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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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私はどうでもいいような些細なことの中にある謎を考察するのが趣味なので、この記事のタイトルを見て、なぜそれほど頻繁に遅刻したのか、またなぜそれが許される状況だったのかが知りたくて記事を読んだわけだ。
そうしたら、驚いたことに、今年四月までこの職場(公務員に入ると思うが)にはタイムレコーダーが設置されていなかったと言う。それでは、「遅刻OK」だと暗黙のうちに言っているのと同じではないか。果たして、館長などは就業開始時間にきちんと出勤していただろうか。
もうひとつ面白いのは、タイムレコーダーが無いとしたら、この件が表面化したのは同僚の告発があったからだろう。市民などが目にしても、「たまたまだろう」と思うはずだ。
そういう人間関係の葛藤が背後にありそうで面白い。
そもそも、「文化会館」の仕事って、何があるのだろうか。


(以下引用)






タイムカード(画像はイメージです)=ゲッティ © 毎日新聞 タイムカード(画像はイメージです)=ゲッティ

 2012年4月から今年3月までの8年間にわたり連日平均約5分の遅刻を繰り返したとして、徳島県美馬市は17日、文化会館館長補佐の女性職員(51)を停職2カ月の懲戒処分とした。市によると、女性職員は年次有給休暇の手続きをせずに、午前8時半の始業時間に数分から約20分、頻繁に遅刻していた。時間通りに出勤したのは月2、3日で、8年間の欠勤時間は延べ20日相当という。


 3月26日に匿名の指摘が市にあり、翌27日に女性職員へ尋ねたところ、「体調が悪かった」と理由を述べたという。市が文化会館や消防署などに出勤時間などを記録するタイムカードを4月から導入したところ、1日以降、女性職員は遅刻していないという。


 文化会館は館長や女性職員ら計4人が勤務する。歴代の館長も複数回、指導していたが、遅刻が続いたといい、市は現館長と前館長の管理監督責任を問い、減給10%(3~1カ月)の懲戒処分とした。【松山文音】





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わたモテの最新号を見たついでに特別編を見て「リョナられる」という言葉が出てきたのだが、それがどういう意味なのか分からないので調べてみた。
前々からこの言葉自体は見ていたのだが、あまりネットスラングには興味が無かったのである。
ツィッターで妙に悟ったような発言をする山本貴嗣のイラストに、このリョナシチュエーションがよく描かれるのだが、私はこれが大嫌いなのである。サディズムとエロチシズムは明確に区別するべきだと私は思っており、サディズムは確かに性的興奮を高めるものだが、「恥ずべきもの」として抑圧されるべきだと思う。それでこそサディズムの価値もある。世間がサディズムを堂々と公認したら、世界からモラルは失われるだろう。つまり、隠花植物を日に当ててはならないのである。(この概念を世間に認識させたマルキ・ド・サドの思想家・哲学者としての功績自体は偉大だと思っている。)

(追記)私が山本貴嗣を嫌いなのは、エロ(リョナ)イラストばかり描いているくせにその隠れ蓑に頻繁にこういう偽善的発言をするところである。

自分は医学とはなんの関係もない漫画家だけど、互いに学生時代からの友人の医師がいて、大変な日常の話はよく聞いてました。残念ながらすい臓がんで亡くなってしまいましたが、最後の入院の直前まで痛み止めを打ちながら奉職してました。すべての医療関係者に幸いあれ。感謝合掌。


リョナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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リョナは他者が物理的な暴力や拷問などの苦痛に晒されて苦悶の表情を浮かべたり性的なニュアンスの悲鳴を上げるシチュエーションに対する性的嗜好を指すインターネットスラングである[1]

概要[編集]

「リョナ」という単語は、「奇的シチュエーション」の略語、もしくは「奇作品によるオニー」を組み合わせて造語されたものである。


その要件は、被害者が女性であることと、性的虐待の要素が皆無ないしシチュエーション上でそれほど重要なウェイトを占めていないことの2点とされている[1]。被害者が男性の場合は「逆レイプ」と同じように「逆リョナ」と言う表現が使用される場合もあるが、リョナと逆リョナのどちらも加害者が異性であることは要件とされず[1]、そもそも人間ではない怪物を加害者とする描写も見られる。


特にこの性的嗜好を持たない者から見た場合、女性に対する加虐行為がシチュエーション上の重要なウェイトを占めているように見えるためサディズムとの区別がつきにくいが、実際にこのシチュエーションが含まれるフィクション作品を好んで鑑賞している立場では(本人にその自覚が無い場合を含めて)加害者側でなく被害者側の女性に対して感情移入しているケースが大半を占めると言われている[2]。つまり「美少女になりたい」と言うTSF的な性別変化願望と「残虐な状況に巻き込まれて犠牲者になりたい」と言う他殺願望(Aoutoassassinophilia)が複合した嗜好と考えられる[2]


近似のシチュエーションとしては、戦闘美少女や変身ヒロインが敵の攻撃で身動きが取れなくなったり連続攻撃を一方的に受けて窮地に追い込まれるシチュエーションのヒロピン(「ヒロインピンチ」の略)がある。ヒロピンとリョナとの間には明確な線引きが行われている訳ではないが、全身を拘束されたり軽度の流血を伴う程度のものはリョナとしては扱われない(広く定義する場合は「微リョナ」もしくは「ソフトリョナ」と呼ばれる)のに対し、危機的状況からの逆転が不可能なまま絶望的なシチュエーションに至るものがリョナに分類される[3]

語源と定義[編集]

「リョナ」と言うスラングが成立した時期と経緯は明確となっており、2003年電子掲示板2ちゃんねるゲームサロン板で立てられた「【きゃあっ】萌える悲鳴のゲーム【あんっ】」と題するスレッドが発祥とされている[1]。このスレッドでは『バイオハザード』等のホラー要素を含むゲーム中の描写が主な話題となっていたが、652番目の書き込みでそうしたシチュエーションで女性が死に至る描写をおかずにオナニーする行為を「猟奇オナニー」と命名することが提案され、その書き込みに対して提案された省略形の「リョナニー」を経て「リョナ」と呼ばれるようになった[1]


語源の「猟奇」から単にグロテスクな描写が対象と解釈される場合も珍しくないが、リョナの場合は犠牲者となる女性の側への感情移入が大きなウェイトを占めているため、

  1. 敗北して理不尽な目に遭わされる
  2. 通り魔や怪物に目を付けられて理不尽な目に遭わされる

のどちらかに大別し得るシチュエーションが多く[3]、これらに当てはまらないものは猟奇的であってもリョナの要件を満たさない。

シチュエーション[編集]

解釈は人によって様々であるが、以下のようなシチュエーションが含まれることが多い。

  • 長期間の監禁・拘束を強いられるなどの精神的苦痛
  • 敵に捕われて自白強要(場合によっては尋問者のサディズム)目的で拷問を受ける肉体・精神両面からの苦痛
  • 暴力の応酬に晒されて死に至るか四肢切断などの回復不能な外傷、後遺症が残る
  • 怪物の餌として生きたまま捕食される

ジャンル化[編集]

2010年代の前半からは、商業作品でも成人向け漫画のキャッチコピーなどで「リョナ」が使われる事例が見られるようになった。特に「闘うヒロインオンリー漫画雑誌」を編集方針に掲げていたキルタイムコミュニケーションの『コミックヴァルキリー』(2006年 - 2012年ウェブコミック誌へ移行)はリョナやヒロピンの描写を含む作品を中心に掲載しており[3]、掲載作品の惹句でも「リョナ」を多用することで知られている。







性別不明で推定年齢三十歳~四十歳というのが実に残念で、スレッドコメントにあったが、クレヨンしんちゃんに出てくるオカマを連想した。
しかし、バラの花を口にくわえていたところは大いに評価したいwww

(以下引用)


(新潟)長岡市川崎町で公然わいせつ類似行為 4月9日夕方


©日本不審者情報センター合同会社




新潟県警によると、9日午後4時ごろ、長岡市川崎町で小学生への公然わいせつ類似行為が発生しました。(実行者の特徴:性別不明、30〜40歳、175センチ位、深緑色ジャケット、黒色タイトスカート、黒色パンツ、黒色帽子、黒色ヒール、薔薇をくわえている、自転車)


■実行者の言動や状況
・薔薇をくわえ、自分のスカートをめくり、児童らにパンツを見せた。


■現場付近の施設
・川崎東小学校、東北中学校、長岡商業高校、長岡大手高校、長岡中央綜合病院



某ブログからの転載。
私も同感で、あの頃の学生運動は「何のための」運動だったのか。単に「マルキシズム」という「新興宗教」への熱狂と、その教祖的存在だったソ連への信仰だけだったのではないか。そもそも、学生運動をしていた人間の誰一人「資本論」など読んでもいなかったと思うし、社会主義と共産主義の区別もついていなかったような気がする。
そして、社会(一般大衆)を貧困から救う、という意識もほとんどなく、自分たちは普通の労働者より知的な指導層なのだ、という意識があったとしたら、大衆が彼らを支持しなかったのは当然だろう。もちろん、彼らの理想主義は米国の代理人やそのおこぼれに与ろうとする経済人などより立派だったとは思う。しかし、要するに「子供の政治ごっこ」だったと総括していい。
学生運動の馬鹿馬鹿しさへの批判と軽蔑が、日本の政治的革新運動全体への猜疑心となり、日本人の政治参加への不安心を煽り、社会全体をノンポリ化し、日本の民主主義は根付く前に窒息したのである。今でも仮死状態だ。つまり、学生運動は日本の民主主義を五十年遅らせたと言っていい。


(以下引用)


上記文抜粋
・・・・・・・・・・
この当時の学生運動は「左翼」を自称し、セクトによっては共産主義を掲げているわけだが、
当時の文書を読んでも生き残りの話を聞いても、本来の社会主義の目的である、
「貧困の撲滅」「公正な分配」「全ての人が人間として認められ、生きられる社会の実現」
といった要素が全く感じられず、ただ「体制打倒」「反米」を繰り返すだけで、
「本当に左翼だったのか?」という疑問はぬぐえない。
結果、今日の研究者からは「反米愛国運動」とのレッテルを貼られてしまっているわけだが、やむを得ないと思うところもある。
日本において、NK党や社民党を含めて、「左翼」が貧困層から積極的な支持を受けていない根源的理由であろう。
ネットで一部のあほが嘲笑している香港製のマスクに表記された「飛ぶナメクジ(を除去する)」だが、あれは工事現場や鉱石精製工場などでの鉱滓、つまりslagを、日本語に訳した人がslugつまりナメクジと見間違えたか、あるいは機械翻訳だったのではないか。
その種の言葉間違いなど日本の店の店頭ポップに腐るほど見られるし、大新聞でも良く見るのに、それが日本人以外のアジア人のミスだと鬼の首でも取ったように嘲笑するのが糞である。なお、英語能力については香港人はほぼ母語であると見るべきだろう。

「恋愛ラボ」の「失敗しても成功」という作戦を思い出す。


(以下引用)のつもりが、引用できないので、何の話かは想像に任せる。ある偉い人が自宅で優雅に過ごす動画が大批判を巻き起こし、そのためにそれ以外の政治的失敗がまったく世間の耳目から消えた件でのその動画の役割である。










前田有一による「天気の子」の超映画批評だが、私はこの映画を見ていないが多分的確で、しかも親切心溢れるアドバイスを監督に贈っている。
と言うのも、私は新海監督の次回作の題名が「天気の子」というタイトルだと聞いた時点で見る気を失っていたのである。それほど、視聴意欲を減退させる題名であり、それが名作だとしたら、私は自分の嗅覚を信じられなくなるところだった。私は、映画への嗅覚はかなり鋭いのである。
いい映画というのは、たった一枚のスチール写真(正しくはスチル写真だが、我々の時代には確かスチールと言っていた記憶がある。)でも「あっ、これはいい映画だろう」という嗅覚が働くものである。それは当然の話で、映画のどのシーンも、監督が神経を使って撮影した映像であり、映画から切り取られた一枚の写真になってもその魅力が消えるはずはないのである。映画のタイトルも同じで、タイトルに無神経な監督がいい映画を撮れるはずがない。その意味では「天気の子」というタイトルは落第である。天気にも子供にも興味の無い人間が、意味不明の「天気の子」というタイトルの映画を見たくなるはずがない。つまり、「君の名は。」で新海監督の名前を知った浮動層と固定的新海ファンしか見る気にはならないタイトルだ。

(以下引用)



この最新作は、前作から3年間もの月日をかけるという、おそらく彼にとって映画監督としては過去最高の制作環境に恵まれたはずで、その意味では監督の渾身の作と言える。


じっさい、新宿の街並みをはじめとする背景美術の精細さは見事なもので、おそらく世界中を見ても並ぶものはないだろう。光の表現力も同じで、それを生かせる「天気」を、絶対に失敗できない「ブレイク後の一作目」の題材に選んだのもよくわかる。


ところで、まわりは宮﨑駿の後継者などというが、新海誠は彼とは正反対の監督である。


宮﨑駿は自身の年齢とともに興味が移りゆき、作風は維持しながらもテーマはどんどん変わっていく、そういうタイプのクリエイターだ。細田守などもその系統だろう。自身の子育て時代は若いキャラクターの成長を描き、老年になれば生と死の問題に移行する。人としてじつに自然なことだ。こういうタイプのクリエイターの場合、一度ついたファンは一生ついて来てくれる。ファンも同じように年を取り、同じように興味も変化するからだ。


だが新海誠は違う。彼は「変わらない」タイプの映画作家だ。新海監督はデビュー以来、一貫して男女の心の機微といった、ようは似たようなテーマを何度も何度も何度も何度も描き続けている。『君の名は。』もそうだし、『天気の子』もまた同じだ。私は彼と同世代だが、よくぞこの年になって、こんな恋愛を描けるものだと驚かされる。普通の人なら通り過ぎて二度と振り返らない何かを、彼はずっと見つめている。なかなか真似できないことで、凄いなと思う。


だが、このタイプのクリエイターが不利なのは、ファンが年を取って先に行ってしまうことだ。


新海監督は、こういう映画をもう20年も作り続けているが、初期作に夢中になった人も、もう中高年。いまだに彼の描くテーマに興味を持ち続けているファンが、そう多く残っているとは思えない。


その意味で彼は、最近セカイ系に入門してきた若いファンを常に開拓し続けなくてはならない宿命にある。こういうタイプの監督に、右肩上がりの興収を期待するのは相当厳しい事だろうと私は思う。


あえて乱暴に言ってしまうが、セカイ系なるものは、要するにたかが子供同士の色恋沙汰に、世界の法則をリンクさせ、"僕らの恋の素晴らしさ"を宇宙レベルにまで高めまくる世界観である。


それが実は、単にテストステロンと性欲に支配された、とるに足らない生物界の日常茶飯事だったと彼らが気づけば、自然に卒業していくようなジャンルである。


それでも中二病の新規客はこの総オタク時代、引きも切らないからニーズは今のところ絶えない。誰でも思春期にわずかばかり経験する、しあわせな盲目時代。それを今まさにすごす少年少女に、どこまでリーチできるかが勝負となる。国内は少子化だから先行きは不安だが、海外にはまだブルーオーシャンもあるだろう。


脱線したので映画に話を戻すが、前作『君の名は。』にもそうしたイタ恥ずかしい要素はあったものの、ヒット請負人・川村元気プロデューサーの手腕か、うまいことそのあたりは薄め、一般向けにエンタメ要素を高めてあり、ストーリーも面白かった。そこに旧来からの新海アニメが持つ、まだほとんどの日本人が知らなかった超絶美術のインパクトで度肝を抜き、社会現象的ヒットとなったわけだ。


そうした初期からの流れを知る者からすると、『天気の子』は「元に戻ったね」との一言に尽きる。


今回もっともまずいのは、『君の名は。』でいちげんさんの心をつかんだ、肝心の超絶美術の魅力が薄いことだ。


ストーリー上、どんよりした灰色の雨空がほとんどで、スペクタクルとなる天空のシーンも設定上、映像的快楽をもたらす使い方はほとんどされていない。


舞台となるのは都内で最も薄汚い新宿歌舞伎町で、あの新海誠が描いてもやっぱり薄汚い。


前作までは新宿が出てきても、それなりに美化していたと思うが、今回は歌舞伎町を、地方出身の少年いわく「冷たい街トーキョー」の象徴として描いているので、見ているだけで不安をかきたてるような、そこから離れたくなるような映像となっている。


次に舞台となる田端という町も、正直あまり絵になる風景ではなく、等身大の生活者の空気感は出ているし設定的にも的確だが、観客の心が上がることはない。


ギャグシーンも、相変わらず不器用で笑えない。出てくる女の子キャラも、相変わらず男の妄想的存在でリアリティが薄い。


要するに、エンタメが弱いのである。


スペクタクルの描き方、ストーリーへの活かし方が、この監督の場合、ファンタジー度合いが上がるほど下手になる。これは以前からの特徴で、それが「元に戻ったね」の意味である。


この点こそが、同じヒットアニメ請負人としての、宮﨑駿と新海誠の最大の違いといえるだろう。宮﨑監督には、天才的というほかない圧倒的なエンタメ演出の才があり、どんなにつまらないテーマを描いても、良質な娯楽作品にしてしまう。


私が考えるに、新海監督は『秒速5センチメートル』の第一話とか『言の葉の庭』のような、あまりファンタジックな要素のないドラマと相性がよく、もっとも持ち味を生かせるジャンルだと思うのだが、残念ながらそういう「興収5億円」を目指すような映画づくりは、周囲がもう許してくれまい。


また、これまでの作品を見ると、彼の本質はきっと文学者なのだろうと思うが、こういう人に大衆ウケと大ヒットを押し付けてしまうと、『天気の子』のような安易なファンタジーものをやることになり、文学でなくラノベになってしまう。


それでは前作でせっかくたくさんつかんだ「大人のお客さん」は、期待外れと感じてしまうだろう。このジレンマこそが、私が事前に感じていて、不幸にも的中した「不安」であった。


それでも、250億円を稼げる映画監督はほかにいないから、今後も彼の背中には重い重いヒットの重責がのしかかる。


個人的には、彼には「変わらないタイプの作家」として踏ん張ってほしい気持ちもあるが、一方で『天気の子』でも描いているようなイタハズい男女の物語は、われわれ大人にはかなりキツイ。


ここは彼の個性であるセカイ系的なテーマから一度離れるか、やるならファンタジー要素を思い切って削るか。


いずれにしても、次回作となるブレイク二作目にして、新海誠監督は作り手としては相当厳しい岐路に立たされていることが、本作で明らかになったように思う。


個人的にはこういう恋愛ものはもうやめて、よいストーリー作家と組んだら新しい地平が開けるように思うが、決めるのはもちろん監督自身である。そして、どの方向に進んでも目が離せない、不世出な映画作家なのは間違いない。ぜひ次も頑張ってほしい。

町山智浩のツィートだが、私も大林宜彦監督の映画の安っぽいSFXにはいつも乗れなかった。高校生の自主映画みたいなものを、カネを払って映画館で見させられるのかよ、という感じである。
だが、「時を駆ける少女」は、その安っぽさも「青春の抒情」とうまくマッチし、原田知世の魅力もあって、好きな作品のひとつである。と言うより、「HOUSE」とこれと、あと一本か二本しか見ていない。「HOUSE」は、大学生の自主映画なら凄いと評判になっていただろう。十代の若手女優やタレントのヌードやセミヌードが拝めるという点ではなかなか得難い作品でもあった。

(以下引用)

大林宣彦監督のデビュー作『HOUSE』(77年)を観たのは中学生の頃だったが、あまりにオモチャっぽい作りに拍子抜けした。『金田一耕助の冒険』も『ねらわれた学園』も正直つらかった。ところが82年、ATGで撮った『転校生』で打ちのめされた。映画館でみんなみんな鼻を啜っていた。
山本貴嗣がよくリツィートするので存在だけは知っているが、名前が「つしま」でいいのかどうかさえ知らない漫画家である。それとも「俺、つしま」が名前なのか。
それはともかく、この人が描く漫画は、キャラの描きかたが某漫画家のパクリである。名前は忘れたが、「Golden Lucky」とか何とかいうナンセンス漫画などを描いていた人(今思い出した。榎本俊二である。)で、ウンコの大好きな人だ。こちら(つしま)の漫画では猫はリアルに描いて、人物は極端に単純化したフォルムで描いているようだが、その人物のフォルムの描きかたが完全にパクリなのである。まあ、この「つしま」の漫画を見れば一目瞭然だが、残念ながらコピーできないので、指摘だけしておく。あらいけいいちの「日常」のキャラの描き方やギャグがあづまひでひこの模倣に近いという程度のものではない。
漫画家に特有の個性的なキャラは、著作権の対象だろう。つまり、そのパクリは犯罪行為である。まあ、最近は堂々とその犯罪行為をやる三流漫画家が増えているし、私は著作権法そのものには批判的だが、先達が苦心して作ったキャラを盗用する精神は最低である。

(以下引用)

や、どうも。つしまです。2019年5月27日に『俺、つしま』2巻がしょんがっかんから出ることになりましたよ。俺の特設サイトはこちらです。
病院内理髪店なんだから、感染させたのは店の客、つまり病院職員か患者だろう。見舞客がわざわざ感染危険性の高い病院内理髪店で理髪させるわけがない。つまり、病院職員や患者の中で、この事件の直前に理髪したことが周囲に知られている人間がそれだ。
だが、「犯人」を特定してもどうしようもないし、罪に問うことも賠償金を請求することも不可能だろう。そんなことを言い始めたら、(特定不可能な)電車内などでの感染はどうする、ということになる。
私が気になるのは、ECMOを装着して回復した例はほとんど無いように思えるのだが、その処置を拒否することは不可能なのか、また、その料金はいくらくらい請求されるのか、それに対する法的な減額措置はあるのか、ということである。
命は何よりも大事だ、という建前で、無意味な救命措置が執られ、それが病院のカネ儲けに利用されているのではないか、という疑問である。その作業をする医師や看護婦の苦労とは別問題として考えるべきだろう。

新型コロナ、京都府内初の死者 病院内理髪店の60代男性店主、人工肺装着も容体悪化

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京都府庁

京都府庁


 京都府は9日、新型コロナウイルスに感染して入院中だった京都市の60代男性が死亡したと発表した。府内で感染者が死亡したのは初めて。


 府によると、男性は長岡京市の病院内にある理髪店の店主。3月6日に発熱やせきなどの症状を訴え、12日にPCR検査で陽性が判明し府内の指定医療機関に入院していた。


 体外式膜型人工肺(ECMO)を装着するなどの処置を施したが徐々に容体が悪化し、9日夕に死亡が確認された。死因は新型コロナウイルス肺炎による呼吸不全で、糖尿病と肺気腫の基礎疾患があったという。男性への感染経路は分かっていない。


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