ゲーム・スポーツなどについての感想と妄想の作文集です
管理者名(記事筆者名)は「O-ZONE」「老幼児」「都虎」など。
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「君の名は。」を巡る肯定論と否定論を「ネットゲリラ」読者コメントから、それぞれ良質のものを二つ選んで対比してみる。
tanuki氏は知性教養とも優れた人で、ここに書かれた意見もそれ自体はまともだが、「君の名は。」という作品においてそれほど論理的矛盾が鑑賞の邪魔になるなら、あれほどのヒット作になっただろうか。下の二つの意見は、どちらもそれぞれの芸術観が先にあって、その観点から「君の名は。」を論じている、つまり神学論争的なものになっているような気がする。どっちもどっちだが、強いて言えば、この論争に関しては、私はmpr氏に一票を投じる。ただし、tanuki氏も、芸術創作の原則という意味では間違ったことは一つも言っていない。
つまり、「君の名は。」は多くの要素を整合性を十分に取らないままに合体させた、完成度の低い作品だが、その個々の要素に素晴らしいものがあって、観客を魅了したのだろう、ということだ。
ある映画人が、この映画の矛盾点や不十分な点を厳しく批判していたのも、べつに嫉妬からのものではなく、実際、不満を感じたからそう言ったのだと思われる。
新海誠自身には「語りたい物語」は何も無く、映像美とセンチメンタリズムしか無いことは、彼の初期作品と、ジブリの真似をして失敗した作品を思い返せば分かることだ。つまり、本来的な「映画監督」の器ではない、と思われる。それは細田守も同様だ。それでも、ツボにはまればこのようなヒット作品を生むことはできるわけである。この二人は、しかし、繰り返すが、「自分の内部に語りたい物語が無い」という大きな欠陥があると思う。(小説で言えば、村上春樹のデビュー作に私が感じたのもそれで、彼はサリンジャーのように、デビュー後数作で消える作家だろうと私は思っていた。だが彼は、「物語」にこだわらず、微細な感覚を文章化することで新境地を開いて大作家になったのかと思う。いい意味で少女マンガ的文学なのだろう。村上春樹の作品はデビュー作以外は読んでいないが。「物語への欲望」が巨大なのは、たとえば栗本梓などで、完成度はともかく、物語を考えること自体が快楽だ、という作家だったと思う。)
なお、私自身は「君の名は。」は未見。
(以下引用)
| 2016年12月30日 02:53 | 返信
tanuki氏は知性教養とも優れた人で、ここに書かれた意見もそれ自体はまともだが、「君の名は。」という作品においてそれほど論理的矛盾が鑑賞の邪魔になるなら、あれほどのヒット作になっただろうか。下の二つの意見は、どちらもそれぞれの芸術観が先にあって、その観点から「君の名は。」を論じている、つまり神学論争的なものになっているような気がする。どっちもどっちだが、強いて言えば、この論争に関しては、私はmpr氏に一票を投じる。ただし、tanuki氏も、芸術創作の原則という意味では間違ったことは一つも言っていない。
つまり、「君の名は。」は多くの要素を整合性を十分に取らないままに合体させた、完成度の低い作品だが、その個々の要素に素晴らしいものがあって、観客を魅了したのだろう、ということだ。
ある映画人が、この映画の矛盾点や不十分な点を厳しく批判していたのも、べつに嫉妬からのものではなく、実際、不満を感じたからそう言ったのだと思われる。
新海誠自身には「語りたい物語」は何も無く、映像美とセンチメンタリズムしか無いことは、彼の初期作品と、ジブリの真似をして失敗した作品を思い返せば分かることだ。つまり、本来的な「映画監督」の器ではない、と思われる。それは細田守も同様だ。それでも、ツボにはまればこのようなヒット作品を生むことはできるわけである。この二人は、しかし、繰り返すが、「自分の内部に語りたい物語が無い」という大きな欠陥があると思う。(小説で言えば、村上春樹のデビュー作に私が感じたのもそれで、彼はサリンジャーのように、デビュー後数作で消える作家だろうと私は思っていた。だが彼は、「物語」にこだわらず、微細な感覚を文章化することで新境地を開いて大作家になったのかと思う。いい意味で少女マンガ的文学なのだろう。村上春樹の作品はデビュー作以外は読んでいないが。「物語への欲望」が巨大なのは、たとえば栗本梓などで、完成度はともかく、物語を考えること自体が快楽だ、という作家だったと思う。)
なお、私自身は「君の名は。」は未見。
(以下引用)
| 2016年12月30日 02:53 | 返信
映画は文学ではありません。
映画と言うものは映像表現が全てなんではないでしょうか?
別に脚本が破綻してたって矛盾してたってどこか過去作に似てても
「話はよく覚えてないけど主人公が駅で旅立つシーンが良かった」
こういうのが一つあれば映画としては素晴らしいと思います。
そしてそれは個人の感性の問題である作品で感動してる人に対して
「残念それはまがい物だよ、そんなものに感動するあんたは残念」
そう言って悦にいってる人の品性をどうかと思います。
映画では監督よりもカメラマンが作品の出来を左右すると
言われるようにアニメーションでは映像表現において
監督よりも作画監督の比重が大きいということは
あまり一般には知られておりません。
安藤雅司さんて方が君の名はの作画監督されておりますが
彼の経歴~もののけ、千と千尋、パプリカ~等を見れば
君の名はのヒットも頷けるというものです。
新海監督はまだ43歳、巨匠宮崎駿がやっと「風の谷のナウシカ」を
世に送り出した年齢です、しかも駿氏は膨大なTVシリーズや
劇場作品の経験があってのことです。
「あんな奴が持て囃されるなんておかしい、インチキだほら見ろ」
ちょっとそこの貴方自分を鏡でご覧なっては如何ですか?
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どなたかも書いていますが、すでにあらゆるプロットは意識するにせよしないにせよ、過去の文献を探せば出てきます。
そもそも神話はそういったものの宝庫です。
ただそれが現代的な作品として蘇生するには、一貫した合理的な作品世界が構築されている必要があります。
それでないと借り物として、どこかで不合理・矛盾が発生して白けてしまう。
「とりかえばや」にせよ、私が以前指摘した「君の名は」のパクリ元の作品は、それぞれこの一貫した合理性を確保するために作者は大変な苦労をしている。
そもそもあり得ないことが日常の中に起こったという前提で話が進むために、それこそ山のような矛盾をごまかさず一つ一つ解決しながら物語の合理性をぎりぎりのところで確保し、そこに面白さ・真実を表現していくわけです。
それこそがオリジナリティーというもので、ポン付けではなく換骨奪胎の果てに出来上がった新たな世界に我々は感動するわけです。
トトロの存在する現実世界はないが、トトロの存在する作品世界は一つの宇宙として存在している。だから我々はそこに没入することができるし、白けない。それがオリジナリティーです。
ところが、「君の名は」はそもそも成立しにくい様々な非現実を複数の作品から面白半分に滅茶苦茶に導入して、一つひとつの矛盾の解決からはすべて逃げている。表現しないという方法は、創作の世界ではわかりきったこと(朝起きて、歯を磨いて、ご飯を食べて、というような表現ですが、この作品はそういうことには熱心です。子供の作文そのもの)に対して使うのであって、この作品のようにわかりにくいこと、都合の悪いことを描かないために使うのは卑怯、というより製作者の良心が欠けているということです。このあたりの矛盾についてはもうすでにネットで山のように指摘されている。それらに向き合わずに作られた作品は、もうそれだけでダメなのです。お前らも作ってみろなんていう逃げ台詞はそれを表しています。
さてこういうパクリのコラージュ作品は、エンジニアリングの世界にある。
いろいろなパクリ設計を組み合わせて製品を作っていると、
パクリ元の設計思想がわからないままに機能の組み合わせをしてしまうため、全体的なシステムとして深刻な齟齬が起こる場合がある。
しかしそれは借用した部分設計の中の思想が理解できていない、また複数の思想が混在したままであるため、根本的な解決ができないのです。
私から言わせれば発火するどこかのスマホも、「君の名は」もよく似た思想の産物です。
ただ、アメリカのライティングスクールや、シナリオスクールはこういうやり方を推奨しています。要素を増やして目くらましすれば豊かな作品になるかのような根本的な誤解・知能の欠如ですね。
だからハリウッド映画はパクリの宝庫なのですが、日本のアニメもそうなっていくという意味では記念碑的な作品かもしれません。
そしてそういう世界の行き着く世界は、真のクリエイティビティの喪失です。現代アメリカ文学の貧困を観ればそれはよくわかるはずです。