ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
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一月十一日に書いたブログ記事だが、この最後に書いてあるフェリーニの「8 1/2」へのオマージュが、少し違う形で実現されそうだ。
つまり、浅草たちが作るアニメが完成し、公開されるところで全十二回が終わると思われるのだが、そのアニメの最後がダンスシーンで終わるようなのである。最後を祝祭的雰囲気で終わるという意味では、「映像研」自体の話とそのダンスシーンは重なっていると言えるのではないか。
なお、過去の映画やアニメへのオマージュという点では、今夜の回には「AKIRA」や「用心棒」や宮崎駿自身も登場していた。これも
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
と同じことを表している、と言えるのではないか。
富野由悠季がアニメ制作希望者に「アニメなど見るな」と言っているのは、つまり、過去の優れた文学や映画などからこそ、新しいアニメ作りの養分を吸い取るべきであり、アニメだけ見ていては、過去の名作アニメの縮小再生産にしかならない、という意味だろう。アニメ「映像研」は、若い人々に同じことを伝えているように思われる。
(以下引用)
つまり、浅草たちが作るアニメが完成し、公開されるところで全十二回が終わると思われるのだが、そのアニメの最後がダンスシーンで終わるようなのである。最後を祝祭的雰囲気で終わるという意味では、「映像研」自体の話とそのダンスシーンは重なっていると言えるのではないか。
なお、過去の映画やアニメへのオマージュという点では、今夜の回には「AKIRA」や「用心棒」や宮崎駿自身も登場していた。これも
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
と同じことを表している、と言えるのではないか。
富野由悠季がアニメ制作希望者に「アニメなど見るな」と言っているのは、つまり、過去の優れた文学や映画などからこそ、新しいアニメ作りの養分を吸い取るべきであり、アニメだけ見ていては、過去の名作アニメの縮小再生産にしかならない、という意味だろう。アニメ「映像研」は、若い人々に同じことを伝えているように思われる。
(以下引用)
アニメの「映像研」が面白かったので、原作漫画を一巻から四巻まで読み直したのだが、少し前に書いた懸念の理由が分かった。つまり、原作は第四巻で既に失速しているように感じられるということだ。
この作品の面白さは、アニメを高校の部活として作る上での様々な困難が克服される過程、つまり、「問題をいかに解決するか」に面白さの半分はかかっていると私は思うのだが、第四巻ではすでにその問題が見えなくなっていると思う。
具体的に言えば、全体の主題そっちのけで描かれた「たぬきのエルドラド」の話が、その創作過程も含め、面白くないということだ。原作者は「平成狸合戦ぽんぽこ」が大好きだということのようだが、「たぬきのエルドラド」は、その生煮えの二次創作でしかないと感じる。
いや、高校生の作品なのだから、それで当然、と言えるわけだが、問題は、おそらくこのあたりをアニメ化しても、それは視聴者には面白く思えないだろう、ということだ。
要するに、この辺のテーマは、「自分で自分の想像力の限界を小さくしてはいけない」ということだと思うが、その「改善された」想像の内容が、あきれるほど陳腐では、視聴者はがっかりするだろう、ということだ。そして、それは作者、大童澄瞳自身の想像力の限界を示しているように思う。この程度の話が、作者の「最強の世界」だとしたら第一話で高められた視聴者の期待をかなり裏切ることになるだろう。
この隘路を脱出する道はひとつである。
それは、浅草氏自身が、自分の創作した世界の陳腐さに一度絶望することだ。その上で、過去の名作アニメの世界がいかに「普通の作品」から隔絶したレベルにあったかを再度確認することだ。
つまり、冒頭の「未来少年コナン」との出会いのようなエピソードに戻るのである。たとえば、今敏の「パプリカ」などを引用してもいいだろう。
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
そうすることで、最後をフェリーニの「8 1/2」のように、登場人物全員が歓喜の中で輪になって踊ることができるだろう。まさに「easy breezy」で終われるのである。
この作品の面白さは、アニメを高校の部活として作る上での様々な困難が克服される過程、つまり、「問題をいかに解決するか」に面白さの半分はかかっていると私は思うのだが、第四巻ではすでにその問題が見えなくなっていると思う。
具体的に言えば、全体の主題そっちのけで描かれた「たぬきのエルドラド」の話が、その創作過程も含め、面白くないということだ。原作者は「平成狸合戦ぽんぽこ」が大好きだということのようだが、「たぬきのエルドラド」は、その生煮えの二次創作でしかないと感じる。
いや、高校生の作品なのだから、それで当然、と言えるわけだが、問題は、おそらくこのあたりをアニメ化しても、それは視聴者には面白く思えないだろう、ということだ。
要するに、この辺のテーマは、「自分で自分の想像力の限界を小さくしてはいけない」ということだと思うが、その「改善された」想像の内容が、あきれるほど陳腐では、視聴者はがっかりするだろう、ということだ。そして、それは作者、大童澄瞳自身の想像力の限界を示しているように思う。この程度の話が、作者の「最強の世界」だとしたら第一話で高められた視聴者の期待をかなり裏切ることになるだろう。
この隘路を脱出する道はひとつである。
それは、浅草氏自身が、自分の創作した世界の陳腐さに一度絶望することだ。その上で、過去の名作アニメの世界がいかに「普通の作品」から隔絶したレベルにあったかを再度確認することだ。
つまり、冒頭の「未来少年コナン」との出会いのようなエピソードに戻るのである。たとえば、今敏の「パプリカ」などを引用してもいいだろう。
そうした凄い作品との出会いで、主人公たちは「想像の世界、創造の世界の素晴らしさ」を再確認し、新しく歩き始める。
そうすることで、最後をフェリーニの「8 1/2」のように、登場人物全員が歓喜の中で輪になって踊ることができるだろう。まさに「easy breezy」で終われるのである。
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