微の描き方において勝り、ゲームファンをも楽しませる作品になるかもしれない。
けれどもロールプレイングゲーム(RPG)が相手ともなると、映画が優位に立つのは難しそうだ。なにしろ、映画というメディアは劇中人物の行動を傍観することを基本としており、受け手は観客の立場に留まり続けるのに対し、ゲームは受け手がみずから考え、行動するものだから、(他者が作ったシナリオをなぞりながらも)当事者として幾多の試練を経験できるのだ。他人の行動を傍から見ているよりも、みずから行動し経験するほうが緊張も感動も大きいのは間違いなかろう。
だから、ゲームを扱った映画を観ていても、私なんぞは映画を楽しむより先にゲームをやりたくなることがしばしばだ。気もそぞろというか、ロールプレイングゲームを行わずにロールプレイングゲームっぽい映画を観ているこの時間は何なのだろうと思ってしまう。
和製ロールプレイングゲームの代表格であるドラゴンクエストシリーズを作った 氏は、シリーズ作品が立て続けに発売された1980年代を振り返り、「当時、『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』(1988年)を映画化しようという話があったのですが、お断りしたんです。ゲームは体験してこそ面白さがわかるもの。それを映画にして客観的に観ても、面白くないでしょう? と」と語っている。
映画監督の山崎貴氏も「ゲームと映画は相性が良くない」とゲームの映画化は断ったという。「ゲームは人によっては何十時間もやるメディアですから感情移入の幅が半端ない。それを映画という技法で対抗するのは難しいなと」「ゲームは体感時間が長くてインタラクティブだけど、映画は一方通行だし尺が限られている。ゲームの映画化でうまくいった試しがないでしょう、と言いました」[*1][*2]
ポール・W・S・アンダーソン監督の『バイオハザード』(2002年)などなかなかの成功作だと思うから、「ゲームの映画化でうまくいった試しがない」とまでは云えないかもしれないが、誰もが同じように考えているのは確かだろう。
ところが、『 』はロールプレイングゲームを題材にして、ずっとゲームの話ばかりしている映画なのに、その素晴らしさは圧倒的だ。映画を観ている114分のあいだ、私は笑いをこらえきれなかったり、滂沱の涙を流したりした。本作は思ってもみないほどの感動大作だった。
劇中で何度も言及される「 」がキーワードであろう。シズル感とは、食べ物の映像が映れば食べたくなり、飲み物が映れば飲みたくなるような、五感に訴えかける感じのことである。
広告代理店に勤める主人公は、クライアントから「もっと広告にシズル感を」と何度も求められる。仮想現実の世界を描いた『 』(2018年)で、スティーヴン・スピルバーグ監督は美味い食事にありつけるのは現実の世界だけだと主張した。そう、ゲーム内の仮想世界にはシズル感がないのだ。
『劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』が巧いのは、現実世界のドラマが、ゲームの世界にないものの補完になっていることだ。
現実の職業人生、家族との軋轢や悲しみ、異性との素敵な出会い、そういった諸々が、まず等身大のドラマとして観客を映画に引き込む。
そこへきて、映画の山場は異世界エオルゼアでのモンスターとの戦いだ。これまで中高年の男性を描いた邦画の山場といえば、 とか 等が描かれたものだった。しかし本作では、人間を含む様々な種族の仲間たちと協力しての、武術や魔法を駆使した壮絶な戦いが繰り広げられる。こんなにスケールの大きなクライマックスを迎える実写日本映画にはなかなかお目にかかれない。現実世界のドラマに没入したその先にとてつもないクライマックスが待っているから、観客の感情は尋常ではない激しさで揺れ動く。
異世界エオルゼアでの物語に軸足を置いてみれば、ゲームの世界観を理解し、感情移入するプロセスを、現実世界での退職したお父さんと息子のエピソードに置き換えることでショートカットした映画ともいえる。
何十時間もインタラクティブなプレイを行うことでようやくゲームに感情移入できるところを、誰もがとっつきやすく理解しやすい親子の関係や職場での出来事に代替させることで、たった114分のあいだに観客を決戦に向かう仲間たちに感情移入させる。敵を倒した感動を分かち合える状態に持っていく。
長時間プレイして得られる喜びを、観客も疑似体験することができるのだ。
しかも、舞台となるエオルゼアは、一般的な邦画の制作費と製作期間をはるかに上回るコストを投じて開発されたファイナルファンタジーXIVの世界。緻密に作り込まれた仮想世界の美しさ、雄大さといったらない。映画のために一から作ったのでは、こうはいくまい。
面白いのは、映画用に作られたCGIではなく、ゲームの運営元であるスクエア・エニックスが提供したサーバー上に名プレイヤーが集結し、腕を振るってキャラクターを動かすことでエオルゼアでのドラマが進行していることだ。
スポーツを観戦するように、名プレイヤーのゲーム実況を見て楽しむことが普及した昨今、ファイナルファンタジーXIVに精通したプレイヤーたちの妙技を見るのも楽しかろう。野球映画に例えれば、映画のために本物の一流野球選手に集まってもらい、公式戦とは別に試合を開催して、それを劇中のドラマとして上映するようなものだ。
しかもしかも、誰もが本名や素顔を明かすことなく知り合えるオンラインゲームのマスカレード的な面白ささえも、本作は取り込んでいる。
ゲームの世界で、息子であることを隠しながらお父さんに接していることは、主人公と観客が共有する秘密だ。どのタイミングで、どうやってお父さんに秘密を明かすのか。真実を知ったお父さんはどんな反応をするのか。観客の興味は尽きない。
正体を知ったらさぞや驚くだろうという期待は、しょぼくれた隠居爺さんが実は先の副将軍であるという水戸黄門や、見ず知らずの大富豪モンテ・クリスト伯が実は旧知の船乗りエドモン・ダンテスであるというような楽しさをもたらし、この上なくワクワクさせてくれる。
そして、現実世界での家族の心配のピークと、異世界エオルゼアでの決戦と、主人公が正体を明かす瞬間のすべてが一点に集約して、映画は最高のクライマックスを迎える。なんという構成の妙だ。うまい、うますぎる。[*3]
『レディ・プレイヤー1』は、ゲーム内の世界を魅力たっぷりに描きながらも、真の人生は現実世界にこそあると説いた。
本作は、ゲームもまた人生の一部なのだと訴える。本作の主人公のモデルであり、本作のキャラクターの操作も担当した 氏は、次のように述べている。
---
なので知ってほしいのです。僕らがモニターに映る「何を見ているのか」、一生懸命「何をしているのか」。この映画に出てくるモニターの向こう側の世界は、僕の実際の体験に基づくオンラインゲームのとても「リアル」な世界であり、「真実の姿」です。
それはずっとすれ違ってきた親子の仲を修復する事ができましたし、映画になるほどおもしろい物語でもあるのです。そんな力がオンラインゲームにはあるのだという事を多くの人に知ってほしい。
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面と向かっては話しにくい相手でもゲームの中なら対話できる。遠く離れた相手でも、ゲームの中なら一緒にいられる。
電話やチャットで連絡するのとはまた違う。仮想世界とはいえ、同じ場所に集い、一緒に冒険して苦楽を共にできるのだ。
その楽しさ素晴らしさを、本作はたっぷり味わわせてくれる。
[*1]
[*2]
[*3] 映画『翔んで埼玉』で知った方も多いだろう。埼玉銘菓 の惹句。
『 』 [か行]
監督/野口照夫、山本清史(エオルゼアパート)
脚本/吹原幸太
出演/坂口健太郎 吉田鋼太郎 佐久間由衣 山本舞香 佐藤隆太 財前直見 南條愛乃 寿美菜子 悠木碧
日本公開/2019年6月21日
ジャンル/[ドラマ]
amanoさんという農業従事者らしい方のツィートだが、なかなかのジョークだと思う。
まあ、共産主義者を「アカ」と呼ぶのは差別語的だが、これは共産国家ソ連が自分たちで赤という色を自分たちの象徴にしたのだから仕方がないとも言える。
このジョークでは、「ダー」というロシア語が利いている。すべての人間は生まれた時は共産主義者である、というのもなかなか哲学的である。まるでルソーみたいだ。その無邪気な心情が、文明や周囲の文化に毒され汚染されて私欲やエゴイズムや他人を蹴落とすことを覚えて、それが「文明化」「大人になること」だと勘違いされる。
世界に対する肯定の気持ちを赤ちゃんは「ダー(yes)」で伝えているのか。
ちなみに、何度か説明しているが、このブログのタイトルの「アンファニズム」はフランス語のアンファン(子供)にイズムを付けて作った造語で、「子供主義」である。
(以下引用)
暇を持て余してる嫁はんが「赤ちゃんはどこから来るの?」と聞くので「赤ちゃんはソビエト連邦からコウノトリが運んで来る。人は生まれたときはみな共産主義者。だから赤ちゃんって呼ばれてるんだ」と言うと衝撃を受けていた。 「赤ちゃんは、ダーとか最初はロシア語を話すだろ?」で納得してた。
まあ、共産主義者を「アカ」と呼ぶのは差別語的だが、これは共産国家ソ連が自分たちで赤という色を自分たちの象徴にしたのだから仕方がないとも言える。
このジョークでは、「ダー」というロシア語が利いている。すべての人間は生まれた時は共産主義者である、というのもなかなか哲学的である。まるでルソーみたいだ。その無邪気な心情が、文明や周囲の文化に毒され汚染されて私欲やエゴイズムや他人を蹴落とすことを覚えて、それが「文明化」「大人になること」だと勘違いされる。
世界に対する肯定の気持ちを赤ちゃんは「ダー(yes)」で伝えているのか。
ちなみに、何度か説明しているが、このブログのタイトルの「アンファニズム」はフランス語のアンファン(子供)にイズムを付けて作った造語で、「子供主義」である。
(以下引用)
暇を持て余してる嫁はんが「赤ちゃんはどこから来るの?」と聞くので「赤ちゃんはソビエト連邦からコウノトリが運んで来る。人は生まれたときはみな共産主義者。だから赤ちゃんって呼ばれてるんだ」と言うと衝撃を受けていた。 「赤ちゃんは、ダーとか最初はロシア語を話すだろ?」で納得してた。
私は沖縄出身で今は京都在住だが、「ハイサイおじさん」の歌詞はほとんど聴き取り不可能である。もともと、子供のころから近所の子供と遊んだ経験が無いので沖縄方言のディクテーション能力がゼロに近い。まあ、今の沖縄ならたいていの人間がそうだろう。つまり、年長者の言葉が分からないのだから、沖縄戦の記憶は沖縄県民の中から消えていく。
なお、下のツィートの中の「退院」は、病気が治っての退院ではないと思う。基本的に精神病は「治らない」と知人の精神科医が言っていた。鬱病などは向精神薬(酒や麻薬を飲むのと同じことだ。)で症状に対応しているうちに鬱の原因だった生活環境が変化したために鬱が消えたのであり、「治療」されたわけではないだろう。要するに、鬱病というのは病気ではないと見るべきである。治るなら精神病ではないwww アル中も治るのだから精神病ではない。精神が弱い、意志が弱いというのを全部精神病と言うなら世間の大半は精神病者だ。まあ、精神病の数や種類を増やしたほうが医者は儲かるだけの話である。
(以下引用)
なお、下のツィートの中の「退院」は、病気が治っての退院ではないと思う。基本的に精神病は「治らない」と知人の精神科医が言っていた。鬱病などは向精神薬(酒や麻薬を飲むのと同じことだ。)で症状に対応しているうちに鬱の原因だった生活環境が変化したために鬱が消えたのであり、「治療」されたわけではないだろう。要するに、鬱病というのは病気ではないと見るべきである。治るなら精神病ではないwww アル中も治るのだから精神病ではない。精神が弱い、意志が弱いというのを全部精神病と言うなら世間の大半は精神病者だ。まあ、精神病の数や種類を増やしたほうが医者は儲かるだけの話である。
(以下引用)
ハイサイおじさんの奥さんが娘を殺して食べてしまった事件、沖縄ではとてつもないニュースだったらしい。そりゃそうだ。おじさんは沖縄戦のPTSDでアル中になり、奥さんは発狂して自分の娘の頭をナタで切断して煮て食べ、精神病院に入院。10年後に退院して自殺した。
名前(ネット名)からしてこの人も武道家か武道の指導者だと思うが、非常にいい発言だと思う。
だいたいが、武道をやるのは「喧嘩に強くなりたい」のが第一の理由であって、人格形成のために武道を始めた人間などいないだろうし、喧嘩に強くなったら弱い人間を馬鹿にし、いじめるのが普通の人間だ。小学校などのいじめっ子は喧嘩が強い子供に決まっている。
ただし、ある程度の腕前になると、無謀に喧嘩をすることの愚かしさを知り、やたらに喧嘩はしなくなるだろうが、それは「喧嘩の経済学」によるもので、人格が向上したわけではない。
古来の武道の達人の伝記を読んでも、「人間としてはクズだなあ」というのが大半である。クズは言い過ぎにしても、人格者でも何でもない。
だいたいが、武道をやるのは「喧嘩に強くなりたい」のが第一の理由であって、人格形成のために武道を始めた人間などいないだろうし、喧嘩に強くなったら弱い人間を馬鹿にし、いじめるのが普通の人間だ。小学校などのいじめっ子は喧嘩が強い子供に決まっている。
ただし、ある程度の腕前になると、無謀に喧嘩をすることの愚かしさを知り、やたらに喧嘩はしなくなるだろうが、それは「喧嘩の経済学」によるもので、人格が向上したわけではない。
古来の武道の達人の伝記を読んでも、「人間としてはクズだなあ」というのが大半である。クズは言い過ぎにしても、人格者でも何でもない。