ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「ゲンダイネット」から転載。
野球ファンとしては、二刀流を見てみたいのだが、関根氏の言う通り、虻蜂獲らずになる可能性が高いとは思う。だが、これは投手と言えば完投するもの、という時代の話である。大谷をクローザーにするなら、二刀流でもいいのではないか、と私は思う。特に、リリーフで出た投手の打順が回ってきても、代打を出す必要が無い、というのはなかなかのメリットではないか。つまり、代打と代打の後の投手の二人の選手が節約できるわけだ。まあ、大谷の打者センスがどれほどのものかにもよるが、昔は堀内、江夏、平松のように、打力もある投手はたくさんいたのである。投手は投げさえすればいい、という現在の風潮は、野球をつまらなくした原因の一つだ。
ついでながら、堀内は1試合3ホームランという偉業があり、江夏は投手としてノーヒットノーランをした試合で、自らサヨナラホームランを打っている。その時に江夏は「野球は一人でもできる」と言ったとか言わないとかいう話である。
なお、まずまず成功した二刀流の選手として、近鉄の永渕洋三という選手がいる。この選手は関根潤三型の小柄な選手で、打率はなかなかであったはずだ。投手としてはリリーフ投手だったと思うが、投手成績は並といったところか。(引用2参照)
(以下引用)
投手で50勝、野手として1000本安打を初めて達成した関根潤三氏に聞く
【野球】
2012年12月14日 掲載
「現役時代はどう両立させていたのですか?大谷の二刀流はうまくいきますか?」
プロで二刀流に挑戦するのが、日本ハム入りを表明した大谷翔平(18=花巻東)だ。投げては160キロ、打っては高校通算56本塁打。投打とも抜けた素質があるのは間違いない。とはいえプロで本格的に二刀流をやった選手はごくひと握り。かつてヤクルトと大洋(現DeNA)で指揮を執った関根潤三氏(85)もそのひとり。現役時代に近鉄(現オリックス)のエースとして65勝(94敗)を挙げ、打者としては通算2割7分9厘(1137安打)、59本塁打、424打点。投打で球宴に出場した関根氏に、大谷が二刀流で成功するかどうか聞いてみた。
<「バッティングはセンス」>
――関根さんは当時、どんな二刀流だったのですか?
「私は投手でプロに入り、投げない日はピンチヒッターか、3番・右翼で出場していました。ケガもしない程度に練習、というかバッティングは遊びで打撃投手の球を打っていた程度。ピッチャーが商売ですから。大学時代もずっとエースで4番だったので、練習しなくても打てたんだ」
――練習しなくてもですか?
「バッティングって、そんなに練習してなくても打てるし、要はセンスなんです。実際、僕は相手投手の研究はほとんどしなかったし、練習時間は他の選手より少なかった。僕が(打撃で)結果を出せたのは打席数が少ないのもあったと思う」
――投手であることがバッティングに役立つこともありましたか?
「もちろん。相手投手の心理状態、例えばここで打ち取りたいだろうな、本当は度胸がないだろうなとか、そういうのは読み取れたし、あとはキャッチボールの時に球の回転をよく見るように意識していました。日大三中時代の教えです。そうすると打席に立った時にフォークかカーブか……そういうのが分かった。だから打てたと思う。要はボールを見極められたら(そこそこは)打てるのです」
<「ボクは両方とも中途半端」>
――限られた練習時間で投手と野手の両方で結果を出すのは難しくないのですか?
「ピッチャーをしている間は、何で野手は練習しているのに打てないんだと思っていましたよ。でも(57年に)野手に転向したけれど、バッティングはそれほど伸びなかった(野手転向前後ともに打率はほとんど変わらず)。バッティングに専念できたり、練習量が多ければ、それが結果につながるというわけではない。投手としても20勝して一人前と考えていたけれど、最高成績は(54年の)16勝。白星を残すためにはやはりそれなりに試合にも出なければならない。(振り返れば)僕は両方とも中途半端だった。大したことないし、両方とも二流。1年目で本塁打4本? そんなものかという感じ。なんとかこなしただけ。いい加減なもんだね(笑い)」
――ズバリ大谷は二刀流で成功すると思いますか。
「僕は大谷君を見てないので分かりません。でも、ハッキリ言って二刀流は中途半端になる。やめた方がいい。今まで二刀流で成功した選手がいますか? 二兎を追うものは一兎をも得ずですよ。エース兼4番で通算56本打ったといっても、そりゃ高校生だから。投手なら相手の研究や自分のフォームやら、一つのことでもやることがたくさんある。二つやって成功するなら一つに絞ってやった方がもっと成功するよ。二刀流でやっても間違いなく二流、もしくは一流の下だね」
▼せきね・じゅんぞう 1926年、東京都出身。左投げ左打ち。日大三中、法大を経て、50年にプロ入り。近鉄、巨人でプレーし、野手で1000本安打、投手で50勝をマークした初のプロ野球選手になった。引退後、広島と巨人でコーチ、大洋とヤクルトで監督を務める。03年に野球殿堂入り。現在は野球解説者。
(引用2「ウィキペディア」より)
永淵洋三
出身地
佐賀県佐賀市
生年月日
1942年5月4日(70歳)
身長
体重
168 cm
65 kg
選手情報
投球・打席
左投左打
ポジション
外野手、投手
プロ入り
1967年 ドラフト2位
初出場
1968年4月16日
最終出場
1979年
経歴(括弧内は在籍年)
佐賀県立佐賀高等学校
東芝
近鉄バファローズ (1968 - 1975)
日本ハムファイターズ (1976 - 1979)
永淵 洋三(ながぶち ようぞう、1942年5月4日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
現役時代は酒豪として知られ、水島新司の漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルとなった[1][2]。
来歴・人物 [編集]
佐賀県に生れ、佐賀市立城南中学校から、県内有数の進学校佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)でエースとして活躍する。甲子園出場は第40回大会の夏の選手権大会に補欠として経験がある。(当時のバッテリーは、山田龍生-坂井岩夫)3年生の春の九州大会で優勝する。
その後、東芝に入社し、小柄ながら実戦的な投手兼外野手として活躍する。
1965年、西鉄ライオンズの入団テストを受けるが落ちる。2年後の1967年、東芝の元監督の伊丹安廣が早稲田大学野球部の後輩で近鉄バファローズ代表の芥田武夫に永淵を紹介[1]。入団テストに合格し近鉄入団が決まった。ドラフトでは伊丹-芥田ラインに敬意を払ったため形式的にドラフト2位で指名されたが、契約金は330万円と3位の小川亨の1000万円より安価な額となった[1]。しかし、東芝当時の月給が3万円に対し飲み屋に20万円のツケがあり、返済のアテもなく契約金で返済するしかないと考えていた永淵はこの額を了承し、近鉄と契約を結んだ[1]。
投手として選手登録されたが翌年の1968年4月16日、対東映戦で代打としてプロデビュー。石川緑の投げた初球の内角のストレートを叩き初打席初本塁打を記録[1]。その次の守備ではそのまま投手として登板し、2回2/3を投げ2安打1失点を記録した[1]。この年、監督の三原脩は永淵に投手、外野手、代打の3役を与えた。試合途中で代打に出て、次の回にマウンドに登り、何人か投げて、外野の守備に回ったり、外野からワンポイントリリーフでマウンドに行き、終わると又外野に戻るというような起用を行った。しかし打者としては打率.274、5本塁打、30打点を記録し新人王候補にもなったが、投手としては実力不足を露呈したため6月以降は登板がなかった[1]。
翌年の1969年からは野手に専念。3番右翼として127試合に出場し、打率.333を記録[1]。首位打者を張本勲と分け合った。張本のいる東映が全日程を終了し、永淵のいる近鉄が1試合を残している時点で永淵の打率が張本を上回っており、永淵は最終戦に出場しなければ単独で首位打者を獲得していたが、永淵は最終戦にスタメンで出場。結果的に打率2位だった張本と並んだ。この時酒好きであったことから当時の新聞などには「酒(主)力打者」と書かれた[1]。
その後も主軸打者として活躍するが、佐々木恭介など若手外野手の台頭で、徐々に出番が減り、1976年、西本幸雄監督の若返り策もあり、阪本敏三・八重沢憲一のトレードで、服部敏和と共に、三原が球団社長を勤めていた日本ハムに移る。日本ハムでも、外野手、指名打者として活躍したが、年齢から来る体力の衰えには勝てず、1979年シーズンを最後に現役を引退した。
1980年からは日本ハムの関西地区担当のスカウトとなり自身のように小柄でもいい選手がいるという方針で活動したが、大型選手に目が行く球団と対立し、ドラフト前の9月に辞表[1]。その翌日に大阪の焼鳥店に見習いとして働き、12月に故郷の佐賀で焼鳥店「あぶさん」を開店、現在でも経営している[1]。
酒の強さは並外れており、毎日試合後に飲みに出かけては、二日酔いで試合に出場することも多く、酒量も20代の頃には一晩に一升をあけるほどであった[2]。試合中にグラウンドに吐きながら守っていて線審の田川豊に注意されたというエピソードもある[3]。この話には続きがあり、その晩も永淵は飲みに行ったが、トイレで吐いていた中年男を介抱してあげたところその男は田川であった(田川も酒豪で有名だった)[4]。また打席に入ったときに相手チームの捕手から酒のにおいを指摘されることもあった[2]。
野球ファンとしては、二刀流を見てみたいのだが、関根氏の言う通り、虻蜂獲らずになる可能性が高いとは思う。だが、これは投手と言えば完投するもの、という時代の話である。大谷をクローザーにするなら、二刀流でもいいのではないか、と私は思う。特に、リリーフで出た投手の打順が回ってきても、代打を出す必要が無い、というのはなかなかのメリットではないか。つまり、代打と代打の後の投手の二人の選手が節約できるわけだ。まあ、大谷の打者センスがどれほどのものかにもよるが、昔は堀内、江夏、平松のように、打力もある投手はたくさんいたのである。投手は投げさえすればいい、という現在の風潮は、野球をつまらなくした原因の一つだ。
ついでながら、堀内は1試合3ホームランという偉業があり、江夏は投手としてノーヒットノーランをした試合で、自らサヨナラホームランを打っている。その時に江夏は「野球は一人でもできる」と言ったとか言わないとかいう話である。
なお、まずまず成功した二刀流の選手として、近鉄の永渕洋三という選手がいる。この選手は関根潤三型の小柄な選手で、打率はなかなかであったはずだ。投手としてはリリーフ投手だったと思うが、投手成績は並といったところか。(引用2参照)
(以下引用)
投手で50勝、野手として1000本安打を初めて達成した関根潤三氏に聞く
【野球】
2012年12月14日 掲載
「現役時代はどう両立させていたのですか?大谷の二刀流はうまくいきますか?」
プロで二刀流に挑戦するのが、日本ハム入りを表明した大谷翔平(18=花巻東)だ。投げては160キロ、打っては高校通算56本塁打。投打とも抜けた素質があるのは間違いない。とはいえプロで本格的に二刀流をやった選手はごくひと握り。かつてヤクルトと大洋(現DeNA)で指揮を執った関根潤三氏(85)もそのひとり。現役時代に近鉄(現オリックス)のエースとして65勝(94敗)を挙げ、打者としては通算2割7分9厘(1137安打)、59本塁打、424打点。投打で球宴に出場した関根氏に、大谷が二刀流で成功するかどうか聞いてみた。
<「バッティングはセンス」>
――関根さんは当時、どんな二刀流だったのですか?
「私は投手でプロに入り、投げない日はピンチヒッターか、3番・右翼で出場していました。ケガもしない程度に練習、というかバッティングは遊びで打撃投手の球を打っていた程度。ピッチャーが商売ですから。大学時代もずっとエースで4番だったので、練習しなくても打てたんだ」
――練習しなくてもですか?
「バッティングって、そんなに練習してなくても打てるし、要はセンスなんです。実際、僕は相手投手の研究はほとんどしなかったし、練習時間は他の選手より少なかった。僕が(打撃で)結果を出せたのは打席数が少ないのもあったと思う」
――投手であることがバッティングに役立つこともありましたか?
「もちろん。相手投手の心理状態、例えばここで打ち取りたいだろうな、本当は度胸がないだろうなとか、そういうのは読み取れたし、あとはキャッチボールの時に球の回転をよく見るように意識していました。日大三中時代の教えです。そうすると打席に立った時にフォークかカーブか……そういうのが分かった。だから打てたと思う。要はボールを見極められたら(そこそこは)打てるのです」
<「ボクは両方とも中途半端」>
――限られた練習時間で投手と野手の両方で結果を出すのは難しくないのですか?
「ピッチャーをしている間は、何で野手は練習しているのに打てないんだと思っていましたよ。でも(57年に)野手に転向したけれど、バッティングはそれほど伸びなかった(野手転向前後ともに打率はほとんど変わらず)。バッティングに専念できたり、練習量が多ければ、それが結果につながるというわけではない。投手としても20勝して一人前と考えていたけれど、最高成績は(54年の)16勝。白星を残すためにはやはりそれなりに試合にも出なければならない。(振り返れば)僕は両方とも中途半端だった。大したことないし、両方とも二流。1年目で本塁打4本? そんなものかという感じ。なんとかこなしただけ。いい加減なもんだね(笑い)」
――ズバリ大谷は二刀流で成功すると思いますか。
「僕は大谷君を見てないので分かりません。でも、ハッキリ言って二刀流は中途半端になる。やめた方がいい。今まで二刀流で成功した選手がいますか? 二兎を追うものは一兎をも得ずですよ。エース兼4番で通算56本打ったといっても、そりゃ高校生だから。投手なら相手の研究や自分のフォームやら、一つのことでもやることがたくさんある。二つやって成功するなら一つに絞ってやった方がもっと成功するよ。二刀流でやっても間違いなく二流、もしくは一流の下だね」
▼せきね・じゅんぞう 1926年、東京都出身。左投げ左打ち。日大三中、法大を経て、50年にプロ入り。近鉄、巨人でプレーし、野手で1000本安打、投手で50勝をマークした初のプロ野球選手になった。引退後、広島と巨人でコーチ、大洋とヤクルトで監督を務める。03年に野球殿堂入り。現在は野球解説者。
(引用2「ウィキペディア」より)
永淵洋三
出身地
佐賀県佐賀市
生年月日
1942年5月4日(70歳)
身長
体重
168 cm
65 kg
選手情報
投球・打席
左投左打
ポジション
外野手、投手
プロ入り
1967年 ドラフト2位
初出場
1968年4月16日
最終出場
1979年
経歴(括弧内は在籍年)
佐賀県立佐賀高等学校
東芝
近鉄バファローズ (1968 - 1975)
日本ハムファイターズ (1976 - 1979)
永淵 洋三(ながぶち ようぞう、1942年5月4日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
現役時代は酒豪として知られ、水島新司の漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルとなった[1][2]。
来歴・人物 [編集]
佐賀県に生れ、佐賀市立城南中学校から、県内有数の進学校佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)でエースとして活躍する。甲子園出場は第40回大会の夏の選手権大会に補欠として経験がある。(当時のバッテリーは、山田龍生-坂井岩夫)3年生の春の九州大会で優勝する。
その後、東芝に入社し、小柄ながら実戦的な投手兼外野手として活躍する。
1965年、西鉄ライオンズの入団テストを受けるが落ちる。2年後の1967年、東芝の元監督の伊丹安廣が早稲田大学野球部の後輩で近鉄バファローズ代表の芥田武夫に永淵を紹介[1]。入団テストに合格し近鉄入団が決まった。ドラフトでは伊丹-芥田ラインに敬意を払ったため形式的にドラフト2位で指名されたが、契約金は330万円と3位の小川亨の1000万円より安価な額となった[1]。しかし、東芝当時の月給が3万円に対し飲み屋に20万円のツケがあり、返済のアテもなく契約金で返済するしかないと考えていた永淵はこの額を了承し、近鉄と契約を結んだ[1]。
投手として選手登録されたが翌年の1968年4月16日、対東映戦で代打としてプロデビュー。石川緑の投げた初球の内角のストレートを叩き初打席初本塁打を記録[1]。その次の守備ではそのまま投手として登板し、2回2/3を投げ2安打1失点を記録した[1]。この年、監督の三原脩は永淵に投手、外野手、代打の3役を与えた。試合途中で代打に出て、次の回にマウンドに登り、何人か投げて、外野の守備に回ったり、外野からワンポイントリリーフでマウンドに行き、終わると又外野に戻るというような起用を行った。しかし打者としては打率.274、5本塁打、30打点を記録し新人王候補にもなったが、投手としては実力不足を露呈したため6月以降は登板がなかった[1]。
翌年の1969年からは野手に専念。3番右翼として127試合に出場し、打率.333を記録[1]。首位打者を張本勲と分け合った。張本のいる東映が全日程を終了し、永淵のいる近鉄が1試合を残している時点で永淵の打率が張本を上回っており、永淵は最終戦に出場しなければ単独で首位打者を獲得していたが、永淵は最終戦にスタメンで出場。結果的に打率2位だった張本と並んだ。この時酒好きであったことから当時の新聞などには「酒(主)力打者」と書かれた[1]。
その後も主軸打者として活躍するが、佐々木恭介など若手外野手の台頭で、徐々に出番が減り、1976年、西本幸雄監督の若返り策もあり、阪本敏三・八重沢憲一のトレードで、服部敏和と共に、三原が球団社長を勤めていた日本ハムに移る。日本ハムでも、外野手、指名打者として活躍したが、年齢から来る体力の衰えには勝てず、1979年シーズンを最後に現役を引退した。
1980年からは日本ハムの関西地区担当のスカウトとなり自身のように小柄でもいい選手がいるという方針で活動したが、大型選手に目が行く球団と対立し、ドラフト前の9月に辞表[1]。その翌日に大阪の焼鳥店に見習いとして働き、12月に故郷の佐賀で焼鳥店「あぶさん」を開店、現在でも経営している[1]。
酒の強さは並外れており、毎日試合後に飲みに出かけては、二日酔いで試合に出場することも多く、酒量も20代の頃には一晩に一升をあけるほどであった[2]。試合中にグラウンドに吐きながら守っていて線審の田川豊に注意されたというエピソードもある[3]。この話には続きがあり、その晩も永淵は飲みに行ったが、トイレで吐いていた中年男を介抱してあげたところその男は田川であった(田川も酒豪で有名だった)[4]。また打席に入ったときに相手チームの捕手から酒のにおいを指摘されることもあった[2]。
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