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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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この「編集者の自惚れ漫画」を数人の漫画家がリツィートしているのだが、その神経が分からない。
この漫画を読むと、まるで、「名作、あるいは傑作漫画は編集者の頭脳から生まれ、漫画家はその道具でしかない」と言われているような気になる。
もちろん、漫画家に素晴らしいヒントを与える編集者も多いだろうが、それを作品化するのはあくまで漫画家であり、漫画家の頭脳と腕からしか漫画は生まれないのである。ヒントなど、編集者だけでなく過去の名作漫画や映画や実生活などどこからでも得られるはずで、編集者はその「手助け」をすればいいだけだ。「傑作は運命を捻じ曲げて生まれる」という言い方も気持ち悪い。まるで、「漫画家=(理不尽な)運命」で、編集者がその運命を捻じ曲げないと傑作は生まれない、と言っているようだ。


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「傑作は運命を捻じ曲げて生まれる」という話。


















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これはいい指摘。どちらかと言えば、ベイスターズではなく、ラミレスの欠点だろう。つまり、反省能力が無い。あるいは、大局観が無い。だから、前半戦の負けを後半で帳尻合わせばかりすることになる。ここ数年のAクラス入りなどでラミレスを褒める人もいるが、あれは、「優勝できるチーム力がありながら優勝できなかった」だけである。私はここ数年、同じことを言っている。(数年前の前半戦に主力先発投手が数名故障あるいは不調だった時、飯塚や平良など若手を先発起用して好成績を残したことがあったが、野手に関しては、それが無い。不調選手の打順すら変えない。その投手起用も当時の投手コーチの判断だったのではないか。)
一番悪いのは、自分が「レギュラー認定」した選手が大不調の時にも先発で使い続け、前半戦を大きく負け越すことである。下のツィートにもあるが、その年のチーム状況はオープン戦終了時、あるいは遅くても他チームとの対戦が一巡した段階で把握しなければ監督として無能の一語に尽きる。
なお、古参選手は「帳尻合わせ」が得意だから、シーズン後半に成績を上げてくるのは当然であり、べつに一軍で使い続けたためではない。つまり、前半戦をいかに五割以上で乗り切るかに監督の能力は顕れる。主力選手の怪我などで後半の失速があっても、それは監督の責任ではない。



その年の戦力の見極めなんて、オープン戦~開幕一ヶ月も戦えば、おおよそこの一年の状況が見えて来る。それに合わせて戦い方を組み替えないと行けないのに、前年のイメージ引きずって前半戦終わるぐらいまで、同じような過ち繰り返し負けを積み重ねるのがベ












「電脳マヴォ」で継続的に長い間連載されている「夜のロボット」だが、私は一度も読んだことがないのである。その理由は、絵柄にある。要するに、画面がゴチャゴチャし過ぎていて、最初から読む気にならないのだ。特に、人物と背景の区別がつきにくいというのが、最大の問題だろう。コマ自体が小さすぎる上に、背景が視認の邪魔をする。大友克洋あたりの背景の描き込みに影響されたのかもしれないが、まあ、描くこと自体が好きなのだろう。つまり、自己満足である。読者の目線や心理を無視しているわけだ。ただし、それ(背景やコマの中味のゴチャゴチャ感)は「ワンピース」の絵にも言えることで、あちらは大ヒット作品になっているわけだから、これは私の主観でしかないかもしれない。
絵自体は達者な(と言うか、描きなれている)人だろうし、構図なども、ツィッターに載った部分だけからでもかなり工夫しているとは思うが、全体に平板で、強調点が目立たない絵だと思う。あっさり言えば、絵自体に魅力が無い。あるいは、私は魅力を感じない。
ついでに言えば、「夜のロボット」という作品タイトルも魅力が無い。なぜ、「夜の」なのか。夜という特定の時刻とロボットに何の関係があるのか。そもそも、「ロボット」という言葉自体にアナクロ感があるのだが、それは「狙って」のものなのか。まあ、そういう「スケベ心」(これは、エロ方面を意味するものではない。)を感じさせるタイトルであると思う。そういう「スケベ心」は読者に察知され、敬遠されるものである。いや、「読者受けを狙って、読者に敬遠される」のはおかしいだろう、と言われるかもしれないし、すべて商業作家は読者受けを狙うものだが、なぜか、許容されるものと拒否されるものがあるのである。
ちなみに、「電脳マヴォ」所載の作品には幅広い人気を得た作品もかなりあるが、「夜のロボット」はそういう作品ではないと思う。まあ、一部の人間には受容されているかもしれない。
この一文は、私自身の心理分析のネタとして「夜のロボット」という作品を取り上げたものだが、漫画創作全体に通じる部分はあると思う。つまり、「読む前から拒絶反応を起こす」作品というのは、内容が良ければ、非常に不幸なことであるわけで、こうした批評も無意味ではないだろう、というわけだ。


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随分遅くなってしまいましたが、夜のロボットの最新話(その3廿四話目「その日・朝」)を更新しました。
ニコニコ漫画 
マンガボックス
ハックとサイトはのちほど。
電脳マヴォさまは1/14水曜の予定とのことです。














最近の洋画のタイトルがひどいのは、英語題名をカタカナにするだけのタイトルだけでなく、日本用の日本語タイトルもひどい。「They shall not grow old」が、なぜ「彼らは生きていた」というタイトルになるのか。直訳するなら「彼らは年を取らない」だろうし、彼らの生きた記録を見て現在の我々が彼らの存在をありありと実感する意味の題としてなら「彼らは今も生きている」だろう。「生きていた」では、その実感が無い。少し気取るなら「永遠の兵士たち」でもいい。
なお、なぜ彼らが年を取らないのかというと、その「彼ら」とは記録フィルムの中の兵士たちで、その多くは戦場で、若くして死んだからである。


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>帝国戦争博物館に保存されていた記録映像を再構築して1本のドキュメンタリー映画として完成。2200時間以上あるモノクロ、無音、経年劣化が激しく不鮮明だった100年前の記録映像にを修復・着色するなどし、BBCが保有していた退役軍人たちのインタビューなどから、音声や効果音も追加した









私は、(精神的な)成熟というのはあまり信じていない。成熟というのは「変質」を含意しているわけだが、精神というのは、変質するのではなく、古い精神層の上に新しい知識が加わっていくだけだと思っている。その結果、「考え方」などに違いは生まれるが、精神が変わったわけではない。年寄りの中にも子供の心は残っているわけだ。だから、このブログのタイトルを「アンファニズム(「子供主義」という意味の造語)」にしているのである。




23時間前

でもまあ子供に映像研が受けるのは知ってた。ワシが子供だから。


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  • さんがリツイート
    1月13日

    誰かこの「子供が繰り返し『映像研』を観る現象」の記事を書いてくれ


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  • さんがリツイート
    1月13日
    返信先: さん

    ウチの5歳もリピートしてます。「面白いねー」と。特にオープニングで顔が揺らめくシーンが気に入って、一時停止とコマ送りを繰り返しで見ています。


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  • さんがリツイート
    1月13日
    返信先: さん

    1歳と大人が一緒になって毎日リピート再生して観てます!


動画そのものは自分で探してもらうしかないが、まあ、予想通りである。ボディビルダーの筋肉は実用品ではない。いくら筋肉量があってもスピードがゼロである。動画を見る前は、女性との体格差があまりに大きいとボディビルダーの勝ちもあるかな、と思ったが、女性の二割増しくらいの体格差である。その程度では、格闘技経験の無い筋肉馬鹿が格闘技のプロ(柔道だと思う)に勝てるわけがない。あっさり絞め技を許して、終わりである。ただし、柔道は格闘技同士の戦いだと不利だ、というのは前に書いたとおり。




【動画】プロの女格闘家がボディビルダー♂に喧嘩を売られて戦った結果wwwwwww




adjacentというのが分からないが、「似ている」くらいの意味だろう。一応、調べると、「付近の、隣接する」という意味らしい。まあ、当たらずとも遠からずだ。
海外の反応を見ると、金森氏が大人気らしいが、その理由が今一つよく分からない。あの「歯をむき出した顔」がユニークで面白いというのがあるだろうが、それだけではないだろう。
彼女の性格が、海外の人にウケる何かがある、と思われる。
それは、「目的意識と行動を明確に結びつける能力」「的確な思考」「率直さ」「合理性と勇気」など、いろいろ考えられる。まあ、一番の理由は「率直さ」だろう。日本人から最も遠い性格だ。おそらく、海外の人間が日本アニメを見ながら、今一つじれったく思っていた「日本人の優柔不断さ」「曖昧性」をズバリと切り捨て、「海外の我々の思考様式が誤りではなかった」と思わせるところに、彼女の人気の原因があるかと思う。
下の絵ではスーシーと金森を類縁のものとしているが、スーシーはこういう表情(歯をむき出す)はしたことが無いと思う。口をゆがめてニヤリと笑う程度だろう。歯をむき出すことが「率直さ」のシンボルになっているのかもしれない。
しかし、性格的には似たところもある。
合理主義者であること、行動の目的が常に明確であること。自分の意志を最優先すること、などである。そうはいいながら、友情も疎かにしないのが日本人の作るキャラである。(ただし、金森氏は、自分たちは友達ではない、仲間だ、と言っている。友達とは、お互いしか目に入らないつきあい、つまりじゃれあいやベタベタ関係で、仲間とは、同じ方向・目標を見ている協力関係、と思えばいいだろう。浅草氏や水崎氏は、友達関係にも魅力を感じているように思える。)
追記するが、映像研アニメのプロデューサーの中に中国名の女性がいるが、この人のビジュアルが、まさにリアル金森氏である。動画インタビューを見たが、金森氏より笑顔が多いだけが違う。





さんがリツイート

For some reason I feel like these two are super adjacent


あるくすという人の「アニメとゲームの感想帖」というサイトの記事の一部だが、かなり的確な評価を書く人だと思う。私とは趣味の合わないところはあるが、参考になる。
「君と波に乗れたら」を42点と低評価したレビュー記事を読んだが、アニメそのものを見ていない私でも納得のできる記事で、あの映画のあの不入りの理由もよく分かった。つまり、シナリオ(キャラクターの人物設計など)に根本的欠陥があっては、演出ではリカバリーはできないということだろう。同じ監督の「映像研には手を出すな!」を最高評価にしているところを見ても、単なる好き嫌いではなく、理性的に評論していることが分かる。なお、下のリストはそれぞれ第一話を見ての評価である。



1. 2020年冬アニメ 期待度まとめ
2. 評価:★★★★★(必見・見ないと損)
2.1. 映像研には手を出すな!
3. 評価:★★★★☆(おすすめ・高評価)
3.1. 推しが武道館いってくれたら死ぬ
3.2. 空挺ドラゴンズ
3.3. 恋する小惑星
4. 評価:★★★☆☆(相性がいいなら見ておきたい)
4.1. ID:INVADED イド:インヴェイデッド
4.2. ソマリと森の神様
4.3. ネコぱら
4.4. マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝
4.5. 群れなせ!シートン学園
4.6. ランウェイで笑って
5. 評価:★★☆☆☆(様子見・化ける可能性は0じゃない)
5.1. <Infinite Dendrogram>-インフィニット・デンドログラム-
5.2. ダーウィンズゲーム
5.3. 魔術士オーフェンはぐれ旅
6. 評価:★☆☆☆☆(残念ながら1話切り)
6.1. 痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
6.2. はてな☆イリュージョン
6.3. プランダラ
後になって、このアイデアの先取得権をこの人が主張するかもしれないので言っておくと、漫画ではとっくに「それ町」で石黒正数が「脳内みんな」「脳内隊長」としてやっている。あるいは、石黒以前に誰かがやっているかもしれない。ギャグ漫画家はけっこうやっているような気がする。大御所だと手塚治虫などがやっていそうである。自分の身体の中に他人(別の心)がいる、というのなら「リボンの騎士」がそれだろうし、短編などには多重人格を扱ったものもあるはずだ。
物語創作をする人間なら、ほとんどの人が複数人格を持っている。だからこそ善人も悪人も男も女も描ける(想像できる)のである。つまり、日常用の人格は、そのひとつにすぎない。パーソナリティとは、その「日常(現実生活)用の仮面(ペルソナ)」なのである。




さんがリツイート

今の再現ドラマって、ひな壇の芸人さんがワイプで抜かれて「えー怖い」とか言うじゃないですか。あれはあれで一つのスタイルだと思うので、全編それで通すホラー映画があってもいいんじゃないですか。一人の人間の精神世界の内部が多重人格的にあんな感じになってる、とか。








アニメの「映像研」が面白かったので、原作漫画を一巻から四巻まで読み直したのだが、少し前に書いた懸念の理由が分かった。つまり、原作は第四巻で既に失速しているように感じられるということだ。
この作品の面白さは、アニメを高校の部活として作る上での様々な困難が克服される過程、つまり、「問題をいかに解決するか」に面白さの半分はかかっていると私は思うのだが、第四巻ではすでにその問題が見えなくなっていると思う。
具体的に言えば、全体の主題そっちのけで描かれた「たぬきのエルドラド」の話が、その創作過程も含め、面白くないということだ。原作者は「平成狸合戦ぽんぽこ」が大好きだということのようだが、「たぬきのエルドラド」は、その生煮えの二次創作でしかないと感じる。
いや、高校生の作品なのだから、それで当然、と言えるわけだが、問題は、おそらくこのあたりをアニメ化しても、それは視聴者には面白く思えないだろう、ということだ。
要するに、この辺のテーマは、「自分で自分の想像力の限界を小さくしてはいけない」ということだと思うが、その「改善された」想像の内容が、あきれるほど陳腐では、視聴者はがっかりするだろう、ということだ。そして、それは作者、大童澄瞳自身の想像力の限界を示しているように思う。この程度の話が、作者の「最強の世界」だとしたら第一話で高められた視聴者の期待をかなり裏切ることになるだろう。
この隘路を脱出する道はひとつである。
それは、浅草氏自身が、自分の創作した世界の陳腐さに一度絶望することだ。その上で、過去の名作アニメの世界がいかに「普通の作品」から隔絶したレベルにあったかを再度確認することだ。
つまり、冒頭の「未来少年コナン」との出会いのようなエピソードに戻るのである。たとえば、今敏の「パプリカ」などを引用してもいいだろう。
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
そうすることで、最後をフェリーニの「8 1/2」のように、登場人物全員が歓喜の中で輪になって踊ることができるだろう。まさに「easy breezy」で終われるのである。
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