どうも真中の「お友達内閣」ではないか、という疑いが濃厚だ。こういうのは上層部腐敗、そして長期のチーム腐敗の原因になりがちだと思うのだが。まあ、能力で択んだのかもしれないし、セリーグの他のチームが「転んで」くれたほうが横浜にとってはいいのだが。
ヤクルト三木氏ヘッド、押尾氏が戦略コーチに 来季スタッフ発表
ヤクルトは5日、リーグ連覇を目指す来季コーチ陣を発表した。三木肇作戦兼内野守備走塁コーチがヘッド格になるほか、押尾健一スコアラーが新設の戦略コーチに就く。スタッフは次の通り。
【1軍】監督 真中満(44)=日大 背番号77▽ヘッド兼内野守備走塁 三木肇(38)=上宮高 88▽投手 高津臣吾(46)=亜大 99▽同 伊藤智仁(45)=花園高 84▽チーフ打撃 杉村繁(58)=高知高 74▽打撃 宮出隆自(38)=宇和島東高 76▽外野守備走塁 福地寿樹(39)=杵島商高 73▽バッテリー 野村克則(42)=明大 78▽戦略兼スコアラー 押尾健一(44)=成東高 81
【2軍】監督 宮本賢治(56)=亜大 72▽投手 成本年秀(47)=京産大 86▽同 石井弘寿(38)=東京学館高 98▽打撃 斉藤宜之(39)=横浜高 83▽同 松元ユウイチ(34)=ルイス州立高 82▽内野守備走塁 水谷新太郎(61)=三重高 89▽外野守備走塁 笘篠誠治(51)=上宮高 79▽バッテリー 芹沢裕二(47)=大宮東高 90
[ 2015年11月5日 18:09 ]
(参考までに)三木は、一軍では終身打率が2割もいっていない選手だったようだ。なぜそういう選手が引退してすぐにコーチになれたのか、不思議である。別に本人の内野守備がうまかったわけでもなさそうなのに、内野守備コーチをやったり、謎だ。
三木肇
東京ヤクルトスワローズ コーチ #88 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府大阪市住之江区 |
生年月日 | 1977年4月25日(38歳) |
身長 体重 | 180 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1995年 ドラフト1位 |
初出場 | 1997年4月5日 |
最終出場 | 2008年6月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
三木 肇(みき はじめ、1977年4月25日 - )は、大阪府大阪市住之江区出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は東京ヤクルトスワローズの一軍作戦コーチ兼内野守備走塁コーチ。同じく元プロ野球選手の三木仁は実弟。
目次
[非表示]経歴[編集]
プロ入り前[編集]
上宮高校時代は高校通算23本塁打を記録した強打者として知られ、1995年のドラフト会議で福留孝介(近鉄が指名権獲得)・澤井良輔(ロッテが指名権獲得)と、くじに敗れたヤクルトが1位指名(外れの外れ1位)をして入団。
プロ時代[編集]
2001年には79試合に出場するも、シーズン打率は2割を切り、首脳陣の評価を得るには至らなかった。
2002年以降は城石憲之の台頭や、野口祥順の成長、田中浩康らの入団もあり、内野手の控えの地位すらも固められないシーズンが続いていた。
2004年には打撃開眼を期してスイッチヒッターに転向。この年は26打数7安打、翌2005年は11打数4安打とチャンスは少ないもののある程度の結果を残している。
2007年10月9日、代打でプロ最終試合に出場した古田敦也選手兼任監督の代走に起用された。
2008年に川島慶三・橋本義隆・押本健彦との交換トレードで、藤井秀悟・坂元弥太郎と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍。同年6月8日、3打数2安打・1四球・二塁打を含む2打点と活躍し、プロ13年目で初となるお立ち台を経験。10月23日付けで現役を引退。
引退後[編集]
引退後は、日本ハムの二軍内野守備走塁コーチに就任。2012年、一軍内野守備コーチに昇格。2013年、10月14日に退団する事が球団より発表された[1]。
2013年10月23日、2014年シーズンより東京ヤクルトスワローズ二軍内野守備走塁コーチに就任することが発表された[2]。翌2015年シーズンより一軍作戦コーチ兼内野守備走塁コーチに昇格。
プレースタイル・人物[編集]
度重なる手首の故障によってバッティングが伸びず、打撃に関しては若手時代に期待をかけられたほどの成績は残せなかった。元は右打だったが、俊足に期待されて両打に転向した経緯がある。
打撃とは対照的に、俊足で、単純な短距離走の能力は10代がピークだったと本人が『週刊ベースボール』のインタビューで語っており、その衰えを晩年は走塁・盗塁の技術向上で補っていたという。反面、フライで飛び出すなどのミスもやや多く見受けられた。
守備範囲は広かったが、リストに問題があった為、送球の信頼度はさほど高くなかった。特に二塁での失策が多かった。
優れた身体能力から池山隆寛の後継者として期待されたが、打撃面で伸び悩み、専ら代走での出場から守備に付く起用がなされていた。入団直後から手首を中心に怪我が頻発し、一軍に顔を出すようになってからも故障を繰り返した。
(追記2)押尾については以下の通り。やはり、「真中のお友達」であるようだが、長年スコアラーをやっていて、野球の試合そのものを膨大に見ている、という点では、戦略眼が養われている可能性はある。まあ、「戦略コーチ」というのは選手の尊敬を得る必要は無いだろうから、選手実績がゼロでもかまわないのかもしれない。
押尾健一
東京ヤクルトスワローズ 一軍戦略コーチ兼スコアラー #81 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県山武郡横芝町 (現・横芝光町) |
生年月日 | 1971年7月3日(44歳) |
身長 体重 | 187 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト4位 |
初出場 | 1998年5月12日 |
最終出場 | 1998年5月17日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
押尾 健一(おしお けんいち、1971年7月3日 - )は千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。妻は、元アイドル歌手の相川恵里[1]。
現役時代から一貫して、ヤクルトスワローズ → 東京ヤクルトスワローズに所属。1999年に現役を引退してからは、打撃投手やスコアラーを経て、2016年から一軍で戦略コーチとスコアラーを兼務する[2]。
来歴・人物[編集]
プロ入り前[編集]
中学生時代から投手として高い評価を受け、東海大浦安から勧誘を受けたが、心臓に持病のある母のために自宅近くにいたいなどの理由で同じく誘いのあった成東高校に進学[3]。速球は高校の先輩である鈴木孝政(同じ誕生日でもある)に匹敵すると言われたが、1年夏に左足アキレス腱を故障して3ヶ月入院している[4]。3年春には右ひじを故障したが、夏の県大会では全7試合を一人で投げきって71奪三振、7失点の成績を残した。決勝で知野公昭らを擁する拓大紅陵を5安打完封で破り[5]、チームの選手権大会初出場に貢献した[6]。
同年のドラフト会議でヤクルトから4位指名を受け、当初は早稲田大学への進学を希望していた[7]ものの、契約金4,000万円、年俸420万円(金額は推定)という条件で入団した[8]。
プロ入り後[編集]
ヤクルトへの入団後は、一軍公式戦への登板機会がないまま、1991年にアメリカ・マイナーリーグ1Aのサリナス・スパーズへ派遣された。
入団9年目の1998年に一軍デビュー。2試合に登板した。しかし、翌1999年には一軍公式戦への登板機会がなく、シーズン終了後に現役を引退した。
引退後の2000年以降も、打撃投手兼スコアラーとしてヤクルトに在籍[5]。2014年までは、打撃投手兼チーフスコアラーとして、一軍の試合中にベンチ内でバッテリーの配球傾向などを分析していた[9]。
現役時代のチームメイトだった一軍チーフ打撃コーチ・真中満が一軍監督へ昇格した2015年には、新設ポストの「一軍戦略担当スコアラー」へ異動。真中が春季キャンプ中のミーティングで、ナインに対して「押尾が言っていることはコーチと同じ」と伝えるほど厚い信頼関係を背景に、作戦面でチームの14年振りセントラル・リーグ優勝に貢献した[10]。2016年からは、戦略担当スコアラーに加えて、新設ポストの「一軍戦略コーチ」を兼務する[2]。