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ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です 管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「阿修羅」から転載。
私が「AKB48」に対して感じている不快感を明瞭に分析した好文章である。そして、現代社会の深層にある差別や搾取の構造をAKB現象から読み取る社会学的好論文になっている。いや、ほとんど哲学レベルだ。

「AKBの、特に「総選挙」や「じゃんけん大会」を見ていて感じるのは、いやそれは、日本のテレビ番組全体を見ててしばしば感じることだが、人間というもの(ここでは、AKBのメンバーの女性たち個々と言っていい)に対する、社会全体からの徹底的な搾取や侮蔑や愚弄ということ、そのことによって是認され受容されていく、この人間愚弄的な社会の現実ということである。
他人を対象化し(同じことだが)搾取し、愚弄してもよいと考えることは、自分自身が受けている搾取や愚弄を否認しつつ受け入れることとつながっている。
それは、人が生きるという事実への軽視・否認であり、戦争を簡単に選んでしまうような心のあり方でもあると思う。」


まさしくその通りだろう。我々の社会が「新しい奴隷制度社会」であることをこの文章は見事に論じている。
哲学とは、何を論じるかではなく、いかに深く論じるか、という深度の問題である。対象がAKBだろうが芸者の着物の柄だろうが、哲学の対象たりうる。



(以下引用)



AKBじゃんけん大会に見る-我らの競争と戦争・・・体制詐術のうえで踊らされる無邪気さ!
http://www.asyura2.com/10/social8/msg/899.html
投稿者 墨染 日時 2012 年 9 月 23 日 12:32:21: EVQc6rJP..8E.


http://blogos.com/article/47089/?axis=p:0

ちょうど尖閣諸島に中国の大船団が来るというガセネタで日本中が浮き足立ってる頃であったが、テレビで3時間の生中継、田原総一郎氏を解説者に招いてAKBの大じゃんけん大会をやっていた。
ぼくはAKBの番組はよく見てる方だと思うが、さすがにこの企画はちょっと空恐ろしいものを感じた(「総選挙」とかも大嫌いである)ので、ツイッター(@yousaymale)でつぶやいたりもしながら、その空恐ろしさの中味を考えてみた。

以下二つが、呟いたこと。
AKBのじゃんけん大会って、凄いなあ。「努力など無意味で、結果は偶然でしか決まらない」という非人間的な現実を、全身全霊で肯定する姿勢の賛美。その理由は、国家や社会がそれを望んでるからだろう。個人の意志や営為の全否定。「デモの暴徒化」などより、こっちの方がはるかに戦争に近いと思う。
昨日書いたAKBのじゃんけん大会。要は、一生懸命努力(献身)することは絶対に要請されていて、だがその結果(報酬)は一切求めてはならない、という思想ではないか。僕はあれは、怖いもんだと思う。戦場では弾に当たることもあるかも知れないが、それはあなたの運が悪かったというだけである。

AKBは国民的現象ともいわれ、実際の人気どうこうを越えて、メディアでは異常なほどに露出されている。
その過重労働(搾取)ぶりを批判する声も多くあり、その通りだろうと思う。ぼく自身も、彼女たちの番組をよく見てるわけだから、それに加担してることは確かなことである。
だがここで特に強調したいのは、このグループがマスメディアに非常に多く露出するばかりか、いまや政府系の広報にも登場する、掛け値なしの政治的機能を担わされた存在になってるということである。
田原総一郎氏が、「この非常時に」(笑)、生放送の解説にはせ参じたことは氏の怠慢ではないのであって、日中の情勢に関してピントのはずれた解説を繰り返しているよりは、むしろこちらの場においてこそ彼は深く現実の「政治」に関与したのだと言える。もちろん、批判的に言ってるわけだが。
なので、全国ネットのゴールデンタイムに生放送されたあの「じゃんけん大会」に、ぼくが感じた空恐ろしさについて分析することは、やはりそれなりの政治的重要性を持つだろうと思って、ここに書くのである。

自分が「呟いた」内容を、もう一度よく考えてみよう。
ここで重要だと思うのは、結果が偶然で決まるということ、結果に対する偶然性が賛美されてることそれ自体ではない。
そうではなく、偶然によってのみ決せられる結果に対して、全力で取り組むという姿勢が賛美されてるいう点が重要なのである。つまり、「全力で努力(献身)しなさい、ただし結果(報酬)は求めるな」というメッセージが感じられるのだ。
結果が偶然でしか決まらないから、手を抜いたり、その場から実質上「降りる」などという態度は、不道徳であり、また美しくないのである。
努力の結果(報酬)を全く求めない、求めてはならない行為が、全身全霊での奉仕が、こうして称揚され、強要される。

だが、誰がそれを強要するのか?
産業のシステムであり、国の体制が、それを押し付けてくるのだ。
どれほど結果(報酬)の得られることが少なくとも、それに全く結びつかないことさえあっても、競争を、そのための努力を、したがってこの現行のシステムのための献身を、決して怠ってはならない。
「努力の結果」などを求めるのは、エゴイズムであり、この社会のシステムへの、また国家への反逆者である。
とにかく競争せよ、そして奉仕せよ。見返りは何も求めるな。競争と奉仕こそが、お前の幸福であり、存在の意味だ。
僕はそこに、小さな個々人の生というものへの、欲望や夢や感情や生存それ自体を含めた、個々の生そのものへの、圧倒的な暴力と愚弄を感じる。
無論、自分自身もそれに加担しているということを含めて。

もちろん、ここで競われているのは、「センターをとる」ということ、そして人気(ファンによる承認)を獲得するということである。
彼女たちの競争の目的になっているのは、ファンの支持を得て芸能界で成功するということだろう。そこには、個人の切実だったり、小さな夢や、さまざまな感情というものがあるだろう。
だが、資本や社会全体は、それを利用して搾取する。それは、この産業を仕組んだり支配している者は当然そうだが、「ファン」と呼ばれる人たち、とりわけ僕のような「男性ファン」たちは、恐らく自分自身が日常被っている搾取の暴力を、性的な欲望(攻撃性)という形に変換してそこに振り向けることによって、この搾取のシステムに各々が加担するのだ。
そこでは、AKBのメンバーたちは、その「夢」を実現することによって、同時に人格のある部分が搾取され、暴力にさらされ、傷を被ることになる。
そうしたことは、まさに「芸能」というものの、太古からの内実だろう。だが今日「芸能」というこの仕組みは、巨大な産業社会の全体、国家という暴力装置の全体にがっちりと組み込まれている。
今の日本の社会では、それは、性の欲望という形で「男」から「女」たちに差し向けられる暴力というもの、その産業的な仕組みを通して、(男たち自身もそれに曝されている)競争社会の暴力性が肯定され、人々が搾取の対象であると同時に暴力的でもあるというあり方が、当たり前のことだと考えられ、そうやって日常と戦場とがまったく地続きのものとして実感されていく、という仕掛けである。
この意味で、AKB特番(「じゃんけん大会」は、その集約的な企画だが)、領土への熱狂を煽る報道・情報番組に劣らず政治的なのである。

AKBの、特に「総選挙」や「じゃんけん大会」を見ていて感じるのは、いやそれは、日本のテレビ番組全体を見ててしばしば感じることだが、人間というもの(ここでは、AKBのメンバーの女性たち個々と言っていい)に対する、社会全体からの徹底的な搾取や侮蔑や愚弄ということ、そのことによって是認され受容されていく、この人間愚弄的な社会の現実ということである。
他人を対象化し(同じことだが)搾取し、愚弄してもよいと考えることは、自分自身が受けている搾取や愚弄を否認しつつ受け入れることとつながっている。
それは、人が生きるという事実への軽視・否認であり、戦争を簡単に選んでしまうような心のあり方でもあると思う。
たとえば、前田敦子がグループを引退する最後のテレビ番組のステージで、動機の峯岸みなみが、号泣しながら前田に、『中学を卒業してすぐにこの世界に入り、友達もいないし学力もない、こんな私たちが・・』と言いかけたとき、会場の男性ファンから不意に起こった、まるで嘲る様な、少なくとも失笑のような声を、僕は忘れない。
彼女たちのファンのすべてがそうだというわけではもちろんない。本当に彼女達を思いやっている熱心なファンはむしろ別にして、大した思い入れもなく見て馬鹿にしたり楽しんだりしているような僕のような大半のテレビ視聴者こそが、本当に搾取者であり差別者だということが言いたいのだ。
社会全体が、とりわけ大人たちが、なかでも特に異性愛者の男性が、十代を越えたか越えないかの若い女性たちの生や性を、侮蔑や搾取の対象にしているというこのことこそ、まさに日本の社会の現実であり、それは恐らく戦前から何も変わっていない。

変わっていないのだ。
子どもや、女性たちや、アジアの人々は、それをじっと見ているであろう。
見ているが、多くは何も言わないだろう。なぜなら、そこには我々自身と絡み合った、さまざまな現実や生活や、夢や感情があり、生きていくための事情があるからだ。
だが、何も言わないからといって、傷ついていないということでは決してなく、またその人たちが今は「成功」しているように見えたとしても、その心や体にかつて深い傷を負わせたのは我々だということ、そしてそのことに何の反省もしていないという事実の重さは変わらないのだ。
その変わらない態度、暴力性に開き直ったかのような粗暴な態度に対して、人々がついにあげる怒りの声からも耳を閉ざすなら、我々はこの暴力の渦に再び完全に飲み込まれ、個々の小さなかけがえのない生の現実、自分や他人の生きていることの尊さというものに触れる機会を、永久に失うだろう。

 
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