最早どう終わるかしか価値を見い出せないし途中経過なんかどうでもいい
先ほどまで見ていた「史上最強の大魔王村人Aに転生する」は、シリーズ構成と最初のあたりの脚本にベテランの横手美智子の名前があったので期待して見たが、最悪に近い内容である。何より、題名に偽りありである。この題名からすると、少なくとも話の中盤くらいまでは主人公は単なる村人Aとして存在し、史上最高の大魔王としての自意識と現実とのギャップで視聴者の笑いを誘う内容が期待されるはずだ。少なくとも私はそう期待した。しかし、最初から抜群の魔法能力を持ち、最初からヒーロー的行動をする。つまり「村人A」と呼ばれるような平凡な存在ではないわけだ。後で出て来る設定だが、出生段階ですでに英雄の子供だという設定も「村人A」どころではない。
で、途中からは愚劣なほどシリアス展開になる。そこが下らない。出て来るキャラもありきたりだし、ギャグもありきたりで、脚本家が最初からやる気が無いのではないかと思う。まあ、監督が無能でもあるのだろう。シリアス展開以外はくだらない「ハーレム展開」と軽エロばかりである。つまり、視聴者を舐めている。「お前ら、こんなのが好きなんだろ」と投げ出された粗製乱造の菓子である。
まあ、意に染まない原作を与えられた脚本家が適当に書いたのだろう。
横手美智子への私の評価は最低レベルに落ちた。
なお、私の意見では「超能力」を科学で生み出すのは荒唐無稽そのもので、魔術と対立させること自体が無意味だと思う。まあ、それを言うと、話の土台が無理になるのだが。フィクションだから、理屈など屁理屈でいいと言えば、そうではある。しかし、見ている間はうまく酔わせるだけの嘘になるかどうかは別である。そして、酔えなくても「批判的に見る」「批評的に見る」見方というのもある。それはそれで、頭を使う楽しさはある。
これもついでに言えば、私は「超能力」の中には常人には眠っている「高度能力」「意識してはできない能力」というのもあって、それは科学的には、あるいは訓練では開発できないだろうと思っている。「第六感」や「虫の知らせ」の類である。他人の視線を感じる、などはよく見られる現象だが、それはおそらく、無意識に誰かを見た時に、その相手が偶然的にこちらを見ていただけだろう。ただ、人間ではなく、蠅や蚊などが人間の「殺気」を感じて逃げるというのはあるように思える。これなどは科学で解明できるかもしれない。
(以下引用)
『とある魔術の禁書目録』(とあるまじゅつのインデックス)は、鎌池和馬による日本のライトノベルシリーズ。また、それを原作・題材とした派生作品群。イラスト担当は灰村キヨタカ[注 1]。
概要
鎌池和馬のデビュー作にして出世作。SFやファンタジーの要素を取り入れ、超能力や兵器などオーバーテクノロジー尽くしの「科学サイド」と、聖書や魔術などのオカルト尽くしの「魔術サイド」という、相反する設定の2陣営が混在し対立するという世界観を描いたバトルアクション作品である。
略称は「とある[2]」「禁書目録[1]」「禁書[2]」「インデックス[2]」など。スピンオフを含めて「とあるシリーズ[3]」と呼ぶ場合もある。
2021年5月現在、電撃文庫(KADOKAWA[注 2])より、既刊57巻(本編54巻、短編集3巻)が刊行されている。また、スクウェア・エニックスの『月刊少年ガンガン』2007年5月号より連載されている漫画版は2022年12月現在、単行本が28巻、ガイドブックが2冊発売されている。
本作のスピンオフ作品『とある科学の超電磁砲』『とある科学の一方通行』については、当該項目を参照のこと。
解説
作品成立の経緯
鎌池が第9回電撃ゲーム小説大賞の第3次選考に落選した際、現在の担当編集者である三木一馬の目に留まり、その後1年ほど2人で試作を何本も考案・執筆し試行錯誤を続ける。その中の1本にあったシスターの少女と不思議な腕を持つ少年の話を基に生まれた作品が本作である[4]。
構想の原点としては、「RPGのようなMP消費で何でもありの魔法使い」とは別の、歴史上に実在した魔術師や儀式への疑問を持った鎌池が検索エンジンでそれらを調べ興味を深めたのがきっかけ[5]。そして、最初にインデックスを考案し、彼女を軸に魔術や上条が作られ、それらの対比として学園都市という舞台が生まれるなど、様々な要素を肉付けしていく形で本作の設定が広がったという[6]。
しかし、導入部で駄目なアニメがたいてい駄目であるのはほぼ確実で、その多くは「またこのパターンか」というタイプだ。つまり、異世界転生もので、その異世界がゲーム的世界で、しかもゲーム的なギミックが毎度似ているということだ。作るほうも飽きないのだろうか。
そもそも、好きで作っているとも思えないし、原作小説や原作漫画も、単に「ゲームが好きだから、それに似た作品なら簡単に書ける」から書いていただけだろう。異世界描写などロクにしてもいないし、する能力も無いと思う。だから、そのアニメも似たり寄ったりになる。
先ほど見終わったアニメのタイトルすらもう忘れている始末である。確か、「勇者辞めます」だったか。最後まで見たのだから、設定は悪くないし、途中までは並み以上の作品だと思ったのだが、途中から、話の調子が激変する。最初の「お気楽」調が、終盤に入ってやたらとダークになり、主人公の苦悩が描かれるのである。誰がそんなのを見たいのだよ。
その後で「転生賢者が何とか」というアニメを初回だけ見たが、まさに異世界転生アニメの悪いところを集めたような作品で、これは2回目以降を見る元気は出そうもない。
で、飯を食いながら、これまで敬遠していた「とある科学の超電磁砲」を見たのだが、「科学」とも「超電磁砲」とも無関係な話のようだ。監督が、私の嫌いな長井龍雪で、嫌いとは言ってもアニメ監督としては水準以上の能力はあると思う。ただ、その「匂い」が嫌いなのである。たぶん、アニメおたくへの「お前ら、こういうのが好きなんだろ?」という感じのアプローチが嫌いなんだと思う。クリエイターよりプロデューサー的意識でアニメを作るという感じか。宮崎駿などとは対極的である。(2回目まで見て分かったが、かなり笑いの質が低い、冗談に紛らせて製作者のエロ趣味を露骨に出した、劣化版「あずまんが大王」であるようだ。要するにギャグアニメで、SF的設定は単なる味付けである。)
最初に書こうと思ったことだが、世間の人は
1:剣と魔法の物語(中世西洋を舞台にしたファンタジー)
2:異世界ファンタジー
3:異世界転生物語
を区別していないと思う。2と3は一見、中世西洋を舞台としているようでありながら、現代科学の要素やRPGゲーム的要素が色濃く影響している。たとえば、能力値設定などで、私などはこれが出てきたら、完全に萎えてしまう。ひどいのになると、HPやMPという言葉まで平気で使われる。当然、中世西洋の風物の描写はおざなりである。
まあ、ゲームで育った世代がアニメのクリエイターのほとんどを占めているのだろう。
ちなみに、冒頭部分しか見ていないが、「ジャックと天空の巨人」は、中世西洋の雰囲気はかなり誠実に描かれているようだ。アニメ制作者は参考にしたらいい。
【驚愕】全国学力テスト「8人で4㍑のジュースを分けると?」→小6の36%「ひとり2リットル!」
8人に4リットルのジュースを分けると1人何リットル?小学6年生の約半数が間違えた理由
https://resemom.jp/article/2022/12/26/70167.html
全国の小・中 学生の学力水準を把握するために、文部科学省・国立教育政策研究所によって行われる全国学力・学習状況調査は、「全国学力テスト」ともいわれ、毎年4月に小学6年生と中学3年生を対象に実施されている。
令和3年度(2021年度)実施の同テストの小 学生・算数で出題された「問題4(2)」の「8人に、4リットルのジュースを等しく分けます。1人分は何リットルですか。求める式と答えを書きましょう。」の答えは「0.5または2分の1」となるが、「2」と解答した児 童が36.0%、約半数が誤答という結果となった。
8リットル4人と勘違いしてる
まあ多いなとは思うけど
人間ってのは優れたエラー補正機能があって
大きい数÷小さい数の場合が多いからそう思ってしまうと
8リットル4人と脳が認識してしまう
文章に多少の誤字があっても自動補正して気付かずに正しく読めることもあるけど
そのせいで勘違いすることもよくある
教師「間違いです。リットルで答えろ言ってんだろ馬鹿。」
こんな教師本当に居るからなぁ
大人の国語力の低下も社会問題やね
そりゃアスペも増えるわけだ
って問題文にすれば正答率かわりそうだな
それでホント正答率上がったら完全に掛け算順序問題で意味を理解せずに順番だけ叩き込まれたことによる弊害だな
「4リットルのジュースを8人で分けると?」
の方かわかりやすい
文章から計算式を構築する能力チェックだろうからわざとのひっかけだろう
進むますかじゃ答えられんわな
免許の試験で疑心暗鬼になったから、よく考えた可能性が
簡単すぎると逆に疑うってのはあるかも
出題者がアーニャだから声に出して答えなかっただけなんじゃ?
「4リットルのジュースを8人で分けると?」の方がわかりやすい
500mlにどうやってみちびくの?
なるべく短くするように気を付けている
とすると、「サムズ」のズは何なのか。複数であるはずはない。親指は片手にひとつしかないし、両手でサムズアップをする馬鹿はいない。まあ、子供ならやるかもしれないが。
としたら、所有を表すsか?これもおかしい。親指がupを所有するのか。
まあ、英語の先生にでも聞いてみたらいい。
「追悼」の対象は、最近亡くなったアニソン歌手(こういう言い方は失礼か?)のことだろう。
(以下引用)
追悼で主題歌集を流しているのだが、ボルテスVのED「♪ なくものか ぼくはおとこだ しんじてる しんじてる そのひのことを このてでちちを だきしめるひのことを」と言う歌詞で、今ならチェンソーマンの主題歌だなとか思ってしまう。
これは「敗北主義」という言葉に似たパターンである。敗北主義者というのは、敗北したがる人ではなく、最初から「自分は敗北するだろう」と悲観的な考え方をする人間のことである。だが、敗北主義では、「無謬主義」のように勘違いをさせることはなさそうだ。たとえば、「私は無謬主義です」と堂々と言ってもおかしくはないだろう。もちろん、現実には過ちをしない人間はいないから、こういう主義は高慢かつ傲慢である。
「無謬主義」よりは「謝ると死ぬ病気」のほうが確実に意味が伝わりそうだ。
(以下引用)
ふと思ったけど、無謬主義と議会政治・民主政治って、相性悪いな… 日本のほとんど全部の政党が無謬主義だけど
しかし、創作技法の研究として、駄目作品を見る、というのはかなり有効な勉強法だと思うので、我慢して見たのが「真の勇者ではないと……辺境の村でスローライフを……」という長いタイトルのアニメである。これはかなり前に少し見て、愚劣な作品だと思ったのだが、「勇者的な人間が、普通人として辺境の村でスローライフを送る」という着想はかなりいいと思ったので再見してみたわけだ。
まあ、やはり愚劣な作品だったが、一番の欠点は、主人公に関わる主な連中が、主人公の過去の知り合いだということで、そういうのは話の最終段階で出すべきものだろう。つまり、辺境の村での出来事や人間関係が非常におざなりなのである。つまり、タイトルに偽りありだ。ついでに言えば、話の最初の段階からやたらに過去の回想を出すのは悪手であるとわかった。つまり、現在の描写もほとんどされていないのに、過去の話をされたら、作品全体が浅くなるのである。いかにも、作り物という感じになる。
原作や脚本を書いた人間が女性だと思われ、出て来る場面の半分が主人公と副主人公の女のいちゃつきばかりである。恋愛作品なら、RGP的な舞台はまったく必要が無いだろう。しかも、その舞台もいい加減で、現代日本とほとんど変わらない。冗談にもなっていない。単に、舞台設定が面倒だから、剣と魔法と非人間種族の存在以外はまったくRPG的設定を無視しているわけだ。
「いい加減に作る」ことと「本気でメタ的冗談をする」(「異世界おじさん」は、割と真剣にメタ的冗談をしていると思ったが、映像の粗雑さで見る気がしなくなった。もちろん、その粗雑さも意図的だったとは思う。)ことはまったく別である。
細部の駄目さはいちいち書く気もしないが、笑いのレベルが低いことと、無意味にエロ場面を出して一部の豚的アニメファンを引き寄せようというゲスな計算がやたらに目立つ作品で、監督の下種さが歴然としている作品だった。まあ、原作自体がそういう作品なのかもしれない。
ついでにメモとして書いておくが、私が書いてみたい話が、「丹下左膳が丹下左膳になったところから始まる丹下左膳の話」である。つまり、主人公が片目片腕になるシーンから始まる丹下左膳物語である。(ある意味、「レ・ミゼラブル」と同じく、主人公を最悪の状況から出発させる話だ。これ以降は上昇しかないから、見ている者に上昇の快感があるはずだ。)これに吉田松美の「不乱剣朱太郎」シリーズのテイスト、つまり「ズッコケ日活映画」の味わいを付ける。当然、主人公は毎回美女に惚れ、その美女も醜怪な容貌の朱太郎の超人的能力と中身の良さを知って好きになりかかるが、突然横笛を吹きながら意味なく表れた美青年剣士黒百合に一目ぼれして、彼と共に去っていき、朱太郎は腐るが、慣れているので、空にかかる大きな月を見上げて(あるいは月を背景に歩き出して)終わりである。
フーテンの寅さんにも通じる男の魅力… 大阪のマンガ家・吉田松美の「不乱剣シリーズ」 (1/2ページ)マンガ探偵局がゆく
★ミッション(91)64年前に読んだマンガを探せ
夏休み時期になると少年時代を思い出す人が増えるらしい。今回はこんな依頼。
「子供の頃読んだマンガを探してくれる、と聞きました。私たちの年代は、マンガを読んでいると親に叱られるので、いまの人たちほどたくさん読んでいるわけではありません。でも、最近になって小学校の頃、兄が貸本屋さんで借りてきたマンガのことがしきりに思い出されるのです。チャンバラもので、フランケンシュタインの怪物のような顔をした剣士が主人公。シリーズものだったので、兄弟そろって何冊も読んでました。この程度の記憶でも探してもらえますか?」(75歳・ご隠居)
◇
これはなかなか難しい依頼だが、ご隠居さんの言う「貸本屋にあったマンガで、主人公がフランケンシュタインの怪物に似ている」という特徴から調査を進めてみた。
ご隠居さんが探しているマンガは昭和30年代に活躍した大阪のマンガ家・吉田松美の「不乱剣シリーズ」だと思われる。
江戸時代を舞台にしたチャンバラマンガで、主人公は謎の浪人・不乱剣朱太郎。秘剣・無明菊一文字を使う正義の剣士だが、フランケンシュタインの怪物に似ているために悪人だけでなく、女性や子供からも恐れられている。朱太郎の優しさと心の美しさに惹かれるヒロインも出てくるのだが、ヒロインを救ったあとで、朱太郎はひとり寂しく去っていく、というお決まりのパターンになっていて、のちの『男はつらいよ』のフーテンの寅さんにも通じる男の魅力がある。
(以下引用)「琥珀色の何とか」というブログより
【映画感想】ドラゴンクエスト ユア・ストーリー ☆☆
少年リュカは、ゲマが率いる魔物たちにさらわれた母を取り戻すため、父のパパスと共に旅をしていた。旅路の途中で彼らはついにゲマと出くわし、パパスは魔物たちと激しく戦うが、リュカが人質にとられてしまう。反撃できなくなったパパスが息子の目前で失意のうちに命を落としてから10年が過ぎ、故郷に戻ったリュカは父の日記を見つける。
2019年、映画館での17作目。
日曜日の夕方の回で、観客は30人くらいでした。
なんなんだよこの腐った『マトリックス』……
すみません、今回は全面ネタバレでいきますので、未見の方は読まないでください、といつもはお願いするのですが、正直、『ドラゴンクエスト5』というゲームに愛着がある方は、この先を読まないほうがいいのと同時に、この映画を観ないことをおすすめします。僕もできれば記憶を消したいです。なんで堀井さんやすぎやまこういちさんやスクウェア・エニックスがこんなものを世に出すことを許したのか理解不能です。
こんなもの出されても、幻滅するか嘲笑するかキワモノとしてネタにするかしかないし、一度こういうのを映画館で見せられると、前と同じ気持ちで『ドラゴンクエスト』に接することができなくなる。
以下はネタバレで書いています。
言葉も汚いです。
スルー推奨
僕は「ゲマ打倒後」のあの場面を目の当たりにしたとき、やり場のない怒りがこみあげてきました。
ジュースの紙コップとか靴とか、なんでもいいから、手にしたものをスクリーンにバンバン投げつけてやりたくて仕方がなかった。
つまらない映画はたくさんあるし、監督がやりたいことをやったおかげで、観客がついていけない映画もある。
そういう映画にうんざりすることはあるけれど、基本的には「それもネタになるし、つまんない映画があるから、面白い映画もあるんだよな」と考えることにしています。
だが、これはダメだ……
この作品の監督や脚本家は、ただひたすら『ドラゴンクエスト』とテレビゲーム、そして、そのプレイヤーたちを馬鹿にしている。
いや、本気で批判してくるのなら、そこに衝突があるのも「クリエイターと観客とのガチンコ勝負」として、受けて立つよ。
でも、この『ユア・ストーリー』って、遊んだこともない、思い入れもない原作を与えられた山崎貴という人が、自分の「作家性」をアピールするためだけに、使い古された「意外な展開」を描いて、『ドラゴンクエスト5』を長年愛し続けている人たちを不快にさせている、というリーマンショック級のクソ映画なのです。
「実はこれはゲームなんだ」
うるせー、そんなの百も承知だし、僕はこれまで40年くらい、ゲームと一緒に生きてきたんだよ。
そんなことはいまさらお前なんかに言われなくたって知っているし、ゲームを終えたあとの自分の周りの現実が悲しくなったことなんて腐るほどある。
いや、だからこそ、ゲームの世界はゲームの世界として、純粋なものであり、没入できる時間にしたいんだ。
おまけに、最後に「言い訳」として、「ゲームにのめりこんでいる時間も、自分にとって大切な時間なんだ!」とプレイヤーに言わせる、というクソ演出の上にクソ演出を重ねて、『ドラゴンクエスト』を愛してきた人たちの「怒り」すら封じようとするなんて、卑怯千万。
本当に観客の心をえぐりたいのなら、そこでとってつけたようなエクスキューズをやるんじゃねえよ。
少なくとも『エヴァンゲリオン』の旧劇場版での庵野監督には、「覚悟」があった。
山崎貴という人には、その覚悟が微塵も感じられなかった。なんか言われたら、「でも、ゲームを愛している人たちにも『配慮』していますから」って言うつもりなんだろうな、ほんと、なんでこんな人に『ドラゴンクエスト』を映像化させたのか……
インタビューを読んだら、『ドラゴンクエスト5』は未プレイらしいし。
なんでこの人に任せたのか、誰か止められなかったのか。
悲しくて涙が止まらない。
正直、僕はあのラストのくっだらない「これはゲームなんですよ」の場面までは、「まあ、ベタだけど、映像は綺麗だし、『ドラゴンクエスト』シリーズのひとつの派生物として、こういう映画もアリだな」って思っていました。
主人公は天空の勇者じゃなかったけど、主人公の子どもが勇者だった、うむうむ。中島らもさん、あの世で元気かなあ。
あのまま普通にミルドラースが出てきて倒して終われよ。みんな「ゲームそのままじゃん」とか言うだろうけど、それでよかったんだよ。
どうしても捻ったやつをやりたかったら、同人誌でも出すか、『ガロ』(漫画誌)にでも描いてくれ……
「どんでん返し」とか言われていたから、フローラと結婚?あるいはデボラ?とか思っていた頃が懐かしい……
これは、『ドラゴンクエスト』にとってはじめての映画化だったんだぞ。
「大人になれ」ってメッセージ、僕はそのままこのクソ映画を製作した人たちにお返ししたい。
あなたたちの「作家性を見せたい」「意外だったと思わせたい」というくだらない功名心のおかげで、『ドラゴンクエスト5』を「劣化マトリックス」にしやがって。
そのままでも、十分ドラマチックな物語なんだよ。心配してくれなくても、みんな映画館を出れば、現実に向き合ってるよ。僕らが何年テレビゲームと付き合っていると思っているんだ。
というか、絶対に観客に何か伝えようなんて思ってあんな展開にしたんじゃない。ただ、「観客をびっくりさせて、話題をつくりたかった」だけ。
「どんでん返し」も、斬新なやり方なら、好き嫌いは別として、「それはそれで面白い」のかもしれないけれど、『ドラゴンクエスト』というコンテンツの魅力を犠牲にして、ありきたりの「はい、これ実はゲームでしたー!」ってオチなんだから、どうしようもない。
脚本ができた時点で、誰かが「もうそんなメタ視点的な『どんでん返し』には観客は飽き飽きしてますよ。20年遅れてますよ」って言ってやれよ……
(中略)
僕にとっては、とにかく「スクリーンにいろんなものを投げつけたくなる映画」でした。
これを観た記憶を消したい……