山本郁榮
個人情報 | |
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生誕名 | 山本 郁榮 |
国籍 | 日本 |
生誕 | 1945年2月17日(73歳) 神奈川県 |
スポーツ | |
国 | 日本 |
競技 | レスリング |
種目 | グレコローマン |
山本 郁榮(やまもと いくえい、1945年2月17日 - )は、日本の元レスリング選手、日本体育大学スポーツ医学研究室名誉教授、元トレーナー研究会顧問、NPO法人日本スポーツネットワーク(JSN)理事長。GENスポーツアカデミー総監督[1]。日本体育大学卒業。
かつては山本 郁栄(読み同じ)表記も用いられた。
長女の山本美憂、次女の山本聖子も元レスリング選手。孫(美憂の長男)の山本アーセンもレスリング選手。長男の山本徳郁は、山本"KID"徳郁として知られる総合格闘家。
経歴[編集]
愛知県出身。同県高浜市立高浜中学校・高校を卒業。日本体育大学(以下、日体大)体育学部体育学科卒業。高校まではバスケットボールや剣道をしていたが、父親に東京の大学へ進学することを反対され、母親が学費を捻出して上京した事情から「どんなスポーツでもいいから日本一になって母親に応えたい」と決意し、大学入学後はバスケットボールを断念してレスリングへ転向した[2]。
同様に大学入学後に柔道からレスリングへ転向し、1964年東京オリンピックのグレコローマンスタイル・フライ級(52kg)で金メダルを獲得した花原勉から指導を受けるなどして頭角を現し、全日本選手権で日体大在学時(1969年)、日体大OB時(1970年)、日体大教員時(1972年)に3度優勝し、1972年にはレスリング日本代表としてミュンヘンオリンピックへ出場(グレコローマン57kg級)した。
現役引退後はレスリングクラブ「日体パンサーズ」を主宰し、日体大コーチとして後進の指導にあたると共に、アメリカ留学時に学んだテーピングの理論・実技指導などを紹介し、スポーツ医学の専門家として日本におけるテーピングの普及に多大な貢献をした。
2005年、スポーツを通して一般市民の健康増進に寄与することを目的とするNPO法人日本スポーツネットワーク設立に伴い初代理事長に就任し、レスリング教室・セミナー・講演会など啓蒙活動に尽力している。
2008年4月1日、東京都大田区中馬込に自身が代表を務めるスポーツジム「ヤマモト・スポーツ・アカデミー」(YSA)をオープンさせた(KRAZY BEEと併設)。
ミュンヘンオリンピック出場[編集]
ミュンヘンオリンピックにおける戦績[3]
- 1回戦 ○(負傷棄権、2:59)Arlouzaden, Ferodz( イラン)
- 2回戦 ○(フォール、1:43)Famatid, Rogelio( フィリピン)
- 3回戦 △(引き分け)Lindholm, Per( スウェーデン)
- 4回戦 ●(判定)Bacui, Ion( ルーマニア)
- 5回戦 ●(判定)Kazakov, Rustem( ソビエト連邦)
世界で最も標準的な体格の階級である57kg級はグレコローマン最多の30選手が出場する最激戦の階級であったが、山本はメダル獲得を期待される強豪選手として参戦した。しかし、ミュンヘンオリンピック事件などの影響で波乱の試合展開が続出し、山本も不可解な判定負けにより7位という不本意な結果に終わった。山本選手は試合後、「俺が勝ったんだ」と叫んでマット上で号泣し、その姿が当時の朝日新聞などに掲載された。当時のグレコローマンは有力選手の多い欧州理事会が発言力が強く、圏外選手に不利な判定が下されることが多かったとも言われる。政治的な意向により東側諸国に優位な判定が下されたのではないかとも噂され、山本に5回戦で判定勝ちを収めたソ連のカザロフが金メダルを獲得したため「幻の金メダル」とも評された。後に生まれる美憂はミュンヘン、聖子はオリンピックに因んで命名されたことから、この時の父の無念を晴らしたいと子供達が志すきっかけとなった。長男の徳郁も総合格闘家としての活動を一時休止してアマチュアレスリング選手として北京オリンピック出場を目指したことからも、レスリング一家の思いが窺い知れる。