ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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録画してあった「未来のミライ」を見たので、その記憶が消える前に感想を書いておく。
まあ、要するに、細田守監督の幼稚さ爆発、という感じで、この幼稚さは「狼こどもの雨と雪」とか「サマーウォーズ」にも感じられたことだが、細田監督の厄介なのは、自分のその人間としての幼さに気づいていないか、気づいていてもむしろそれに自己満足しているところだろう。
要するに、中学生か高校生が、世の中の老若男女に向かって、人生論を偉そうに説教するわけである。それがここ数作の細田アニメである。
困るのは、アニメ作家としての映像センスなどは優秀だから、描いた内容の幼稚さがそれに隠れてしまうことであるが、彼にとって(本当なら)幸いなことに「狼こども」の場合は、彼の「女性認識」「社会認識」の甘さが鋭敏な女性たちから厳しく批判されたわけだ。だが、彼はその批判からまったく何も学ばなかったようである。まあ、幼児に何を言っても無駄であり、「未来のミライ」の主人公「くうクン」みたいなものだ。
この映画の感想は、アニメ社会しか知らないオタクから人生や男女関係や親子関係を教えられてもなあ、ということである。
私がこのアニメを見ている間中不安だったのは、主人公一家が住む家の作りで、少し動くごとに段差や階段があり、とてもじゃないが、幼児を放置できない作りである。その家の中でくうクンは勝手にいろんな行動をするのだが、その間、父親はパソコンの前で仕事に没入している。くうクンがいつ階段や少し高い棚状のところから転落して大怪我をするか、と、まともな神経の人間なら思うところだが、父親はまったくくうクンの行動に注意を向けない。下手をしたら、妹を憎んでいるくうクンが、妹(赤ん坊)の顔に、玩具の新幹線を叩きつける可能性も十分あるのだが、実際、その行動をした時も、顔に当たる寸前で母親が止めるのだが、その後もくうクンの行動を監視したり、赤ん坊と隔離したりする様子はまったく無い。
要するに、子供を産み育てる資格のまったく無い、「子供夫婦」なのであり、私の勘では、細田監督夫妻の自画像に近いのではないか、と思う。そして、自分たちがそういうDQN夫婦であるという自覚が彼らにはまったく無く、「子供を育てることで私たちも成長している」などと暢気に構えて、むしろ誇り顔であるわけだ。普通なら、この家の子供は3歳になる前にふたりとも死んでいる。
なお、くうクンの年齢は、3歳くらいだと思うが、後で自転車に補助輪無しで乗ることにチャレンジする場面を見ると、もう少し上の年齢かもしれない。しかし、ふだんの動作は、歩き始めたばかりの幼児である。とても自転車に乗れる年齢には見えない。そして、親や周囲の人間が言う抽象的な言葉を、何の説明も無しに即座に理解したりする。つまり、細田監督には幼児というものへの理解がゼロであるわけだ。
妹(ミライ)がなぜ未来からやってきたのか、なぜやってくることができたのかの理由も不明で、最初に登場した時点では、自分が赤ん坊の時にお雛様を早く片付けないと自分の婚期が遅れて好きな人と結婚できないかもしれないから、というアホな理由で、このあたりは「時を駆ける少女」の主人公がプリンを食うために何度もタイムリープをする、というのに似ている。だが、あれとは違って、なぜ時間移動ができるのか、という理由の説明は、この作品には無い。
まあ、要するに、穴だらけのいい加減な設定を、映像のたたみかけで誤魔化している作品であり、親子三代だか四代だかの「家族史」を飛び飛びに見せて、一見壮大なタイムリープ物に見せかけた愚作だと思うのだが、愚作になったその一番の理由は、「世間にも人生にも女にも子供にも無知な、オタクアニメ作家が、人生や家族を哲学として語ろうとした」その無謀さにある、というのが私の結論である。
ついでに言っておくが、私自身非常に幼稚な人間であることは、このブログの記事を少し読んでいる人には自明だろうし、このブログのタイトルである「アンファニズム」とは、フランス語の「アンファン(子供)」に英語の「~ism(主義)」を付けて作った、「子供主義」という意味の造語である。自分の幼稚さを恥じずに、正直な感想を書いていこうという意志の表明だが、しかし、その幼稚さは、「他人に説教できる」ものではないと自分で認めている。そこが細田監督の最近の行き方を危ぶむ理由だ。彼が偉大な古典などから人生を学べば、もっと凄いクリエイターになれるのに、というのが残念なのである。
まあ、要するに、細田守監督の幼稚さ爆発、という感じで、この幼稚さは「狼こどもの雨と雪」とか「サマーウォーズ」にも感じられたことだが、細田監督の厄介なのは、自分のその人間としての幼さに気づいていないか、気づいていてもむしろそれに自己満足しているところだろう。
要するに、中学生か高校生が、世の中の老若男女に向かって、人生論を偉そうに説教するわけである。それがここ数作の細田アニメである。
困るのは、アニメ作家としての映像センスなどは優秀だから、描いた内容の幼稚さがそれに隠れてしまうことであるが、彼にとって(本当なら)幸いなことに「狼こども」の場合は、彼の「女性認識」「社会認識」の甘さが鋭敏な女性たちから厳しく批判されたわけだ。だが、彼はその批判からまったく何も学ばなかったようである。まあ、幼児に何を言っても無駄であり、「未来のミライ」の主人公「くうクン」みたいなものだ。
この映画の感想は、アニメ社会しか知らないオタクから人生や男女関係や親子関係を教えられてもなあ、ということである。
私がこのアニメを見ている間中不安だったのは、主人公一家が住む家の作りで、少し動くごとに段差や階段があり、とてもじゃないが、幼児を放置できない作りである。その家の中でくうクンは勝手にいろんな行動をするのだが、その間、父親はパソコンの前で仕事に没入している。くうクンがいつ階段や少し高い棚状のところから転落して大怪我をするか、と、まともな神経の人間なら思うところだが、父親はまったくくうクンの行動に注意を向けない。下手をしたら、妹を憎んでいるくうクンが、妹(赤ん坊)の顔に、玩具の新幹線を叩きつける可能性も十分あるのだが、実際、その行動をした時も、顔に当たる寸前で母親が止めるのだが、その後もくうクンの行動を監視したり、赤ん坊と隔離したりする様子はまったく無い。
要するに、子供を産み育てる資格のまったく無い、「子供夫婦」なのであり、私の勘では、細田監督夫妻の自画像に近いのではないか、と思う。そして、自分たちがそういうDQN夫婦であるという自覚が彼らにはまったく無く、「子供を育てることで私たちも成長している」などと暢気に構えて、むしろ誇り顔であるわけだ。普通なら、この家の子供は3歳になる前にふたりとも死んでいる。
なお、くうクンの年齢は、3歳くらいだと思うが、後で自転車に補助輪無しで乗ることにチャレンジする場面を見ると、もう少し上の年齢かもしれない。しかし、ふだんの動作は、歩き始めたばかりの幼児である。とても自転車に乗れる年齢には見えない。そして、親や周囲の人間が言う抽象的な言葉を、何の説明も無しに即座に理解したりする。つまり、細田監督には幼児というものへの理解がゼロであるわけだ。
妹(ミライ)がなぜ未来からやってきたのか、なぜやってくることができたのかの理由も不明で、最初に登場した時点では、自分が赤ん坊の時にお雛様を早く片付けないと自分の婚期が遅れて好きな人と結婚できないかもしれないから、というアホな理由で、このあたりは「時を駆ける少女」の主人公がプリンを食うために何度もタイムリープをする、というのに似ている。だが、あれとは違って、なぜ時間移動ができるのか、という理由の説明は、この作品には無い。
まあ、要するに、穴だらけのいい加減な設定を、映像のたたみかけで誤魔化している作品であり、親子三代だか四代だかの「家族史」を飛び飛びに見せて、一見壮大なタイムリープ物に見せかけた愚作だと思うのだが、愚作になったその一番の理由は、「世間にも人生にも女にも子供にも無知な、オタクアニメ作家が、人生や家族を哲学として語ろうとした」その無謀さにある、というのが私の結論である。
ついでに言っておくが、私自身非常に幼稚な人間であることは、このブログの記事を少し読んでいる人には自明だろうし、このブログのタイトルである「アンファニズム」とは、フランス語の「アンファン(子供)」に英語の「~ism(主義)」を付けて作った、「子供主義」という意味の造語である。自分の幼稚さを恥じずに、正直な感想を書いていこうという意志の表明だが、しかし、その幼稚さは、「他人に説教できる」ものではないと自分で認めている。そこが細田監督の最近の行き方を危ぶむ理由だ。彼が偉大な古典などから人生を学べば、もっと凄いクリエイターになれるのに、というのが残念なのである。
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