ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「sportiva」記事の一部だが、好記事で、若手野球選手なら知っておくべき金言に満ちている。
(以下引用)
ロバート・ローズが明かす来日1年目のキャンプでの不安 進藤達哉と石井琢朗の守備に「心の底からヤバイと思った」
2023年09月19日 10:40 公開
村瀬秀信●文 text by Murase Hidenobu
photo by Sankei Visual
── 横浜版のフィールドオブドリームスを見ているようでした。
ローズ 僕もいろんなことを思い出したよ。あの当時のベイスターズはマシンガン打線ばかりが取り上げられるけど、守備陣が本当に高いレベルだったんだ。とくにシンドウサン(進藤達哉)とイシイサン(石井琢朗)の三遊間。最初の年のキャンプで、彼らをはじめて見た時、僕は心の底から「ヤバい」と思ったんだ。なんなんだ、このふたりの守備力は、メジャーリーグでも十分通用するレベルじゃないか......ってね。
── 進藤さん、琢朗さんとも93年はレギュラーを獲ったばかりの23歳でした。
ローズ 日本の野球のレベルは、はじめて見た時からMLBに劣らないと感じていました。93年に初めてブルペンでサイトウサン(斎藤隆)の投球を見たあの日、『あなたは明日にでもメジャーリーグで活躍できる』と伝えたことを、僕は今でも鮮明に覚えています。その後、10年以上が経ってサイトウサンはアメリカに渡り、ドジャースのクロ--ザーとして活躍したでしょ。通用する選手はいくらでもいたんです。
── ローズさんが日本の若手選手を見て、そんな危機感を抱いていたとは意外でした。
ローズ 僕がこのチームでやっていくにはただ打つだけではダメでした。守備力をシンドウサンとイシイサンと同等まで磨かなければ認められない。そんな危機感を抱いて、彼らの背中を必死に追い続けたんです。僕の右側にはいつもシンドウサンとイシイサンがいて、難しい打球をなんなく捌いていく。「チッ、いいなぁ」といつも羨んでいたし、彼らの存在が僕を必死にさせてくれたんだよ。
── 優勝した年の内野は全員ゴールデングラブを受賞しました。当時のレギュラーメンバーはほとんどが70年生まれの同年代。「あいつが打ったなら俺も」という負けん気の相乗効果でマシンガン打線が完成したと聞きます。4番を任されたローズさんは年齢も彼らより3つほど上ですが、彼らを引っ張るという意識はあったのですか?
ローズ 1993年から僕らはたくさんの負けと失敗を繰り返し、ともに成長してきたという自負があります。同じグラウンドで、同じプレーヤーとして彼らの目や表情を見ていると、悔しさに満ち満ちていました。必死な形相で食らいつき"いつかうまくなりたい"という渇望がありました。だからこそ僕は、自分のやるべきことをやろうと考えていたんです。結果的に打線を引っ張ることができたかはわかりません。ですが、その後、僕たちはマシンガン打線と呼ばれるようになった。その一翼を担ってきた人間として言えることは、あの打線の中にいると「自分だけがアウトになるわけにはいかない」という意識になるんです。
たとえば僕の後ろにいたコマダサン(駒田徳広)。チーム最年長で、2メートル近い身長で堂々と立っていたコマダサンでさえも、追い込まれると、身体を小さく屈めてコンタクトヒッターに変わる。誰に言われるのでなく、全員が「アウトになるわけにはいかない」と必死になっていた。だから、ヒーローは日替わりだったんですよ。それがあの打線のすごさだったね。
(以下引用)
ロバート・ローズが明かす来日1年目のキャンプでの不安 進藤達哉と石井琢朗の守備に「心の底からヤバイと思った」
2023年09月19日 10:40 公開
村瀬秀信●文 text by Murase Hidenobu
photo by Sankei Visual
── 横浜版のフィールドオブドリームスを見ているようでした。
ローズ 僕もいろんなことを思い出したよ。あの当時のベイスターズはマシンガン打線ばかりが取り上げられるけど、守備陣が本当に高いレベルだったんだ。とくにシンドウサン(進藤達哉)とイシイサン(石井琢朗)の三遊間。最初の年のキャンプで、彼らをはじめて見た時、僕は心の底から「ヤバい」と思ったんだ。なんなんだ、このふたりの守備力は、メジャーリーグでも十分通用するレベルじゃないか......ってね。
── 進藤さん、琢朗さんとも93年はレギュラーを獲ったばかりの23歳でした。
ローズ 日本の野球のレベルは、はじめて見た時からMLBに劣らないと感じていました。93年に初めてブルペンでサイトウサン(斎藤隆)の投球を見たあの日、『あなたは明日にでもメジャーリーグで活躍できる』と伝えたことを、僕は今でも鮮明に覚えています。その後、10年以上が経ってサイトウサンはアメリカに渡り、ドジャースのクロ--ザーとして活躍したでしょ。通用する選手はいくらでもいたんです。
── ローズさんが日本の若手選手を見て、そんな危機感を抱いていたとは意外でした。
ローズ 僕がこのチームでやっていくにはただ打つだけではダメでした。守備力をシンドウサンとイシイサンと同等まで磨かなければ認められない。そんな危機感を抱いて、彼らの背中を必死に追い続けたんです。僕の右側にはいつもシンドウサンとイシイサンがいて、難しい打球をなんなく捌いていく。「チッ、いいなぁ」といつも羨んでいたし、彼らの存在が僕を必死にさせてくれたんだよ。
── 優勝した年の内野は全員ゴールデングラブを受賞しました。当時のレギュラーメンバーはほとんどが70年生まれの同年代。「あいつが打ったなら俺も」という負けん気の相乗効果でマシンガン打線が完成したと聞きます。4番を任されたローズさんは年齢も彼らより3つほど上ですが、彼らを引っ張るという意識はあったのですか?
ローズ 1993年から僕らはたくさんの負けと失敗を繰り返し、ともに成長してきたという自負があります。同じグラウンドで、同じプレーヤーとして彼らの目や表情を見ていると、悔しさに満ち満ちていました。必死な形相で食らいつき"いつかうまくなりたい"という渇望がありました。だからこそ僕は、自分のやるべきことをやろうと考えていたんです。結果的に打線を引っ張ることができたかはわかりません。ですが、その後、僕たちはマシンガン打線と呼ばれるようになった。その一翼を担ってきた人間として言えることは、あの打線の中にいると「自分だけがアウトになるわけにはいかない」という意識になるんです。
たとえば僕の後ろにいたコマダサン(駒田徳広)。チーム最年長で、2メートル近い身長で堂々と立っていたコマダサンでさえも、追い込まれると、身体を小さく屈めてコンタクトヒッターに変わる。誰に言われるのでなく、全員が「アウトになるわけにはいかない」と必死になっていた。だから、ヒーローは日替わりだったんですよ。それがあの打線のすごさだったね。
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