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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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アマ時代の風間清と上原康恒の試合を私は試合場で見ており、私は当然、同郷の上原を応援していたが、風間の徹底したアウトボクシングにポイントを奪われ、当時のアマチュアKOキングの上原が判定で敗れたのを目撃して、ボクシングの奥深さを知ったものである。と同時に、フックボクサーは基本的にストレートボクサーに負けるという事実を知ったのもこの試合であった。これは物理的には当然である。両者は射程距離が違うからだ。フックボクサーは接近戦でしかパンチが打てない。普通は、遠距離砲のジャブやストレートのために相手に近づけず、有効打がなかなか打てないのである。
だが、プロ入り後は上原は世界チャンピオンのタイトルを取り、風間は世界タイトルは取れなかった。これは両者のパンチ力の差だろう。

(以下引用)風間のアマ時代のKO・RSC勝ちの多さが目を引く。これはパンチ力というよりパンチの的確さを示すものだと思う。RSCはレフェリーストップのこと。

戦績[編集]

  • アマチュアボクシング:132戦123勝(104KO・RSC)9敗
  • プロボクシング:30戦18勝(7KO)8敗4分

バトルホーク風間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バトルホーク 風間
基本情報
本名風間 清(かざま きよし)
階級ライト級
国籍日本の旗 日本
誕生日1950年1月2日
出身地千葉県習志野市
死没日2004年10月3日(54歳没)
死没地東京都足立区
スタイルオーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数30
勝ち18
KO勝ち7
敗け8
引き分け4
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バトルホーク 風間(バトルホーク かざま、1950年1月2日 - 2004年10月3日)は、日本の元プロボクサー。本名は風間 清(かざま きよし)。第26代日本ライト級王者。有限会社パオネットワーク元代表。東京都生まれ、千葉県習志野市出身。石丸ボクシングジム所属選手としてプロデビュー、後に奈良池田ジム所属。上野高等学校定時制専修大学卒業。


人物[編集]

  • 文章を書くことが得意で、学生時代には、同人誌に寄稿したことがある。ボクシングの専門誌に寄稿した闘病生活の手記は、編集者がほとんど手を加える必要がなかったほどだった[1]
  • 現役時代は、素行が悪いという評判があった。しかし、実際には素行が悪いというより、指導者に対してもハッキリものを言う姿勢が曲解され伝わっただけと言われている[1]
  • ボクシングは自分にとって「殺し合い」だと表現した。この感覚によって養われた緊張感が、死去する前の闘病生活の大きな支えになったという[1]

来歴[編集]

アマチュア時代[編集]

アマチュアで活躍していた兄・良一にボクシングを学び、高校1年在学中に国体出場。


1968年、高校3年時にインターハイライト級優勝を収めた。複数のボクシング強豪校から勧誘があったが専修大学に進学、強豪校への発展に寄与した。ミュンヘンオリンピックの代表候補強化合宿にも参加した。


1972年全日本選手権ライト級優勝を収めた。

プロデビュー[編集]

1974年、プロ転向。専大同級生の金平理宰の伯父金平正紀が経営する協栄ジムからの勧誘もあったが、兄の通う日東拳(現・日東ボクシングジム)に中学時代から通っていたため日東一門を優先し、石丸ジムに所属した。その後、プロデビュー直前に渡米し、ハワイオアフ島にあるカラカウア・ジムでタッド河村に師事した。この際、タッド河村から“Kill him.”と言われ続け、アマチュア時代に持っていた「絶対に倒す」という考えが、「絶対に殺す」という考えに変わっていった[1]7月24日、ハワイ・ホノルルでサム・フラチセリ(フィリピン)に5R判定勝利でプロデビュー。ホノルルで5連勝を収め、1975年に帰国した。


1975年1月5日、プロ6戦目でライオン古山(笹崎)の持つ日本ジュニアウェルター級王座に挑戦したが、三者三様の判定引分で獲得はならなかった。8月17日中国マカオで1勝後、8月31日、日本王者ライオン古山とノンタイトル10回戦にて再戦し、再度判定引分となった。


同年9月20日ベネズエラカラカスで、WBA世界ジュニアウェルター級王者アントニオ・セルバンテスコロンビア)とノンタイトル10回戦にて対戦し、6RTKO負けを喫した。1976年3月22日門田新一(三迫)との10回戦に判定引分となった。


1976年5月9日ソウルで1敗後、7月17日釜山で呉英鎬(韓国)の持つOBF(東洋ボクシング連盟)東洋ライト級王座に挑戦し、判定負けを喫した。OBFは、後にOPBF(東洋太平洋ボクシング連盟)に改称している。1977年1月4日、用皆政弘(斎田)[2]との10回戦に6RKO負けを喫した。3月19日、ソウルで1敗後、5月7日、釜山でOBF王者呉英鎬とノンタイトル10回戦にて再戦し、判定引分となった。10月6日、ソウルで10R判定勝利を収めて再起を果たした。

日本王座獲得[編集]

1979年7月6日、用皆が返上して空位となった日本ライト級王座を大橋満雄(帝拳)と決定戦で争い、3RKO勝利で同王座を獲得した。大久保克弘(三迫)、峰猛(センタースポーツ)をいずれも序盤KOで退けて2度の防衛を果たした。


1980年4月3日奈良市中央体育館で、日本王座を保持したまま、サムエル・セラノプエルトリコ)の持つWBA世界ジュニアライト級王座に挑戦。ガッツ石松を特別コーチに迎えて臨んだ一戦で、序盤は善戦したが、6Rにサウスポーへスイッチしたのが逆効果となり、王者の執拗なアッパー攻撃に13RTKO負けを喫した。


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