前田有一による「天気の子」の超映画批評だが、私はこの映画を見ていないが多分的確で、しかも親切心溢れるアドバイスを監督に贈っている。
と言うのも、私は新海監督の次回作の題名が「天気の子」というタイトルだと聞いた時点で見る気を失っていたのである。それほど、視聴意欲を減退させる題名であり、それが名作だとしたら、私は自分の嗅覚を信じられなくなるところだった。私は、映画への嗅覚はかなり鋭いのである。
いい映画というのは、たった一枚のスチール写真(正しくはスチル写真だが、我々の時代には確かスチールと言っていた記憶がある。)でも「あっ、これはいい映画だろう」という嗅覚が働くものである。それは当然の話で、映画のどのシーンも、監督が神経を使って撮影した映像であり、映画から切り取られた一枚の写真になってもその魅力が消えるはずはないのである。映画のタイトルも同じで、タイトルに無神経な監督がいい映画を撮れるはずがない。その意味では「天気の子」というタイトルは落第である。天気にも子供にも興味の無い人間が、意味不明の「天気の子」というタイトルの映画を見たくなるはずがない。つまり、「君の名は。」で新海監督の名前を知った浮動層と固定的新海ファンしか見る気にはならないタイトルだ。
(以下引用)
この最新作は、前作から3年間もの月日をかけるという、おそらく彼にとって映画監督としては過去最高の制作環境に恵まれたはずで、その意味では監督の渾身の作と言える。
じっさい、新宿の街並みをはじめとする背景美術の精細さは見事なもので、おそらく世界中を見ても並ぶものはないだろう。光の表現力も同じで、それを生かせる「天気」を、絶対に失敗できない「ブレイク後の一作目」の題材に選んだのもよくわかる。
ところで、まわりは宮﨑駿の後継者などというが、新海誠は彼とは正反対の監督である。
宮﨑駿は自身の年齢とともに興味が移りゆき、作風は維持しながらもテーマはどんどん変わっていく、そういうタイプのクリエイターだ。細田守などもその系統だろう。自身の子育て時代は若いキャラクターの成長を描き、老年になれば生と死の問題に移行する。人としてじつに自然なことだ。こういうタイプのクリエイターの場合、一度ついたファンは一生ついて来てくれる。ファンも同じように年を取り、同じように興味も変化するからだ。
だが新海誠は違う。彼は「変わらない」タイプの映画作家だ。新海監督はデビュー以来、一貫して男女の心の機微といった、ようは似たようなテーマを何度も何度も何度も何度も描き続けている。『君の名は。』もそうだし、『天気の子』もまた同じだ。私は彼と同世代だが、よくぞこの年になって、こんな恋愛を描けるものだと驚かされる。普通の人なら通り過ぎて二度と振り返らない何かを、彼はずっと見つめている。なかなか真似できないことで、凄いなと思う。
だが、このタイプのクリエイターが不利なのは、ファンが年を取って先に行ってしまうことだ。
新海監督は、こういう映画をもう20年も作り続けているが、初期作に夢中になった人も、もう中高年。いまだに彼の描くテーマに興味を持ち続けているファンが、そう多く残っているとは思えない。
その意味で彼は、最近セカイ系に入門してきた若いファンを常に開拓し続けなくてはならない宿命にある。こういうタイプの監督に、右肩上がりの興収を期待するのは相当厳しい事だろうと私は思う。
あえて乱暴に言ってしまうが、セカイ系なるものは、要するにたかが子供同士の色恋沙汰に、世界の法則をリンクさせ、"僕らの恋の素晴らしさ"を宇宙レベルにまで高めまくる世界観である。
それが実は、単にテストステロンと性欲に支配された、とるに足らない生物界の日常茶飯事だったと彼らが気づけば、自然に卒業していくようなジャンルである。
それでも中二病の新規客はこの総オタク時代、引きも切らないからニーズは今のところ絶えない。誰でも思春期にわずかばかり経験する、しあわせな盲目時代。それを今まさにすごす少年少女に、どこまでリーチできるかが勝負となる。国内は少子化だから先行きは不安だが、海外にはまだブルーオーシャンもあるだろう。
脱線したので映画に話を戻すが、前作『君の名は。』にもそうしたイタ恥ずかしい要素はあったものの、ヒット請負人・川村元気プロデューサーの手腕か、うまいことそのあたりは薄め、一般向けにエンタメ要素を高めてあり、ストーリーも面白かった。そこに旧来からの新海アニメが持つ、まだほとんどの日本人が知らなかった超絶美術のインパクトで度肝を抜き、社会現象的ヒットとなったわけだ。
そうした初期からの流れを知る者からすると、『天気の子』は「元に戻ったね」との一言に尽きる。
今回もっともまずいのは、『君の名は。』でいちげんさんの心をつかんだ、肝心の超絶美術の魅力が薄いことだ。
ストーリー上、どんよりした灰色の雨空がほとんどで、スペクタクルとなる天空のシーンも設定上、映像的快楽をもたらす使い方はほとんどされていない。
舞台となるのは都内で最も薄汚い新宿歌舞伎町で、あの新海誠が描いてもやっぱり薄汚い。
前作までは新宿が出てきても、それなりに美化していたと思うが、今回は歌舞伎町を、地方出身の少年いわく「冷たい街トーキョー」の象徴として描いているので、見ているだけで不安をかきたてるような、そこから離れたくなるような映像となっている。
次に舞台となる田端という町も、正直あまり絵になる風景ではなく、等身大の生活者の空気感は出ているし設定的にも的確だが、観客の心が上がることはない。
ギャグシーンも、相変わらず不器用で笑えない。出てくる女の子キャラも、相変わらず男の妄想的存在でリアリティが薄い。
要するに、エンタメが弱いのである。
スペクタクルの描き方、ストーリーへの活かし方が、この監督の場合、ファンタジー度合いが上がるほど下手になる。これは以前からの特徴で、それが「元に戻ったね」の意味である。
この点こそが、同じヒットアニメ請負人としての、宮﨑駿と新海誠の最大の違いといえるだろう。宮﨑監督には、天才的というほかない圧倒的なエンタメ演出の才があり、どんなにつまらないテーマを描いても、良質な娯楽作品にしてしまう。
私が考えるに、新海監督は『秒速5センチメートル』の第一話とか『言の葉の庭』のような、あまりファンタジックな要素のないドラマと相性がよく、もっとも持ち味を生かせるジャンルだと思うのだが、残念ながらそういう「興収5億円」を目指すような映画づくりは、周囲がもう許してくれまい。
また、これまでの作品を見ると、彼の本質はきっと文学者なのだろうと思うが、こういう人に大衆ウケと大ヒットを押し付けてしまうと、『天気の子』のような安易なファンタジーものをやることになり、文学でなくラノベになってしまう。
それでは前作でせっかくたくさんつかんだ「大人のお客さん」は、期待外れと感じてしまうだろう。このジレンマこそが、私が事前に感じていて、不幸にも的中した「不安」であった。
それでも、250億円を稼げる映画監督はほかにいないから、今後も彼の背中には重い重いヒットの重責がのしかかる。
個人的には、彼には「変わらないタイプの作家」として踏ん張ってほしい気持ちもあるが、一方で『天気の子』でも描いているようなイタハズい男女の物語は、われわれ大人にはかなりキツイ。
ここは彼の個性であるセカイ系的なテーマから一度離れるか、やるならファンタジー要素を思い切って削るか。
いずれにしても、次回作となるブレイク二作目にして、新海誠監督は作り手としては相当厳しい岐路に立たされていることが、本作で明らかになったように思う。
個人的にはこういう恋愛ものはもうやめて、よいストーリー作家と組んだら新しい地平が開けるように思うが、決めるのはもちろん監督自身である。そして、どの方向に進んでも目が離せない、不世出な映画作家なのは間違いない。ぜひ次も頑張ってほしい。